三国志 後漢 魏(三国志)

程昱は軍事能力も秀でた参謀

2023年6月16日

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宮下悠史

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名前程昱(ていいく) 字:仲徳
生没年141年ー220年
時代三国志、後漢末期
主君曹操曹丕
年表200年 官渡の戦い
画像©コーエーテクモゲームス

程昱は正史三国志や後漢書、資治通鑑に登場し曹操に仕えた軍師とも呼べる人物です。

正史三国志の程昱伝によると、兗州東郡東阿県の出身であり身長は八尺三寸もあったと言います。

程昱の身長は190cmを超え劉備に仕えた張飛趙雲が八尺という記録がある事から、程昱の方が張飛や趙雲よりも身長が高かった可能性もあります。

程昱と言えば、三国志演義の十面埋伏の計や孝行者の徐庶の母親を利用するなどもあり、策士としてのイメージが強い様に思います。

しかし、実際の程昱は自ら軍隊を率いたり城を守ったりもしており、高い軍事能力も持っていた事が分かります。

それでも、程昱は癖剛情な性格であり、口が悪いなどの一面も多々見えるわけです。

今回は曹操に仕えた策士である程昱を解説します。

尚、程昱の最初の名前は「程立」でしたが、曹操に仕えて程昱に改名した話が伝わっていますが、ここでは紛らわしさを回避する為に全て「程昱」で記述しました。

因みに、程昱は正史三国志の魏書・程郭董劉蔣劉伝に下記の人物と共に収録されています。

程昱郭嘉董昭劉曄蔣済劉放

黄巾の乱

程昱の生まれたは141年だと分かっており、張角黄巾の乱は184年であり、この時に程昱は既に40歳を超えていました。

黄巾の乱が勃発すると県丞の王度が黄巾賊に加担し、県令も逃げ出すなどもあり、民衆は渠丘山に避難する事になります。

程昱は密かに王度の様子を調べてみると、王度は手に入れた城を守り切れないと判断したのか、城外の五、六百里の地点に駐屯している事が分かりました。

程昱は豪族の薛房を説得し、城に戻る様にと協力を取り付けています。

しかし、民衆は王度を恐れており「賊は西にいる。後は東があるだけだ」と述べました。

民衆たちは城に戻る事に対し拒絶反応を示したわけです。

ここで程昱は薛房らに、次の様に述べた話があります。

※正史三国志 程昱伝より

程昱「馬鹿な県民の連中と事を相談しても無駄だ」

程昱の口の悪さが出ていると言えますが、この辺りは程昱の癖のある性格が出ているとも言えるでしょう。

程昱は密かに数騎を東の山上にそって登らせ、薛房らには「賊が来た」と叫ばせました。

民衆は驚いて山を降り城を守備する事になります。

程昱は民衆を城に入れさせるために、わざと偽の情報を流したと言えるでしょう。

県令も城に戻ると、王度は再び攻撃を仕掛けてきますが、城を落せず退却した所で程昱が攻撃を仕掛けました。

程昱は多いに敵を打ち破り、東阿は平穏を取り戻したわけです。

程昱と言えば、策を弄すだけの人に思われがちですが、実際の程昱は兵を率いたりもしており、高い軍事能力も持っていた事が分かります。

近くと遠く

正史三国志によると、程昱は初平年間に兗州刺史の劉岱に招聘を受けた話がありますが、仕官を断わりました。

劉岱は劉繇の兄でもあり名士ではありましたが、程昱から見て能力的に物足りないと考え仕官を断わったのでしょう。

当時の劉岱は袁紹からは妻子を預けられ、公孫瓚からは范方を派遣され軍事支援を受けていました。

袁紹は韓馥から冀州を奪いますが、公孫瓚と仲違いを起こし、劉岱はどちらに味方するのか決める事が出来なかったわけです。

公孫瓚は范方には、自分に劉岱が味方しない様であれば引き返す様に命じていました。

迷う劉岱に対し別駕の王彧は程昱に相談する様に進言しています。

程昱は劉岱の前で、次の様に述べました。

※正史三国志 程昱伝より

程昱「袁紹という近くの助けを棄て、公孫瓚という遠くの助けを求めるなら、それこそ越の国から人を借りて溺れる子を救おうとする様なものです。

それに、公孫瓚は袁紹の敵ではありません。

現在の公孫瓚が袁紹に対し優勢に戦いを進めても、結局は袁紹に捕らえられる事になります。

一時の事だけを見て将来の計画を考慮されなければ、結局は失敗に終わります」

程昱は袁紹に味方する様に劉岱に説いたわけです。

劉岱が袁紹の支持を打ち出した事で、范方は公孫瓚の元に帰りますが、范方がまだ到着しないうちに袁紹は公孫瓚を界橋の戦いで破り形勢を逆転させました。

劉岱は程昱に感謝したのか、騎都尉にしようと上申しますが、程昱は病気を理由に断っています。

程昱は口が悪かったり性格に問題がある様にも感じますが、頼まれたりすれば断らない性格であり、本人の為の策謀を行う人でもあったのでしょう。

ただし、劉岱はやはり程昱の仕えるべき人物ではなかった様であり、黄巾賊の残党の大軍を相手に無謀な勝負を挑み命を落しました。

劉岱は反董卓連合に参加はしましたが、曹操孫堅と違い董卓とは戦わず酒盛り組でもあり、程昱は仕えるべき人物ではないと考えた可能性もある様に感じています。

曹操に仕える

後に曹操は兗州に出向き、程昱を招聘する事になります。

程昱は曹操の招聘に応じようとしますが、郷里の人々は「前と後とでは何と矛盾している事ではないか」と述べた話があります。

郷里の人々からしてみれば、劉岱に仕官の誘いがあっても病気などを理由に断っていたのに、曹操の招聘されると、直ぐに引き受けた違いを述べたのでしょう。

程昱は笑って取り合わずに、曹操と面会し語り合うと大いに気が合った様で、曹操は程昱を寿張の令を代行させたとあります。

曹操は程昱の能力を高く評価しました。

程昱は曹操に仕え生涯で唯一無二の君主と仰ぐ事になります。

靳允を説得

曹操は本拠地の兗州を程昱、荀彧陳宮らに任せて、徐州の陶謙討伐に曹仁らと共に向かいました。

この時に陳宮、張超張邈らが呂布を招き入れ反旗を翻したわけです。

呂布や陳宮に兗州の9割が靡いたとも言われますが、夏侯惇、荀彧、程昱らは鄄城、東阿、范の三城を確保しようとしました。

荀彧は程昱に范や東阿を説得し、呂布に味方しない様に依頼しています。

程昱は范に行くと靳允と面会し、靳允が一族の者が呂布に捕らえられてしまってはいるが、曹操に味方するべきだと説きました。

程昱は靳允に「陳宮は成り行きで呂布に味方しているだけであり、呂布の粗暴な性格もあり味方すれば滅亡の道を歩む事になる」と説得しました。

靳允は程昱の言葉を聞くと涙を流し、曹操陣営に残る事を約束したわけです。

曹操は本拠地の兗州が乱れた事で、引き返してきましたが、程昱は見事に東阿を守り切りました。

曹操は程昱と会うや「貴方がいなければ、儂は帰る場所を失っていた」と述べ、手を取り喜んだ話があります。

程昱の夢と改名

魏書によれば程昱は若い頃にいつも泰山に登り太陽を両手で捧げる夢を見たと言います。

程昱は不思議な夢だと思い荀彧に話をした事がありました。

兗州の乱では曹操は三城だけを保持したわけですが、この時に荀彧は程昱の夢の話を曹操にしたわけです。

荀彧から程昱の夢の話を聞いた曹操は「貴方は最後まで私に仕えてくれるに違いない」と述べ、程立から程昱に改名させました。

ここでは最初から程昱と呼んでいましたが、実際の所は兗州の乱の時に程立から程昱に改名したという事です。

曹操に取って見れた太陽は自分であり、程昱が補佐するという運命的なものを感じたのかも知れません。

曹操を奮起させる

正史三国志の記述

曹操呂布と濮陽で何度も戦い形勢不利でしたが、蝗の害があり停戦となります。

曹操の軍は食糧、物資に窮乏しており、袁紹は曹操に使者を派遣し家族を鄴に住まわせる事を要求しました。

袁紹は曹操に人質を出させ自分の傘下に組み込もうとしたわけです。

曹操も食料の欠乏から戦意を無くしていたのか、袁紹の要求を受け入れようと考えました。

この時に程昱は使者として外に出ており、戻って来ると曹操に「袁紹に家族を預けるのは本当なのでしょうか?」と問うと曹操は「本当だ」と述べています。

弱気になっている曹操の発言を聞いた程昱は次の様に述べました。

※正史三国志 程昱伝

私が聞いた所では将軍(曹操)は、事態を前にして弱気になっている様でございます。

将軍は智謀を張り巡らす事が出来てはおらず、袁紹は燕や趙の地に腰を落ち着け天下を呑み込もうとしておりますが、それでも袁紹の智慧は不十分なのです。

将軍はもっと深く考えてみるべきではないでしょうか。

殿はそもそも袁紹の下に甘んじる事が出来るような人だったのでしょうか。

能力がありながらも劉邦の風下に立った韓信や彭越の真似などすべきではありません。

現在の兗州は疲弊しているとはいえ、尚、三城は我らに味方しているのです。

戦闘を行える兵士も1万も下らず、将軍には神の如き武勇があり、文若(荀彧)や私が味方しているからには、覇者となり王者となる事も出来ましょうぞ。

将軍には再び熟慮して頂きたい」

曹操は程昱の言葉を聞くと、袁紹の傘下に入る事を取りやめたとあります。

曹操は袁紹との戦いにおいて時折、弱気になりますが、その度に荀彧、荀攸郭嘉などの軍師たちが励ましたと言えるでしょう。

魏略の記述

魏略には程昱が曹操に語った別の話が掲載されており、合わせて解説します。

魏略だと程昱はの末期から楚漢戦争で斉の国の王族である田横を例に出して、曹操を説得しています。

※魏略より

秦末期に田横は斉の名家ではありましたが、兄弟の田儋、田栄、田横で斉王の位は入れ替わって行きました。

斉では千里四方の土地を有し百万の軍勢を持ち、諸侯と並びたっています。

しかし、劉邦項羽を破り天下人となるや、田横は捕らわれの身となってしまいました。

この時に田横は平然としていたのでしょうか」

曹操は程昱の問いに対し「これは男としての最大級の屈辱だ」と述べました。

程昱は次の様に続けています。

程昱「私は愚者ではありますが、将軍の心は田横に及ばない様に思えてなりません。

田横は斉の壮士に過ぎませんでしたが、高祖の風下に立つ事を拒みました。

今の将軍は家族を袁紹の本拠地である鄴に預け、袁紹に仕えようとしております。

将軍は聡明であり神の如き勇武をお持ちにも関わらず、袁紹如きの下に進んで立とうと考えておられる。

これを恥辱だと感じないのは、私は恥だと感じております」

魏略では、この後に正史三国志と大体同じ発言が続き、程昱が兗州の乱の時に曹操を励ましたのでは間違いないのでしょう。

実際に曹操は袁紹の風下に立つ事はせず、荀彧の進言で呂布の配下である李封と薛蘭を破り、麦を刈り取り食料を確保しました。

曹操は呂布と再び戦いますが、曹操は呂布を破り、呂布は劉備を頼って落ち延びて行く事になります。

献帝を迎え入れる

献帝李傕郭汜が争う長安を後にし洛陽に移ると、程昱は荀彧と共に献帝を迎え入れる様に進言しました。

曹操も荀彧や程昱の発言に納得し曹洪に迎えに行かせ、最終的には董承とコンタクトを取り曹操は自分の勢力圏である許昌で保護しました。

献帝が許を都とするや程昱は尚書となります。

しかし、兗州は呂布を駆逐した後も安定せず、程昱を東中郎将とし済陰太守・都督兗州諸軍事としました。

劉備を警戒

劉備呂布を徐州で迎え入れますが、最終的には呂布に徐州を奪われました。

後に呂布に攻撃された劉備は曹操の元に敗走して来たわけです。

程昱は曹操に次の様に進言しました。

※正史三国志 武帝紀より

程昱「劉備を見るに、秀でた能力を持っており人々の心を掴むのを得意としております。

劉備は人の下に甘んじる様な男ではありません。

さっさと始末してしまうべきです」

程昱は劉備が後の脅威になると考え、さっさと始末してしまうべきだと考えたのでしょう。

しかし、曹操は現在は「英雄を収攬する時であり、一人を殺害し天下の人心を失うべきではない」と述べています。

後に曹操は呂布を滅ぼし、袁紹の子である袁譚と合流しようとする袁術を討たせる為に劉備を派遣しました。

劉備に袁術を討たせた事を知った程昱と郭嘉は次の様に述べています。

※正史三国志 程昱伝より

程昱・郭嘉「公(曹操)は先に劉備に手を下さず、私たちは理解に苦しんだ次第です。

現在、劉備に兵を与えてしまいましたが、劉備は必ずや異変を起こす事でしょう」

曹操は劉備に兵を与え外に出してしまった事を後悔し、後を追わせますが間に合いませんでした。

袁術が病死すると、劉備は徐州刺史の車冑を殺害し、曹操に反旗を翻す事になります。

徐州は劉備にとって陶謙から譲り受けた愛着のある土地であり、独立してしまったのでしょう。

最終的に曹操は劉備を討ち、劉備は関羽や家族も置き去りとし、北方の袁紹の元に逃げ延びますが、程昱や郭嘉などは劉備の性質をよく掴んでいたと考えるべきです。

程昱や郭嘉も「劉備の様な人物が危険」とする洞察力を以っていたのでしょう。

暫くすると、程昱は振威将軍に昇進しました。

鄄城の守備

西暦200年に官渡の戦いが勃発しますが、この時に程昱は僅か700の兵で最前線である鄄城の守備をしていました。

袁紹は黎陽から南に河を渡ろうとしていたわけです。

曹操は程昱の兵が余りにも少ない事を心配したのか、使者を派遣し2千の兵を増援部隊として送ろうとしました。

しかし、程昱は曹操の申し出を断り、次の様に述べています。

※正史三国志 程昱伝

程昱「袁紹の軍は10万もの大軍であり、向かう所敵なしとも言える状態です。

今、私の兵が殆どいない事を考えれば、必ずや軽く見て攻撃は仕掛けて来ないはずです。

仮に兵を増員してしまうと、気になって攻撃して来る可能性があります。

袁紹が攻めて来れば必ず敵が勝ち、我が勢力は無駄に損なう事になるのです。

どうか公はお疑いなき様にお願い申し上げます」

程昱は曹操の増援部隊の派遣を断わり、袁紹は程昱の予想した通りに無視して南下して行ったわけです。

袁紹が程昱を無視した理由として、程昱が袁紹に内通していたのではないか?とする説もあります。

曹操が官渡の戦いが終わった後に、内通者が多くいた記録が残っており、程昱も袁紹と内通していたのではないか?とする説です。

本当に程昱が袁紹と内通していたのかどうかは不明ですが、無駄な戦争を防ぐ為の手段として、袁紹と連絡を取っていた可能性はあるのかも知れません。

曹操は後に張魯を破った時も光武帝の故事に従い「隴を得て蜀を望む」の言葉に従い、蜀に攻め込む事はしませんでした。

光武帝は内通者の手紙を燃やした話もあり、程昱も仮に曹操が勝てば「手紙を燃やす」事は察知していたのかも知れません。

この辺りは、詳しく記録があるわけではありませんが、程昱が袁紹に内通していた可能性も残っている様に感じています。

ただし、曹操は賈詡に対し、次の様に述べた記録が正史三国志にあります。

曹操「程昱の胆の強さは孟賁、夏育以上だ」

曹操は賈詡に程昱の精神力の強さを褒め称えたわけです。

それを考えると、程昱は袁紹に内通もしておらず、前線の城にいた事にもなると考えられます。

それでも、曹操が手紙を処分しており、分からない部分はあると言えるでしょう。

尚、孟賁と夏育は秦の武王に仕えた人物ですが、力比べをしている最中に秦の武王が怪我をして亡くなってしまった事件が史記に書かれています。

安国亭侯

程昱は山や沼地にいる逃亡者を集め千人の精鋭部隊を得たとあります。

袁紹が亡き後に、袁譚、袁尚が後継者争いを引き起こしますが、程昱は黎陽で曹操と合流しました。

袁譚は曹操に敗れて最後を迎え、袁煕、袁尚の兄弟は烏桓に逃亡しますが、最後は公孫康に斬られた事で北方は平定されたわけです。

程昱は奮武将軍に任命され、安国亭侯に昇進しました。

程昱の予測

北方を平定した曹操は南下を始めますが、荊州の支配者であった劉表が亡くなり、劉琮が後継者となりました。

劉琮は親曹操派の蔡瑁張允らの説得もあり、曹操に降伏しますが、劉備劉琦を擁立し南方の江陵を目指し逃亡しています。

正史三国志の程昱伝では、孫権の元に劉備が逃げても、多くの者が孫権は劉備を殺害すると考えていました。

しかし、程昱は別の考えを持っており、次の様に述べています。

程昱「孫権は新たに地位に就いたが、四海に名が轟いているわけではない。

曹公は天下で最も強く荊州を奪ったところで、威勢は長江の反対側まで鳴り響いている。

孫権は策謀に優れてはいるが、一人で対抗しようとは考えないであろう。

劉備には英名があり、関羽と張飛はいずれも兵1万に匹敵する人物だ。

孫権は劉備陣営と手を組み我等と戦う事になるであろう。

しかし、敵を前にすれば孫権と劉備は手を取り合うが、敵が去れば両者は争う事になる。

劉備はこれを機に独立し、劉備をどうする事も出来なくなるはずだ」

程昱は劉備と孫権が手を結ぶと予言しました。

さらに言えば、程昱が如何に関羽張飛を高く評価しているかが分かります。

実際に魯粛が劉備と孫権の同盟を成立させようと動き、劉備は諸葛亮を孫権の元に派遣し孫劉同盟が成立しています。

曹操と孫権・劉備連合軍の間で赤壁の戦いが勃発しますが、周瑜程普黄蓋らの活躍があり呉軍の勝利に終わりました。

引退

赤壁の戦いでは敗れましたが、中原の地は平定され安定を取り戻していく事になります。

こうした中で曹操は程昱の背中を叩き「兗州の乱の時に貴方の進言を採用しなかったら、儂はここにいる事が出来なかったであろう」と労いました。

程昱は一族を集め牛と酒を捧げた大宴会を開きます。

程昱は宴会の最中に次の様に述べています。

※正史三国志 程昱伝より

程昱「充足を知る者は恥辱を受けない。儂も引退する時が来た」

程昱は引退宣言を行い自から兵を返上し、門を閉ざして外出しなかったと言います。

尚、程昱の口からでた「充足を知る者は恥辱を受けない」というのは、老子の言葉でもあります。

この時の程昱の年齢に関して言えば、既に70近かった事もあり、戦場を駆け巡るのは体力的にも辛かった部分もあるのかも知れません。

さらに言えば、曹操には気に入られていましたが、周囲との軋轢もあり引退した様に感じています。

ただし、後の事を考えると兵権を返上しただけで、相談役的なポジションは継続しました。

尚、曹操の魏公就任に対しては「奮武将軍・安国亭侯の程昱」の名前があり、曹操の魏公就任支持派だった事が分かります。

曹操の魏公就任に支持した人物としては、下記の人物の名を挙げる事が出来ます。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

兵を助ける様に進言

魏書によれば曹操が馬超討伐に向かった時に、曹丕に留守を守らせ程昱には軍事に参与させたとあります。

程昱伝の注釈・魏書の記述だと曹丕と程昱の二人に任せた様な記述がありますが、実際には曹仁国淵、常林らと共に留守を任せた様です。

こうした中で田銀と蘇伯が河間で反旗を翻しますが、賈信を派遣して乱を鎮圧しました。

この時に降伏したいと願う者が千余人ほど出ており、多くの者が旧法に従い処罰するべきだと述べます。

しかし、程昱は次の様に述べ、処罰に反対しました。

※魏書より

程昱「降伏者を死刑にしたのは、混乱の時代において天下の英雄が沸き起こったからです。

包囲した後に降伏した者を許さぬ事で、包囲される前の降伏を促す為だと考えられます。

現在の天下は平定されておりますし、問題は領域内の事です。

今の降伏して来た賊は、降伏するはずだった賊であり、降伏者を処刑しても威嚇にはなりません。

私は処刑するべきではないと思いますし、処刑するにしても上聞を行ってから処刑すべきです」

程昱は降伏者の処刑に反対しますが「軍事では専断が許される、上聞する必要はない」とする意見が出ます。

程昱は反対者の意見を聞くと黙り込んでしまいました。

曹丕は「これでは程昱の言いたい事が言えなくなる」と考えたのか、奥に入り程昱に意見を求めました。

程昱は曹丕に次の様に述べています。

程昱「専断で決定するというのは、その時点で処理する必要がある場合だけです。

緊急時の手段に過ぎないという事です。

今の賊共は賈信の虜となり、緊急性はありません。

だからこそ、老臣はここでの判断を望まないのです」

曹丕は程昱の意見を最もだと考え、降伏者の処罰を行わず、曹操に具申しました。

曹操は程昱が思った通りに、降伏者を処刑する事は無かったわけです。

曹操は馬超や韓遂を潼関の戦いで破り帰還すると、上機嫌となり程昱に向かって「貴方は軍略に優れているだけではなく、他人の親子関係もよくしてくれた」と述べました。

程昱は曹操から感謝されたわけです。

程昱は性格に問題があった様な事を言われますが、降伏者を許す様に考えた辺りは、根っからの悪人というわけではなく、むしろ根は善人だった様にも感じました。

尚、程昱は降伏者を許す様に進言しましたが、国淵なども許す様に打診した話があり、程昱の考えに賛同する者も多かったと感じています。

程昱の性格

正史三国志に程昱の性格の事が書かれており、剛情で他人と衝突する事が多かったと言います。

中には「程昱が謀叛を企んでいる」と讒言する者もおり、程昱は性格の問題もあり敵も多かったのでしょう。

しかし、曹操は程昱の事を信頼しており、気にせず重用し下賜する物や待遇を手厚くしたと言います。

曹操は程昱が癖が強い人間ではあると思っていたとは感じていますが、決して不忠者とは考えなかったのでしょう。

ただし、魏が建国されると程昱は衛尉となりますが、中尉の邢貞と争い免職されました。

それでも、程昱は曹丕からの信頼が厚く曹丕が皇帝となるや衛尉に復帰しています。

曹丕は曹植との後継者争いをしましたが、程昱は自分の味方だと思っていたのでしょう。

程昱の最後

曹丕は程昱を復帰させただけではなく、安郷侯とし三百戸を加増しました。

これにより程昱は合計八百戸になったと言います。

程昱は少子の程延と孫の程暁に領地を分与し諸侯となりました。

曹丕は程昱を三公の席に就かせようとしますが、程昱は亡くなってしまい三公に就任する事は無かったわけです。

魏書によれば程昱が亡くなった時の年齢は80歳だったと伝わっています。

程昱の寿命があと1年あれば三公になっていたのでしょう。

曹丕は程昱の死を悲しみ涙を流し車騎将軍の位を追贈しました。

程昱の諡は粛侯となります。

程昱が亡くなると、この程武が後継者となり、程武が亡くなると程克が後継者となりました。

程克が亡くなると程良が後継者となったとあり、程昱の子孫は孫の代までは続いた事は確実だと言えるでしょう。

程昱の評価

陳寿は程昱を徳行の人ではないが、策においては荀攸に匹敵すると述べています。

荀攸の様な性格の良さはないが、能力は高かったと認めているのでしょう。

程昱は世語によると、曹操の食料が欠乏した時に、程昱は出身の県から略奪を行い三日分の食料を供給したとあります。

曹操の食料が欠乏した時期が世語には書かれていませんが、呂布陳宮が反旗を翻した兗州の乱の時では無かったのか?とも感じました。

食糧供給を行う時に程昱は人肉をかなり混ぜた話があり、この話が伝わり結果として朝廷における人望を失ったとあります。

世語では「それ故に官位は公まで昇進しなかった」と書かれているわけです。

しかし、人肉を混ぜて軍の飢えをしのぐなどの行為は行儀がよい人には決して出来ない発想であり、程昱だからこそ出来たとも言えるでしょう。

戦国時代に蘇秦が燕の易王に対し「自分が悪人だからこそ役に立つ」と述べた話があり、同じ事は程昱にも言えるのではないか?と感じました。

程昱としては、普通の人では出来ない様な人肉を混ぜるという行動が、曹操を救ったとも言えそうです。

逆にいえば、国が定まって来ると、程昱の様な人材は非難されるわけであり、程昱も疑われる前に身を引いたとも言えるでしょう。

それでも、兵士の助命をしたなどを考えると、根は善人だった様に感じています。

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