名前 | 賈詡(かく) 字:文和 |
生没年 | 147年ー223年 |
時代 | 後漢、三国志 |
主君 | 董卓→李傕→段煨→張繡→曹操→曹丕 |
一族 | 子:賈穆、賈訪 |
年表 | 192年 李傕らと長安を襲撃 |
200年 官渡の戦い | |
211年 潼関の戦い | |
220年 大尉に就任 | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
賈詡を見ていると、天才的な頭脳を生かし、生き残りを第一に考えている事がよく分かります。
賈詡は頭脳は明晰であり、長安を襲撃する様に献策したり、馬超と韓遂の仲を壊す離間の計なども行っています。
しかし、賈詡を見ていると決して冷徹な策士ではなく、道義と恩徳の人でもある事が分かります。
他人に関しても、賈詡はかなり気を遣った行動をしている様に見受けられました。
実際に陳寿は正史三国志の中で、賈詡を荀彧や荀攸と似たような人物だと考えたのか、同じ伝に収録してあります。
ただし、賈詡は裴松之には嫌われており、正史三国志の注釈の中では、人間性などをかなりダメだしをされている状態です。
今回は放浪の天才軍師と言うべき賈詡の解説をします。
尚、上記は私が作成したユーチューブのゆっくり解説動画であり、賈詡に関しての事が視覚的に分かる様になっています。
若かりし頃の賈詡
正史三国志の賈詡伝によれば、賈詡の字は文和であり、涼州武威郡姑臧県の出身だとあります。
正史三国志の記述によれば、若い頃の賈詡は認める人がいなかったともあり、大器晩成型だったとも言えます。
ただし、全ての人が賈詡を評価しなかったわけではなく、閻忠は賈詡の事を張良や陳平の様な奇略を持っていると高く評価していました。
陳寿も賈詡を張良や陳平に、次ぐ者として高い評価をしています。
因みに、閻忠は黄巾の乱で大活躍した皇甫嵩に「事を起こす様に」と進言した人物でもあります。
閻忠は智謀の士でもあり、そうした人物に評価される辺りは、賈詡の天才軍師としての片鱗が若かりし頃から、出ていたのではないかと感じました。
賈詡は漢王朝から孝廉に選ばれ、郎となり仕官した話があります。
機転を利かせた嘘
賈詡は役人となりましたが、病気となり職を辞し数十人で西方に向かった話があります。
賈詡は涼州の出身であり、故郷に帰ろうとしたのでしょう。
この時に、賈詡がいる数十人の集団は、反旗を翻した氐族に全員捕まってしまいました。
捕らわれた賈詡は氐族に次の様に述べています。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「自分は段公の外孫である。私の命を奪った後に、他の者とは別に埋葬する様にせよ。
さすれば、我が家の者達が、お前たちに十分なお礼をしてくれるであろう」
段公は段熲の事であり、涼州三明の一人として、長期に渡り西方の国境司令官を務め、その名は西方に鳴り響いていた人物です。
賈詡を捕えた氐族は、段熲の一族に復讐される事を恐れ、賈詡を解放しました。
因みに、賈詡は段熲とは全く関係がなく、機転を利かせた嘘だったわけです。
正史三国志には賈詡の事を「その場に応じての対応は、いつもこの様な調子だった」とあり、生き延びる為には「嘘も方便」と考えていたのでしょう。
尚、賈詡と一緒に捕らえられた者達は、全員が命を落しました。
董卓に仕える
賈詡は、後に董卓に仕える事となります。
董卓と言えば涼州で名が通っており、涼州出身の賈詡も董卓に仕えたのでしょう。
董卓は何進の招きにより洛陽に行きますが、何進が宦官に殺害されると袁紹や袁術、盧植などが宮中に雪崩れ込みました。
こうした中で少帝と陳留王が行方不明となり、董卓が帝を保護した事で権力を握る事となります。
賈詡は董卓が洛陽に入ると「太尉掾のまま平津都尉となり討虜校尉に栄転した」とあり、董卓の政権では出世を重ねたのでしょう。
賈詡は董卓の娘婿の牛輔の配下として、陝に駐屯していましたが、董卓が長安で王允や呂布により命を落しました。
賈詡の上司にあたる牛輔も逃亡を企てますが、最終的には裏切りにより命を落しています。
李傕配下時代
長安を急襲
牛輔が亡くなってしまうと配下の李傕や郭汜は、王允や呂布が涼州人を皆殺しにしている話を耳にしました。
兵達の逃亡も起こり、李傕、郭汜は故郷に帰ろうと考えます。
しかし、賈詡は生き残るために、最適な策を持っており、次の様に李傕、郭汜を説得しました。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「長安では涼州人を皆殺しにする様に議論されていると聞いております。
軍を解散し単独で故郷に帰るのであれば、小役人一人であなた方は捕らえられてしまうはずです。
それよりも軍勢を集めて西に向かい、行く先々で兵を集め長安を急襲し、董卓様の仇を討った方がよいでしょう。
長安を攻撃し成功すれば、天子様を奉じて天下に号令を掛ければよいですし、失敗してから逃げても遅くはありません」
賈詡は李傕、郭汜に長安を急襲する様に進言したわけです。
三国志には二つの長安急襲策があり、魏延の長安急襲策は幻で終わりましたが、賈詡の長安急襲策は実行される事となります。
李傕や郭汜は賈詡の進言を聞き入れ長安に侵攻すると、王允は徐栄や胡軫に反撃させますが、胡軫はやる気がなく徐栄は命を落としました。
李傕、郭汜は王允を打ち破る事に成功し、長安や献帝を手中に収める事に成功します。
李傕は賈詡の献策に感謝し、侯に封じようとしますが賈詡は「生き残るための策であり功績ではない」として辞退しました。
尚書僕射の位も「名声もなく人々を抑える事が出来ない」と述べ受けようとはせず、結局は尚書となり官吏の選抜登用の任務を担う事となります。
賈詡は自分の策で涼州勢を救ったのにも関わらず、誇らなかったのは流石というべきでしょう。
尚、賈詡が長安を急襲させた事に関し裴松之は「董卓が亡くなり世が平和になる所だったのに、賈詡の進言のせいで李傕らが乱入し世が乱れた」と非難しています。
後に長安において市街戦が行われ、献帝が食料に苦しんだり、自分の近くにまで矢が飛んできた事を考えれば、裴松之の言っている事も当たっていると言えるでしょう。
裴松之は賈詡の策を「これ程の酷い行動はあった試しがない」とまで述べています。
李傕、郭汜が長安を荒廃させた事を考えると、賈詡の策は本人の言葉にもある様に「生き残るための策」でしかなかったのでしょう。
李傕には政権運営をするだけの能力はありませんでした。
因みに、賈詡は李傕に朱儁を朝廷に招くように進言した話があります。
この時に朱儁は陶謙から反李傕政権の盟主になる様に要請もされていましたが、朱儁は朝廷を選び九卿の太僕となりました。
黄巾の乱で活躍し名声がある朱儁に対し、賈詡にも何かしらの期待があったのかも知れません。
李傕を諫める
李傕は郭汜に対し不満を抱き、李傕は郭汜を排除しようと考えました。
李傕は兵を出し郭汜を攻撃しようと考え、賈詡に相談をします。
賈詡は李傕と郭汜は幼馴染であり、団結して董卓の仇を討ったのに、ここで争うのは道理に反すると述べました。
李傕は賈詡の事を認めており、郭汜への攻撃を思いとどまった話があります。
賈詡としても長安で内戦が起き、都が荒廃するの事は望まなかったのでしょう。
それでも、後に李傕と郭汜の対立はさらに深まり、李傕は献帝を自分の手元に置きたいと述べています。
賈詡は正義の道に外れる事になると李傕を諫めますが、李傕は言う事を聞かず献帝を自陣営に置きました。
張繍の進言
李傕と郭汜の対立は頂点に達し、長安が荒廃する事は目に見えていました。
この時に張繍は賈詡に「長安を立ち去るべきだ」と意見を申しています。
しかし、賈詡は「国家から恩を受けている以上は、信義から立ち去る事は出来ない」と述べました。
張繍は賈詡に「自分と一緒にここを去ろう」と述べますが、賈詡は納得せず張繍だけが長安を去る事となります。
後に賈詡は張繍に仕える事になりますが、張繍も長安にいた事があり賈詡の信義を高く評価していたのでしょう。
張繍にしてみれば、賈詡の態度は信用する値があります。
この時の賈詡は、長安は荒れるかも知れないが、まだまだ挽回の余地があると思っていたのかも知れません。
献帝からの相談
李傕が郭汜を討つために、羌族数千人を集め天子の御用品と絹織物を羌族に与えてしまったわけです。
さらに、李傕は羌族に「美人や女官を与える」と約束してしまい、羌族が宮中に「美人や女官は何処にいるのだ」と訪ねて来ました。
これが献帝の悩みの種であり、賈詡に相談したわけです。
賈詡は羌族の長と面会し、羌族を盛大に持て成しました。
羌族は賈詡の心遣いに感謝し、賈詡は羌族に宝物や爵位を与える約束をしています。
これにより羌族は長安から引き上げていく事となりました。
ただし、羌族が要求する女官がどうなったのかは記録がなく分かっていません。
羌族が長安から去った事で、李傕の勢力は衰退に向かいます。
趙温を救う
李傕と郭汜の市街戦は続き死者は数万に及びます。
張済の活躍で李傕が郭汜は一時和睦しますが、献帝は長安を出て東に遷都する事となります。
しかし、途中で李傕と郭汜の気が変わり、献帝の一行を襲撃しました。
献帝を守っていた趙温や王偉、周忠らは捕虜となり、李傕は趙温らを処刑しようと考えます。
この時に賈詡はまだ李傕の元にいた様であり、次の様に進言しました。
賈詡「趙温らは天子様の大臣であり、彼らを殺害してしまうのは正しき道ではありません」
賈詡が李傕を説得した事で、趙温らの処刑は取りやめとなりました。
賈詡と言えば天才軍師の策謀家のイメージがありますが、これを見ると分かる様に、朝廷の臣下として道徳的な事も述べているわけです。
ただし、李傕は賈詡の能力を認めながらも、煙たがっていた話しもあります。
献帝が李傕の元を完全に去ると、賈詡も李傕の元を去りました。
賈詡は李傕では、太平の世を築く事は出来ないと考え去ったのかも知れません。
この後に、李傕は滅亡の道を歩み198年までには裴茂、段煨、梁興、張横らに攻められ命を落しています。
段煨の元を去る
献帝は苦難の道ではありましたが、韓暹や楊奉の助けもあり洛陽に入り、最終的には曹操が支配する許で落ち着く事となります。
賈詡の方は、華陰に駐屯していた同郷出身者の、段煨を頼る事となります。
正史三国志によると、既に賈詡の名声は高く、段煨の軍中でも期待の的となっていた話があります。
段煨は表面上は賈詡を丁重に扱いましたが、心の中では「権勢を奪われないか」と警戒していたわけです。
賈詡は段煨の空気を察したのか、段煨の元を去り張繍の元に向かおうと考えました。
ある人が段煨が重用しているにも関わらず、賈詡が去る事を不思議に思い賈詡に訪ねてみた話があります。
すると、賈詡は次の様に答えました。
正史三国志賈詡伝より
賈詡「段煨は猜疑心が強い性格であり、私に対し強い警戒心を持っています。
現在は、丁重に扱ってくれてはいますが、いずれは命を狙われる事も考えられます。
段煨は私がいなくなれば喜んでくれるはずです」
賈詡は段煨の猜疑心の強い性格を見抜いていたわけです。
張繍の元に行く理由を尋ねると、賈詡は次の様に答えました。
賈詡「段煨は私が外部で強力な支援者と結びつく事を願っているはずです。
私が張繍の元に行けば、段煨も私の妻子も大切に扱ってくれる事でしょう。
張繍には参謀がいませんし、私の様な人材が来る事を願っています。
私が単身で張繍の元に行けば、私も家族の安全を保つ事が出来ます」
賈詡は人間関係の思惑を分析し、自分が張繍の元に行けば、皆が利益を得られると考えたのでしょう。
賈詡は張繍の元に向かいました。
段煨は賈詡の家族の面倒をよく見たとされています。
張繍の臣下時代
劉表との同盟
張繍は賈詡がやってくると子孫の礼を行い厚遇しました。
子孫の礼は父や祖父の様に待遇する事であり、最上級の礼を張繍は賈詡に行った事になります。
賈詡は張繍の配下となるや、劉表と同盟を結ぶ様に進言しました。
張繍が賈詡の進言を、実行した事は言うまでもないでしょう。
賈詡は劉表の本拠地である襄陽に出向き、実際に劉表と面会したわけです。
賈詡は後に劉表に会ってみた感想を、次の様に述べています。
※傅子より
劉表は賓客の礼を持ち私を持て成してくれた。
劉表は平和な世の中であれば三公になれる実力がある。
しかし、乱世であれば世の中の情勢に変化に鈍く、猜疑心が強く決断力がないから、何事も成し遂げられずに終わってしまうであろう。
賈詡の言葉を考えると、賈詡は劉表に何かしらの策を授けたが、劉表が興味を示す事は無かったのかも知れません。
劉表は優柔不断とするイメージがありますが、智者である賈詡の言葉もあり、イメージが定着してしまった様にも感じました。
曹操への追撃
曹操の勢力は張繍の勢力を上回っており、曹操が攻撃を仕掛けてきました。
しかし、何故か曹操は撤退を始めたわけです。
ここで張繍は曹操の軍を追撃しようとしますが、賈詡は反対しました。
張繍は勝利は目の前にあると考え、聞き入れず、曹操の軍を追撃すると戦いに敗れて帰って来たわけです。
張繍は賈詡の言葉を聞かなかった事を後悔しますが、ここで賈詡は「今こそ曹操を追撃しますように」と答え、再び追撃を行う様に進言します。
張繍は不思議がり最初は追撃を反対したのに、今になって追撃を主張するのは何故か?と問うと、賈詡は「戦いには流れがある」と答えました。
張繍は賈詡の言葉に奮い立ち、散り散りになった兵士達を集結させ再び曹操軍を追います。
すると、今度は張繍が大勝する事になりました。
張繍は賈詡に理由を尋ねると、次の様に述べています。
賈詡「簡単な事です。貴方様は戦争は得意ですが、曹操には及びません。
曹操は撤退を行う時は万全を期し、自ら殿を務めると思ったわけです。
貴方が精鋭を率いて攻撃しても、曹操もまた精鋭で反撃してきますし、貴方の采配が曹操に及ばないので、勝つ事は出来ないと考えました。
曹操が突然撤退したのは国元に何かがあったからであり、張繍殿を破れば自ら先頭に立ち軍を返す事でしょう。
二度目に追撃を行えば曹操は配下の者に殿を任せるはずです。
曹操の配下の者であれば幾ら勇猛であっても、貴方には敵わないと感じました」
賈詡は理路整然と意見を述べ張繍に説明したわけです。
賈詡の言葉を見るだけで、賈詡の智謀が如何に深いかが分かります。
尚、賈詡は「張繍は曹操に及ばない」と堂々と述べているのに、張繍は怒る事もなく受け入れています。
賈詡は張繍の度量の深さも見抜いていた事でしょう。
張繍の武と賈詡の智謀により、曹操を苦しめる事となります。
曹操を上回る賈詡の智謀
曹操は一度は退きましたが、再び大軍を持って攻め寄せて来ました。
張繍は賈詡に相談すると、賈詡は正面からぶつかっても勝てる見込みがなく、降伏する以外に道はないと述べています。
ただし、この時に賈詡は張繍の族父であり、今は亡き張済の妻・鄒氏を人質に出す様に進言しています。
張繍は賈詡の意見を聞き入れ鄒氏を人質とし、張繍軍きっての剛の者である胡車児を護衛としました。
曹操は張繍と鄒氏の血縁関係が無い事から「舐められたもの」と感じますが、張済の妻の美貌を見るや惚れ込み了承しています
曹操は宴席を開き鄒氏も参加する様に促しました。
曹操は張済の妻を妾として扱い、胡車児も重用します。
張繍は曹操の態度に怒りを覚え賈詡に相談すると、賈詡は「曹操に軍隊を移動したいと伝え、大道を通り曹操の陣中を通過させて欲しい」と願う様に伝えました。
張繍は武器を持ったままで、曹操の陣営を通過させて貰えるのか不安になりますが、賈詡は「自軍は車が少なく輜重が重たい為、兵士に武器を着けたままで通過する事」を許して貰えばよいと述べます。
張繍はここで曹操の軍に攻撃を仕掛ければ、人質になっている鄒氏が殺害されてしまうのではないか?と考え、まだ不安を払拭する事が出来ません。
しかし、賈詡は張繍と張済の妻に血縁関係はなく、曹操は鄒氏を気に入って妾にしたんだから、殺される事はないと語りました。
張繍は賈詡の言われた通りに実行し、曹操は張繍の武装兵が本陣のすぐ近くに通る事を許可しています。
張繍は曹操の軍を急襲し、曹操は備えが全く出来ていなかった事で大敗を喫する事となります。
この戦いで曹操は自身の後継者と目されていた曹昂が亡くなり、一族の曹安民や悪来の異名を取る典韋が戦死しました。
張繍と賈詡のコンビニより、またもや曹操は手痛い敗北を喫したわけです。
張繍と曹操の戦いを見るに、賈詡の智謀は曹操の遥か上を行っている様にも見えます。
尚、上記の話は正史三国志と注釈の呉書、傅子の記録を組み合わせて作成しました。
曹操が張繍に敗れた戦いにも、様々な説があります。
張繍に敗れた曹操ですが、それでも袁術を破り呂布を滅ぼすなど確実に勢力を拡げていったわけです。
曹操の配下となる
西暦200年になると曹操と袁紹が、天下の雌雄を決する官渡の戦いに挑む事となります。
官渡の戦いの前の状態だと、袁紹は北方の公孫瓚も滅ぼし物資、兵力と曹操軍を圧倒していました。
曹操と袁紹は張繍を味方に付けようと考え、張繍だけではなく賈詡にも手紙を送っています。
袁紹の使者が張繍の元を訪れると、張繍は袁紹に味方しようと考えました。
しかし、賈詡は「袁紹は兄弟(袁術)であっても受け入れる事が出来なかった」と述べ、袁紹では国士を迎え入れる事が出来ないと、袁紹の使者を追い返したわけです。
張繍は誰に味方するのが一番なのか?と賈詡に訪ねると、賈詡は「曹操」だと答えました。
張繍は曹操とは何度も戦っており受け入れてくれないのではないか?と考えますが、賈詡は曹操に従う理由として、次の点を挙げています。
・曹操は天子を奉じている
・袁紹は強く勢力が小さい張繍が味方しても尊重されない
・曹操は劣勢であり、張繍が味方すれば大喜びし重用される
・曹操は天下に志があり過去の個人的な恨みは水に流す
賈詡は張繍に「ためらわない様に」と念を押すと、張繍も賈詡を信じ曹操に味方する事を宣言しました。
張繍と賈詡は曹操に帰順しますが、賈詡の思った通りに曹操は厚遇する事となります。
曹操は張繍の娘を自分の子である曹均の妻とし、賈詡には次の様に話して歓迎しました。
※正史三国志賈詡伝より
曹操「其方が儂に降伏してくれた事は大変嬉しく思う。
私に天下の人々の信頼と、尊重を与えれくれる者は、貴方だと思っている」
曹操は賈詡を執金吾とし、都亭侯に封じ冀州牧に栄転させました。
冀州はまだ平定されていなかった事から、曹操は賈詡を側に置き司空軍事としています。
曹操は張繍の武よりも、知恵者の賈詡が陣営に加わってくれた事が嬉しかったのでしょう。
尚、最終的に賈詡は主君である張繍よりも、出世する事となります。
余談ですが、賈詡が任命された執金吾は、後漢の光武帝が若い頃になりたがっていた役職でもあります。
ひっそりと暮らす
曹操自身は張繍や賈詡を許しましたが、曹操配下の中には張繍や賈詡が曹昂を討ち取ってしまった事を恨んでいた人もいたはずです。
こうした事情もあったと考えられ、賈詡は周りには、かなり気を遣った事でしょう。
賈詡は曹操の配下となり厚遇されましたが、門を閉じてひっそりと暮らしました。
朝廷から退出すれば私的な交際はしなかったとあります。
賈詡は息子や娘の結婚相手も貴族を選ばず、妬まれたり怪しまれたりするのを防いだと伝わっています。
賈詡の用心深さを現わす逸話でもあります。
官渡の戦い
賈詡の励まし
曹操は官渡の戦いでは、白馬の戦いや延津の戦いでは、袁紹配下の顔良や文醜を討ち取るなど、局地戦で勝利しています。
しかし、華北を制圧した袁紹の力は強大であり、官渡も包囲され曹操は苦しい立場となります。
この時に曹操は賈詡に意見を求めました。
賈詡は次の様に述べました。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「殿(曹操)の聡明さ、人の使い方、勇敢さ、決断力おいて袁紹に勝っています。
袁紹よりも優れた能力を持っているのに、敵を打ち破る事が出来ないのは万全を期する為でもあります。
機を逃さずに決断する事が出来れば、いとも簡単に袁紹を打ち破る事が出来るはずです」
この時の曹操は官渡の戦いで袁紹軍に押されまくり、辛い立場にいたと感じた賈詡は曹操を励ましたのでしょう。
尚、曹操は後方にいる荀彧にも手紙を出しますが、荀彧も曹操を奮起させる内容に手紙を返しました。
しかし、逆に言えばこの時の袁紹の軍は隙が無く、賈詡であっても精神論を唱える事しか出来なかったとも言えます。
許攸の寝返り
曹操軍は耐え抜きますが、袁紹配下の許攸が曹操軍に寝返り、烏巣に袁紹軍の兵糧庫があるとリークしました。
賈詡の言っていた好機が遂に訪れたわけです。
曹操配下の者達は許攸の降伏を疑いますが、賈詡と荀攸だけは許攸の言葉を信じる様に述べました。
曹操は賈詡と荀攸の進言を聞き入れ、楽進と共に自ら兵を率いて烏巣を急襲します。
烏巣の戦いでは、楽進が淳于瓊を斬り兵糧庫を燃やした事で、曹操軍の勝利が決まりました。
袁紹は兵糧を焼かれた事で、大軍を維持する事が出来ず撤退しています。
尚、許攸の寝返りにより官渡の戦いは勝利に終わったわけですが、許攸は功績を自慢したり誇る様な人間だったわけです。
曹操に対しても馴れ馴れしかった話もあり、慎み深い賈詡とは正反対の性格をした人物だと言えるでしょう。
因みに、賈詡は天寿を全うしていますが、許攸は最後は処刑されており、対照的な最後を迎えました。
曹操の荊州攻め
曹操は袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼし、北方の大部分を制圧しました。
こうした中で、荊州を長く治めていた劉表が208年に亡くなり、曹操は南下を始めようとします。
劉表の後継者となった劉琮は、蔡瑁や張允などの説得により、曹操に降伏しました。
荊州の大部分を手に入れた曹操は孫権の呉を攻略したいと考え、賈詡に意見を求めています。
賈詡は次の様に答えました。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「既に曹操様の威名は南方にまで輝いており軍事力は強大です。
ここは旧楚国(荊州)の豊かさを利用し、軍吏や兵士を労い土地を落ち着かせる事が肝要です。
民に楽しく仕事をさせる様に仕向ければ、軍兵を使わなくても江東の孫権は頭を下げにやってくるでしょう」
賈詡は曹操が孫権と戦う事に反対だったわけです。
曹操は荀彧にも孫権討伐を反対されましたが却下し、孫権配下の周瑜と赤壁で戦いました。
多くの方がご存知の様に、赤壁の戦いで曹操は勝つ事が出来ず、撤退に追い込まれています。
赤壁の戦いで敗れた後に、曹仁が江陵の戦いで奮戦しますが、結局は破れ曹操は荊州の中南部を失いました。
結果を見ると賈詡の意見が正しかった様に思います。
しかし、正史三国志に注釈を入れた裴松之は「曹操が荊州でのんびりしていれば孫権が降伏して来るとは思えない」と述べています。
裴松之は南方では劉備や孫権の名が通っており、江陵で曹仁が敗れた事を考えれば、賈詡の考えは間違っていると主張したわけです。
裴松之は赤壁で、曹操が敗れたのは南風が吹いたり、疫病が原因だとしています。
離間の計
西暦211年に曹操は馬超や韓遂ら、涼州連合との間で、潼関の戦いが勃発しました。
ここでも、賈詡の智謀が冴えわたる事となります。
馬超は人質と土地の割譲を条件に、和睦に応じると曹操に述べて来ます。
賈詡は曹操に「偽りの承諾を与えるべき」と進言しました。
賈詡は馬超と韓遂を離間させる事が重要だと説きます。
曹操は韓遂と会見を行い、ここで曹操は韓遂と昔話など楽しそうに談笑を行いました。
馬超は韓遂と曹操が親しげに話をしていたと聞き、韓遂を疑う事となります。
韓遂は過去に馬超の父親である馬騰と、義兄弟の契りを結んだにも関わらず敵対し、馬騰と韓遂で泥沼の戦いをした事があり、馬超は韓遂を心から信じる事が出来なかったのでしょう。
後に馬超は曹操から書簡を貰いますが、消したり書き改めたりした部分が多くあり、韓遂が修正したと考えました。
これにより馬超は、韓遂が裏切ったと確信し、疑心暗鬼となります。
賈詡の離間の計は見事に成功したと言えるでしょう。
曹操は賈詡の離間の計が上手く行った事を確信し、馬超や韓遂の軍に攻撃を仕掛けました。
馬超は韓遂を疑っており、涼州連合は力を発揮できず曹操軍に大敗北をを喫しています。
曹丕の悩み
曹操は後継者を中々指名せず、曹丕が不安になった話があります。
曹操は曹丕ではなく、曹植の文才を高く評価しており、曹植を後継者にしたいとも考えていました。
こうした中で、曹丕は賈詡に相談した話が残っています。
曹丕は賈詡に自分の地位を固める方策を尋ねると、賈詡は次の様に答えました。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「それならば有徳の態度で人に接し、無官の方の様な謙虚な振る舞いをするべきです。
人を尊重し自分自身が怠る事がない様にし、子として正しい道を踏み外さないようにします。
ひたすらこのように務めればよいのです」
正史三国志によれば文帝(曹丕)は、賈詡に言われた通りに修養に務めたとあります。
賈詡の発言ですが、謙虚に生きろと言っているわけであり、当たり前の事しか言ってない様に思います。
賈詡は生き残りを重視しており、策を授けて曹丕と曹植の後継者争いに、参加する様な事は避けたかったのでしょう。
しかし、曹丕は後に賈詡を重用しており、当たり前の言葉でも賈詡の言葉であったからこそ、曹丕も納得出来た部分もあったのかも知れません。
尚、ライバルの曹植は酒癖が悪かったなどもあり、後継者には指名されませんでした。
因みに、曹丕の弟の曹彰が田豫と共に、烏桓征伐を行った帰りに、曹丕の元に立ち寄った話があります。
この時に曹丕は曹彰に「曹仁将軍の様であれ」と述べたり、曹操に会った時に謙虚な姿勢で接する様にとアドバイスを送っています。
もしかしてですが、曹丕が賈詡のアドバイスにより修養に務めている時期であり、曹彰にも謙虚さを持って曹操に接する様にとアドバイスをしたのかも知れません。
曹操の魏公就任
曹操は213年に魏公に就任しています。
荀彧などは曹操が魏公になるのは反対の立場でしたが、賈詡や荀攸は賛成の立場でした。
献帝による曹操の魏公就任要請に対し、受諾するべきと述べた臣下の中に「太中大夫都郷侯の賈詡」の名前が存在します。
賈詡も曹操が魏公になる事を要請したわけです。
尚、正史三国志の武帝紀に、曹操の魏公就任要請を受諾すべきと考えた臣下として、下記の名前が挙がっています。
後継者問題の決着
曹操から見て賈詡は天才的な頭脳は持っているが、曹丕派にも曹植派にも属していないと考えたのか、後継者に関して賈詡に意見を求めた事があります。
曹操は左右の者を下がらせ、賈詡と二人だけとなります。
ここで曹操は後継者を曹丕にすればいいのか、曹植にすればいいのかを賈詡に打ち明けました。
賈詡は何も答えず、沈黙が流れます。
ここで曹操が不思議がり、賈詡に沈黙した理由を尋ねると、賈詡は次の様に述べています。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「袁本初(袁紹)と劉景升(劉表)の事を考えていまして」
袁紹には袁譚、袁煕、袁尚の三兄弟がいましたが、後継者は三男の袁尚となり、劉表も劉琦と劉琮の二人の子がいましたが、次男の劉琮が後継者となっています。
袁紹と劉表は共に長子を後継者にしなかった事で、内紛が起きており、賈詡は暗に「曹丕がよい」と述べた事になります。
曹操は賈詡の言葉を聞くと大笑いし、曹丕を後継者に指名しました。
尚、賈詡は面と向かって「曹丕がよい」と言えば、曹植派に恨まれる事となり、それらを危惧し袁紹と劉表の例を述べるに留めたのでしょう。
大尉に就任
曹操は220年に亡くなりますが、曹丕が後継者となります。
曹丕は献帝からの禅譲により皇帝に即位する事となります。
曹丕は賈詡に感謝しており、大尉に任命しました。
大尉は後に司馬懿も任命されていますし、魏では最高級の待遇をされたという事になるでしょう。
さらに、魏寿郷侯とし三百戸を加増し合計で、八百戸になったと伝わっています。
ただし、孫権は賈詡が大尉になった事を聞くと、嘲笑った話があります。
過去に賈詡は皆が殺害される中で、自分だけが段公の一族の者だと嘘をついて助かったなどがあり、世間からは卑しい人物と思われていたのかも知れません。
しかし、賈詡は生き残るための策を弄しただけであり、実際には高い道義心を持っていたのではないかと感じています。
賈詡は領有のうちの二百戸を、下の子の賈訪に分け与える事を許されました。
賈訪も列侯となります。
賈詡の長男の賈穆は駙馬都尉に任命されました。
呉蜀の討伐に反対
曹丕は即位すると「従わない者を征伐したい」と述べ、賈詡に蜀と呉のどちらを先に征伐するべきか?と問います。
これに対し賈詡は次の様に答えました。
※正史三国志賈詡伝より
賈詡「攻撃や略取を重視する者は、軍略を重視し、根本を樹立する者は徳を重視すると聞いております。
陛下(曹丕)は時運に乗じて禅譲を得ていますし、地の果てまで支配しておられます。
文治の徳により民衆を労わる事が大事です。
蜀や呉など変事が起きるのを待ち、討伐すれば簡単に滅ぼす事が出来ます。
蜀や呉は天険の地で守られていますし、蜀の劉備は才略があり諸葛亮を丞相に任命し、国をよく治めています。
呉の孫権にしても真意を見抜く見識は持ち合わせていると見るべきです。
これらを考えると、蜀も呉も直ぐに手を出す事は出来ません。
用兵を行うには策が第一であり、計略で勝利を得た後に、行動を起こす事で失敗を減らす事が出来るのです。
現在の群臣を見ても劉備や孫権に匹敵する者はおらず、天威を持って征伐しても万全だとは思えません。
今は文を先とし、武を後回しとするべきです」
天才と言われた賈詡の頭脳を以ってしても、呉や蜀を滅ぼすのは困難だと考えたのでしょう。
さらに言えば、三国志の時代に中華の人口は激減しており、民の事も考え賈詡は戦を望まなかったのかも知れません。
尚、正史三国志の賈詡伝によれば、曹丕は賈詡の言葉を承知せず、江陵の戦役を起こし多数の戦死者が出たとあります。
実際の曹丕は夷陵の戦いの後に、呉に遠征し三方面作戦などが失敗に終わっています。
曹丕は連年の様に呉を攻撃しましたが、最後まで成果を挙げる事が出来ませんでした。
賈詡の最期
賈詡は223年に77歳で亡くなったとあります。
222年は夷陵の戦いで劉備が陸遜に敗れた年であり、その翌年に亡くなった事になります。
夷陵の戦いの後に、曹丕は三方面から呉を攻撃しており、全ての戦場で敗れました。
賈詡が曹丕の三方面作戦の失敗を、どの様な目で眺めていたのかは不明です。
賈詡の最期はどの様なものだったのかは記録がなく分かっていません。
それでも、いつ亡くなってもおかしくない様な三国志の世界で、天寿を全う出来たのは流石だと言えるでしょう。
因みに、賈詡が亡くなった223年は劉備、曹仁、曹彰も亡くなっており、三国志の世界を彩った大物が亡くなった年でもあります。
220年に関羽や曹操が亡くなり、この頃から三国志の初期の英傑がバタバタと亡くなったとも言えるでしょう。
賈詡は粛侯と諡され、子の賈穆が後継者となり子孫が続く事となります。
賈詡の子孫は晋王朝の時代に高官を多数輩出した話もあります。
賈詡の評価
賈詡を見ていると何度も述べた様に「生き残り」を第一に考えていたはずです。
賈詡の態度は謙虚というよりも、保身という部分も強かった様にも思います。
命の保証があれば、賈詡は諫言もしますが、命の危険があると感じれば立ち去っている様にも感じました。
李傕や段煨の元を去った時も不忠者というよりは、命の危険があったからでしょう。
命の保障さえされれば、賈詡は道義を大切にする人物だとも感じました。
ただし、賈詡は主君に殉じるような人ではないでしょう。
この点は蜀の許靖と通じるものがある様に思います。
賈詡は人によっては忠義心がなく「策を立てる事に快感を覚えるタイプ」だったとする評価もあります。
しかし、平時の賈詡は筋が通った道義を好んだ発言をしており、必ずしも当たっているとは言えないでしょう。
賈詡は権謀術数だけの人ではありません。
賈詡の周りに対して敏感に反応する部分は、戦国時代末期の秦の王翦に通じる部分もあると感じました。
王翦も始皇帝の空気を読み、的確な態度で天寿を全うしています。
実力があっても最後に処刑されてしまう人と、生き残れる人の差は空気を読むセンスにある様にも感じました。
他にも、賈詡の特徴として、出来る限り戦争を避けていた様にも感じています。
李傕と郭汜の内輪もめや曹操の孫権征伐、曹丕の呉蜀への遠征を諫めた事でも明らかでしょう。
尚、裴松之は賈詡の事を手厳しく書いていますが、陳寿に関しても賈詡は荀彧や荀攸と同じ列伝に入れるべきではなく、程昱や郭嘉と同じ伝に入れるべきだとも述べています。
さらに、裴松之は荀彧や荀攸と比べて賈詡は「夜光の珠とおがらの灯火ほどの違いがある」とまで言い、賈詡を酷評しました。
裴松之が賈詡を嫌った一つの説として、裴松之の先祖である裴茂が、李傕の政敵であったからだとも考えられています。
後漢書に李傕が投獄した人物を裴茂が赦免した話もあります。
裴茂は最後には李傕を討ち取ってはいますが、裴松之は生き残った賈詡に対し、悪感情を抱いてしまったのかも知れません。
それでも、賈詡は三国志の時代を生き抜いた天才的な策士だと言えるでしょう。