徐晃は正史三国志や後漢書、資治通鑑に登場する人物です。
正史三国志を見る限りでは、徐晃は生涯無敗の名将であり極めて能力が高い人物でした。
徐晃は無敗の名将と呼ばれる事から一部では「徐晃が最強」という人もいます。
三国志演義では徐晃は大斧をトレードマークにした武将となっていますが、史実の徐晃が大斧を使ったと言う記録はありません。
曹操に仕えると各地を転戦し、曹仁や満寵が籠る樊城を救援した時は、関羽を破り魏を救った功績があります。
徐晃は「長駆」の語源になっており、極めて髙い軍事能力を持っていた事は明らかでしょう。
尚、三国志演義の徐晃は司馬懿の孟達討伐に従軍するも、孟達に弓矢で額を射られて最後を迎えた事になっています。
孟達との戦いで徐晃が戦死した話は、三国志演義の創作であり、史実ではありません。
史実の徐晃の最後は病死です。
今回は魏の無敗の名将である徐晃を解説します。
正史三国志の魏書には張楽于張徐伝があり、下記の人物と共に収録され、徐晃伝の最後には朱霊の事も記録されています。
献帝の洛陽行きに同行
正史三国志によると徐晃は司隷河東郡楊県の出身だとあります。
徐晃は郡の役人となり車騎将軍の楊奉に従い賊を討伐するなどの功績を挙げ騎都尉に任命されました。
しかし、この時代は後漢末期であり大将軍の何進と十常侍の宦官が共倒れになると、董卓が実権を握る事になります。
董卓政権も長くは続かず王允と呂布により倒されますが、李傕と郭汜が実権を握りました。
李傕と郭汜は仲違いを起こし、長安が荒廃すると徐晃は主君の楊奉に献帝と共に洛陽に帰る様に進言したとあります。
献帝は楊奉らに守られてはいましたが、派閥争いなども多くあり苦難の旅となります。
献帝の洛陽行きに徐晃も同行していたわけです。
献帝は安邑まで来ると徐晃の功績を認め都亭侯にしたとあります。
徐晃は都亭侯にはなりましたが、この時の献帝は名前だけの存在にもなっており、徐晃の都亭侯も名前だけの存在だったはずです。
それでも、徐晃が従う献帝の一行は洛陽に到着しました。
尚、三国志演義の第13回で郭汜と楊奉が戦った時に、郭汜配下の崔勇を徐晃が大斧を使い一撃で倒した話があります。
しかし、崔勇は架空の人物であり、徐晃が崔勇を倒したのは史実ではありません。
曹操に仕える
正史三国志
洛陽は董卓により廃墟となっており、とても政治が行えるような状況ではありませんでした。
この様な状況になっても、董承や韓暹などは権力闘争を続ける事になります。
こうした中で徐晃は主君の楊奉に「曹操に帰服する様に」と進言しました。
徐晃の言葉を聞いた楊奉は、最初は徐晃の進言に従うつもりでしたが、後に気が変わり曹操に従うのは取りやめています。
こうした中で董承が曹操と連絡を取り、献帝は曹操により許昌に移されました。
曹操は後に楊奉がいる梁を攻撃しており、この時に、徐晃も曹操に仕える事になったわけです。
三国志演義
三国志演義での徐晃の曹操への仕え方は、ドラマチックな演出となっています。
曹操は荀彧の進言により、献帝を迎え入れ許昌に遷都する事にしました。
曹操は献帝を許昌に迎えますが、この時に曹操の行く手を阻んだ男がおり、これが楊奉配下の徐晃だったわけです。
徐晃は曹操に「天子を分捕り、何処に行くつもりだ」と罵ると、曹操は許褚に一騎打ちを命じます。
許褚と徐晃は50合ほど打ち合いますが、決着はつきませんでした。
曹操は徐晃の武勇に惚れ込み配下に加えたいと述べると、満寵が進み出て徐晃を説得しました。
満寵の「良禽は木を選び、賢臣は主を選ぶ」の言葉に心を動かされ、徐晃は曹操の配下に加わったわけです。
正史三国志に比べると、徐晃はドラマチックに曹操の配下に加わったと言えるでしょう。
尚、三国志演義では金旋における鞏志など降伏する時に、主君の首を手土産として持参する場合が多々あります。
しかし、徐晃の場合は三国志演義であっても主君である楊奉の首を曹操に届けるような事はしてはいません。
各地で功績を挙げる
巻と原武の賊を破る
曹操は徐晃に兵を与えると巻と原武にいる賊の討伐を任せました。
曹操にとってみれば、徐晃の能力を見定めたかったのでしょう。
徐晃は巻・原武の賊を打ち破り裨将軍に任命されたとあります。
曹操は徐晃の軍事能力に対し及第点を与え裨将軍としたと感じています。
呂布討伐
この時に、徐晃は別軍を率いて呂布配下の趙庶・李鄒らを降伏させる手柄を挙げています。
198年の曹操の呂布討伐では下邳の戦いで、曹操は荀攸や郭嘉の水攻めにより勝利していますが、徐晃は下邳の戦いの本戦には参加していなかったのでしょう。
呂布は部下の裏切りにより最後を迎えました。
尚、三国志演義では呂布配下の陳宮を徐晃が破るシーンがありますが、これは三国志演義の創作であり史実ではありません。
眭固討伐
正史三国志の徐晃伝によると徐晃は史渙と共に河内の眭固を斬ったとあります。
徐晃が史渙と共に眭固を斬ったのは、199年の事ですが、正史三国志を見ると曹仁、楽進、于禁も参戦している事になっています。
これを考えると、眭固討伐は曹操軍のオールスターとも言えるメンバーが終結した事になるでしょう。
眭固は袁紹と合流する前に、徐晃らにより敗れました。
劉備との戦い
眭固を討伐した199年は劉備が袁術討伐の名目で徐州に向かい離反した年でもあります。
徐晃は曹操に従い劉備を攻撃し破りました。
この時に、関羽が曹操に降伏し一時的に配下に加わる事になります。
尚、正史三国志の関羽伝の注釈・蜀記に「関羽と徐晃は昔から敬愛していた」とあります。
関羽は三国志では「めんどくさい性格」で有名ですが、徐晃とは気が合ったのでしょう。
徐晃は関羽が好むような気質を兼ね備えた人物でもあったはずです。
後に徐晃と関羽は対峙する事になります。
尚、関羽は徐晃を「大兄」と呼んでいた記録が蜀記にあります。
官渡の戦い
前哨戦
正史三国志の徐晃伝によると、徐晃が顔良を打ち破り、白馬を陥落させ延津の戦いでは文醜を打ち破ったとあります。
白馬の戦いで顔良を討った時に先鋒を任されたのは張遼と関羽でしたが、徐晃も従軍していたのでしょう。
尚、三国志演義では顔良が大暴れし、徐晃も大斧を持って一騎打ちをしますが、顔良に追い払われてしまった話があります。
しかし、三国志演義での徐晃が顔良に敗れるシーンは関羽を際立たせる為の想像でしかありません。
実際の徐晃が顔良に敗れたとする記述は、正史三国志には存在しないという事です。
顔良や文醜は荀攸の策で一撃で討ち取っていますが、徐晃の貢献度も高かったのでしょう。
曹操は徐晃を偏将軍に任命しました。
韓猛を破る
曹操軍は官渡まで退き袁紹と対峙する事になります。
官渡の戦いにおいては、徐晃は曹洪と共に濦彊の賊である祝臂を打ち破ったとあります。
当時は袁紹と曹操の官渡の本戦以外でも、各地で反乱が起きたりしており、徐晃は曹洪と共に討伐したという事なのでしょう。
さらに、徐晃は史渙と共に袁紹の輜重隊を指揮する韓猛を故市で破りました。
官渡の戦いと言えば、曹操が楽進と共に淳于瓊を斬り兵糧庫を焼いた烏巣の戦いが有名ですが、徐晃と史渙も韓猛を破り袁紹軍の兵站に打撃を与えたのでしょう。
徐晃伝には最大の功績を挙げて都亭侯に封じられたとあります。
都亭侯の謎
先に紹介しましたが、徐晃は献帝が長安を脱出し安邑まで辿り着いた時に、都亭侯に封じられています。
官渡の戦い後に徐晃は都亭侯に封じられていますが、これでは徐晃は二重で都亭侯になってしまった事となります。
徐晃の都亭侯問題に関しては、三国志集解に二つの説が掲載されています。
一つ目の説ですが、徐晃はあくまでも献帝から都亭侯に任命されたのであり、曹操から任命されたわけではないという事です。
つまり、献帝から都亭侯に封じられていても、曹操から封じられたわけではなく問題ないとする解釈となります。
二つ目の説が龐徳の伝に二重に都亭侯に任命されているケースがある事で、問題ないとする説もあります。
さらに言えば、徐晃を都亭侯に任命したのは誤りであり、徐晃は別の何処かの亭侯に封じられたのではないか?とする説もあります。
それでも、二重で書かれている事もあり、徐晃が都亭侯になった事だけは間違いなさそうです。
河北平定戦
韓範を降伏
曹操は邯鄲を守備する沮鵠を降すなど、鄴の周辺の城を攻略し審配に圧力を掛けたわけです。
こうした中で易陽の令をしている韓範が降伏を願いでました。
しかし、韓範は曹操に帰順せず、城の守を固める事になります。
曹操は徐晃を易陽に派遣しました。
徐晃は矢を易陽の城に射こみ、状況を説明し韓範を再び降伏させています。
さらに、徐晃は袁譚、袁尚が生きている事を理由に、曹操に韓範を寛大に扱う様に進言しました。
徐晃は韓範や易陽の民衆を皆殺しにしてしまうと、河北の他の城は守りを固め徹底抗戦するから、平定が難しくなると諭したわけです。
楚漢戦争で項羽が大量虐殺し、攻められた城は皆殺しにされるのを恐れ、徹底的に守備を固めた話しがあります。
同じ様な状況になる事を徐晃は危惧したのでしょう。
曹操も徐晃の進言を聞き入れ、韓範は関内侯にするなど寛大な処置を取りました。
尚、徐晃が韓範の事で説得した内容に関しては、韓範の記事の方で記載してあります。
各地で勝利に貢献
徐晃伝によると徐晃は別軍を率いて毛城を攻撃したとあります。
徐晃伝には記載されていませんが、この時に毛城を守っていたのが尹楷です。
徐晃は伏兵を使い尹楷を破り三つの屯営を打ち破りました。
さらに、曹操の南皮攻めに参戦し、袁譚を討ち破るのに貢献し、平原の賊の討伐も行い戦功を挙げています。
袁煕と袁尚は北方にに逃亡し遼西烏桓の蹋頓は、袁氏の兄弟を匿いました。
蹋頓は曹操の軍と戦いますが、徐晃も従軍しており手柄を挙げて横野将軍に任命されています。
袁煕と袁尚は公孫康の元に逃げますが、公孫康が袁氏の兄弟を斬った事で北方は平定されました。
樊城の守備
曹操は北方を平定すると、荊州の劉表の攻略に取り掛かる事になります。
しかし、このタイミングで劉表が死去しました。
劉表が亡くなると劉琮が後継者となりますが、曹操に降伏する事になります。
孫権配下の魯粛が劉備と曹操の同盟を締結され、周瑜と曹操の間で赤壁の戦いが勃発しました。
徐晃は正史三国志を見る限りでは赤壁の戦いの本戦には参加しておらず、荊州北部の樊城に駐屯したとあります。
樊城に駐屯する徐晃は中廬・臨沮・宜城に賊の討伐に成功しました。
中廬・臨沮・宜城の賊がどの様なものだったのかは不明ですが、地域の不満分子だったか、孫権らに靡いた者達だったのかも知れません。
張遼や于禁も荊州北部の襄陽に駐屯しており、曹操は一族の者達を多くつれ、赤壁の戦いに挑んだわけです。
曹操としてみれば赤壁は最後の戦いとも据えており、張遼、于禁、徐晃、張郃らの名将たちよりも一族に花を持たせなかったのかも知れません。
しかし、曹操は周瑜に敗れ北方に敗走しました。
曹操が敗れた事で後方にいた徐晃、張遼、于禁らが孫権や劉備の軍と対峙する事になります。
漢津での戦い
曹仁、満寵、徐晃らは江陵を死守するべく守りを固めました。
呉でも周瑜、程普、甘寧、淩統などの猛者が江陵の城を抜くべく攻撃を仕掛けたわけです。
劉備は荊州四郡を抑えるべく荊州四英傑の討伐に向かい、周瑜は江陵の城を包囲しました。
この時に江陵と襄陽を繋ぐ漢津のが関羽に抑えられており、徐晃は満寵と共に漢津の制圧に向かいました。
漢津は江陵と襄陽の中間地点にあり、江陵を孤立させない為にも、何としても奪取しておきたい重要拠点だったわけです。
曹仁と周瑜は1年以上も対峙し、遂に曹仁は江陵を守り切れないと判断し北方に撤退しました。
しかし、退路には関羽がおり徐晃と満寵が関羽から退路を確保し、曹仁の軍を北方に避難させています。
徐晃は無敗の将軍とは言われていますが、この時には関羽から上手く勝利をもぎ取る事が出来なかったのではないか?とも言われています。
しかし、徐晃は曹仁の命を守る任務には成功しており、徐晃の敗北ではないとする見解もあります。
太原の反乱を鎮圧
南方から退いた後の徐晃は再び北方で転戦する事になります。
正史三国志の徐晃伝によると「建安15年(210年)に、太原の反逆者を討伐した」とあります。
太原の反乱では、大陵を包囲し陥落させ、首謀者の商曜を斬ったとあります。
商曜の乱ですが、正史三国志の他の部分を見る限りでは、徐晃は夏侯淵の指揮下として活躍した様です。
夏侯淵も機動力抜群の名将であり、徐晃の活躍も大きかったのでしょう。
後述しますが、夏侯淵のブレーキ役として徐晃が任命された可能性もあります。
潼関の戦い
先祖の墓を祀る
西暦211年になると、曹操が関中に侵攻するのではないか?とする懸念が持たれ馬超や韓遂が反旗を翻しました。
この時に馬超の父親である馬騰が殺害されています。
これにより潼関の戦いが勃発しました。
馬超と韓遂は関右で乱を起こし、曹操は徐晃を汾陰に駐屯させたとあります。
曹操は徐晃に河東の鎮撫を命じました。
徐晃は司隷河東郡楊県の出身であり、河東は地元でもある事から曹操はうってつけの場所に配置したと言えるでしょう。
この時に、曹操は牛と酒を賜わり徐晃の先祖の墓を祀らせたとあります。
曹操は徐晃への労いの気持を持ちから、先祖の墓を祀らせたのでしょう。
蒲阪津を渡る
曹操は潼関に到着しますが、黄河を渡る事が出来ないのではないか?と考え徐晃に相談しました。
徐晃は次の様に答えています。
※正史三国志 徐晃伝より
徐晃「公(曹操)は、この地点で兵の多さを見せつけております。
それなのに、敵は別動隊を出し、蒲阪を守備しているのです。
これを見るに涼州勢の思慮の無さが分かります。
私に精鋭を貸して頂ければ、蒲阪津を渡河し我が軍の為に陣営を設置し、敵の背後を断つ様に致します。
そうすれば、賊を容易く捕らえる事が出来ます」
徐晃は曹操に精鋭部隊を指揮し、蒲阪津から黄河を渡ると述べたわけです。
曹操は徐晃の意見を聞くと「もっともだ」と答え、徐晃に四千の歩兵と騎兵を与え、北方から迂回し蒲阪津を渡らせました。
この時の徐晃の軍には朱霊もいた事が分かっています。
徐晃が渡河し塹壕と木の柵の防衛の陣地を設置している最中に、涼州勢の梁興が五千の兵で攻撃を仕掛けてきました。
この時は、夜間での戦いでもあった様で、梁興の夜襲とも考えられますが、徐晃は冷静に対処し梁興の軍を撃退しています。
徐晃の活躍もあり曹操の本隊も黄河を渡河する事になります。
潼関の戦いは賈詡の離間の計も冴えわたり、曹操が馬超、韓遂らを主力とする涼州連合を破りました。
夏侯淵と奮戦
曹操は徐晃と夏侯淵に隃麋・汧にいる様々な氐族を討たせました。
この時の状況を考えれば夏侯淵の指揮下に、徐晃が入り戦ったという事なのでしょう。
夏侯淵と徐晃は曹操の与えた任務を達成し、曹操と安定で落ち合いました。
曹操は東の孫権を征伐する為に、鄴に戻りますが、徐晃は夏侯淵と共に西方に残り、鄜と夏陽の賊を討伐し平定しています。
この時に、徐晃は梁興を斬り三千余の家を降伏させるなどの手柄を挙げています。
連戦連勝
正史三国志の徐晃伝によると、徐晃は曹操の張魯征伐に付き従ったとあります。
しかし、徐晃は曹操と張衛の陽平関の戦いには参加した記録がなく、各地の反乱分子らを平定していく事になります。
曹操は徐晃に別動隊を与え、櫝・仇夷の様々な氐族を討伐しました。
徐晃は氐族の全てを降伏させ、平寇将軍に昇進しています。
さらに、徐晃は張順の包囲を解き、賊の陳福ら三十余個所の屯営を攻撃し、全て打ち破ったとあります。
これを見る限り徐晃は連戦連勝であり、大きな手柄を挙げたと言えるでしょう。
曹操も張魯討伐を成し遂げました。
この時に劉備は既に劉璋から蜀を奪い取り益州の主となっており、司馬懿らは益州への侵攻を進言しますが、曹操は「隴を得て蜀を望む」の言葉を残しています。
曹操は光武帝に倣い益州を侵攻しなかったわけです。
曹操は鄴に帰還しますが、徐晃、夏侯淵、張郃らに西方を任せました。
曹操が徐晃を絶賛
曹操は西方を夏侯淵や徐晃に任せましたが、陽平関に劉備が侵攻してきました。
夏侯淵、張郃、徐晃らは曹操の本軍が到着するまでの間、劉備の侵攻を防ぐ事になります。
劉備は張飛と馬超を武都に派遣し、曹休、曹洪らとの戦いが勃発しています。
武都の戦いとは別に、劉備は陳式ら十余の軍営の兵を派遣し、馬鳴閣街道を断ち切りました。
徐晃は陳式の動きに対応し、別動隊を率いて打ち破る事になります。
この時の徐晃の軍は大勝し「賊は山谷に身を投げる者が多かった」と記録されています。
徐晃が蜀軍を追い詰め、蜀軍は谷に身を投げてしまった者が多かったという事なのでしょう。
曹操は徐晃の活躍を聞くと多いに喜び軍権のしるしでもある節を与え、次の様に布告ました。
※正史三国志 曹操伝より
曹操「この閣道は漢中の要害であり、のどに当たる部分でもある。
劉備は外と内とを断絶し漢中を奪おうとした。
将軍(徐晃)は一度の戦いで賊の計画を挫いてくれた。
善の中でも最善と言えるであろう」
曹操は徐晃を絶賛したわけです。
しかし、漢中攻防戦の方では定軍山の戦いで法正や黄忠により、主将の夏侯淵が討たれてしまいました。
曹操も陽平関にまでやってきますが、劉備が固く守った事で引き上げる事になります。
徐晃の活躍はありましたが、結果論で言えば曹操は漢中を失いました。
劉備は魏延を漢中太守に抜擢し守らせています。
樊城の戦い
勢いに乗る関羽
劉備が漢中王に即位すると、荊州の関羽が北上を始め曹仁や満寵が籠る樊城を包囲しました。
曹操は于禁と龐徳を樊城への援軍に差し向けますが、関羽は天候を味方につけた事もあり、于禁、龐徳の軍を破っています。
樊城の戦いでは関羽が戦いを優位に進めますが、曹操は徐晃を援軍として派遣しました。
徐晃は宛に駐屯する事になります。
関羽の軍は于禁を水没させた事で勢いに乗り、襄陽の呂常も包囲する事になります。
この時に曹操は関羽を恐れ北に遷都しようかと考えた程でした。
曹操は何度か危機がありましたが、最後にして最大の危機が訪れたわけです。
徐晃の軍は新兵が多く関羽と決戦を行うのが難しいと判断し、決戦を控え陽陵陂に駐屯しました。
徐晃は直ぐに動かず趙儼の進言に従い、曹操からの援軍を待つ事になります。
曹操は呂建・徐商を徐晃への援軍とし「兵馬が集結したら前進せよ」と命令しました。
偃城を奪取
徐晃はまず関羽軍の偃城を落す事に着手しました。
徐晃は偃城に到着すると敵を欺く手段として、塹壕の道を作り敵の背後を断ち切ろうとする構えを見せています。
偃城に対し徐晃は兵站を断ち切るかの如く、動揺を誘う動きをしたわけです。
偃城は陣地を焼き払い退却しました。
この時の徐晃の軍は新兵が多いと言えど大軍となっており、偃城は耐え切れないと判断し兵を引いたのでしょう。
徐晃は偃城を手に入れると、両面に陣営を連ね徐々に前進し、関羽の包囲陣から三丈ほどの場所まで来ました。
曹操も徐晃が敗れれば魏が崩壊する可能性があると考えており、殷署・朱蓋ら12の部隊を徐晃への援軍としています。
この時の徐晃は魏の命運を掛けて関羽と戦う事になったわけです。
尚、曹操の方でも外交により現状の打破を考えており、司馬懿や蔣済の進言を聞き入れ孫権と同盟を結ぶべく動く事になります。
関羽の軍と対峙
関羽の軍は囲頭と四冢の屯営を築いていましたが、徐晃は囲頭を攻撃する振りをした上で、四冢を屯営を攻撃しました。
こういう状況においても、直ぐに樊城の救援をしようとせず、策を考案するのは徐晃の智謀の髙さだと言えるでしょう。
関羽は徐晃が四冢を攻撃している事を知ると、自ら歩兵・騎兵五千を率いて援軍に向かっています。
味方によれば徐晃は関羽を釣り出したとも言えます。
ここにおいて、関羽と徐晃が雌雄を決する事になりました。
ただし、この時の関羽の本隊は樊城を包囲しているのであり、関羽本人が指揮する軍とは言え五千の兵士しか避けなかったのでしょう。
徐晃と関羽の兵力さで考えれば、新兵も多いとはいえ、徐晃が圧倒していたはずです。
徐晃と関羽
正史三国志の注釈・蜀記に関羽と徐晃が対峙した時の逸話が掲載されています。
蜀記によると関羽と徐晃は昔から互いに敬愛しあっていたと言います。
関羽と言えば味方の糜芳や傅士仁、潘濬を嫌うなど、気難しい性格をしていた人物です。
しかし、関羽は徐晃に対し敬意を表しており、徐晃には偉丈夫としての気風があったのでしょう。
徐晃と関羽は遠くから話し合いましたが、徐晃は世間話をしただけであり、戦いに関しては一切の話をしませんでした。
関羽は徐晃の姿を見て「戦いは避けられるかも知れない」と思ったのかも知れません。
ここで徐晃は下馬しますが、軍に対し次の様に命令しました。
※正史三国志 関羽伝・注釈蜀記より
徐晃「関雲長の首を取った者には千斤の賞金を授ける」
関羽は徐晃の言葉に驚き「大兄、これはどういう事だ」と聞き返しました。
すると、徐晃は次の様に答えています。
徐晃「これは国家の事なのである」
徐晃は関羽との私事よりも国家を優先すると宣言したわけです。
ここにおいて関羽と徐晃の戦いの火蓋が切られました。
樊城の包囲を解く
徐晃は関羽の軍を攻撃しますが、関羽は退いたとあります。
徐晃と関羽は共に名将と呼ばれた人物ではありますが、この時の関羽軍の兵は五千しかおらず、徐晃の軍に対し持ちこたえる事が出来なかったのでしょう。
関羽を退却させた徐晃は追撃を行い、包囲陣の中にまで侵入し、これを打ち破ったとあります。
この時点で曹仁や満寵など樊城守備隊は救われたと言えるでしょう。
関羽軍の兵士の中には自ら沔水に飛び込み命を落とした者もいたとあります。
関羽の北上は魏を震撼させましたが、徐晃の働きが魏を救ったと言えます。
樊城の戦いは徐晃の最大の見せ場でもあったはずです。
尚、徐晃に敗れた関羽は本拠地の荊州南部に戻ろうとしますが、既に呉の呂蒙や陸遜が糜芳や傅士仁を降伏させており退路は断たれました。
関羽は孫権軍の捕虜となり斬首されています。
長躯の語源
曹操は徐晃の活躍を聞くと、次の様に述べています。
※正史三国志 徐晃伝より
曹操「賊の包囲の塹壕やさかもぎは、十重もあったが、将軍(徐晃)は攻撃を仕掛けるや全てに勝利した。
賊の包囲陣を破り多数の首を斬っている。
儂は兵を用いて30年は戦ったし、古代の用兵が巧みなものであっても、長躯して敵の包囲陣を真っすぐに突破した者はいない。
さらに、樊城や襄陽が包囲された時の状況は、戦国時代に燕の大軍に包囲された莒や即墨よりも酷かった。
将軍の功績は孫武や司馬穰苴以上である」
曹操は樊城の戦いでの状況が戦国時代に燕の楽毅に包囲された莒や即墨よりも状況が悪かったのに、それを救った徐晃を讃えたわけです。
曹操は徐晃を孫武や司馬穰苴よりも上だと述べ、最大限の評価をしました。
徐晃は樊城を救うと凱旋し、摩陂に戻る事になります。
曹操の喜び
徐晃は摩陂に戻りますが、この時の曹操は七里先まで出迎えたとあり、曹操の喜びの大きさが分かります。
曹操は徐晃を労う為に大宴会を開き、杯を挙げて徐晃に酒を勧め労ったとあります。
曹操は徐晃に対し、次の様に述べました。
※正史三国志 徐晃伝より
曹操「樊と襄を保持する事が出来たのは、将軍の手柄である」
この時に諸軍は全て揃っており、曹操は軍内を巡察しました。
士卒は全て陣から離れて見物していましたが、徐晃の軍は整然として整い、将兵は陣に留まったまま動かなかったとあります。
曹操は徐晃の軍を見て感嘆し、次の様に述べました。
曹操「徐将軍は周亜夫の風格がある」
周亜夫は前漢の周勃の子で呉楚七国の乱を鎮圧した将軍です。
曹操は徐晃の能力を評価し、最大限の賛辞を贈りました。
尚、曹操はこの後に1年もしないうちに亡くなってしまいますが、曹操が天寿を全う出来たのは徐晃のお陰でもあります。
徐晃のその後
曹操が亡くなると曹丕が魏王の位に就きました。
曹丕は徐晃を右将軍とし、逯郷侯に封じました。
曹丕は後に後漢の献帝から禅譲により皇帝となりますが、徐晃を故郷である楊県を封じ、楊侯に昇進させています。
徐晃は曹丕の時代になっても重用されたと言うべきでしょう。
徐晃は曹丕の代になっても戦場に立ち続け、夏侯尚と共に上庸を攻撃し、これを打ち破ったとあります。
徐晃と夏侯尚が上庸を攻めた戦いは孟達が魏に寝返り、孤立した劉封を破った戦いを指すはずです。
ここで曹丕は徐晃に陽平を鎮護する役目を与え、陽平侯に国替えしました。
曹叡が即位すると、徐晃は呉の諸葛瑾の侵攻を防いだとあります。
この功績により徐晃は二百戸を加増され合計で三千百戸になりました。
明帝の時代には徐晃は既に30年は戦場にいたはずですが、戦い続けたと言えるでしょう。
徐晃の最後
正史三国志
正史三国志によると、徐晃は病気になると「平服のままで葬って欲しい」と述べていたと言います。
しかし、徐晃も病には勝てず、227年に死去したとあります。
徐晃は壮侯と諡されました。
曹叡が即位したのは226年であり、曹叡が皇帝になってから早い時期に徐晃は亡くなってしまったと言えるでしょう。
227年は諸葛亮の第一次北伐の年でもあり、三国志では新たなる時代の幕開けでもあります。
こうした時期に、徐晃は最後を迎えたと言えるでしょう。
徐晃の子には徐蓋がおり、徐蓋が後継者となりました。
徐蓋が亡くなると徐覇が後継者となります。
曹叡は徐晃の領地を分割し、子孫二人を列侯に取り立てたとあります。
尚、徐晃の子孫である徐蓋と徐覇の記録は、正史三国志には徐晃の子孫くらいしか残っておらず、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
徐晃は魏の3代目皇帝である曹芳の時代に、魏の建国の功臣として、下記の人物と共に曹操の霊廟に祀られました。
三国志演義
三国志演義の徐晃ですが、畳の上で死なせてもらう事は出来ず、戦場で亡くなった事になっています。
諸葛亮の第一次北伐が始まると、孟達は蜀に寝返る事になります。
司馬懿が孟達の討伐に出かけますが、この時に先鋒を任されたのが徐晃です。
徐晃は孟達の新城に迫りますが、孟達の矢を額に受け戦死しました。
孟達は蜀での居心地が悪くなると魏に寝返り、魏でも曹丕が崩御し居心地が悪くなると蜀に寝返るような人物です。
その孟達に射殺されてしまった事にされた徐晃は不運としか言いようがないでしょう。
三国志演義の徐晃の最後が悲惨なものにされてしまった理由は、民間で大人気である関羽との戦いにおいて大活躍してしまったのが原因なのかも知れません。
しかし、三国志演義で徐晃が孟達により射殺されたとするのは、史実ではありません。
徐晃の評価
徐晃の三国志演義で曹操を罵り大斧を武器とし、許褚と一騎打ちをするシーンを見ると、血の気の多い人物に見えるかも知れません。
しかし、正史三国志の徐晃を見る限りでは、沈着冷静な人物であるという事が分かるはずです。
夏侯淵の補佐として徐晃や張郃を任命したのは、血気盛んな夏侯淵を宥める意味もあったのでしょう。
正史三国志で陳寿は、徐晃の性格に関しての述べており、陳寿によると徐晃は慎ましく慎重な性格であり、軍を率いた時は遠くまで偵察を出していたと言います。
徐晃は無敗の名将とは言われていますが、実際には戦いに敗れた時の事も考えており、備えが十分になってから戦ったとあります。
負けた時の備えが十分に用意されていた事から、戦場に対し全力で挑めたのかも知れません。
ただし、徐晃が追撃戦を行う場合は、兵士達は食事をとる間も無かったそうです。
さらに、徐晃は常々、次の様に述べていたと記録されています。
※正史三国志 徐晃伝より
徐晃「古の人たちは、明君に出会えない事で苦しんだが、今の自分は明君に仕えている。
それならば、全ての能力を出し切り仕えなければならない。
どうして、個人の名声などを問題としようか」
徐晃は交友関係を拡げたり、後ろ盾を作ったりしなかったとあります。
個人の名声を求めない姿を見て、関羽は徐晃を評価し「大兄」と呼んだのかも知れません。
曹操に対しての戦の功績で評価され、周りを黙らせるのが徐晃だったのでしょう。
徐晃の人柄も評価できるはずです。