三国志

周瑜(しゅうゆ)の史実『度量が深く卓越した戦略を持っていた人物』

2021年7月24日

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宮下悠史

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周瑜は赤壁の戦いで呉の大都督を務めあげ、曹操の大軍を撃破した事で有名です。

三国志演義を見ると、周瑜の考えは全て諸葛亮に読まれており、怒りやすく嫉妬心も抱くなど、諸葛亮の引き立て役となっています。

周瑜は三国志演義をベースを考えれば、諸葛亮被害者の会・筆頭とも呼べる人物です。

しかし、史実の周瑜は文武両道で教養も高く、名門出身で多くの敵を討ち破るなど、非の打ち所のない様な人物だと言えるでしょう。

今回は史実の周瑜が、どの様な実績があるのか解説します。

尚、周瑜の字は公瑾であり、三国志一の美貌を持っていると評判です。

荀彧と並ぶ三国志のイケメン武将が周瑜となります。

三国志のゲームでも高い能力値を誇り、三国志の人気投票でも常に上位に入るのが周瑜です。

尚、周瑜の死因などに関しては、長江流域は疫病が流行りやすく病死だと考えられています。

周瑜がイケメンだとする理由

周瑜は三国志一のイケメンだったとする話があります。

周瑜がイケメンとされる理由は、正史三国志の下記の記述です。

「周瑜は成長すると同時に、立派な容貌を兼ね備えた」

正史三国志のこの記述が、周瑜がイケメンだとされる理由なのでしょう。

これだけで「周瑜が三国志一のイケメンになるのか?」と思うかも知れません、

しかし、正史三国志で容貌に関して伝えるのは異例であり、周瑜がイケメンとされる理由となっています。

史実の三国志では周瑜の他にも孫策荀彧典韋趙雲公孫瓚、劉表なども容姿が立派だったとする記述があります。

意外に思うかも知れませんが、蜀の彭羕(ほうよう)も魁偉な容貌を持っていた話があります。

ただし、彭羕は顔が良かったとする記述はありません。

名門の出身

周瑜は揚州廬江郡の出身であり、名門の家柄だったと伝えています。

周家は周栄が尚書令になった事で大きく栄える事になります。

周瑜は周栄の玄孫です。

さらに、一族の周景や周忠が大尉になるなど、袁紹袁術の四世三公を輩出した汝南袁氏には劣りますが、周家も名門中の名門と言えるでしょう。

因みに、周景が司空に任命された時に、桓帝に無能な宦官の排除を進言し、清流派の人物として名が通っています。

周瑜は名門の出身でありながら、大らかな性格で度量もあり、多くの人々の心を掴んだ話があります。

周瑜は顔はイケメンで容貌も優れ、性格もヨシという欠点が見当たらない様な人物だったのかも知れません。

周瑜の相棒となる孫策は怒りっぽい性格だったと記録があり、周瑜の大らかな性格があった事で反発しなかったのでしょう。

尚、周瑜は策を好んでおり、部下の献策を積極的に取り入れています。

この辺りは周瑜の度量の深さだと言えるはずです。

因みに、周瑜は音楽にも優れ泥水していもて、演奏者が曲を間違えれば、演奏者の方を振り返った逸話があります。

当時の人々は「演奏者が曲を間違えれば、周郎が振り返る。」と噂した話もあります。

周瑜は音楽にも精通しており、高い教養も持っていた事が分かるはずです。

孫策との出会い

孫堅が反董卓連合として参加している頃に、周瑜と孫策は親交を深めたと伝わっています。

周瑜の家には屋敷が二つあり、孫策の家に屋敷の一つを譲った話があります。

先にも述べた様に周瑜の家柄は圧倒的に高く、それに対して孫策の家柄はそれほど高くありません。

これらを考慮すると、周瑜と孫策は余程気が合ったのではないかと考えられています。

後年の事を考えれば、孫策には周瑜を引き付けるだけの圧倒的な魅力があったのでしょう。

他にも、周瑜の補佐役に徹する事が出来る姿も、孫策と親しくなった原因とも考えられます。

尚、周瑜と孫策は年齢が同じであり、深い友情を育み、断金の交わりを結んだとも言われています。

断金の交わりは、易経にある言葉で金でも断ち切る事が出来ない強い交わりを指し、管鮑の交わりや刎頸の交わりに匹敵する様な強い絆だったはずです。

孫策は覇気がある人物であり、この時の孫策と周瑜は互いに語り合い、天下統一を目指そうと考えたのかも知れません。

周瑜と孫策が袁術の配下となる

周瑜と孫策が交友を深めますが、孫堅が黄祖との戦いで戦死してしまいます。

孫堅は各地で戦い名声を高めていましたが、孫堅の死により、孫堅の勢力は解体に向かいます。

孫堅死後に孫策も周瑜も、袁術に仕える事になりました。

当時は汝南袁氏の袁紹と袁術が派閥の長となり、袁紹派に曹操などが与し、袁術派には公孫瓚、陶謙などが与していた時代です。

冀州の袁紹に比べ袁術は南を本拠地としてたい事から、揚州に関しても影響力が大きかったと考えられています。

ただし、この頃は周瑜も孫策も当主になったわけではなく、

周瑜の家では叔父の周尚が当主でしたし、孫堅亡き後の孫家は呉景や孫賁が舵を切っていた話があります。

しかし、周尚、呉景、孫賁などは思った程の実績を挙げる事が出来ずに、孫策や周瑜は着実に実績を残し、名声を高めていく事になります。

ただし、袁術は孫策が廬江の陸康を制圧した時には、廬江太守に任命すると約束しておきながら、孫策に廬江太守の位を与えず、劉勲を廬江太守に任命しました。

袁術の約束を守らなかったり、功臣に対して十分な褒美を与えない態度は、周瑜や孫策からしてみれば不満だったはずです。

孫策の人材集め

孫策は弱小勢力であり配下には孫河と呂範位しかいませんでした。

しかし、孫策は何とか孫家を復興させようとし、袁術から千人ほどの兵士を借りる事に成功しています。

孫堅配下の武将として名を馳せた程普黄蓋韓当、朱治などを、直属の部下にする事にも成功しています。

孫策は武将だけではなく、張尚や張紘の様な名士層も配下に取り入れる事に成功しました。

さらに、名士ではないが、武将として優れた周泰蒋欽、淩操なども配下にしています。

これを考えれば、周瑜と親交を結んだ孫策の志の大きさが分かる事でしょう。

孫策陣営には、周瑜も加わる事になります。

三国志最強のイケメンコンビが誕生

孫策は江東を制覇する事を目指し、周瑜に手紙を送っています。

家柄では周瑜の方が圧倒的に上ですが、孫策の大志に周瑜は共感し行動を共にする事になります。

周瑜の方でも、孫策の依頼を断る理由もなく、袁術も大した人物ではなかった事から、願ったり叶ったりだったはずです。

孫策は外見も良く、項羽並みの武力を誇った事から「小覇王」の異名を取り、周瑜も外見がよく「美周郎」と呼ばれた話があります。

孫策と周瑜が江東制圧を目指した事を考えれば、小覇王孫策と美周郎周瑜という三国志で最強のイケメンコンビが誕生した事になるでしょう。

孫策の快進撃

孫策が袁術から与えられた兵力は千人ほどでしたが、次々に兵士が集まり直ぐに5千人ほどの軍団になった話があります。

周瑜は次々に孫策の許に人が集まる所を目撃し、新時代の幕開けを感じた事でしょう。

周瑜は孫策軍本隊の参謀になっています。

孫策軍は江東の制圧を始め、195年に劉繇配下である張英が守る当利口を占拠し、于糜と樊能が守る横江津を制圧しました。

尚、于糜らは呉景が数年掛けても攻略出来なかった事もあり、周瑜がいた孫策軍の強さが分かるはずです。

孫策や周瑜は劉繇が籠る牛渚も攻略した事で、劉繇は曲阿に逃亡します。

劉繇の秣陵を守るのは、笮融と薛礼のみとなります。

秣陵城も陥落し、孫策は小覇王の名に恥じない活躍を見せます。

尚、秣陵での戦いでは、劉繇が逃亡した後も太史慈が抵抗を続けますが、最後は孫策に降伏して配下となっています。

孫策は各地を平定した事で、既に数万規模の兵士を動かせる存在になっていました。

周瑜の具体的な活躍は分かっていませんが、孫策の作戦本部におり、戦略を練ったりしたと考えられています。

孫策の用兵は神がかっている部分もあり、戦略の周瑜と戦術の孫策のコンビがいれたこその快進撃だったのでしょう。

袁術からの離脱

劉繇を蹴散らした孫策は、呉の厳白虎や会稽の王朗の制圧に向かいますが、周瑜は同行しませんでした。

周瑜はこの時に、袁術の元に戻る事にしています。

建前上は孫策も周瑜も袁術配下の人間であり、ここで周瑜が袁術に配下だと言う事をアピールせねば、孫策の呉や会稽制圧への障害になると考えたのでしょう。

この時に、周瑜は再び袁術の配下として戻り、呉景や袁術から借りた兵士らは返す事になります。

周瑜は丹陽に入った話があり、孫策の基盤を固めておきたいと考えたはずです。

しかし、袁術は孫策や周瑜が力を持つ事を恐れたのか、一族の袁胤を丹陽の太守として送り込み、周瑜と周尚を寿春に召喚しました。

周瑜は袁術が天下を治める人物に思えなかった様で、この時に袁術に対し見切りを付けたと言われています。

周瑜は袁術にの居巣の県長になると願い出て、袁術の元から離脱しています。

後の周瑜の行動を見れば、袁術から離れて孫策に合流したいと考えたはずです。

魯粛との出会い

居巣の長官となった周瑜は、地元の大豪族である魯粛に挨拶に行きます。

周瑜は魯粛に食料や物資の援助を頼みました。

当時の魯家には、蔵が二つあり、魯粛はそのうちの一つを指さして周瑜の財産の約半分を周瑜に提供したわけです。

周瑜は魯粛の事を「只モノではない!」と思い魯粛と親交を結ぶ事になります。

三国志演義の魯粛は周瑜の怒られ役であり、お人好しの役柄ですが、史実の魯粛は剛胆な人物で、絶妙なバランス感覚の持ち主だと言えます。

尚、後に魯粛も袁術に見切りを付けて孫策陣営に加わる事になります。

周瑜にとって魯粛は、孫策への最高の手土産となった事でしょう。

正式に孫策配下となる

周瑜は袁術の元を離れ正式に孫策配下となります。

孫策は周瑜が来たことを大いに喜び、中護軍の地位を与えました。

中護軍は孫策陣営の中でも程普と呂範に並ぶトップの役職であり、周瑜に豪勢な屋敷や軍楽隊を与えるなど、最高級の評価をしたわけです。

尚、周瑜に対し孫策が豪華な屋敷などを与えている事から、周瑜は周家との袂を別ち、孫策に従ったのではないか?とも考えられています。

これの説が正しいのであれば、周瑜は周家の財産を棄ててまで、孫策に従った事になるでしょう。

江夏太守に任命される

周瑜は孫策から江夏太守にも任命されています。

実際に江夏を治めていた、黄祖がいた事から、周瑜が任命された江夏太守は形だけのものだったはずです。

しかし、孫策としてみれば、周瑜を江夏太守にした事で、江夏を制圧する野望を見せた事になります。

呉は孫権時代の保守的な思想が強い様に思っている人もいるかも知れませんが、孫策時代は揚州が完全に定まっていないのに他国を攻め取る事を考案するなど、バリバリの武闘派だったと言えるでしょう。

呉が領地を全うしようと考える様になるのは、陸遜が呉の中心人物になってからです。

陸遜は保守的な地元豪族や名士などに気を配った事から、対外戦争は嫌ったともされています。

劉勲を討つ

孫策や周瑜は策を使い劉勲を討伐する事になります。

劉勲陣営の拡大

199年に袁術が亡くなると、袁術配下の楊弘張勲が孫策の許に帰順しようとした話があります。

しかし、廬江太守で皖城を本拠地としていた劉勲は楊弘と張勲を捕虜とし、軍勢や財宝を奪ってしまいました。

さらに、劉曄の進言により鄭宝の軍勢も劉勲は吸収し、一大勢力となります。

ただし、劉勲は急激に兵士が増えてしまった事で、慢性的な兵糧不足に悩まされたとも伝わっています。

劉勲は過去に孫策がなる予定だった、廬江太守に袁術から任命されており、因縁の相手でもあったはずです。

劉勲を騙し討ちにする

当時の廬江の周辺には、宗教勢力が闊歩しており、劉勲の悩みの種でした。

孫策や周瑜は劉勲に「協力して宗教勢力を倒そう。」と手紙を出します。

孫策や周瑜は劉勲に宗教勢力を討伐出来れば、宗教勢力の兵も手にする事が出来るとも伝えました。

この時に劉勲配下の劉曄は反対しますが、劉勲は城を出て上繚の宗教勢力の討伐に向かっています。

劉勲が上繚に出撃した事をみた孫策と周瑜は出撃し、劉勲の本拠地である皖城を攻め落としています。

騙し討ちになりますが、孫策と周瑜は廬江の重要拠点である皖城を手に入れる結果となりました。

余談ですが、劉曄は後に曹操に仕えますが、その間に魯粛と友好を持つなど、独自の動きをしています。

大喬と小橋

劉勲討伐が終わった頃に、孫策と周瑜は大喬と小橋なる姉妹の美女を手に入れています。

皖城を攻め落とした時に、大喬と小橋を捕虜としたわけです。

大喬は孫策が娶り、小橋は周瑜が娶りますが、二人を娶る時に、江表伝に孫策が周瑜に言った戯れの言葉が残っています。

孫策「喬公の二人の娘は美貌であるが、我ら二人を婿に出来たのだから、相手も良かったのではないか。」

孫策と周瑜も外見が良かった事での自信発言となるのでしょう。

尚、この時に孫権の側室となる歩夫人や袁夫人も手に入れています。

劉勲の勢力は旧袁術軍だった事から、袁術の妾や子女、軍楽隊なども手に入れる事が出来たわけです。

黄祖との戦い

劉勲は孫策や周瑜の騙し討ちにあった事で、激怒し黄祖を頼る事にしました。

これにより孫策陣営と黄祖陣営の対立は決定的なものとなります。

孫策は朱治や賀斉などの一部の将を呉や会稽に残し、周瑜、程普、呂範などの軍事のトップ3や韓当、黄蓋、周泰、蒋欽などの将を引き連れ黄祖との戦いに臨みます。

参戦した将軍たちの多さから、孫策は黄祖に対し全面戦争で決着を付けようとしたのでしょう。

しかし、黄祖は何人かの将を斬られながらも巧みに守り、本拠地の夏口を守り切る事になります。

黄祖は怒りっぽい性格で禰衡を斬ってしまったり、甘寧を用いなかった事で、小人に思われがちですが、孫策や周瑜を相手に夏口を守り切っただけでも、手ごわい相手だったと言えるでしょう。

孫策や周瑜らも黄祖が守る夏口が楽に勝たせてくれないと悟り、豫章などの攻撃に着手しています。

尚、黄祖を破るのは西暦208年の起きた夏口の戦いであり、孫権の時代まで行かねばならなくなります。

江東の小勢力を撃破

黄祖が手ごわいと分かるや黄祖の抑えは太史慈に任せ、孫策や周瑜は小規模な各地の反乱勢力を鎮圧して行く事になります。

この時に孫策は、周瑜を巴丘、呂範を鄱陽に配置し、周泰、韓当蒋欽らには県令とし、抵抗勢力の鎮圧をしました。

周瑜や呂範らは江東の各地の基盤を固めるべく動く事になります。

しかし、江東の掌握が完成する前に、一大事件が起きています。

孫策の死

北方の袁紹と曹操の間で官渡の戦いが起きた西暦200年に孫策が亡くなっています。

孫策は狩りが好きであり、少人数で無防備に狩りに行く事が多かったわけです。

孫策は討伐した勢力である許貢の食客により、命を落とす事になります。

孫策は負傷した矢傷が原因で死去しました。

孫策は急激に勢力を拡げた事で、地元豪族など各地の勢力に恨みを買っていた事が原因ともされています。

周瑜は孫策のカリスマ性に惹かれた部分が多分にあったはずであり、衝撃は大きかったはずです。

周瑜だけではなく多くの人物が孫策のカリスマに魅了され、配下となった事から江東全体に孫策の死は響き渡ったのかも知れません。

周瑜の戦略が生かされるのも、孫策の圧倒的な武勇があったからだとも言えるでしょう。

尚、三国志演義では孫策は于吉に祟られてなくなった話があります。

孫権配下となる

孫策が志半ばで亡くなると、周瑜は孫権に仕える事になります。

周瑜の立ち回りが孫家を継続させたとも言えます。

孫策の遺言

孫策は死の間際に、後継者である弟の孫権に向かい次の言葉を残しています。

孫策「軍事の事は周瑜に相談し、内政は張昭に相談せよ。」

孫策のこの言葉からも周瑜の信頼度は、呉の重臣たちの中でもトップに位置するものだと分かるはずです。

周瑜はカリスマ的な存在である孫策が亡くなっても、孫家を離れる事もなく孫権の配下となります。

尚、孫策が軍事の天才だった事を考えれば、孫策の死は軍事の停滞も招いた事になるでしょう。

周瑜が孫家の求心力を高める

孫策が亡くなった時の役職は会稽太守の討逆将軍でした。

これらの役職は世襲される様なものでもなく、孫家の求心力は低下します。

孫家は後漢王朝からの役職による権威も低く、豪族間での名声も無かった事から、孫策の死で大きく揺れる事になったわけです。

実際に、この時に魯粛が去ろうとし、周瑜が引き留めた話しも残っています。

この時に周瑜は孫権に対し、積極的に臣下の礼を取り、孫家がまだまだ健在だと言う事を内外にアピールします。

周瑜は名門出身であり、孫家の求心力向上に大きな推進力となった事でしょう。

過去に孫堅が亡くなった時に、孫策は軍勢を維持する事が出来ずに解体されてしまいますが、孫策が亡くなった時は、周瑜や張昭がよく立ち回った事で、孫家は崩壊しなかったとも考えられています。

軍事部門のトップ

孫権が後継者となった後も周瑜、程普、呂範の3人が軍事部門のトップを保っています。

孫権が即位した時点での、江東は山越の反乱や反対勢力がおり、油断できない状態でした。

孫権は山越や反乱勢力の討伐に程普と呂範を責任者とし、周瑜を荊州の江夏方面担当としています。

引き続き周瑜は、黄祖と対峙する事になったわけです。

黄祖討伐に決着

周瑜は黄祖と激闘を繰り広げる事になります。

甘寧が投降

西暦203年に周瑜と黄祖が戦っています。

この時に黄祖配下の甘寧に、周瑜配下の淩操が射殺される一幕もありました。

これにより、淩操の子である淩統は、酷く甘寧を恨んだ話があります。

203年に侵攻では、周瑜は黄祖を倒す事が出来ずに撤退しています。

黄祖の都督である蘇飛は甘寧を高く評価しており、黄祖に甘寧を重用する様に求めます。

しかし、黄祖は甘寧を重用せず、蘇飛は甘寧に孫権配下となる様に説得しました。

周瑜も甘寧の能力を高く評価しており、周瑜と呂蒙が連名で甘寧を推挙した為、孫権は甘寧を重用する事になります。

尚、甘寧は孫権に天下二分の計を提案した話があり、中国の南側を呉の領土とする方針は周瑜と一致しています。

鄧龍を捕える

207年になると周瑜は孫瑜と共に、山越族が守備する麻屯と保屯を陥落させた話があります。

この時に、1万人を捕虜とするなど大戦果を挙げています。

周瑜と孫瑜は軍を還し宮亭の守備に就きます。

この時に黄祖が武将の鄧龍に数千の兵を率いさせて、柴桑に進撃しました。

周瑜は鄧龍を迎撃し、捕虜とし呉へ護送した話があります。

207年の時点では、優勢に戦いを進めながらも、黄祖を滅ぼす事が出来なかったわけです。

黄祖を滅ぼす

208年になると、孫権が自ら軍隊を指揮し、黄祖討伐に向けて出陣しました。

これが夏口の戦いです。

周瑜は孫権軍の前部大督(前線部隊の指揮官)となり、黄祖軍と戦う事になります。

この時の孫権軍には、呂蒙、甘寧、淩統、董襲などが参加しており、黄祖を倒す本気さが感じられます。

淩統が先陣を務め、周瑜の活躍もあり周瑜の念願であった黄祖討伐を成し遂げ、江夏を抜く事に成功しました。

周瑜にとってみれば孫策時代に江夏太守に任命されていた事から、遂に念願を果たす事が出来たとも言えるでしょう。

孫権にとってみれば、父親である孫権の仇を討つ事が出来たとも言えます。

尚、黄祖の都督である蘇飛は、甘寧が必死に命乞いをした事で許されています。

赤壁の戦い

西暦208年に曹操の大軍が南下し、赤壁の戦いが勃発します。

兵の数は圧倒的に呉軍が劣りますが、周瑜率いる呉が勝利した戦いでもあります。

尚、三国志演義では周瑜の功績が諸葛亮の功績となるなど、周瑜にとっては不本意な結果となっています。

曹操軍の南下

江夏は陥落させましたが、周瑜は江夏には入らず、鄱陽湖に行き水軍の軍事訓練を行っています。

この時に、周瑜や孫権の元にも、袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を滅ぼした曹操が南下している情報が入っていた事でしょう。

曹操は人口の湖を作り水軍の調練を行うなど、念を入れて呉を征服する構えを見せます。

曹操は南下を始めると、劉表の後継者となっていた劉琮(りゅうそう)をターゲットとします。

劉琮は配下の蒯越(かいえつ)傅巽(ふそん)王粲(おうさん)らの説得もあり、曹操への降伏を決意しました。

この時に、曹操は荊州の人々を厚遇し、、劉琮を青州刺史、蒯越が光禄勲、韓嵩は大鴻臚、鄧義が侍中、劉先は尚書令、文聘を江夏太守としました。

魯粛を荊州に派遣

曹操が荊州の、劉琮を降伏させると、呉の宮廷では降伏論が活発になります。

軍事の最高責任者である周瑜や将軍たちは、鄱陽湖で水軍の訓練を行い、孫権の周りには文官ばかりだったのが原因なのでしょう。

さらに、曹操が荊州の人材を厚遇した事で、降伏しても今の身分は変わらないと踏んだ者が多く出た事で、呉の宮廷では降伏派が圧倒的多数を締める事になります。

こうした中で孫権は魯粛を劉表の弔問の振りをさせ、荊州に派遣しています。

劉琮が降伏した後に、劉備は配下の諸葛亮、関羽張飛、趙雲などを連れて江陵を目指し南下しています。

長坂の戦いでは、余りにも激戦であり、多くも民衆が犠牲となり、徐庶が劉備陣営から離脱するなども起きています。

南下する劉備と孫権に荊州に派遣された魯粛が出会いました。

魯粛は劉備を味方に引き入れて曹操に対抗しようと考えます。

魯粛は劉備配下の諸葛亮を連れて呉を訪れる事になります。

魯粛が奮戦

魯粛は曹操軍との決戦を主張します。

因みに、三国志演義では諸葛亮が呉の文官である宿老の張昭や虞翻、歩隲、陸績、厳畯、程秉、張温、駱統を論破した事になっています。

しかし、正史三国志には、その様な記載がなく実際には、諸葛亮も徹底抗戦に主張したが、降伏派多数の中で魯粛だけが主戦派として奮戦し、魯粛一人を降伏派は説得する事が出来ない状態だったのでしょう。

これを考えれば、孫策が亡くなり孫権が後継者となった時に、周瑜が魯粛を引き留めなかったら赤壁の戦いは無く、曹操が天下統一した可能性もあるはずです。

孫権は軍事の最高責任者である周瑜を召喚し、意見を求める事にしました。

孫権自体も曹操と戦ってみたい気持ちがあったのでしょう。

周瑜が決戦を主張

孫権は数多くいる武将の中で、周瑜一人を呼んだ話があります。

この辺りは、孫権の周瑜に対する信頼感を現わしているとも言えるでしょう。

周瑜は孫権に対して、下記の内容を提示し、水上での戦いであれば、曹操に勝つ事も出来ると主張しました。

曹操軍の兵力は80万ではなく20万ほど。

曹操軍は中原からの遠征軍であり疲れがある。

荊州で手に入れた兵士達は、曹操に対して心服していない。

北方の兵士は水上での戦いに慣れていない。

涼州に馬超と韓遂が背後におり、曹操軍を脅かしている。

中原の兵士は南方の気候になれていない事で、疫病が発生しやすい。

さらに、周瑜は「自分に3万の兵を率いさせて下されば、必ずや曹操軍を打ち破って見ます。」と述べたわけです。

周瑜の頭の中では、曹操の後方に馬超や韓遂がいる事や戦力の不安などから、撤退する事も予想していたのでしょう。

孫権は曹操が帝位を目論んでいる事を指摘し、曹操に敵対した袁紹、袁術、呂布、劉表は既に亡く自分だけが生き残っていると主張しました。

そうした上で、孫権は周瑜に次の言葉を述べる事になります。

孫権「私と曹操は両立できぬ立場である。

あなた(周瑜)は曹操を打ち破ると言っておるが、それは私が思う所と合致した。

これぞ天が私にあなた(周瑜)を授けてくれたのであろう。」

これにより、孫権は曹操との抗戦を決意したわけです。

余談ですが、正史三国志に注釈を入れた裴松之は、曹操との決戦は魯粛が最初に提案したのである。

これでは周瑜が魯粛の功績を取ってしまった様なものではないか。と述べています。

さらに、裴松之は曹操が天下を平定するのに周瑜と魯粛が反対した事で、平和な世の中が来なかったとも言っています。

それでも、魯粛と周瑜が孫権を開戦へ突き動かした事は間違いないでしょう。

三国志の世界を作ったのは、ある意味、魯粛と周瑜だとも言えます。

程普との確執

周瑜が呉の司令官となりますが、程普も同時に司令官であり、人間関係の問題もあったわけです。

程普は孫堅時代から配下であり、周瑜と並ぶ中護軍にも任命された事もある人物ですが、程普は周瑜を嫌っていました。

ただし、なぜ程普が周瑜を嫌っていたのかの事情はよく分かっていません。

専門家の間では、周瑜は黄祖討伐に手こずり、孫権が当主になってからの、周瑜の実績は少ないとも考えられています。

それに対し、程普は山越などの異民族討伐で大いに実績を残していた話があります。

それを考慮してか、孫権も赤壁の戦いの軍事総督の権限を周瑜と程普の二つに分けています。

程普はプライドが高く孫権も苦慮した結果なのでしょう。

周瑜は程普に対して遜り謙虚に対応した事で、程普の信頼を得た話があります。

最終的には、程普は周瑜に対し「周公瑾(周瑜)と交わっていると芳醇な美酒を飲んでいる様だ。」とまで言っています。

周瑜は程普の心も掴む事になりました。

それと同時に周瑜の謙虚な態度は、多くの人物を魅了したのでしょう。

劉備を拒絶

江表伝に劉備と周瑜の逸話が残っています。

劉備は曹操軍が攻めて来ないかと怯え、周瑜率いる呉軍の到来を待ちわびていました。

周瑜が到着すると、劉備は周瑜に会いに行く事になります。

周瑜が劉備を呼び出したのは、作戦を立てる上での序列をしっかりと意識させたかったのでしょう。

劉備は周瑜に呉軍の兵数を聞くと周瑜は「3万」と答え劉備は不安になります。

周瑜は劉備に「私が曹操の軍を打ち破るのをご覧になって頂きたい。」と述べ、劉備を拒絶した様な態度を取ります。

周瑜の頭の中では、劉備の水軍が役に立つ様には思えず、劉備配下の猛将である関羽、張飛、趙雲らも陸戦でしか役に立たないと感じたのでしょう。

劉備は周瑜の言葉に不安になり魯粛と語り合いたいと願ったり、諸葛亮の事を聞くと、周瑜は魯粛は持ち場を離れる事が出来ないと伝え、諸葛亮は3日で到着すると述べています。

劉備は周瑜が傑物だと感じたが、周瑜が曹操に本当に勝てるのか不安だった話があります。

赤壁の戦いでの長江を使った水上戦では、周瑜は劉備軍は必要ないと判断したのでしょう。

蔣幹が周瑜を絶賛

赤壁の戦いで対峙する事になる曹操は、呉の指揮官が周瑜であり優秀な人材だと聞くと、周瑜を配下に出来ないかと、蔣幹を派遣しました。

蔣幹を周瑜の元に送らせたのは、蔣幹が弁舌に優れ才気があると評判だったからです。

周瑜は蔣幹がやってくると「遊説に来たのか?」と尋ねますが、蔣幹は「邪推はしないで欲しい。」と述べています。

周瑜は蔣幹に酒を振る舞ったり、陣中を見学させ兵器なども蔣幹に見せた話があります。

そうした上で蔣幹には、「自分は孫権と一体の関係であり、蘇秦や張儀が遊説に来たり、劉邦配下の酈食其が交渉に来たとしても、自分の心が動く事は無い。」と述べています。

周瑜の態度に蔣幹は「曹操配下になる様に。」と言い出す事が出来ず、笑う事しか出来なかった話があります。

蔣幹は周瑜の態度を賞賛し、中原の人士たちは周瑜を重んじた話があります。

三国志演義の蔣幹は、周瑜の偽の手紙にやられ、曹操軍の水軍を率いる蔡瑁蔡和を曹操に処刑させてしまったり、偶然を装った龐統の策に嵌るなど散々な役目となっていますが、実際には蔣幹が策に嵌った形跡はありません。

因みに、三国志演義にある龐統の連環の計や、徐庶の戦場からの離脱など、諸葛亮の風、蔣幹の話と合わせて、史実と考えられる正史三国志からは確認は出来ませんでした。

曹操軍の船の数

周瑜は同じく司令官の程普と参謀の魯粛と共に出陣します。

周瑜率いる呉軍3万の中には呂蒙、甘寧、韓当、淩統など呉の歴戦の猛者たちがおり、曹操との総力戦に挑む事になります。

曹操軍は兵士の数は20万いましたが、船が少なく海上での戦いを行えなかった話があります。

つまり、曹操軍の大半は長江を渡る事が出来ずに、兵力をフル活用出来なかったわけです。

それを考えると、周瑜が言った兵士は3万で十分と言うのは的を射ていると言えるでしょう。

周瑜も名士であり、情報網はしっかりと張り巡らせていたと考えられています。

地理的に有利だった呉軍

曹操軍は本体を曹操が自ら率いる事になります。

さらに、別働体として趙儼(ちょうげん)がおり、指揮下に張遼于禁徐晃張郃朱霊、路招、李典、馮楷らがいました。

曹操軍には不安があり、短期決戦を望んだのか直ぐに呉軍に攻撃を仕掛ける事になります。

曹操が布陣した場所は湿地帯だった話があり、湿地帯は疫病が流行りやすく呉軍に直ぐに攻撃を仕掛けたとも言われています。

曹操は周瑜の読み通り水軍の不慣れや長旅の疲れなどで、長期戦を行うのが難しい状態だったのでしょう。

曹操としては船の数が少ないながらも、さっさと長江の南岸に到達し、呉軍を倒したかったはずです。

しかし、周瑜は曹操の動きに対し、見事に反応し曹操軍は長江を渡る事が出来ませんでした。

黄蓋の火計

周瑜は初戦で曹操を破り、曹操は短期決戦を望みながらも打開策がありませんでした。

こうした中で、黄蓋が周瑜に対して次の様に述べています。

黄蓋「初戦で曹操軍は破りましたが、長期戦になれば兵数が少ない我らが不利となるでしょう。

曹操軍を見るに、船の船首と船尾が繋がっており、焼き討ちを掛ければ勝利する事が出来るはずです。」

周瑜は黄蓋の策に賛同し、黄蓋は曹操軍の警戒を解くために、降伏の手紙を曹操に送る事になります。

この時の黄蓋の手紙には「呉は降伏する予定だったのに、周瑜と魯粛が反対した事で決戦となった。」と述べています。

曹操は怪しみ使者に対して、様々な質問をしますが、使者が巧みに答えた事で、曹操は黄蓋の降伏を信用しました。

三国志演義には周瑜が黄蓋に鞭を打つ苦肉の計がありますが、正史三国志に苦肉の計があったとする記述はありません。

周瑜は駆逐艦である蒙衝や戦艦である闘艦を十隻ほど選び出し、焚き木を詰め込み、曹操軍に突撃させたわけです。

黄蓋は火計も実行し、強風が吹いた事で曹操軍の全ての船に火が移った話があります。

尚、三国志演義では大規模な火計が起こり曹操軍は壊滅した事になっていますが、史実では火は直ぐに鎮火されてしまったとも考えられています。

しかし、曹操は数少ない船を失ってしまったのは大きな損害であり、撤退を決意する事になります。

後に劉備が陸遜に敗れた時に、劉備軍の戦死した将軍が大量に出ているのに、曹操軍で特に大将格が戦死していない事もあり、赤壁の戦いは規模が小さかったとも考えられています。

それでも、周瑜が曹操を破った事は事実であり、曹操は周瑜により天下統一の野望を砕かれた事になるでしょう。

南郡攻防戦

赤壁の戦いに敗れた曹操は北方に撤退しますが、荊州を棄てたわけではなく、曹仁に襄陽を守らせ、徐晃、満寵には当陽・漢津を守らせました。

周瑜は荊州を手に入れる絶好の機会だと思い、荊州に向けて進軍します。

劉備軍の戦闘に参加

赤壁の戦いでは、先に述べた様に劉備の助太刀はいらないと拒否しましたが、荊州の南郡攻防戦では劉備軍の参戦を許しています。

周瑜が劉備を参戦させた理由は、劉備は北方で数多くの戦いの場数を踏んでいた事が原因でしょう。

劉備は海戦では役に立たなくても、陸戦であれば十分に役立つと周瑜は考えたはずです。

尚、劉備の配下には、郭嘉に兵一万に匹敵すると言われた関羽と張飛がいた事も、周瑜が劉備の参戦を望んだ理由でもある様に感じます。

劉備も周瑜に「二千の兵を貸して欲しい。」と願い、代わりに張飛と千の軍勢を貸し出そうと提案した話があります。

劉備はさらに、夏水から侵攻し曹仁の退路を断とうとも、周瑜に進言しました。

周瑜は劉備に二千の兵を貸し与えた話があります。

周瑜は曹仁が守る江陵城を包囲しました。

曹操側の策略

曹操は北方に撤退しましたが、荊州を守る為の策は用意していました。

劉備配下の関羽は北方の漢津を攻撃しますが、徐晃と満寵が防いだ事で戦いは硬直化します。

さらに、曹操は劉璋にも手を回し益州や荊州南部で不穏な動きが出ます。

実際のこの時の劉璋は、曹操に味方する様な動きを見せています。

周瑜は劉璋に対しても、動かねばならぬ必要性が出てきたわけです。

甘寧を夷陵に派遣

益州方面に対し、甘寧が自分に千の兵を率いさせて、夷陵に行かせて欲しいと願います。

周瑜は甘寧の進言を聴き入れ、甘寧を夷陵に派遣する事にしました。

甘寧は益州の出身であり、地理にも詳しく名も通っていた事を周瑜は期待したのでしょう。

曹仁は名将と呼んでもよい人物であり、甘寧が守る夷陵に六千の兵を派遣しました。

甘寧は最初のうちは、平然と周囲と談笑していた話がありますが、最後は周瑜に援軍要請しています。

周瑜配下の呂蒙が淩統だけを残し、全軍で甘寧を救いに行くように進言します。

呂蒙は甘寧と淩統の関係がよくない事を悟り、周瑜に淩統だけを残す様に言ったのでしょう。

周瑜は呂蒙の進言を受け入れ、全軍で甘寧の救援に行き、夷陵の包囲を解く事に成功しました。

周瑜は江陵に再び戻り、曹仁と戦う事になります。

周瑜が負傷

正史三国志に夷陵の包囲が解けると、周瑜の軍と曹仁の軍が日にちを定め、正面からぶつかりあった話しがあります。

周瑜はこの時に自ら馬にまたがり、敵陣に乗り込んだ話があります。

しかし、周瑜は左の鎖骨に流れ矢が当たってしまい負傷してしまいます。

周瑜の怪我が酷かった為に、周瑜は陣営に引き上げました。

周瑜は兵士を鼓舞する為にやったと思われますが、最悪の結果となってしまったわけです。

曹仁は周瑜が負傷し起き上がれないと知り、兵士達を率いて呉軍に突撃を仕掛けています。

この時に周瑜は自らを奮い立たせ、軍営の中を見回り軍吏や兵士達を奮い立たせた話があります。

曹仁は周瑜の陣の守りが固いと知り、兵を退かせています。

尚、周瑜の死因は病死とされていますが、この時の傷が元で亡くなってしまった可能性がある様に思います。

曹仁の奮戦

曹仁は部下の牛金に精鋭三百を率いさせて、呉軍と戦わせています。

この時に牛金は、呉軍に包囲されてしまい窮地に陥ります。

牛金の危機を見た曹仁は、数十騎を引き連れて城外に出て、呉軍を蹴散らし牛金を救い出したています。

曹仁の働きには、周瑜や呉の将軍たちも驚いた事でしょう。

これを見ても、曹仁は采配だけではなく、己の武勇も圧倒的に優れていた事が分かります。

尚、曹仁は曹操配下で騎馬隊を扱う事が多く、水軍では呉に及ばなくても、騎馬を縦横無尽に走らせる事においては、曹仁は呉軍を圧倒していたのでしょう。

南郡を制圧

曹仁が奮戦し、周瑜も負傷しながらも江陵の包囲を続ける事になります。

周瑜は1年ほど江陵を攻め続けて、遂に曹仁は北方に撤退しました。

さらに、劉備軍が荊州四英傑とも呼ばれる劉度趙範金旋韓玄を破る活躍を見せています。

これにより周瑜は荊州の南部を制圧する事になります。

周瑜は荊州の南部を手に入れた功績により、偏将軍・南郡太守に任命されています。

尚、周瑜に敗れた曹仁が、後に樊城の戦いで于禁、龐徳らが樊城の援軍に失敗する中で,城を守り抜いたのは「周瑜に江陵を抜かれた屈辱を再び味わいたくない」と考え守り抜いたのかも知れません。

因みに、劉備は劉琦が209年に亡くなった時点で、荊州牧の地位を継ぐ事になります。

荊州の領有権

周瑜は江陵に駐屯する事になり、劉備は公安に駐屯し荊州牧として幕府を開く事になります。

劉備は孫権に荊州南部の四郡を貸して欲しいと頼み込みます。

孫権は劉備の言葉に大いに悩み周瑜、魯粛、呂範らで話し合う事になります。

魯粛が荊州四郡を劉備に貸し与える方針を示し、結局は劉備に荊州の四郡を任せる事にしました。

荊州の四郡を劉備に任せるのは、後の事を考えれば、禍の種を撒いたと悪手に思うかも知れません。

しかし、当時の呉は後漢の朝廷から、まともな役職を貰い受けてはいませんでした。

孫権自体も会稽太守でしかなく、刺史や州牧に任命されたわけでもなく、雑号将軍の討虜将軍でしかありません。

後漢王朝からの役職が低いと配下の者に与える役職の制限がかなりきつく、軍事トップの座にいる周瑜自身も偏将軍でしかありませんでした。

それに対して劉備は荊州の牧であり、左将軍だったわけです。

孫権は勢力は大きいが官職が手に入っていない状態であり、逆に劉備は勢力は小さいが後漢王朝の高官だった事になります。

この様な事情から劉備に後漢王朝の朝廷に上奏して貰い、孫権の役職を高めて貰う必要があったわけです。

役職に価値があるのか?と考えるかも知れませんが、役職が増せば統治を行う大義名分になりますし、配下の役職を上げる事が出来るなどのメリットがありました。

呉は豪族の力が強いと言われますが、豪族たちを抑え込む為の大義名分としても、後漢王朝の役職は必要だった話があります。

劉備は荊州の四郡を貸して貰い、孫権を朝廷に徐州刺史と車騎将軍代行に推薦しています。

劉備を危険視する周瑜

劉備が京に行き孫権に目通りした時に、周瑜は次の様な事を孫権に上訴しています。

「劉備は梟雄であり、配下には関羽、張飛などの武将がおり、いつまでも人の下で立っている人物ではありません。

劉備を野放しにするのは危険であり、呉に移し豪勢な宮殿を建てて美女や珍宝を多数集め、劉備を骨抜きにすべきです。

さらに、関羽と張飛を別々の地区に配置し、私の様な者が関羽と張飛を使えば、呉の天下がやって来る事でしょう。

劉備にみだらに土地を貸し与え、劉備、関羽、張飛を国境の近くに配置する事は危険極まりない事です。」

孫権は劉備が危険だと判断しながらも、北方には曹操の軍勢がおり、天下の英雄を養って置く必要があると考え、周瑜の進言を聞く事はありませんでした。

孫権自身が何をしても、劉備は離れて行くと考え、周瑜の言葉を聞かなかった話もあります。

この当時の周瑜の部下には龐統がおり、後に龐統から劉備がこの時の周瑜の計画を聞きゾッとした話があります。

天下二分の計

この当時の益州の牧は劉璋でしたが、北方に張魯がいるなど安定した状態ではありませんでした。

さらに言えば、劉璋配下の張松や法正なども劉璋を見限っていたわけです。

こうした中で、周瑜は孫権に次の様な進言をしています。

曹操は赤壁の戦いで敗れたばかりであり、兵を動員するだけの余裕がない。

孫瑜と共に益州に侵攻する。

益州を手に入れたら張魯がいる漢中を併呑する。

孫瑜が益州に残り馬超と同盟を結び曹操を挟撃。

周瑜が蜀から戻り、荊州の襄陽から北上し、曹操を追い詰めていく。

周瑜がした孫権への提案は、呉が三国志の蜀と呉を合わせた地域を手に入れ、北方の曹操軍に向けて進撃する策です。

孫権は周瑜の計画を受け入れ、周瑜は蜀を制圧する為の準備に入ります。

周瑜は江陵に戻ろうとしますが、巴丘で病気となり亡くなっています。

これにより、周瑜の天下二分の計は、夢の計画となったわけです。

周瑜の遺言

正史三国志の魯粛伝に周瑜の遺言が記載されています。

「天下は乱れており、私は日々憂慮しております。

劉備は公安と近くにおり、警戒すべき存在です。

魯粛は十分な知略を持ち、私の後任には適任となります。

魯粛を後任にしてくだされば、私が命を失っても、何も思い残す事はありません。」

周瑜は魯粛を後継者に指名した上で病死しています。

周瑜の最後

江表伝の周瑜の遺言には、蜀を手に入れる事が出来なかった無念さを語った上で、次の言葉があります。

「人として生まれた以上は、死は決して避けられないものです。

寿命が長寿か短命かは運命であり、ここで命が終わる事は後悔しませんが、志半ばでご命令を奉じる事が出来なくなってしまったのは心残りです。」

この後に江表伝では劉備の危険性や魯粛を後継者にする事を進言し、次の様に述べています。

「人が死のうとするとき、その言葉に邪意はないと言います。

私が申した事を実践してくれるのであれば、肉体が死んだ後も私が永遠に生き続ける事になります。」

江表伝の方が陳寿が書いた、正史三国志よりも感動的な、周瑜の最後となっていると言えます。

尚、周瑜の死を聞いた孫権は涙を流し、次の様に語った話があります。

孫権「公瑾(周瑜)殿は、王者を補佐する資質を持っていたが、思いもよらず短命に終わってしまった。

私は何を頼りにすればいいのであろう。」

孫権は周瑜に王佐の才があったと述べたのでしょう。

さらに、孫権は西暦229年に帝位に就き、呉の皇帝として即位しますが、次の様に述べています。

「周瑜がいなかったら、帝位に就けなかったであろう。」

孫権にとって、周瑜の功績は余りにも偉大だと考えたのでしょう。

余談ですが、三国志演義の周瑜が亡くなった時に「天はなぜ私と孔明(諸葛亮)を同じ時に生ませたのか。」と叫んで亡くなるシーンはフィクションです。

尚、周瑜や新選組の沖田総司などの早死にした人物は、英雄となり人気が出やすい傾向にあります。

因みに、周瑜に後継者を指名された魯粛は、過去に孫権に「帝位に昇れ」と進言した事もあり、周瑜の考えを最も理解していたのが魯粛だと考えていたのかも知れません。

呉の四大都督は周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜だと言われていますが、陸遜が軍事の最高責任者となるまでは、呉の軍事は周瑜の夢でもある天下統一を描いていた様に思います。

陸遜が軍事の責任者となると、地元豪族などへの配慮もあり、呉は守りの国へと容貌を変えて行った様に感じました。

周瑜は病死ですが、魯粛や呂蒙も病死であり、長江の流域になる湿地帯などから、疫病が発生しやすい地域だったのではないか?とも考えられています。

劉備による周瑜暗殺説

劉備による周瑜暗殺説が存在します。

劉備は諸葛亮が提唱する天下三分の計を目指して行動していました。

しかし、周瑜が蜀の地を取ってしまうと、劉備の勢力は益州に侵攻する事が出来なくなってしまいます。

実際に劉備は周瑜が亡くなった事で、益州に侵攻し蜀の国を建国しています。

それを考えると、周瑜の死で一番得したのは劉備という事になるでしょう。

それ故に「劉備による周瑜暗殺説」があるわけです。

しかし、劉備が周瑜を暗殺した形跡があれば、孫権は劉備を絶対に許してはおかないと考えられるはずです。

それを考えると、周瑜の死因は明らかに病死だったのではないか?と感じています。

個人的には劉備による周瑜暗殺説には否定的な立場をとっています。

周瑜の子孫

周瑜の子には、二人の男子と一人の女子がいた事が分かっています。

周瑜の子と言えば、周瑜と小橋の子ではないか?とも考えられますが、史書に母親の名前の記述はありません。

周瑜の娘は、呉の孫権の太子である孫登の妃になった話があります。

周瑜の娘が周瑜と小橋の娘であれば、かなりの美女だった可能性もあるでしょう。

周瑜の長男である周循は公主を娶り、騎都尉に任ぜられますが、若死にした話があります。

周循には、周瑜の風貌があった話があるので、周瑜に似ていたのでしょう。

周瑜の次男である周胤は興業都尉に任命され、皇女を妻に娶り千人の兵を預けられ公安に駐屯した話があります。

周胤は孫権が皇帝となった229年には、都郷侯に任ぜられていますが、罪を犯し島流しにされています。

この時に諸葛瑾と歩騭が連名で上訴し、周瑜の功績を語り、周胤を許す様に孫権に求めています。

諸葛瑾や歩騭は、楚漢戦争で劉邦に仕えた韓信、英布、蕭何らの例も出し、巧みに周胤を許す様に説得しました。

さらに、朱然や全琮も周胤を庇った事で、周胤は許される事になります。

ただし、孫権が周胤を許した頃には、周胤が病気で死亡していた話があります。

周瑜の子孫が周循と周胤で血筋が途絶えてしまったのかは定かではありません。

周瑜の兄の子である周峻は、周瑜の功績があった事を考慮され、偏将軍に任じ軍吏など千の兵士を預けた話があります。

周峻が死去すると、全琮が周峻の子である周護を部将に推薦した話があります。

しかし、孫権は周護の性格を問題視しており、用いなかった話があります。

尚、孫権は周瑜の子たちを重用しなかったとする指摘も存在します。

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宮下悠史

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