名前 | 袁紹(えんしょう) 字:本初 |
生没年 | 生年不明ー202年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
一族 | 父親:袁成?? 子:袁譚、袁煕、袁尚 |
年表 | 190年 反董卓連合を結成 |
191年 界橋の戦い | |
197年 大将軍となる | |
199年 公孫瓚を滅ぼす | |
200年 官渡の戦い | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
袁紹は正史三国志や後漢書に、登場する人物であり名族としても有名です。
袁術と同じく汝南袁氏の家柄であり四世三公を輩出した名門でもあります。
袁紹は曹操に官渡の戦いで破れ、袁譚と袁尚の後継者争いを招いた事もあり、優柔不断だと思われがちです。
しかし、実際の袁紹を見ると優柔不断どころか、かなり果断に行動している部分も見受けられます。
袁紹が曹操に官渡の戦いで敗れた事で袁氏は衰退したとされる事も多いですが、実際には袁紹が生きている間は、曹操も袁紹から土地を奪うことは出来ませんでした。
今回は河北四州を平定した北方の雄と言うべき袁紹を解説します。
名門の出身
正史三国志・袁紹伝によると、袁紹の字は本初であり、豫州汝南郡汝陽県の人だとあります。
高祖の袁安は後漢王朝の司徒にまで昇進し、汝南袁氏と呼ばれる一族は袁安以降も代々後漢王朝の高官を務め繁栄しました。
後漢袁氏は袁紹や袁術の時代には、天下に対して強い影響力を持っていたわけです。
(汝南袁氏家系図より一部抜粋)
袁紹の出自なのですが、王粲の英雄記の記述では袁成の子となっており、袁術とは従弟の間柄となります。
本来なら袁成が汝南袁氏の後継者となり、袁紹に後継者の座が回って来るはずでしたが、袁成は若くして亡くなってしまい弟の袁逢(袁術の父)が後継者に選ばれました。
ここが汝南袁氏の分裂原因であり、袁紹にとってみれば父親が早くに亡くならなければ、自分が汝南袁氏の文句なしの頭領だったと考えてもおかしくはないでしょう。
ただし、袁逢、袁隗は兄の子である袁紹を可愛がった話もあります。
尚、魏書には「袁紹は袁逢の庶子であり袁成の養子になった」とする記述があり、これが真実であれば袁紹と袁術は腹違いの兄弟ということになります。
今となっては英雄記の記述が正しいのか、魏書の記述が正しいのは分からない状態です。
袁紹の出自に関しては、謎が多いと言えます。
袁紹の人柄
袁紹は正史三国志によれば堂々とした威厳がある風貌をしており、身分に拘らず人と遜って付き合うことが出来たと言います。
こうした袁紹の人柄もあり、多くの人が袁紹の元に身を寄せたました。
袁術も多くの人から注目されていましたが、袁術の元には来ない様な人でも、袁紹とは付き合った話まで存在します。
袁紹の注目が集まったのは、汝南袁氏の分裂を現わしているとも言えます。
若き日の袁紹と曹操は交流があった話もありますが、花嫁を盗みだした話もあり、悪友でもあったのでしょう。
曹操は蔡瑁ともつるんで悪さをしていた話しもあり、袁紹と蔡瑁も交流があったのかも知れません。
6年間喪に服す
英雄記によると、袁紹は若くして郎に取り立てられ20歳の時には濮陽の長になったとあります。
ここでの袁紹の仕事ぶりが評価されたのか、清廉だとする評価が立てられたと言います。
しかし、袁紹は母親の喪に服すために官位を去り、母の喪が終わると、今度は遡って父親の喪に服したと言います。
袁紹は墓の近くの小屋で6年間も過ごした話もあり、世間からは変わり者として見られていたのかも知れません。
ただし、別の見方をすれば6年間は何もせず、世の中を観察し牙を研いでいたとも感じました。
喪礼の期間が終わると袁紹は洛陽に隠れ住む様になり、むやみに賓客とは会わず、天下で名が知れ渡っていた人とだけ面会したとあります。
若い頃の袁紹は誰とでも気さくに接したのかも知れませんが、誰とでも親しくするのは限界があり、これといった人物としか会わなかったのかも知れません。
しかし、張邈、何顒、許攸、伍瓊、呉巨らの名士とは交流を持ち「奔走の友」となり交わりを結んだとあります。
ただし、袁紹は仕官に応じる事は無かったわけです。
何進に仕える
当時は霊帝の時代であり宦官の張譲や趙忠などが絶大なる権力を持っていました。
趙忠は袁紹の行動を怪しみ宦官たちに「袁本初は命知らずの連中を集め、召しても応じず何か企んでいるに違いない」と怪しまれる事になります。
袁紹の叔父の袁隗が「お前の行動が袁氏を滅ぼす事になる」と注意した事で、袁紹は重い腰を上げて仕官する事としました。
袁紹が仕えたのが大将軍の何進であり、何皇后の外戚に当たる人物です。
何進は肉屋をやっていましたが、何皇后が霊帝の妃になった事で大出世を果たした人物であり、袁紹も何進に何らかの興味を持ち仕官したのではないか?とする説もあります。
尚、張角が引き起こした黄巾の乱の時に袁紹が兵を率いた記録もなく、何をしていたのか分かっていません。
大将軍・何進の側におり何かしらの進言を行っていた可能性はあるはずです。
さらに、霊帝が西園八校尉と呼ばれる皇帝直属の部隊が創設されると、袁紹も西園八校尉の隊長の一人に選ばれました。
西園八校尉(山陽公載記)は曹操など下記に人々が部隊長に選ばれています。
宦官撲滅
霊帝が崩御すると、不穏な空気が流れる様になります。
袁紹は張津を派遣し宦官が天下の害になっている事を説き、何進と協力しあう関係となります。
この当時の何進の一番の部下が袁紹だったとも言えます。
何進と袁紹は宦官撲滅の為に動きますが、何皇后は宦官により妃になった経緯があり、宦官根絶には反対でした。
そこで何進と袁紹は四方の軍勢を都に集結させ、何皇后に圧力を掛け、力づくでの宦官排除を決行しようとします。
この時に西涼から董卓が都にやってくる事になり、これが後漢王朝への禍となります。
宦官たちは各地の軍勢が都に集まってくる事を知ると、何進に詫びますが、袁紹は再三に渡り「この機会に宦官を撲滅すべし」と訴え掛けました。
しかし、何進は宦官らが詫びた事で、袁紹の宦官撲滅策を許可する事は無かったわけです。
それでも、何進は袁紹や袁術に兵を与え洛陽の宦官を取り締まらせたり、禁中の警護を宦官に変わらせたりもしています。
何進の考えとしては穏便に宦官たちを、退去させたのかったのでしょう。
しかし、宦官たちは恐れを抱いたのか何進を参内させ暗殺してしまいました。
袁紹は過去に何進に「危険ですから一人で宮中には行ってはなりません」と釘を刺しておいた話もありますが、何進は宮中に行き暗殺されてしまったわけです。
何進の死を聞いた袁紹、袁術らは宮中に雪崩れ込み宦官たちを皆殺しにするべく動きだします。
さらに、盧植らも宦官撲滅の為に行動に移した話があります。
袁紹は宦官に恩があった許相を斬り、徹底的に宦官撲滅を果たしました。
袁紹と袁術により真面目に仕事をこなしていた善良なる宦官も命を落したとあります。
しかし、段珪が少帝と陳留王を連れて逃亡し、最終的に董卓が少帝と陳留王を保護しました。
これにより董卓政権が後漢王朝で誕生する事になります。
董卓との対立
董卓は何進、何苗、丁原などの兵力を吸収し短期間で一大勢力となりました。
後漢王朝内では董卓に逆らえる者はおらず、董卓は皇帝を少帝から陳留王に変更しようと考え袁紹に相談する事になります。
正史三国志の本文では、袁紹の叔父の袁隗は太傅であり、そういった事情から袁紹は表向きは董卓の意見に賛同を示したとあります。
さらに袁紹は「これは重大な事であり太傅に相談する必要があります」と述べ、董卓が「劉氏の血統など残す事もない」と述べ、袁紹は会釈して去ったと記録されていました。
正史三国志の記述からは袁紹は董卓に対し、面と向かって意見を言えない様な存在です。
しかし、献帝春秋には別の話が掲載されています。
献帝春秋では董卓が霊帝や少帝など漢の王室をけなし、袁紹に「少帝よりもまだ献帝の方がマシだから帝を変えたいと思う」と述べ、袁紹は次の様に答えました。
※献帝春秋より
袁紹「漢の王室が天下を支配してから400年も経っております。
漢の恩恵は深く厚く行き渡っており、現在の皇帝は幼いと言えど、天下に悪い評判が行き届いているわけではありません。
公(董卓)が嫡子を廃して庶子を立てようとしても、人々は納得はしないでしょう」
袁紹は董卓に対し真っ向から反対の意見を述べたわけです。
袁紹の言葉を聞いた董卓は激昂し「儂の意見に反対出来る者がいるはずもない。この董卓の刀がなまくらだと思うな」と袁紹を脅しました。
しかし、袁紹も負けてはおらず、次の様に言い返しています。
袁紹「天下の雄者は董公だけではない」
袁紹は董卓に対しても臆することなく、果断に意見しているわけです。
袁紹は優柔不断で決断力が無いとも言われていますが、当時の袁紹は宦官の殺戮や董卓など、恐ろしい程の果断さを見せているとも言えるでしょう。
尚、正史三国志も献帝春秋も袁紹が刀を引き寄せ横に向けて会釈をして出て行ったのは同じです。
ただし、裴松之は董卓は袁紹に相談しただけなのに、董卓と袁紹が、ここまでの言い合いになるのはあり得ないと述べています。
袁紹は都を脱出し冀州に向かいました。
因みに、汝南袁氏の中では袁隗、袁基(袁術の兄)が、後漢王朝内で董卓の下として残り袁紹が逃亡した事になります。
さらに、袁紹は董卓の陳留王(献帝)を皇帝にするのに反対したわけであり、少帝を支持したとも言えます。
袁紹が少帝を支持した理由は不明ですが、何進の部下だった頃に、少帝を主として仰いでいたわけであり、その延長として少帝支持を続けたのかも知れません。
反董卓連合
連合軍の盟主となる
董卓は袁紹の批判はしましたが、汝南袁氏の強大さを考えたのか、出奔した袁紹を渤海郡の太守としました。
董卓の袁紹に対する寛大とも言える態度は、汝南袁氏への懐柔策だともされています。
尚、袁紹が汝南袁氏の本拠地ではなく冀州に逃げたのは、光武帝が河北を本拠地として天下統一したのに習い、北冀州に向かったとも考えられています。
これが真実であれば、袁紹はこの頃から天下統一も視野に入れていた事になるはずです。
袁紹は曹操、張邈、孔伷、王匡、袁術、孫堅らと反董卓連合を結成しました。
袁紹は連合軍の盟主となり洛陽と少帝の奪還を旗印としています。
しかし、都にいる汝南袁氏の袁隗、袁基ら一族は董卓により処刑されてしまいました。
袁紹が反董卓連合を結成した事で、汝南袁氏の多くの者が命を失ったとも言えます。
それと同時に汝南袁氏の生き残りの中での有力者は袁紹、袁術くらいとなっており、袁紹が正統な後継者に名乗り出る為の手段だったのではないか?とする説もあります。
さらに、ここで董卓は何故か一族を滅ぼされ恨まているはずの袁紹に「反董卓連合の解散」を求める使者を派遣しますが、袁紹は使者を斬り捨て徹底抗戦の構えを見せました。
腰砕けの連合軍
反董卓連合が結成された当初は、連合軍が有利であり董卓は洛陽から長安に遷都しました。
さらに、董卓は少帝を李儒に殺害させ、陳留王を即位させています。
少帝が殺害され洛陽から董卓がいなくなった事で、反董卓連合の大義名分が無くなってしまいました。
結果として反董卓連合は解散し、関東の地では群雄割拠が繰り広げられる事になります。
尚、袁紹が盟主を務めた反董卓連合は孫堅が陽人の戦いで、胡軫配下の華雄を斬るなどの活躍もありました。
しかし、孫堅や曹操、鮑信が董卓配下の徐栄に敗れるなど大した戦果を挙げる事は出来なかったわけです。
さらに、多くの諸侯が積極的に戦おうとせず、業を煮やした曹操が演説をするなど、どちらかと言えばパッとしなかったと言えます。
劉虞の皇帝擁立案
袁紹は劉虞を皇帝に擁立しようとした話があります。
袁紹は少帝を支持していたわけであり、董卓が擁立した献帝を認めるわけには行かなかったのでしょう。
当時の劉虞は人望はありましたが、皇帝の一族とは血縁も遠く多くの諸侯が難色を示しました。
袁紹の劉虞に皇帝になって貰う案には、曹操が反対しただけではなく袁術ですら難色を示しています。
袁紹は劉虞にも使者を派遣しますが、断られてしまい結局は、お流れとなってしまいました。
尚、劉虞は袁術の元に子の劉和を派遣し、劉虞と対立していた公孫瓚は公孫越を袁術の元に派遣した話があります。
公孫越が袁術に仕えた事が後の、袁紹と公孫瓚の対立に引き金となります。
韓馥から冀州を奪う
反董卓連合は解散し、袁紹も渤海に帰る事になります。
袁紹は車騎将軍と号してはいましたが、渤海太守でしかなく勢力は弱小でした。
兵にも物資にも困っていた袁紹に対し、北方では公孫瓚が大きく勢力を拡大させていたわけです。
正史三国志の徐晃伝に季雍が離脱し、公孫瓚に寝返り朱霊が討伐に向かった話があります。
季雍の離脱は当時の袁紹陣営の脆さにも感じました。
英雄記によれば、この時に袁紹の参謀である逢紀が「公孫瓚に冀州を攻撃する様に仕向け、恐れた韓馥に利害を説けば冀州が取れる」と進言しました。
袁紹は兵糧が不足しているのに、兵を集め逢紀の言われた通りに実行すると、公孫瓚は冀州に向けて進撃し、冀州牧の韓馥は安平に陣を布きますが、公孫瓚に敗れています。
袁紹の方では并州の軍閥である張楊が合流し、匈奴の於夫羅が軍に加わるなと多数の兵を指揮下に置いていました。
さらに、韓馥配下の麹義も袁紹に鞍替えしています。
こうした動きに韓馥は恐れをなし、袁紹は荀諶、高幹を派遣し韓馥を説得させました。
荀諶や高幹は難を避けるには袁紹に地位を譲った方が良いと述べます。
韓馥配下の耿武、閔純、李歴らは諫めますが、韓馥は元は袁家の役人だった事もあり聞き入れる事は無かったわけです。
韓馥配下の趙浮、程奐は兵を出し一戦交えたいと述べますが、ここでも韓馥は許さず位を袁紹の譲渡しました。
袁紹は兵を損なう事もなく平和的に冀州の地を手にし、強大な勢力に成り上がったわけです。
この時に袁紹は韓馥の配下の者達も手中に収めており、この時点で下記の人物は袁紹の配下としていた事が分かっています。
尚、袁紹に冀州を譲った韓馥ですが、後に朱漢とのいざこざもあり張邈の元に行きますが、袁紹からの使者が来た時に恐れを成し厠で自害する事になります。
袁紹と沮授
袁紹は軍事の総帥としての権限を沮授に任せました。
この時の、沮授の権限は主君である袁紹をも凌ぐ程だったのではないか?とも考えられています。
それでも、沮授は袁紹に青州を平定し黒山賊の張燕、北方の公孫瓚を滅ぼし、匈奴を屈服させ冀州、幽州、并州、青州の四州を支配し、長安の天子を迎えいれて天下に号令する戦略を勧めました。
袁紹は沮授の言葉を喜び、沮授の戦略に従い動く事になります。
袁紹は沮授に大きな権限を与えましたが、沮授は良臣であり見事な働きを見せます。
尚、袁紹自体も出身が汝南であり冀州を治めたとはいえ、冀州の名士や豪族からしてみれば外様でしかなかったわけです。
袁紹は冀州は手にしましたが、臣下の権限が大きく袁紹自体は、名士や豪族の勢力に乗っかる形になっていました。
これらの現象は呉でも見られ、孫権と似た様な立場だったとも考えられています。
公孫瓚と対立
袁紹は袁術と関係が深い豫州刺史の孫堅に対抗する為に、周昂を派遣しました。
周昂は袁紹から豫州刺史に任命されたとあり、袁術の任命した豫州刺史の孫堅と戦う事になります。
この時に袁術が孫堅の援軍として派遣したのが公孫越です。
この戦いで袁術軍として戦った公孫越は流れ矢により戦死してしまいました。
公孫越は公孫瓚の弟でもあり、公孫瓚は袁紹を恨む事になります。
この時に袁紹は公孫瓚とはまだ戦いたくないと思っていたのか、渤海太守の印綬を公孫瓚の一族の公孫範に渡しました。
しかし、公孫瓚の怒りは収まらなかった様で、袁紹と和解しようとはしなかったわけです。
尚、関東の地では袁紹派と袁術派に分かれて戦う事になり、袁紹には曹操や劉表が味方し、袁術には公孫瓚や陶謙などが味方しました。
この時の形成は北方では公孫瓚が強大な力を持っており、袁紹派が不利だったと伝わっています。
しかし、袁紹は逆境を乗り越える事になります。
界橋の戦い
曹操は袁術と陶謙を相手にしますが、陶謙を撃破し匡亭の戦いでは袁術を破り敗走させています。
袁紹派の劉表も襄陽の戦いで黄祖や呂公の活躍もあり、孫堅を討ち取りました。
袁紹は北方で強大な力を持っていた公孫瓚と対峙する事になります。
これが界橋の戦いです。
界橋の戦いでは公孫瓚が3万の歩兵と1万の騎馬隊を擁し、袁紹は1千の弩兵と数万の歩兵で迎え撃ったとあります。
しかし、袁紹軍の兵は冀州軍が主力でしたが、袁紹は冀州の主になってから日が浅く兵の士気も低く、戦力的には公孫瓚が有利だったとも伝わっています。
公孫瓚は白馬義従と呼ばれた強力な騎馬隊を持っており、袁紹としては公孫瓚の騎馬隊を防ぐ事が出来るかが、勝敗にカギを握りました。
界橋の戦いでは袁紹軍の麹義が先鋒となり、8百の兵と千の弩兵で戦いが始まる事になります。
麹義は涼州の出身であり騎馬隊への対処方法は熟知していました。
公孫瓚は自慢の騎馬隊を使い麹義に襲い掛かりますが、麹義は公孫瓚の軍を撃退しています。
それでも、公孫瓚の騎馬隊の勢いは鋭く、袁紹の本陣の直ぐ側まで押し寄せました。
この時に袁紹の参謀である田豊が「危険ですからお下がりください」と述べたのに対し、袁紹は次の様に述べています。
袁紹「兵士達が懸命に戦っているのに、総大将の私が下がるわけにはいかない」
袁紹は言葉を言い終わると、兜を地面に叩きつけ兵たちを鼓舞しました。
袁紹の行動により兵の士気は高く援軍も来た事で、戦いの流れを袁紹は引き寄せる事になります。
袁紹は優柔不断と呼ばれる事も多いですが、実際の袁紹は実戦指揮官であり、決して凡将ではなかった様に思います。
戦いの方も麹義が公孫瓚の騎馬隊を上手く封じ込めた事で、界橋の戦いは袁紹軍の勝利となりました。
界橋の戦いを境として、袁紹と公孫瓚の優劣は入れ替わる事になります。
汝南袁氏の袁紹派と袁術派の戦いは、袁紹派の完勝で終わりました。
因みに、袁紹は曹操に何度か援軍を派遣しており、その中に朱霊がいました。
朱霊は曹操に惚れ込み、そのまま曹操の家臣になってしまった話もあります。
尚、公孫瓚は賢人と名高い劉虞も殺害し、名声は地に堕ち自滅の道を歩みました。
193年には袁紹は公孫瓚が籠る易京城を包囲しますが、陥落させるのには何年も掛かる事になります。
呂布の活躍
公孫瓚は黒山賊の張燕とも同盟を結んでおり、黒山賊は袁紹の本拠地でもある鄴を攻撃しました。
黒山賊は鄴を奪った話もありますが、袁紹は引き返し黒山賊と戦う事になります。
この時には董卓は王允と呂布により命を落しており、呂布も涼州軍の反撃に遭い逃亡し袁紹の元に身を寄せていました。
袁紹は呂布に黒山賊の討伐を任せると、呂布は僅か数十騎の兵を率いただけで1万の黒山賊を撃破した話があります。
この時の呂布は自分を誇りますが、袁紹は呂布を危険人物だとして殺害しようと考えますが、張邈が諫めた事で取りやめとなります。
呂布は袁紹の元を離れました。
袁紹の元を呂布が離れたのは、袁紹が賢人を任用しなかったと言うよりも、危険人物の排除であり正解だったと感じています。
天子を手中に出来ず
長安には李傕と郭汜が献帝を擁立していましたが、お互いに争い献帝は長安を脱し洛陽に向かいました。
この時に袁紹は郭図を派遣し、郭図は戻ると袁紹に献帝を迎え入れる様に進言した話があります。
沮授も献帝を迎え入れる事に賛成しました。
しかし、袁紹は淳于瓊の反対などもあり、献帝を迎え入れる事はせず、曹操が帝を手中に収め許に置く事になります。
尚、袁紹が献帝を迎え入れる事に反対した理由は「何かある事に献帝に伺いを立てる必要が出て来る」事だとも言われています。
曹操が献帝を手中に収めると、江南の地を手中に収め関中が帰服するなど極めて効果が大きく、袁紹は後悔したとされています。
袁紹は曹操に献帝を自分が迎え入れたいと申し出をしましたが、曹操は拒否しました。
因みに、この頃に袁紹は反旗を翻した臧洪を討伐し、処刑しています。
臧洪は張超が曹操に攻められた時に、袁紹が張超を救援せず、臧洪は袁紹を恨み反旗を翻していました。
大将軍に就任
献帝は袁紹を大尉に任命しました。
しかし、献帝を手元に置いているのは曹操であり、曹操が袁紹よりも高位に就く事も可能だったわけです。
献帝春秋によれば、袁紹は次の様に述べたと記録されています。
※献帝春秋より
袁紹は席次が曹操の下になる事に腹を立て、次の様に述べた。
「曹操は死ぬ程の困難に何度も直面したが、私は何度も曹操を助けている。
今になって恩に背き、天子を擁して儂に命令するというのか」
袁紹は曹操に対し怒りを向けているわけです。
曹操は袁紹の話を聞くと、袁紹が強大だった事もあり大将軍の位を袁紹に譲ったとあります。
易京の戦い
袁紹は公孫瓚を追い詰めており戦いを継続し、5年に渡る歳月が流れた話まであります。
公孫瓚が籠る易京城は難攻不落であり、袁紹の軍でも易々と落とす事は出来ませんでした。
この時に公孫瓚が公孫続を派遣し、黒山賊の助けを得ようと考え城を出ようとすると関靖が止めたり、袁紹軍の猛攻により公孫瓚が精神的にも削られて行った話があります。
後漢書の記述などを見ると、袁紹はかなり苛烈に公孫瓚を攻め立てた様です。
袁紹はモグラの如く坑道戦を行ったりし、199年には易京の戦いに終止符を打つ事になります。
袁紹は北方においての最大のライバルであった公孫瓚を破り河北四州を統一しました。
ここにおいて袁紹軍は文句なしの天下第一の勢力となったわけです。
尚、199年は袁紹にとっては灌漑深い年でもあり、仲王朝を開き皇帝となった袁術が亡くなった年でもあります。
既に呂布も滅んでおり群雄が淘汰されて行きました。
組織の変更
袁紹は公孫瓚を滅ぼした後に、組織の態勢を変えようとしました。
今までの袁紹の体制は沮授、田豊、審配ら冀州出身者の派閥が強かったわけです。
逆を言えば冀州派の活躍により、公孫瓚を滅ぼしたとも言えます。
しかし、袁紹は最大のライバルである公孫瓚を破ると、自分に敵う者はないと思ったのか冀州派閥の権限を削ぐ為に動く事になります。
戦略家で袁紹の参謀とも言える沮授の権限は、郭図と淳于瓊で三分割しました。
さらに、田豊も後に讒言により投獄されています。
界橋の戦いでの最大の功労者である麹義は軍令違反により処刑される事になりました。。
他にも、袁紹は長男の袁譚を外に出し青州を治めさせています。
袁譚を外に出した事に対し、沮授は「後で後悔する事になる」と進言しますが、袁紹は「息子たちに一州ずつを治めさせたい」と述べ聞く耳を持たなかったわけです。
長子の袁譚を太子として手元に置かないのは、沮授にしてみれば後継者争いの種を作る事になると考えたのでしょう。
袁紹の次男の袁煕は幽州を治め高幹には、并州を任せました。
199年までの袁紹政権の体制は、家臣達の上に乗っかっている存在でしたが、権力を一族や君主に集めたかったというのが分かります。
尚、袁紹のこうした政策は失敗だったと言われがちですが、袁氏の一族を盤石にする為には、何処かのタイミングで実行しなくてはいけなかった事だとする指摘もあります。
袁紹の場合は曹操が想像以上に強く、曹操を倒す前に組織の改革に走ってしまった事が失敗に繋がったと考える人もいる状態です。
それでも、この時の袁紹は動員できる兵力は10万を超えていた話もあり、最も天下に近い群雄だった事は間違いないでしょう。
子供の病気を理由に出陣せず
199年に劉備は曹操に反旗を翻し、徐州刺史の車冑を斬り沛に駐屯しました。
袁紹は劉備に援軍の騎兵を送り、曹操は劉岱と王忠を劉備討伐に向かわせますが、劉備を降す事が出来なかったわけです。
この時に田豊が袁紹に「曹操の後方を襲うべき」と進言しますが、袁紹は息子の袁尚の病気を理由に許可しませんでした。
田豊は余程悔しかったのか、杖を地面に叩きつけた話があります。
それでも、袁紹は近場に軍を派遣しますが、袁紹が派遣した軍は于禁により破られています。
袁尚の病気を理由に動員命令を出さなかった話は、袁紹が余りにも愚鈍過ぎており、事実なのかは疑問があります。
袁紹には何かしらの劉備に援軍を派遣できない理由があったのかも知れません。
尚、袁紹の妻の劉氏も袁尚を後継者にしようと考えており、劉氏の思惑もあり袁紹は出陣しなかった可能性もあります。
官渡の戦い
袁紹と曹操の間で対立が深まる事になります。
この時は袁紹の領土は安定していたのに対し、曹操の領土は荒廃しており、袁紹が圧倒的に有利だったと伝わっています。
ただし、曹操に味方する勢力が皆無だったわけではなく、長沙で反乱を起こした張羨や、賈詡の進言により張繍などは曹操に味方しました。
官渡の戦いが行われた時に、江東を制圧した孫策が曹操の許都を狙った話がありますが、許貢の食客が孫策を暗殺した事で実現はされずに終わっています。
孫策の後継者として孫権が選ばれますが、孫権は孫策が亡くなった混乱もあり兵を動かす事も出来なかったわけです。
袁紹の陣営では沮授、田豊、許攸などが持久戦を進言し、郭図や審配は即時決戦を行うべきだと述べています。
この時に田豊に対する讒言もあり、田豊は投獄されました。
結果論で言えば沮授や田豊の進言が正しかったと言えますが、実際の曹操は許攸の裏切りが無ければ勝つ事が出来なかったわけであり、即時決戦で正しかったのではないか?とする意見もあります。
曹操の陣営でも荀彧が即時決戦を主張し、孔融は持久戦を行うべきだと述べました。
袁紹と曹操の両方が即時決戦を選択する事になり、これにより官渡の戦いが起きる事になります。
袁紹の軍は白馬の戦いや延津の戦いで、曹操軍の関羽や張遼、荀攸の活躍もあり、袁紹軍の猛将である顔良や文醜が討ち取られてしまいました。
それでも、袁紹の方が兵士の数も物資も勝っており、曹操を押しまくる事になります。
官渡の戦いでは袁紹が優勢に戦いを勧めた事で、曹操の後方では反乱が起こり、さらに袁紹は劉備を派遣し後方を攪乱させる事にしました。
曹操は曹仁を派遣し劉備を撃退しています。
しかし、袁紹と曹操の力の差は歴然であり、曹操は荀彧に弱音を吐くような手紙まで送っています。
荀彧は曹操を励ましはしましたが、袁紹軍に勝つための策は授けられていません。
袁紹の軍に隙がない事で、荀彧にしても献策が出来ず、精神論で励ますしかなかったのでしょう。
この時の袁紹軍では、誰が最も多くの褒美を貰うかで、多くの者が頭がいっぱいになっていたとも言われています。
袁紹は組織改革を行い有力臣下の力を削ぎ拮抗させましたが、これにより家臣同士の足の引っ張り合いになったとも考えられています。
曹操の陣営でも戦力の差は歴然であり「誰が裏切る」などの話が錯綜しており、物資も不足していた事から人々は危機感を募らせていました。
袁紹と曹操の両方の軍で悪い流れが出ていた様にも見えますが、この拮抗を崩壊されたのが袁紹配下の許攸です。
許攸は許都襲撃作戦を却下され、汚職を疑われ曹操の陣営に投降すると、曹操に袁紹軍の食糧庫が烏巣にあり淳于瓊が小数の兵で守っているとリークしました。
沮授は過去に袁紹に蔣奇も烏巣に派遣し、淳于瓊を助ける様に述べた事がありましたが、袁紹は却下した話もあります。
曹操は本陣を曹洪に任せ自ら兵を率いて、烏巣を急襲するべく動く事になります。
曹操による烏巣襲撃の情報がもたらされると、袁紹配下の張郃は烏巣への救援を主張し、郭図は曹操の本営である官渡への総攻撃を主張しています。
袁紹は両方の進言を取り烏巣にも救援を送り、曹操の本営には張郃に攻撃を命じました。
ただし、張郃は烏巣への救援を主張しており、曹操の本営に攻撃をさせ成功させてしまったら、自分の策を論破する事になり、袁紹の人選が失敗だったと言われる所です。
烏巣の戦いでは楽進が淳于瓊を斬った事で、曹操軍の勝利が決まり烏巣の食糧庫は焼かれました。
張郃は本営を落せず曹操に降伏し、袁紹も兵糧庫を焼かれた事で北に撤退する事になります。
しかし、袁紹の軍師と言うべき沮授は曹操軍に捕らえられ処刑されました。
因みに、正史三国志の著者である陳寿は袁紹が田豊を処刑した行為と、項羽が范増を処刑しなかった態度を比較し、袁紹を非難しています。
これにより袁紹陣営で最も力を持っていた冀州派閥の有力者は審配くらいとなり、大きく力を失墜させました。
袁紹の最期
袁紹が官渡の戦いで敗れると、北方四州の領内で次々に反乱が起きますが、袁紹は反乱の鎮圧に成功しました。
ここでの袁紹は見事な手際を見せたと言えるでしょう。
曹操に付け込ませる隙も与えてはいません。
袁紹は官渡の戦いで敗れはしましたが、領土を曹操に取られたわけではなく、まだまだ袁紹が優勢だったわけです。
曹操にしても袁紹の強大さが分かっており、袁紹領内で反乱が起きた事をきっかけにし、思い切って攻撃を仕掛ける事も出来ませんでした。
三国志演義では官渡の戦いの後に程昱や郭嘉の活躍があり、十面埋伏の計などが出て来ますが、これらは三国志演義のみの話で史実ではありません。
実際の袁紹は官渡の戦い後も反乱鎮圧に動き、曹操は袁紹の領土を奪うことが出来なかったわけです。
しかし、西暦202年に袁紹は病を患うと亡くなる事になります。
袁紹は官渡の戦い後に起きた反乱の鎮圧などで、精神が削られ心労により病気となってしまった可能でもあるはずです。
袁紹が存命中は曹操は手出しできなかった事もあり、袁紹の寿命があと10年長ければ歴史は変わっていたのかも知れません。
尚、袁紹は三男の袁尚を可愛がり後継者にしようと考えていた様ではありますが、はっきりと定めないうちに没しており、長子の袁譚と三男の袁尚で袁氏を二つに割り争う事になります。
袁紹が築き上げた領土は、曹操により全て奪われる事になりました。
因みに、陳寿は袁紹や劉表を指し外見は良いが、中身は猜疑心が強く策を好んでも優柔不断で決断が出来ないと述べています。
しかし、官渡の戦いは袁紹は紙一重で負けており、曹操も許攸の裏切りが無ければ勝てなかった事もあり、袁紹は最終的に敗者になった事で陳寿も酷評した様に感じました。
尚、一般的に郭嘉や荀彧は袁紹を低く評価されている様に思われがちです。
しかし、郭嘉は「袁紹は善政を行い異民族からも懐かれていた」と述べていますし、荀彧も「袁紹には寛大さと情の厚さがあり人々の気持をよく理解していた」と述べています。
それらを考えれば袁紹も中々の名君だったと言えるのではないかと感じています。