呂布は三国志では最強の武勇の持ち主であり、主君を裏切り続けた人物というイメージが強い様に思います。
他にも、武力は最強だが心と頭が弱いなどの印象もあるはずです。
しかし、ネット上のコメントを見ると「呂布は弱い」「実は頭がいい知将」などの意見もあります。
勿論、「呂布は強い」という評価も少なくありません。
尚、三国志演義で呂布は劉備、関羽、張飛の3人を相手に一騎打ちをしたとか、曹操軍の許褚、典韋・夏侯惇・夏侯淵・李典・楽進ら6人を一人で相手をした話があります。
しかし、これらは全て正史三国志に記録がなく、虚構だと言えるでしょう。
ただし、呂布は一騎打ちを全く行わなかったわけではなく、後述しますが郭汜と一騎打ちを行い勝利した話があります。
今回は正史三国志をベースに、史実の呂布がどの様な人物だったのか解説します。
因みに、呂布の字は「奉先」であり、「呂奉先」や「呂布奉先」の名前でも有名です。
呂布は正史三国志では、臧洪と同じ伝に収録されています。
丁原の配下となる
呂布は成人すると丁原に仕えた話があります。
丁原に仕える
呂布は并州五原郡九原県の人物であり、呂布は弓術と馬術に優れた人物だったとあります。
并州五原郡九原県は現在の内モンゴル自治区であり、過去には漢を震撼させた遊牧民の匈奴がいた地域です。
そうした理由もあり、呂布は弓矢と馬術の才能を磨いて行ったのでしょう。
因みに、并州は異民族に隣接する地域であり、呂布も異民族だったのではないか?とする説もあります。
呂布が成人になった時に、并州刺史・騎都尉として丁原が任命されていました。
呂布は丁原に仕え、丁原も呂布の武勇を認め寵愛し、主簿に任命しています。
呂布が文官??
丁原は呂布を主簿に任命しますが、主簿は文書作成や経理の仕事であり、文官だと思えばよいでしょう。
呂布と言えば、脳みそが筋肉で出来ている「脳筋武将」と思われがちですが、それなりの文官としての教養もあったのかも知れません。
ただし、丁原の考えで呂布を身近においておきたくて、主簿に任命したのではないか?とも考えられています。
さらに言えば、丁原が任命された騎都尉は、皇帝直属の騎馬部隊を指揮するのが仕事であり、文書作成や経理の仕事は、なかったのではないか?とする説もあります。
丁原は「文字が殆ど分からず、役人としての能力は余りなかった」と記述がある人物で、呂布の主簿任命と関係があるのかも知れません。
丁原よりも呂布の方が文字が読めたし、文章も書く事が出来た可能性は十分にあるでしょう。
洛陽に赴く
189年に霊帝が崩御すると、大将軍の何進は宦官を排除しようと考えます。
辺境にいる諸将を洛陽に集め、圧倒的な兵力で宦官を脅し、権力を奪おうと画策しました。
丁原も何進の呼びかけに応じて洛陽に向かい、呂布も付き従う事になります。
この時に丁原は執金吾に任命されています。
しかし、十常侍などの宦官勢力が先手を取り、何進を暗殺しました。
何進を暗殺した事に怒った袁紹と袁術は「宦官撲滅」を目指し、宮中に雪崩れ込みます。
宮中は大混乱になりますが、涼州から洛陽に来ていた、董卓が少帝や劉協(陳留王)を保護する事に成功し、実権を握ろうと考えます。
丁原を裏切る
董卓の手勢は3000程しかいませんでした。
しかし、董卓は策を使い自分の兵士を多く見せる事で、多くの者が董卓にすり寄ってきた話があります。
この時に董卓を抑えられる唯一の存在が、丁原だったと考えられています。
丁原は執金吾に任命されており、首都の警備長官として部下に精鋭の兵士を多く持っていたわけです。
ここで董卓は丁原に寵愛する呂布を目を付け、呂布に丁原を殺害させます。
呂布の裏切りによる最初の犠牲者が丁原となったわけです。
呂布が丁原を裏切った事で、董卓は丁原の兵も吸収し、名実ともに洛陽を制圧しました。
尚、三国志演義では李粛が赤兎馬や財物を使い、呂布を説得した事になっていますが、正史三国志には李粛が説得した話も、董卓が赤兎馬を呂布に渡した話も出て来ません。
董卓が呂布を重用
董卓が呂布を暗殺して、董卓の元にやってくると董卓は呂布を重用する事になります。
董卓は呂布を騎都尉に任じ「父子の契りを結んだ」とある事から、董卓は呂布の事をかなり気に入ったのでしょう。
呂布は中郎将になり、都亭侯に取り立てられ出世していきます。
呂布は抜群の武力を持っていた事で、「飛将」と呼ばれ、前漢の匈奴征伐で活躍した、名将李広にも匹敵する人物として、多くの人に認められていた事が分かります。
反董卓連合との戦い
190年になると袁紹が盟主となり、反董卓連合を結成する事になります。
三国志演義だと汜水関の戦いや虎牢関の戦いがあり呂布が方悦や穆順を討ち取り武安国を負傷させ、呂布が劉備、関羽、張飛の三人を相手に一騎打ちを繰り広げるシーンがありますが、史実ではありません。
呂布が活躍する虎牢関の戦い事態が正史三国志に記載が無く、史実だとは言えないでしょう。
ここでは史実をベースとした、董卓と連合軍の戦いを解説します。
呂布が出陣
191年になると、反董卓連合の孫堅が陽人に進撃して来る事になります。
董卓は孫堅の動きに対し、胡軫を大都護、呂布を騎督に命じて、反撃させています。
総大将の胡軫は人望が皆無な男であり、呂布や諸将は胡軫を嫌っていました。
呂布や諸将は胡軫の足を引っ張ろうと考える様になります。
孫堅と戦う前に、董卓軍は内部分裂を起こし、無駄に兵士を消耗させる事になります。
呂布の計略が成功
胡軫を嫌った呂布は味方の胡軫に、次の様な偽情報を流します。
「陽人の城に籠った敵が逃げ出した。すぐに追撃せねば手柄を立てる事は出来ぬぞ。」
胡軫の軍は移動で疲れ切っていましたが、胡軫は陽人の城に向けて進撃する決断を降します。
しかし、陽人の城は、孫堅軍が固く守っていた事で、陽人の城を落とす事が出来ずに、敗北しました。
この戦いで胡軫の配下である華雄が討死しています。
華雄は三国志演義だと、反董卓連合を相手に大暴れし、袁紹からは「顔良と文醜を連れて来るべきだった。」と言わしめた程の猛将ですが、史実の華雄は呆気なく斬られた事だけが記録されています。
胡軫の軍は疲労でクタクタだったわけですが、呂布がさらに胡軫に次の情報を流します。
「敵が城から攻めて来たぞ。」
呂布の偽情報に焦った胡軫は、武器も捨てて一目散に逃げたわけです。
しかし、朝になって見ると、敵軍の襲撃も無く、武器だけが置き去りになっていました。
胡軫の軍は疲労と士気の低下により戦いが出来る状態ではなく、撤退するしかありませんでした。
呂布といえば、計略などは使えないイメージがありますが、味方に対してですが、鮮やかな計略を決めた事になるのでしょう。
ただし、気に入らないからと言って、見方の足を引っ張るのは邪道だとも言えます。
長安遷都
董卓は洛陽から長安に遷都する事にしました。
三国志演義では、李儒の進言により董卓は長安に遷都し、追撃してきた曹操を呂布が破った話があります。
因みに、正史三国志には、李儒が董卓に長安遷都を進言した話も、呂布が伏兵となり曹操を破った話もありません。
ただし、董卓が洛陽を棄てて長安に遷都した話はあります。
董卓が長安に遷都した事で、反董卓連合は解体されたわけです。
董卓を殺害
呂布は董卓のボディガード的な役割をしたと考えられていますが、呂布は王允の計略もあり董卓を殺害する事になります。
呂布が董卓を殺害した経緯を解説します。
絶頂期の董卓
董卓は長安に遷都すると、長安は好景気となり、後漢王朝の高官は董卓の一族が独占した話があります。
董卓の権勢は絶頂を迎え、孫娘で成人を迎えていない董白でさえも、侯に任命されています。
ただし、董卓の絶頂期は長くは続きませんでした。
自分を護らせていたはずの、呂布により董卓は命を落とす事になります。
董卓と呂布の関係に亀裂が入る
ある時、呂布は小さな失敗を犯す事になります。
しかし、董卓は怒りっぽい人物であり、カッとなり呂布に手戟を投げつける事件がありました。
呂布はとっさにかわし、董卓に助命嘆願する事になります。
董卓は呂布を赦しましたが、呂布は董卓を恨みました。
さらに、呂布は董卓の侍女と密通していた事もあり、董卓に対して内心では複雑な気持ちを抱いていたのでしょう。
この時の呂布は董卓に信頼されていましたが、裏ではいつ処刑されてもおかしくない状況であり、焦っていたはずです。
呂布と董卓に亀裂が入った事を利用しようと考えたのが、後漢王朝の司徒である王允となります。
尚、三国志演義では王允の義理の娘である貂蝉が登場しますが、史実だと貂蝉の出番はなく、呂布が董卓の侍女に密通した事だけが記載されています。
兵法三十六計にある美女を使った美人の計、離間の計を使った連環の計などの言葉も、正史三国志にはありません。
董卓を刺殺
王允と呂布は同郷の出身であり、個人的に親しくしていました。
王允は董卓の暗殺を画策していましたが、ここで呂布が董卓に殺されかけた事を王允に伝えます。
王允は董卓殺害計画に呂布を引き入れようと考えますが、呂布は「自分と董卓は父子の関係である」と言い、信義に背くと述べます。
ここで王允は呂布に対し、次の様に述べます。
王允「あなたの姓は呂であり、董卓と血縁関係があるわけではありません。
あなたは今、自分の生命の危機にあるのです。
父子だとか信義などと述べている場合ではありません。」
王允の言葉に呂布は決心し、192年に呂布は董卓を刺殺しました。
呂布は丁原に次ぎ、董卓をも殺害してしまったわけです。
王允政権と崩壊
王允政権で呂布は重用されますが、王允政権は長続きせず、三日天下とも呼ばれています。
王允に重用される
董卓を殺害すると、王允は呂布を重用し奮武将軍に任命され、部下の処罰権を与え、三公と同じ儀礼を許した話があります。
呂布は温侯に昇進し、王允と共に政治にも参加した話があります。
呂布と王允は董卓の基盤を引き継ぐような形として、後漢王朝で政治を行ったわけです。
しかし、王允と呂布の政権は足元から崩れ去る事になります。
涼州勢の反乱
董卓が亡くなると、董卓配下の残党たちは争ったり離散したりと崩壊に向かいます。
王允と呂布は最初のうちは、「董卓の兵士は全員許す。」として合意していました。
呂布は涼州人を許す様に王允に進言した話もあります。
しかし、後に王允の気が変わり、涼州勢の受け入れを拒否する事になったわけです。
さらに、呂布が董卓の財物を将兵に与えようとすると、王允は許さなかった話があります。
董卓配下の牛輔、李傕、郭汜などは朱儁を討伐する為に、東に軍を進めていました。
牛輔は亡くなってしまいますが、李傕、郭汜らは、王允や呂布に降伏を願い出ました。
王允は李傕、郭汜らの受け入れを拒否した事で事態が悪化し、賈詡の進言もあり、長安に攻撃を仕掛けてきたわけです。
王允は徐栄や胡軫に命じて、涼州勢を迎え撃ちますが、胡軫が足を引っ張り徐栄も敗れてしまいます。
尚、王允が呂布の進言の通りに、涼州人を許していたら、歴史は違ったものになったと考える専門家もいます。
因みに、呂布にしても董卓を殺害した事を誇っていた様な話もあり、王允と呂布は仲違いしていたとする説もある状態です。
ただし、王允は呂布の事を野蛮な人物とみていたが、呂布は王允を尊敬していたのではないか?とする説もあります。
呂布と郭汜の一騎打ち
李傕と郭汜率いる涼州勢は、長安に迫りますが、呂布と郭汜が一騎打ちをした話が英雄記にあります。
英雄記によれば、郭汜が城門の北にいた時に、呂布は城門を開け郭汜に「軍勢を遠ざけて一騎打ちで勝負を決めよう。」と提案します。
郭汜が一騎打ちの提案を受け、呂布と郭汜が一騎打ちで戦う事になったわけです。
呂布と郭汜の一騎打ちは、呂布が郭汜に矛を突き刺しますが、郭汜の背後にいた騎兵が郭汜を助けて進みよった事で、呂布と郭汜が引き上げ一騎打ちは終わりを迎えます。
三国志演義では一騎打ちは多くありますが、史実の三国志では一騎打ちは殆どありません。
その中でも、郭汜と呂布の一騎打ちは、かなり珍しい展開と言えるでしょう。
ただし、本当に一騎打ちを行ったのかは不明です。
王允の最後
呂布が郭汜を一騎打ちで破っても、涼州勢の勢いは止まらず、敗北が確定します。
ここで呂布は王允を誘って逃げようとしますが、王允は「自分の願いは国家が平和になる事だ。」と述べ、呂布に袁紹や袁術に救援要請を願い、国家の為に尽くす事を誓い長安に留まります。
王允は李傕と郭汜に討ち取られ、呂布は袁術の元に逃亡する事になります。
これより先、呂布の逃亡生活が始まります。
呂布の放浪
呂布は長安から脱出すると、各地を放浪する事になります。
袁術の所に行く
反董卓連合が結成された時に、董卓は洛陽にいた袁紹や袁術が属する汝南袁氏の一族を殺害しています。
呂布は武関を出ると、袁術がいる南陽に数百騎を率いて訪れますが、呂布は汝南袁氏の仇である、董卓を討った事で、袁術に喜んで迎え入れられると思っていました。
資治通鑑によれば、袁術は最初は呂布を歓迎し厚遇しています。
呂布は袁術に対して功があると思い、自身の兵士達に好きな様に略奪を行わせています。
袁術は呂布の行為を知ると、呂布を嫌悪し、呂布も袁術の態度が変わった事を察すると、袁術の元を去る事になります。
呂布は南陽を去り、袁紹の元に向かいました。
袁紹の元で活躍するが・・。
呂布は南陽を去ると、袁紹の元に向かいました。
当時は汝南袁氏の袁紹派閥と、袁術派閥が争っている状態であり、袁術に重用されないのなら、対抗馬の袁紹だと呂布は考えたのかも知れません
呂布が袁紹の元に訪れた時には、袁紹は公孫瓚や黒山賊の張燕と戦っており、苦戦している状態でした。
袁紹は呂布に張燕討伐を依頼すると、呂布は赤兎馬に乗り側近の成廉や魏越ら数十騎を率いて、数万の張燕軍と戦った話があります。
呂布は少数の精鋭を率いて1日に3、4回ほど突撃を繰り返し、張燕の軍に打撃を与えています。
呂布の軍が攻撃を仕掛ければ、必ず敵を破る事で張燕の軍は手こずる事になります。
この時の呂布の活躍は、鬼神の如きものであり「人中の呂布、馬中の赤兎」と語り草になります。
気を良くした呂布は袁紹にさらなる援兵を依頼し、呂布の兵士達は略奪を始めました。
袁紹は呂布の事が気に入らず不満に思うと、呂布は袁紹が自分を殺害しないか?と不安になり、袁紹の元を去っています。
実際に袁紹は刺客を呂布に送った話もあります。
呂布は「脳筋」で頭が悪いと思われがちですが、危険を察知し袁紹や袁術から距離を取った事を考えれば、空気を読むのは上手かったのかも知れません。
尚、呂布は張楊の所に向かいますが、途中で張邈の所に寄り、分かれる時になると、手を取り合って誓いを交わした話があります。
呂布伝によれば、呂布と張邈の話を聞いた袁紹は、非常に悔しがった話があります。
張楊に重用される
袁紹の元を去った呂布は、同郷である張楊の元に逃げる事になります。
河内太守の張楊は、李傕と郭汜の命令を受けており、呂布を捕えようとします。
ここで呂布は張楊に次の様に述べています。
呂布「其方(張楊)と儂は同郷の出身である。あなたが儂を殺せば評判は地に堕ちるであろう。
ここは儂を売って、李傕や郭汜から恩賞を貰うのが最善である。」
呂布の言葉を聞いた張楊は、表向きは朝廷の李傕と郭汜に忠誠を誓い、裏では呂布を保護したわけです。
張楊の態度に李傕と郭汜は、気を病み、呂布を潁川太守に任命しました。
ここでも呂布は機転を利かせた事で、状況を有利に展開しています。
兗州争奪戦
呂布は陳宮の策もあり、曹操と兗州争奪戦を繰り広げます。
陳宮の暗躍
194年に曹操の父親である曹嵩が、陶謙に殺害された情報が入って来ると、曹操は徐州に出兵しました。
この時に、陳宮が暗躍し、張邈の元を訪れます。
陳宮は張邈に「曹操は徐州に出兵中であり、呂布を盟主にして、空になっている兗州を奪おう。」と話を持ち掛けます。
曹操と張邈は親友であり、張邈は悩みますが、張邈と袁紹が上手く行ってなかった事もあり、張邈は陳宮の誘いに乗りました。
呂布、張邈、陳宮の3人が曹操に対して反旗を翻すと、兗州の中で呂布らに加勢しなかったのは、鄄城、東阿、范県だけであり、残りは全て曹操から呂布に寝返ったわけです。
尚、兗州の全ての城が呂布の手に落ちなかったのは、荀彧や夏侯惇が機転を利かせた結果とも言えるでしょう。
曹操を負傷させる
曹操は呂布の話を聞くと、急いで徐州から撤退し、呂布と決戦を挑みます。
しかし、この時は呂布の軍勢が圧倒的に優勢であり、曹操軍に打撃を与え、曹操自身も負傷した程です。
この時に呂布は曹操をあと一歩まで追い詰めますが、大飢饉と蝗が発生した事で、呂布も曹操も軍を維持できなくなります。
自然災害が戦いを止めさせたわけですが、曹操の強運ぶりが際立っています。
ただし、この時の災害の状況は酷く、人間同士で食い合う程だったと伝わっています。
曹操に連敗
曹操と呂布は自然災害により休戦しますが、195年になると曹操は再び呂布を攻撃しました。
曹操は定陶を攻撃しますが、呉資が南城で奮戦した事で苦戦します。
さらに、呂布が救援に駆け付けたわけです。
呂布が南城の後詰めに現れますが、曹操は麦を刈るために兵士がおらず、婦女子まで動員して兵を多く見せかけ、呂布軍を威圧した話があります。
この時の曹操軍の西側には堤、南側には樹が茂っており、呂布は「狡猾な曹操が、樹に伏兵を配置しているに違いない。」と怪しみました。
呂布は曹操が伏兵が置いたと勘違いし、十里ほど撤退しています。
翌日になると、曹操は呂布が樹ばかりに注意が行っている事に気が付き、西側の堤に伏兵を置き、呂布の攻撃を誘います。
呂布が攻撃を仕掛けてくると、曹操は堤に隠した伏兵を出して、呂布軍を分断し、大いに破りました。
呂布は大敗しましたが、再び兵をまとめ、曹操に攻められた鉅野に救援に行きますが、ここでも武将の薛蘭を討ち取られ撤退を余儀なくされます。
さらに、呂布と陳宮は1万の兵を繰り出して曹操と戦いますが、再び敗れてしまいました。
呂布は連敗した事で、軍隊の維持が難しくなり、徐州の劉備の元まで逃亡しています。
徐州争奪戦
兗州争奪戦で曹操に敗れた呂布ですが、次は劉備と徐州争奪戦を繰り広げる事になります。
劉備に迎えられる
英雄記によれば、劉備に会った呂布は敬意を払い、次の様に述べたとあります。
呂布「あなたと私は辺鄙な田舎出身者です。私は関東で董卓打倒の為の挙兵を見ました。
私が董卓を殺害し、関東に出て来ると、諸将は私を快く迎えてはくれる者は皆無であり、私を殺そうと考える者ばかりです。」
呂布は劉備を帳の中に入れ、妻の寝台に座らせ、妻には劉備に丁寧に挨拶する様に促したとあります。
食事を食べ酒を飲むと「劉備を弟」と呼び、呂布の言葉には一貫性が無かったとあります。
劉備は恭しく呂布に接しましたが、内心は不愉快だと感じていました。
劉備は、この時点で呂布は信用できないと感じたのでしょう。
ただし、劉備は呂布を殺す事もせずに、徐州に留まる事を許しています。
下邳を奪う
後に劉備と袁術が戦う事になります。
この時に、劉備は張飛と曹豹に下邳を守らせています。
しかし、張飛と曹豹が仲違いし、曹豹は呂布を招き入れてしまいます。
呂布は曹豹の内応があった事で、一気に下邳を占拠しました。
劉備は呂布に謀反を起こされた事で、正面には袁術、後ろには呂布と窮地に陥る事になります。
この時に、劉備は簡単には屈しませんでしたが、人間同士が食べ合う様な地獄絵図が展開される事となり、軍隊を維持できなくなります。
劉備は戦う事が出来ないと判断すると、呂布に降伏しました。
呂布は徐州太守を自称し、劉備の降伏を認め小沛に駐屯させています。
劉備は呂布に降伏しましたが、劉備にとってみれば呂布は許せない存在になったはずです。
呂布は劉備を裏切った事で、丁原、董卓、曹操、劉備と4人の人間を裏切った事になるでしょう。
呂布の戟
劉備は呂布に援軍を求めています。
呂布の諸将の中には「劉備を見捨てるべき。」とする意見もありましたが、呂布は1200の兵士を率いて劉備の救援に向かいました。
紀霊の3万の軍に対して、呂布は1200の援軍しか送らず、少ない様に思うかも知れません。
しかし、呂布には劉備を救う考えがあったわけです。
紀霊は呂布が劉備の援軍に到着した事を知ると、攻撃しにくい状況となり、呂布の提案で会を催す事になります。
呂布は紀霊に「弟である劉備が危機に陥っているから援軍に駆け付けた。」と述べ、自らは平和主義だと訴えます。
裏切り続けた呂布が戦争が嫌いな平和主義だと言うのは、滑稽な感じがしますが、呂布が自分が戦争嫌いだとアピールした記録が残っているわけです。
呂布は遠くにある軍門に戟を置き、次の様に述べます。
呂布「戟の小枝を射るが、もし一回で当てる事が出来たなら、軍を退け、当たらければ大いに戦うべきである。」
呂布の発言に紀霊が納得し、呂布が弓を射ると見事に戟の小枝に当たったわけです。
紀霊も呂布の弓の腕前に感服した事で兵を引き、劉備は命拾いしました。
呂布は、この時に劉備に対して大きな恩を売ったと考えたのでしょう。
陳宮事件
呂布に対して、何者かが謀反を起こす事件が起きます。
呂布は急いで高順の元に逃げる事になります。
高順は呂布に「何か気になった事はないか?」と確認すると、「河内の訛りがあった。」と答えました。
高順は郝萌が犯人だと判断し、高順が兵を指揮し、占拠された役所に攻撃を仕掛けたわけです。
郝萌配下の曹性が裏切り、高順は乱を鎮圧します。
曹性が「陳宮が郝萌の共謀者です。」と答えた事で、陳宮は顔を赤らめた話があります。
しかし、呂布は陳宮を処罰しませんでした。
陳宮は呂布に兗州を獲らせた事や名声があり、呂布の方でも陳宮の存在を買っていたのでしょう。
陳宮の行動も分かりにくい部分があります。
因みに、呂布は曹性を讃え、郝萌の兵を統率させた話があります。
陳登・陳珪を重用
呂布は徐州の名士である、陳登と陳珪の親子を重用した話があります。
しかし、陳登や陳珪は呂布は後漢王朝に対して、禍になると考えており、曹操に協力しようと考えました。
197年になると皇帝を自称していた袁術は、韓胤を使者とし、呂布の娘との婚姻を画策します。
呂布は名門である袁術との結びつきに喜び、娘を袁術の元に向かわせます。
陳珪・陳登親子は呂布と袁術が同盟を結べば、面倒な事になると考える事になります。
陳珪らは呂布に「袁術は皇帝を僭称した逆賊であり、曹操は献帝を保護した事で正義がある。」と述べ、曹操に味方するメリットと、袁術に味方するデメリットを伝えました。
呂布は納得し、袁術に元に向かっていた娘の一行を連れ戻し、韓胤を捕え曹操の元に送っています。
韓胤は曹操に処刑されました。
陳登の内通
呂布が曹操と誼を結ぼうとすると、曹操は呂布を左将軍に任命しています。
呂布はお礼の使者として、陳登を曹操の元に派遣しました。
陳登は曹操に面会すると、次の様に述べています。
陳登「呂布は武勇はあるが無計画であり、軽々しく人を裏切ります。
呂布を素早く滅びしてしまうのが得策です。」
曹操も「呂布は狼の子だ。」と述べ、陳登に見張らせる事にしました。
陳登は、曹操から広陵太守に任命され「徐州を任せた。」と言われた話もあります。
陳登と曹操の会話を見ても、陳登が呂布を見限っていた事が分かります。
陳登は徐州に戻りますが、出世したのは陳登だけであり、呂布が徐州牧に任命されなかった事を不満に思います。
呂布は戟を抜き机をたたき割り、陳登を詰ると、陳登は次の様に答えています。
陳登「私は曹操様にお会いした時に、
『将軍(呂布)は虎と同じであり、肉を大量に与えねばなりません。肉の量が少なければ、人間を襲うはずです。』
私は暗に曹操様に呂布様を、徐州牧に任命する様に述べたのです。
すると曹操様は次の様に答えました。
『それは間違っている。鷹を飼う様なものであり、腹を空かせておけば役立つが、満腹になれば飛び立ってしまうであろう。』
私と曹操様のやりとりは、終始、この様な感じでした。」
陳登が冷静に話した事で、呂布の機嫌が戻ったとあります。
袁術軍に大勝
韓胤が処刑された事で、袁術は怒り張勲を大将として、韓暹、楊奉ら賊軍と共に、呂布に攻撃を仕掛けました。
この時に袁術軍は数万いた話がありますが、呂布の兵力は3千ほどしかいなかった話があります。
呂布は陳珪に策を求めると、陳珪は次の様に答えています。
陳珪「袁術、韓暹、楊奉らは即席で連合軍したのであり、計画的に軍を繰り出したわけではございません。
袁術、韓暹、楊奉の3人はまとまりに欠けるので、分裂させる事が出来るはずです。」
呂布は陳珪の策に従い韓暹、楊奉に使者を派遣し、大量の軍需物資を与える事を約束します。
呂布側の離間の計が成功した事で、呂布は韓暹、楊奉と共に、袁術軍の張勲を攻撃し大勝しました。
この時に呂布は袁術の領内の奥深くまで進み、次の様な手紙を袁術に送った話があります。
「私は武勇なき者であるが、淮南を虎の様に歩き回ると、足下(袁術)は、こそこそと寿春に逃げ出し、頭も出さない。
足下の優秀な武将や兵士達は、どこに行ってしまったのか。
足下は人をたぶらかすのが好きな様ではあるが、天下の人を悉くたぶらかせる事は出来ない。
この手紙は、私(呂布)の発案ではないが、互いに遠くない場所にいるのだから、また手紙を差し上げる事に致そう。」
真実は不明ですが、袁術を馬鹿にするような手紙を呂布は送った事になります。
袁術は怒りますが、呂布はサッと引き上げ、袁術の軍を嘲笑した話も残っています。
陳珪の策で呂布は袁術を退ける事が、出来たと言えるでしょう。
ただし、陳登や陳珪は曹操が攻めて来ると、マッハで曹操に寝返った話があります。
尚、この戦いは阜陵でも行われたとする話もあり、袁渙が呂布に配下になったとも言われています。
後に呂布と劉備が仲違いした時に、呂布は袁渙に劉備を罵倒する手紙を書くように要請し断られた話があります。
劉備が挙兵
正史三国志の先主伝によると、何を思ったのか小沛の劉備が1万の兵を集め出した話があります。
よく言われているのが、劉備は韓暹と楊奉を攻撃する為に、1万の軍を集めた説でしょう。
しかし、先主伝では、既に韓暹、楊奉が死亡している記述があり、劉備が何をする為に1万の兵士を集めたのかは不明です。
何もないのに、1万の兵士を集めるのは明らかに不自然であり、劉備はどこかを攻撃するつもりだったのでしょう。
呂布は劉備が兵を集め出したのを不振がり、呂布は自ら出陣し、劉備の軍を打ち破りました。
さらに、劉備は高順や張遼に破れ、曹操の元に向かいます。
曹操は劉備の援軍に夏侯惇を大将として送り出しますが、夏侯惇は劉備を救う事が出来ず、呂布配下の高順に敗れ去りました。
高順は劉備の妻子を捕虜とし、呂布に送り届けています。
尚、高順は呂布には好かれてはいませんでしたが、陥陣営と呼ばれた名将です。
余談ですが、高順も曹操や孫権の配下であれば、かなり活躍した様に思います。
曹操との最終決戦
劉備と夏侯惇が敗れると、曹操は自ら呂布の討伐に乗り出します。
開戦当時は、呂布は曹操に敵意むき出しであり「曹操軍を水の中に沈めてやる。」と気合十分だったわけです。
この当時の呂布は袁術と再び同盟しており、曹操は呂布に「袁術に味方するのと、自分に味方するのでは、どちらがいいか。」の説明の手紙を送ります。
呂布は曹操の手紙を読むと、心が揺れ降伏をしようと考えますが、陳宮が自分の罪の深さを思いやり、呂布の降伏を阻止しています。
呂布は陳宮の策も採用する事が出来ず、同盟者の袁術の援軍も来ませんでした。
袁術は皇帝を僭称してから、人望を失い孫策には絶縁されるなど、呂布に援軍を出す余裕が無かったわけです。
呂布も広陵太守の陳登の弟らを人質とするも、張弘の離反により逃げられるなど苦しい立場となっていきました。
曹操が塹壕を掘り三カ月包囲すると、呂布の配下である侯成、魏続、宋憲らが陳宮を捕え、曹操に降伏します。
呂布は包囲が厳しくなったのを悟り、白楼門に登りますが、結局は曹操に降伏しました。
呂布は城内をまとめ切る事が出来ずに、曹操軍に敗れたとも言えるでしょう。
呂布の最後
呂布は曹操に捕らえられると「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ。」と述べます。
曹操は「虎を縛るのだから、きつくしないわけにはいかない。」と返します。
尚、呂布を縛る縄に関しては王粲の英雄記では曹操は緩めようとしますが、主簿の王必が止めるなどのパターンも存在します。
呂布は曹操に次の様に述べて命乞いをしました。
呂布「曹操様が気にしているのは、私一人のはずです。今は降伏したのですから、心配は無くなった事でしょう。
曹操様が歩兵を率いて、私が騎兵を率いれば、天下を平定する事も出来ます。」
曹操は呂布の武勇を惜しみ悩みますが、劉備が次の様に述べます。
劉備「曹操様は、丁原や董卓に仕えながら、裏切った事をお忘れですか。」
呂布はとっさに次の様に答えます。
呂布「この男(劉備)が一番信用できない奴なんだぞ。」
曹操は劉備の言葉を理解し、結局は呂布を殺害しました。
陳宮や高順も亡くなり、呂布、陳宮、高順の3人の首は許昌に送られ、さらし首にされた後で埋葬された話があります。
呂布の評価
陳寿は呂布の事を「虎の如き武勇を持ちながらも、英雄としての才能は無く、軽佻にして裏切りを繰り返し、目先の利益に弱かった。」と述べています
さらに、陳寿は「古の頃より、呂布の様な人間が破滅しなかった例はない。」と酷評している状態です。
呂布の行動を見るに、陳寿の評価は当たっていると言えるでしょう。
現代の日本では呂布が「武力だけの人間で頭が弱い」とする風潮があります。
しかし、実際の呂布は張楊に機転を利かせたり、袁術や袁紹の元にいる時は、危険を察知するなどの面も見せています。
それを考えると、武勇だけの人ではなかったはずです。
ただし、呂布は長期的な展望を見出す事は苦手だった事は確実でしょう。
裏切りを繰り返したり、董卓の侍女と密通するなどは、目先の利益を優先させた結果とも言えます。
尚、呂布に対して高評価をしている人物もおり、北宋時代の軍事学者である何去非は、呂布の戦いぶりを賞賛しています。
他にも、明の張溥も呂布の事を後漢末期の優れた将軍だと述べています。
因みに、張溥は孔融も周公旦に匹敵する人材だとべた褒めしている状態です。
呂布は全体的に評価は低いですが、日本でも人気武将であり、「強い」という点は、皆に認められている様に感じます。
尚、呂布は秦末期や楚漢戦争で活躍した項羽と比べられる事も多いですが、個人的には武勇も戦いでの采配も項羽が勝っている様に思います。
呂布生存説
意外に思うかも知れませんが、呂布生存説があります。
周倉の記事でも書きましたが、西暦219年の事として夏侯惇伝に「太祖軍撃破呂布軍摩陂」という記述が存在します。
太祖は曹操の事であり、訳すと次の様になります。
「曹操軍は呂布を摩陂で破った。」
呂布が死んだのは、西暦199年のはずですが、何故か219年に突如として、呂布の名前が登場します。
219年と言えば、関羽が北伐を始め曹仁が守備する樊城を包囲し、于禁、龐徳、徐晃らと戦った年でもあります。
しかし、夏侯惇伝の記述をそのまま読むと、呂布は生きていて関羽に仕えて曹操軍と戦って敗れた事になります。
夏侯惇伝の記述を見ると、呂布は219年まで生きていたか、同姓同名の人物が摩陂で曹操軍に敗れた事になるでしょう。
ちくま学芸文庫の正史三国志の訳では、呂布の部分が関羽に書き換えられ、関羽が曹操軍に敗れた事になっています。
専門家の中には、ちくま学芸文庫の記述と同じ様に、呂布と関羽の文字を間違えて陳寿が書いてしまったと考えています。
正史三国志だと曹操軍が呂布を破った後の記述が「曹操は夏侯惇を同じ車に乗せて寝室に出入りする程に信用した。」とする記述です。
それを考えると、曹操軍が関羽を破った後に、曹操が夏侯惇を同じ車に乗せて寝室に出入りするでは、文脈の繋がりがおかしいと考える人もいます。
最近では、「太祖軍于摩陂」が正解だとも考えられています。
これだと「曹操軍が摩陂に駐屯した。」となり、次の記述が「曹操は夏侯惇を寝室に入れる程に信用した。」となり、文章の整合性も取れるとしています。
「摩陂に駐屯した曹操が夏侯惇を寝室に呼ぶ程に信用した。」となるからです。
実際の所は陳寿に聞いてみないと分からない部分であり、謎は深まるばかりですが、呂布の生存説も残っていると言う事です。