名前 | 孫権(そんけん) 字:仲謀 |
生没年 | 182年ー252年 |
時代 | 後漢末期、三国志、三国時代 |
一族 | 父:孫堅 母:呉氏 兄弟:孫策、孫翊、孫匡、孫尚香 |
子:孫登、孫慮、孫和、孫覇、孫奮、孫休、孫亮、孫魯班、孫魯育 | |
年表 | 208年 赤壁の戦い |
222年 夷陵の戦い | |
229年 皇帝に即位 | |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
孫権の字は仲謀であり、三国志の呉の初代皇帝になった人物でもあります。
赤壁の戦いや夷陵の戦いなど、国難はありましたが臣下を上手く使い乗り切っています。
孫権は劉備や曹操に比べると派手さはないかも知れませんが、多くの賢臣を登用し国を守りました。
孫権は「守成の名君」と呼ばれる事もあり、魏・呉・蜀の中では孫権の呉が一番最後まで国を保つ事になります。
ただし、孫権は酒乱や性格に問題があり、晩年は二宮の変など「暗君に成り下がった」とする評価もある状態です。
それでも、孫権は天寿を全うしており呉を上手くまとめたと言えるでしょう。
因みに、孫権の父親である孫堅は曹操と同い年であり、劉備とも年齢が近く、孫権は劉備や曹操と比べると一世代下の人物です。
今回は三国志の第三の英傑であり、酒乱の話もある呉の大帝孫権を解説します。
尚、孫権は国内の異民族をかなり征伐していますが、これらにより長江よりも南の地域が発展し、後の東晋や南北朝時代に下地が出来たと指摘する専門家もいます。
孫権は江南を大発展させた人物とも言えそうです。
孫権の出自
孫権は西暦182年に孫堅と呉夫人の子として、徐州の下邳で生まれました。
父親の孫堅が揚州の出身なのに対し、孫権が徐州の出身なのは、孫堅が下邳県丞になっている時に生まれた為です。
因みに、張角の黄巾の乱が184年ですから、黄巾の乱が始まる2年ほど前に生まれたという事でしょう。
既に曹操や劉備が黄巾の乱で討伐軍として参加していた事を考えると、孫権との年代差を感じます。
尚、呉夫人は孫権が生まれる時に「太陽が内側に入ってくる夢」を見たと言います。
兄の孫策が生まれた時は「月が入ってくる夢」を見た話があり、孫堅は自分の一家が興隆する事になると喜んだ話があります。
しかし、191年に父親の孫堅は劉表を攻撃中に、黄祖の活躍もあり亡くなってしまいました。
孫堅死後に兄の孫策は袁術を頼った事もあり、孫権も孫策と共に袁術の元にいったのでしょう。
孫権は僅か15歳で陽羡の県令となった話があります。
正史三国志の呉主伝によれば、孫権は孫策の軍議などにはよく参加していた様です。
孫策は弟の孫権を可愛がり宴席では「これらの人々はお前の武将だ」と述べていた話があります。
孫策は孫権の才能を認めており、人の上に立つべき人物だと考えていたのでしょう。
尚、朝廷から派遣された劉琬が孫権を見た時に「孫家の兄弟は全て有能だが、孫権は高貴な身分となり最も長寿となるであろう」と予言した話があります。
実際に兄弟の中で孫権が最も長生きしました。
孫策の死
因みに、孫家の勢力は199年に劉勲を破ると孫策と周瑜は大喬、小橋を得ますが、孫権はこの時に袁術の娘である袁夫人を得ています。
しかし、孫策は官渡の戦いが行われた西暦200年に許貢の食客により命を落しました。
孫策は曹操と袁紹が官渡の戦いを行っている隙に許都を襲撃しようとした矢先に命を落したとも、陳登を討ちに行く最中に丹徒で命を落したとも伝わっています。
尚、陳登と孫権の間で匡奇城の戦いが起きた話しもありますが、この辺りの前後ははっきりとしない部分があります。
それでも、孫策が北方進出をしようとしていた所で、最後を迎えた事だけは間違いなさそうです。
孫策の子である孫紹が、まだ幼かった事で孫策は弟の孫権を後継者に指名し、張昭の言葉をよく聞くように言い残しています。
孫策は「天下取りであれば自分の方が向いているが、賢臣をよく用いて国を纏めるならお前(孫権)の方が上だ」と述べた話しもあります。
孫策は兄だけあって弟の性質をよく理解していたのでしょう。
孫策は亡くなってしまいますが、孫権は孫策の死にショックを受け何日も悲しみ、張昭の言葉で漸く外に出た話があります。
政権崩壊の危機
孫策は突然死だった事で、孫家政権はいきなりの崩壊の危機を迎える事になります。
孫策は項羽になぞられ小覇王と呼ばれたカリスマであり、多くの豪族たちの上に孫家が乗っかっている形でした。
しかし、孫策のカリスマ型経営が仇となり、カリスマを失った組織は崩壊の危機を迎えたわけです。
さらに、当時の呉の支配地域は会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵だけであり、さらに言えば、地域の奥地まで平定してはいませんでした。
孫策が亡くなった時に北方では曹操と袁紹が官渡の戦いで雌雄を決していましたが、この時の孫権の勢力は見劣りするレベルだったはずです。
孫権はまだ19歳で求心力もありませんでしたが、名士で強力なネットワークを持つ張昭と周瑜が率先して、孫権を君主に仰ぎたてた事で何とか事なきを得る事となります。
尚、この時に張昭がいなければ、孫家政権は崩壊していたのではないか?とも考えられています。
人材が集まる
孫権が君主になると周瑜は魯粛を推薦した様に、孫策時代では用いられなかった様な人材が集まって来た事実もあります。
魯粛は初対面の孫権に対しいきなり「いずれは帝王」になる様に進言しました。
魯粛の発言に張昭は注意しましたが、孫権は魯粛を多いに気に入る事になります。
さらに、諸葛瑾や陸遜など後の孫呉の中核を成す人物も集まりました。
諸葛瑾は孫権の姉と結婚した弘咨の推挙により陣営に加わっています。
歩隲、顧雍、是儀、厳峻、呂岱、徐盛、朱桓、駱統なども孫権の時代に取り立てられました。
さらに、孫堅や孫策時代からの太史慈、程普、黄蓋、周泰、韓当、呂範、呂蒙など有能な人材が揃っていたわけです。
孫権は内政の柱として張昭を置き、軍事は周瑜、程普、呂範に任せ、国内の従わない勢力を討伐しました。
廬江太守の李術なども命令を聞かなくなった事で、孫権は討伐しています。
呉の異民族討伐においては、長年の課題であり孫呉が滅亡する時まで行われる事となります。
呉は領土は広くしても人口が少ない悩みがあり、山越などの異民族は兵士にするなど積極的に取り込んで行きました。
曹操は孫権を討虜将軍にする様に上表しています。
甘寧が配下に加わる
劉表配下で江夏太守の黄祖は、孫家の仇とも呼べる人物でした。
孫策の時代にも黄祖との抗争があり、沙羨の戦いでは勝利するも、黄祖を攻め滅ぼす事は出来なかったわけです。
孫権陣営の一つの課題が黄祖を討ち取る事だったとも言えます。
西暦203年に孫権は黄祖打倒の為の兵を挙げる事になります。
203年の戦いでは孫権軍が優勢ではありましたが、高祖配下の甘寧が淩操を射殺するなどの被害もあり、またもや黄祖を討ち取る事は出来ませんでした。
しかし、甘寧は黄祖に冷遇されており、蘇飛の心遣いもあり孫権陣営に投降する事となります。
周瑜と呂蒙が甘寧を孫権に推薦した事で、孫権は甘寧を重用する事にしました。
甘寧は孫権に蜀の劉璋を併合する天下二分の計と説く事になります。
黄祖を滅ぼす
孫権は205年に賀斉に命じ上饒を討伐し、上饒の地を分割し建平県を設置しました。
207年には再び黄祖を攻撃し、民衆を連れ帰るなどの戦果を挙げますが、決定的な勝利は得られなかったわけです。
208年に孫権は黄祖を再度攻撃し、夏口の戦いが勃発する事になります。
黄祖は水軍を使い孫権の軍を阻もうとしますが、先鋒の呂蒙や淩統、董襲などが奮戦し、黄祖の城は陥落しました。
黄祖は逃亡しますが、馮則が黄祖を討ち取り、これにより孫家の悲願でもあった黄祖の首をあげる事が出来たわけです。
黄祖の都督であった蘇飛は、過去に甘寧に恩を施していた事で、助命嘆願され許されています。
赤壁の戦い
孫権は黄祖は滅ぼしましたが、大きな苦難が待っていました。
208年に劉表が亡くなると、劉琮が曹操に降伏する事になります。
この時には既に曹操は呂布、袁術、袁紹などの群雄を片付けており、天下の13州のうちの9州を支配下に置き勢力は強大だったわけです。
劉備は江陵を目指し、長坂の戦いで張飛や趙雲の活躍はありましたが、曹操に敗れ壊滅的な打撃を食らう事になります。
孫権は劉表の弔問と称し、魯粛を偵察に荊州に入れました。
魯粛は荊州で劉備と出会い、劉備は諸葛亮を孫権の元に派遣しています。
これにより劉備と孫権の同盟が成立したわけです。
後に孫権は妹の孫尚香を劉備に嫁がせ、孫尚香による劉禅誘拐未遂事件が起きています。
尚、この時の劉備は弱小ではありましたが、後漢王朝の左将軍であり、それに対し孫権は会稽太守でしかありませんでした。
勢力は孫権、権威は劉備という、いびつな構図であり魯粛は劉備の権威が役立つと考え味方にしようとしたとも考えられています。
話を進めますが、曹操が荊州の人材を重用した事もあり、呉では張昭を筆頭に降伏論が盛んでした。
呉の重臣たちは孫権が降伏しても、今の身分が保証されると思っていたわけです。
それに対し、魯粛と周瑜だけが決戦を主張し、魯粛に至っては孫権に「私は家柄が良いからどうにでもなるが、孫権様はそうはいかない」と脅迫めいた事まで述べています。
孫権は決戦を決意し、周瑜や程普に実戦指揮を任せ、曹操と赤壁の戦いに挑む事となります。
周瑜は曹操が水上での戦いに慣れていない事や疫病が発生すると読んでおり、それらが的中し黄蓋の火計も加わり赤壁の戦いで勝利する事になります。
曹操軍を破った周瑜や劉備の軍勢は荊州に雪崩れ込みました。
劉備は荊州南部にいた韓玄、趙範、金旋、劉度らを破り、周瑜は江陵で曹仁、徐晃と対峙しています。
西暦209年に周瑜は江陵を陥落させ、曹仁は北方に逃れました。
孫権は周瑜を南郡太守に任命しています。
孫権自身も劉備の上表により車騎将軍代行及び徐州牧の任が与えられました。
尚、劉備陣営は劉表の子の劉琦を荊州刺史としていましたが、209年に劉琦が亡くなると劉備が自ら荊州牧となっています。
合肥の戦い
赤壁の戦いで勝利すると、孫権は自ら兵を率いて北上しました。
これが第一次合肥の戦いです。
さらに、張昭が別動隊を率いて当塗を攻撃しています。
しかし、張昭は戦果を挙げる事が出来ず、孫権の方でも一カ月が経過しても合肥の城を落す事が出来なかったわけです。
曹操は張喜に命じ、合肥への救援としますが、孫権は張喜の軍が到達する為に撤退しました。
尚、過去に曹操配下の劉馥が合肥の重要性に気が付いており、強固な城に造り変えた事で、孫権は合肥が攻略出来なかったともされています。
劉備に荊州を貸す
魯粛は劉備と結び曹操に対抗しようと考えていました。
それに対し、周瑜は劉備を危険人物だと警戒していたわけです。
周瑜は孫瑜らと共に自ら益州を取る予定でしたが、西暦210年に病死しました。
これにより呉による益州制圧は頓挫しています。
周瑜の後継者となった魯粛は、親劉備派でもあり、孫権陣営は劉備に益州を取らせる事にしたわけです。
ただし、劉備が益州を取ったら荊州を返還する約束をしました。
この約束が後に劉備と孫権が仲違いする原因となります。
劉備にしても関羽に荊州を守らせる辺りは、荊州を返還する気は毛頭も無かったのでしょう。
尚、211年に孫権は張紘の進言を聞き入れ、本拠地を呉から秣陵に移し、212年には建業に改名しました。
因みに、この時期に孫権は中華の最南端に、位置する交阯の士燮の勢力を組み込む事に成功しています。
孫権の様な息子が欲しい
211年に孫権は曹操が侵攻してくると聞き、濡須口に濡須塢を築き防備を固めました。
魏と呉は何度も戦いますが、魏が揚州方面に攻めてくるたびに、呉軍は何度も濡須口で防衛する事になります。
212年になると曹操が自ら兵を率いて、濡須口に攻め寄せて来ました。
濡須口の戦いでは孫権軍に隙が一切なく、曹操は攻めあぐね一カ月が経過しても戦果を挙げる事が出来なかったわけです。
曹操は孫権の隙が無い陣営を見て感嘆し「孫仲謀(孫権)の様な息子が欲しい」と述べた話があります。
尚、この戦いで孫権は自ら船に乗り曹操の軍に近づき船に矢が刺さり転覆しそうになると、船の向きを変え反対側で弓を受けてバランスを取った話があります。
この話を元に作られたのが、三国志演義で諸葛亮が大量の弓矢を集めた話だとされています。
第一次濡須口の戦いは、孫権が曹操を寄せ付けず撤退に追い込んだと言えるでしょう。
因みに、呉の水軍は強く曹操は長江流域の住民を北方に移そうとしますが、住民は反発し呉の勢力圏である江東に逃げてしまった話もあります。
長江は呉においての大要塞であり、曹操を何度も苦しめる事になります。
第二次濡須口の戦い
214年に孫権は皖城を陥落させ、廬江太守の朱光や参軍の董和などを、捕虜とする大戦果を挙げました。
皖城の戦いでは呂蒙の短期決戦策が上手く機能し、甘寧の勇猛さもあり短期間で呉軍は勝利をつかみ取ったわけです。
曹操は孫権の動きに対し、自ら兵を率いて呉に遠征を行っています。
これが第二次濡須口の戦いです。
ただし、曹操はこの遠征の途上で軍師の荀攸や邴原などが病で亡くなり、華歆が軍師となるなど不吉さを呈していました。
第二次濡須口の戦いでは甘寧が100人で敵陣に斬り込むなどの活躍もあり、曹操は撤退に追い込まれる事になります。
第二次濡須口の戦いでは、甘寧の活躍が極めて大きかったと言えるでしょう。
荊州返還運動
214年は劉備が劉璋から蜀の地を奪う事に成功した年でもあります。
孫権が濡須口の戦いで勝利した事を考えると、孫権、劉備の両陣営ともに戦果を挙げたと言えます。
しかし、赤壁以後で考えると、曹操の勢力は呉を攻撃し、孫権はその度に反撃し北伐をしますが、大して勢力を拡大させる事は出来なかったわけです。
それに対し、劉備は劉璋が治める益州を手に入れるなど、成果で言えば孫権を圧倒していました。
こうなると、孫権や配下の者達も劉備に対し、苦々しい視線を向ける事となります。
孫権は劉備に荊州を貸していると考えており、諸葛瑾を派遣し劉備に荊州の返還を求めました。
しかし、劉備は孫権に対し「涼州を取ったら荊州を与える」と述べ、荊州の返還を拒否しています。
劉備にとってみれば、実効支配している荊州を返す理由はないと考えていたのかも知れません。
孫権は強引に荊州を取ろうと考え、長沙、桂陽、零陵に役人を派遣しました。
しかし、孫権が派遣した役人は、関羽が全て追い払ってしまいます。
孫権は関羽の行動に激怒し、呂蒙を派遣しました。
呂蒙は配下の鮮于丹、徐忠、孫規らと2万の兵で長沙、桂陽、零陵の三郡を奪い、さらに魯粛は1万の兵で巴丘に駐屯する事となります。
この時に、呂蒙は零陵太守の郝普には策を用いて、屈服させた話が残っています。
呂蒙は過去には武勇一辺倒の人物でしたが、孫権から学問を勧められ、この時期には既に知将への変貌していました。
呂蒙は「呉下の阿蒙」の話でも有名です。
話を進めますが、劉備陣営でも、事の重大さを察知し、劉備が荊州に赴き、関羽が三万の兵で迎撃の構えを見せるなど、一瞬即発状態にまで発展しました。
この事態を収めたのが魯粛であり、代表者が一振りの刀だけを持ち会見を行う「単刀赴会」を行います。
魯粛は単刀赴会では関羽を一喝するなどしており、劉備から長沙と桂陽を返還させる事に成功しました。
零陵を劉備陣営に残しておいたのは、孫権や魯粛の外交のバランス感覚の良さだと評価される場合もあります。
すべてを返還させてしまえば、相手の顔を潰す事となり恨みを買ってしまうので、そうならない為の施策だとも言えるはずです。
尚、この時は曹操が漢中に攻め寄せており、劉備も孫権も争っている場合ではないと感じたのでしょう。
張遼の悪夢
孫権は劉備と和解すると、自ら兵を率いて合肥を攻撃しました。
これが第二次合肥の戦いです。
合肥を守るのは張遼、楽進、李典と能力がある将軍ではありましたが、将軍同士の仲が悪く不和だったわけです。
張遼らの仲の悪さは隠しようがない程であり、趙儼が間に入りコミュニケーションを行ったとまで言われています。
それでも、張遼、楽進、李典の三名は戦いに勝つ事に関しては団結出来る存在でした。
この辺りが名将と言われる由縁なのでしょう。
孫権は10万と号する大軍で、7千の合肥守備隊と対峙する事になります。
孫権は圧倒的に有利な状況でしたが、早朝に張遼が800の精鋭を率いて決死の突撃を仕掛けてきました。
不意を衝かれた孫権の軍は退却を指示しますが、張遼はすさまじい程の猛攻を仕掛けて来たわけです。
孫権軍の淩統や甘寧、谷利が奮戦し孫権の命は助かりましたが、張遼という悪夢を覚えた事でしょう。
孫権は圧倒的に有利な状況にも関わらず、合肥の戦いで敗北し撤退を決断するに至りました。
孫権が戦下手だと言われる由縁は、この辺りにあるのでしょう。
尚、この時の合肥の戦いで陳武が戦死しました。
第三次濡須口の戦い
曹操は西の漢中に割拠していた張魯を降伏させると、再び東に移動し呉を攻める事になります。
孫権は濡須口で迎え撃つ事となり、これが第二次濡須口の戦いです。
曹操は居巣に本営を置くと、10万規模の軍隊を動員し、孫権の背後を揺るがすべく山越の懐柔も行っています。
しかし、またもや疫病が発生してしまい、曹操の軍は司馬朗や孫観、王粲、陳琳、劉楨などを失っています。
孫権陣営では呂蒙、徐盛、周泰などの活躍もあり、曹操軍の撃退に成功しました。
しかし、第三次濡須口の戦いでは、呉軍の損耗も大きく曹操に臣従する事になります。
勿論、形式的な臣従ではありますが、孫権は曹操に屈した形となりました。
孫権は徐詳を使者とし、曹操に降伏を申し入れています。
この時の曹操は、益州を取った劉備の存在も侮れず脅威に感じており、形式でしかない孫権の臣従を受け入れたのでしょう。
尚、劉備陣営の躍進は曹操だけではなく、孫権も脅威に感じていたはずです。
正史三国志の呉主伝によれば、この後に孫権と従者の張世が虎狩りをした話があります。
魯粛の死
第三次濡須口の戦いが終わった217年に魯粛が亡くなっています。
魯粛が亡くなると後任に厳畯が選ばれますが、厳畯が辞退した事で対劉備強硬派の呂蒙が後任となりました。
魯粛がいたからこそ、劉備と孫権は争いながらも同盟が継続出来ていた部分も多々あったわけです。
219年に劉備陣営は法正や黄忠の活躍で定軍山の戦いで勝利し、曹操から漢中を奪っています。
こうした時期に孫権は関羽と婚姻を勧めようとしますが、関羽に断られてしまいました。
普通で考えれば孫権の子と関羽の娘の結婚は、同盟相手と考えれば、友好を深める上で重要です。
しかし、関羽が断った事で、孫権からしてみれば「関羽は我等と友好を結ぶ気があるのか?」と考えてもおかしくはないでしょう。
関羽が孫権の持ち掛けた縁談を断わった事で、両者の対立は決定的になったと考える専門家もいる程です。
関羽は孫権との仲が回復していない状態で、北伐を始めました。
荊州の中南部を平定
関羽の軍は北上し、樊城に籠る曹仁や満寵を攻撃しました。
この時は劉備が漢中王になっており、勢いは関羽にあり樊城の戦いは、関羽が優勢のままに進みます。
曹操は于禁や龐徳を援軍として派遣しますが、関羽側の幸運も重なり龐徳を討ち取り于禁を捕虜としました。
この時に孫権配下の呂蒙や陸遜が動き出し、公安の傅士仁を捕虜とし、虞翻が麋芳を降伏させています。
陸遜も関羽方の城を落し、荊州の中南部は孫権の領地に変わって行きました。。
孫権は朱然と潘璋に麦城に籠る関羽を包囲させています。
関羽は逃げようとしますが、潘璋配下の馬忠により捕虜となり、関平や趙累も同じく捕まってしまいました。
孫権は関羽を処刑すると首は曹操の元に送っています。
これにより劉備陣営は荊州での領地を全て失い、荊州の中南部は孫権が全て領有する事となります。
曹操は上表を行い孫権を驃騎将軍、仮節、荊州牧とし南昌侯としました。
孫権は梁寓を使者とし、漢の朝廷には献上物を捧げ、王惇には馬の買い入れを命じています。
さらに、捕虜にしていた朱光や浩周を返還しました。
因みに、孫権が荊州の中南部を取った時点で、三国志の時代の勢力図は多少の変化はあっても、ほぼ固定されたと言えるでしょう。
尚、孫権が荊州を平定した時に、潘濬が蜀から呉に移りました。
疫病被害
正史三国志の呉主伝に、関羽を討った年に疫病が流行した話があります。
関羽討伐の直後に、呂蒙が病死しただけではなく、蔣欽や孫皎なども亡くなっています。
蒋欽は呂蒙と共に孫権が学問を学ばせた将軍であり、呉にとっては頼りになる将軍です。
孫皎は関羽討伐では呂蒙と共に左右の都督になる話もありましたが、最終的には後詰の大将であり孫呉の武を考える上で重要人物となります。
これらの将軍は関羽討伐を行ってから、間もなくして亡くなっており「関羽の祟り」とも言われますが、実際には流行していた疫病で亡くなってしまったのでしょう。
孫権は関羽討伐には成功しましたが、それと同時に有能な将軍を何人も失ってしまったと言えます。
魏と蜀が皇帝を名乗る
西暦220年は曹操が亡くなった年でもあります。
曹操が亡くなると、曹丕が後継者となり魏王となります。
この年に、魏の梅敷が使者を派遣し、孫権に帰服を申し入れてきました。
これにより呉は五千戸の住民を手に入れる事となります。
曹操の死で混乱があり、梅敷が呉に身を寄せたのかも知れません。
尚、曹丕は魏王となりましたが、献帝から禅譲を受け魏の皇帝として即位しました。
これにより後漢王朝は滅亡したわけです。
曹丕は年号を黄初としました。
曹丕が皇帝に即位した話が劉備の元に入ると、劉備も皇帝を名乗り蜀漢が建国される事になります。
孫権はこの時点では皇帝を名乗ってはいませんが、中華に二人の皇帝が出現した事になるでしょう。
尚、この後に孫権側の記録として「甘露が降った」とする記述があります。
「甘露が降った」というのは、吉兆であり後に孫権が帝位に就くための布石だともされています。
呉主伝に記述を見ると、この後に何度か甘露が降ったとする記述があります。
孫権の戒め
孫権は公安にいましたが、鄂に移り武昌と名前を変え本拠地としました。
孫権は武昌に築城すると、配下の者達には次の様に述べています。
※正史三国志 呉主伝より
安定している時にも滅亡の事を忘れてはならない。
無事にいる時にも危険に対する配慮を行ってはならない。
これが古からの優れた教えでもある。
昔、漢の名臣と言われた雋不疑は、平和な世の中であっても剣を遠ざける事が無かったと聞く。
君子たるもの武を忘れてはいけないからだ。
現在を考えてみるに、身は辺境にあり豺狼の間にいながら、軽率にも変事への心構えを欠いてよいわけがない。
私が聞く所によれば、諸君らは外出する時にも威儀を張る事もなく、従者として兵を従えてはおらぬと聞いておる。
難に備えて我が身を守るとする趣旨とかけ離れた行いだと私は考える。
自分を大事にし名声をあげ、主君や親たちを安心させるのと、危険を犯し辱めを受けるのであれば、どちらが良いのであろうか。
警戒心を持ち命を重んじ、私の意に適えた行動を取って欲しい。
孫権は部下達に不用意な事をしない様に戒めたわけです。
疫病で重臣たちが亡くなっており、さらに孫権の兄の孫策は不用意が禍し、命を落したのであり、孫権は心配して部下達に気持ちを伝えたのでしょう。
この後に孫権は魏に対し、臣従の態度を続け藩臣と称し、関羽討伐の時に捕らえた于禁を魏に返還しました。
呉王に封じられる
この時に孫権は趙咨を曹丕の元に派遣しています。
曹丕が趙咨に「孫権はどの様な君主なのか?」と問うと「聡明で仁智、雄、略がある」と述べています。
孫権は関羽を騙し討ちにした部分もあり、劉備陣営とは絶縁状態で、劉備が戦いの為の準備をしている事も知っていたはずです。
そうした意味でも、魏とは仲良くしておきたかったのでしょう。
蜀漢は漢王朝の再興を大義名分に作られた王朝であり、魏とは結べませんが、呉は場合によっては魏に臣従する事も可能だったわけです。
因みに、曹丕は孫権の長男である孫登に爵位を与えようとしますが、孫権は孫登が幼いと述べ沈珩を派遣し断りを入れています。
孫権は魏に貢物を贈りました。
夷陵の戦い
陸遜を抜擢
劉備は関羽の敵討ちと称して、呉に侵攻してきました。
夷陵の戦いでは初戦で呉軍は破れ押し込まれて行き形勢は不利でした。
こうした事態に対し、孫権は陸遜を総司令官として軍を指揮させています。
孫権が陸遜を司令官にしたのは大抜擢だとする意見もあり、孫権でなければ陸遜を抜擢する事は出来なかったと述べる専門家もいます。
その反面で呂蒙は既になく、蒋欽、孫皎も同時期に亡くなっており、呂範は首都の近辺を守る必要がある事から、陸遜が選ばれるのは必然だと考える人もいます。
夷陵の戦いで重要なのは、孫権が何かしらの理由で陸遜を都督に任命し、大正解だったと言う事です。
陸遜は朱然や潘璋、宋謙らを率いて、蜀軍の侵攻を阻止しました。
陸遜と劉備の戦いは膠着状態となります。
ガラクタに過ぎぬ
孫権は劉備に攻められていたわけですが、曹丕は孫権に珍奇な品を要求してきました。
曹丕は孫権の足元を見ており、珍奇な物品を要求したのでしょう。
呉の臣下達は「曹丕が要求する物は礼から外れており贈るべきではない」と述べました。
それに対し、孫権は次の様に述べています。
※江表伝より
孫権「江南の民たちは主君を命だと貴んでいる。
これこそが私が愛すべきものである。
魏帝(曹丕)が求めるものなど、自分にとってはガラクタに過ぎない。
そんな物など惜しむ必要すらないと感じている。
それに、曹丕は父親の喪に服すべき時なのに、珍奇な品を要求して来る様な奴だ。
礼に背くなどと言ってやっても、無駄な事である」
孫権は曹丕に言われた物品を贈りました。
孫権は身を低くしたわけですが、状況に応じてこうした態度を取れるのが孫権であり、王者としての素質があると言えるでしょう。
他にも、諸葛瑾が蜀の丞相をしている諸葛亮の兄だった事から、蜀に和平を呼び掛けますが、諸葛瑾を讒言した者がいました。
しかし、孫権は「子瑜殿(諸葛瑾)が私を裏切るはずがない」と述べ、取り合わなかった話があります。
夷陵の戦いでの孫権の人を見る目はパーフェクトであり、君主として最適な選択を行ったと言えます。
大事な局面で絶対に人選を誤らないのは、孫権の最大の能力と評価する人もいる状態です。
火計
陸遜と劉備の夷陵の戦いは、長期戦となり劉備軍に気のゆるみが見え始めました。
陸遜はこの状況を見て取ると、火計を提言し、劉備の陣営の後方を焼き討ちする事に成功しています。
劉備はこれにより軍を維持する事が出来ず、退却しました。
この時に、蜀軍の馮習、張南、傅彤、馬良、沙摩柯、程畿などが討死しました。
さらに、北方に孤立した黄権や龐林は魏に投降し、蜀軍で無傷で撤退出来たのは向寵くらいだったはずです。
蜀軍の戦死者が多かった事から、蜀軍が大敗北を喫した事は確実であり、陸遜は孫権に期待に大きく応えたと言えるでしょう。
孫権は陸遜を高く評価し信頼しました。
魏との関係悪化
孫権は陸遜の活躍もあり、夷陵の戦いでは勝利を得ましたが、今度は魏が桓階と辛毗を使者として派遣してきました。
魏は孫権が降伏して来たのは表面上だけであり、本心ではないと考えていたわけです。
桓階と辛毗は孫権に長子の孫登を魏の朝廷に招きたいと述べました。
しかし、孫権は劉備の難が去った事で、これ以上は魏に臣従する必要はないと考えたのか「その資格がない」と辞退しています。
これにより魏と呉の亀裂は決定的となりました。
三方面作戦
魏の曹丕は留守を司馬懿に任せ、自ら呉を征伐する為に動きました。
これが三方面作戦と呼ばれており、洞口の戦い、江陵の戦い、濡須口の戦いが同時に発生し、呉は国難を再び迎えています。
正史三国志によれば、下記の武将が参戦した事になっています。
呉は夷陵の戦いで勝利したとはいえ、損耗もあり、さらに呉よりも魏の方が国力は遥かに高く、またもや孫権は滅亡の危機に立たされました。
夷陵の戦いよりも、三方面作戦の方が呉にとっては苦しかったのではないか?とする見解もあります。
さらに、呉では反抗的な異民族もおり国内がまとまっていなかった事で、孫権も「決戦は避けたい」と考えていました。
孫権は辞を低くして、魏の上書を送り「過ちを悔い改めたい」と願い出ています。
しかし、三方面での決戦は避けられず、全方面で戦いが繰り広げられました。
魏の三方面作戦が展開される中で、呉の晋宗が王直を殺害し魏に降伏する事件も起きています。
晋宗の乱は賀斉、麋芳、劉邵らが鎮圧しました。
呉の将軍らは各地で奮戦し、三方面全てで魏を討ち破りました。
呉の将兵は孫権の期待に見事に応えたというべきでしょう。
尚、三方面作戦が行われている時期に、孫権は夏口の江夏山に城壁を築き、四分歴を改め乾象暦を用いた話があります。
乾象暦の制定に関しては闞沢が大きく関わっています。
因みに、曹丕は呉を攻めたわけですが、蜀は夷陵の戦いで壊滅的な打撃を受けており、魏は呉ではなく蜀を攻めるべきだったのではないか?とする考えもあります。
帝位を断わる
223年の四月に群臣達が孫権に帝位に就くように勧めた話があります。
既に魏だけではなく蜀も皇帝を名乗っており、呉の孫権も皇帝になる様に要請したのでしょう。
魏の三方面作戦を退けた事で、呉は魏からの臣従状態から脱しており、群臣達は孫権に帝位を勧めたとも言えます。
しかし、孫権は承服せず次の様に述べています。
※江表伝より
孫権「漢の王室が滅びるのを救う事も出来なかったのに、漢の王室と同等の位につくなどという気持ちになれるはずがない」
この時の孫権は謙虚さを発揮し、帝位に就くのを断わったわけです。
それでも、呉の臣下の者達は何度も孫権に帝位に就くように要請しました。
しかし、孫権はそれでも首を縦には降らず、次の様に述べています
孫権「先年は玄徳(劉備)が西から攻めて来て、陸遜に対応して貰った。
そこへ魏が援軍を送ると要請があり、私は別の意図があって魏が援軍を派遣すると思っていたのである。
魏の申し出を退ければ魏を恥ずかしめ、魏の真の狙いを速めてしまう事になったであろう。
そうなると魏と蜀を同時に相手にせねばならず、私にとっては難しい局面となってしまう。
それ故に、我慢して魏が封じる呉王の位に就いたのである。
私が呉王になった意味を理解して貰えたであろうか」
孫権は夷陵の戦いで蜀と呉を同時に相手にするのを防ぐ為に、魏に臣従したと述べたわけです。
孫権にしてみれば、魏の三方面作戦を退けたのに、ここで帝位に就き魏や蜀を刺激するのは悪手だと考えたのでしょう。
ただし、魏と呉は既に争っているわけであり、魏軍を退けたこの年が「呉の建国」だとする専門家もいます。
孫権は皇帝を名乗ってはいませんが、実質的には何処にも属さない独立勢力だったわけです。
蜀との同盟復活
孫権は魏と三方面での戦いを強いられながらも、白帝城にいる蜀の劉備に使者を派遣し和睦を求めています。
孫権と劉備は夷陵の戦いもありましたが、魏が呉や蜀の国力を大きく上回っていた事で、共通の敵を前にし和解に舵を切る事になります。
呉と蜀が手を握ったのは、魏が呉と蜀を合わせたよりも大きな戦力を持っていたのが原因と言えます。
呉との完全なる和睦が成立する前の西暦223年に劉備は崩御してしまい、蜀では劉禅が後継者となっています。
孫権は劉備が亡くなった事を知ると、弔問の使者として馮煕を派遣しました。
蜀では劉禅が祭祀を行い諸葛亮が政務を見るという体制となります。
孫権は劉備が亡くなってしまった事で「蜀は同盟を結ぶ価値があるのか?」と考えた話しもありますが、諸葛亮が派遣した鄧芝により呉と蜀の同盟は復活したわけです。
鄧芝は性格的に問題があった部分もある様ですが、孫権は鄧芝を高く評価し、呉蜀同盟の架け橋と考え気にかけていた話があります。
孫権は使者に対し無礼な態度を取ったりする事もありますが、鄧芝や伊籍、費禕、董恢などは高く評価しました。
尚、224年には呉も張温を公式の使者として蜀に派遣しています。
この年に孫権は恩赦を出し死罪が決定していた者の罪を一等減刑させた話があります。
曹丕の遠征
曹丕が呉への遠征を行い広陵まで来ましたが「呉には人物がいるので、直ぐに攻め取る事は出来ない」と述べ、引き上げました。
尚、呉録によれば撤退する曹丕に孫韶と高寿が夜襲を仕掛け、曹丕は混乱し高寿らは帝の副車や羽蓋を手に入れた話があります。
この時に、孫権が趙達に占いをさせると58年後に呉が衰亡すると予言しました。
しかし、呉が滅んだのは西暦280年であり、趙達の予言が成就するよりも先に滅んだと言えるでしょう。
顧雍が丞相となる
西暦225年になると丞相の孫邵が亡くなり、顧雍が丞相となり太常には陳化が任命されています。
呉の文官筆頭は張昭ではありましたが、孫権との性格的な問題もあり顧雍が丞相となったわけです。
尚、この年に根が二つで枝が一つに交わっている連理の木が見つかっており、これが瑞祥だとされました。
この辺りは孫権が帝位に就くための瑞祥と考えられたのでしょう。
ただし、この年は良い事ばかりではなく、鄱陽の賊である彭綺が将軍を名乗り万を超える反乱があったり、地震が多発した年でもあります。
彭綺の乱は227年まで続き、漸く平定される事になります。
食糧不足
226年の春に孫権は令を出し、次の様に述べています。
※正史三国志 呉主伝より
軍を興してより長い月日が経ち民衆たちは耕地を離れている。
家族で互いに助け合い生活出来ぬ様になっている。
私はこうした状況を見るに憐れまずにはいられない。
現在は北方の敵は後退し夷狄の地は平穏を得ている。
州や郡に伝達し民に休息を与えてやって欲しい。
孫権は戦乱が長きにわたって続いている事を考え、国内に休息が必要だと考えたのでしょう。
この時は食料も不足していた様であり、陸遜が開墾したいと願い出て、孫権は許可しました。
それでも、この年は曹丕が崩御した年でもあり、呉主伝によれば、孫権は江夏に兵を出し石包を包囲しますが、成果を挙げる事が出来ず撤退した事が記述されています。
曹丕が崩御した年に孫権が魏を攻撃したのは石陽の戦いであり、魏の江夏太守の文聘に敗れたとも伝わっています。
ただし、この年に蒼梧から鳳凰が現れたとする報告がありました。
戦いには敗れましたが、孫権が皇帝になるのが近いと言わんばかりの出来事でもあったのでしょう。
因みに、蜀ではこの頃に諸葛亮が主導する南蛮征伐が終了し、北伐への準備を着々と進めている段階となります。
石亭の戦い
227年に韓綜が魏に寝返る事件が起きています。
韓綜は孫堅時代から孫家に仕えていた韓当の子です。
228年になると呉の周魴が呉に叛いたと見せかけ、魏の曹休をおびき寄せています。
孫権が後方に控え陸遜、朱桓、全琮らが曹休の軍を壊滅させました。
曹休は救援に来た賈逵のお陰で命拾いしますが、石亭の戦いの後に曹休は賈逵を恨み亡くなっています。
曹休の死は石亭の戦いでの敗戦がかなり応えた様であり、孫権は石亭の戦いにより魏の皇族筆頭とも呼べる曹休を消す事に成功したと言えるでしょう。
尚、この年に呉の武の忠臣として長年活躍して来た呂範もこの世を去っています。
孫権の皇帝即位
孫権は石亭の戦いで魏を破り、北の脅威は去ったと考えたのか229年に皇帝に即位しました。
この時に呉の文武百官たちは揃って、孫権を皇帝になる様に進言した話があります。
さらに、夏口と武昌で黄色い龍と鳳凰が出現した報告も出ました。
孫権は父親の孫堅を追尊し武烈皇帝の位を贈り、母親の呉氏には武烈皇后、兄の孫策には長沙桓王としました。
孫権は長子の孫登を皇太子に指名しています。
父親の孫堅が皇帝の扱いに対し、兄の孫策を「王」としたのは、孫権の正統性を主張する為であり、孫策の事を軽く見たからでははなかったはずです。
孫策を皇帝として扱ってしまうと、孫策の子である孫紹に皇位継承権を与えてしまう事になり、国が乱れると考えたからでしょう。
蜀では孫権の皇帝即位に対し「認めない」とする意見もありましたが、諸葛亮は「承認した方がよい」と考え陳震を派遣し祝った話があります。
諸葛亮は北伐を行い魏の領土を奪おうと考えており、孫権の皇帝即位に反対し、変に刺激したくはなかったのでしょう。
しかし、蜀が孫権を皇帝だと認めたわけであり、孫権は袁術の様な僭称とは違った形で皇帝に即位したわけです。
蜀は孫権が皇帝になる事を承認したわけであり、これにより中華に三人の皇帝が出現しました。
西暦229年からは名実ともに三国時代に入ったと言えます。
尚、興平年間(194,195年)に、呉の街で次の歌が流行ったと言われています。
※正史三国志 呉主伝より
黄金の車に輝いた耳(どろよけ)が付き、閶門から天子が降り立つ
孫権は天子となり予言は成就されたというべきでしょう。
孫権は都を建業に移しましたが、今まで使っていた役所をそのまま使い続け、新たに増築はしなかった話があります。
さらに、陸遜を孫登の後見人としました。
尚、曹操は宦官の孫などと呼ばれる事もありますが、後漢王朝の高官の家柄であり、劉備も劉勝の子孫を名乗っており皇族と見る事ができます。
それらを考えると、三国志の中で孫権が一番出世したのではないか?とする見解もあります。
孫権は日本は日本に侵略した事がある!?
230年に孫権は諸葛直と衛温に命令を下し、夷洲と亶洲を捜索させた話があります。
夷洲や亶洲に関しては、様々な説があり日本列島や種子島、台湾の事ではないか?とする説があります。
この説を信じるならば、孫権が日本を探し出し侵略しようとしたとも考えられるはずです。
しかし、諸葛直と衛温は1年後に夷州から数千人の住民を連れて帰ってきますが、それでも連れて行った兵士の8割から9割が命を落したと伝わっています。
元より夷洲や亶洲の場所はよく分かっていなかったともされており、無理な仕事だったとも言えます。
尚、孫権は任務失敗の責任を衛温と諸葛直に取らせ処刑しました。
陸遜が反対したのにも関わらず、孫権は夷洲、亶洲を捜索しており、この頃から耄碌が始まったのではないか?とする指摘もあります。
因みに、231年に太常の潘濬が五万の軍勢で異民族を討伐しており、こちらは成功した様です。
公孫淵の二枚舌外交
232年の3月に孫権は周賀と裴潜を遼東に派遣しました。
周賀と裴潜は田豫と戦い周賀が斬られた話があるので、規模は不明ですが遠征軍だったのでしょう。
遼東の公孫淵は孫権が遼東にまで、影響を及ぼす事が出来ると考えたのか配下の宿舒、孫綜を孫権に派遣してきました。
宿舒、孫綜は公孫淵が孫権の臣下になりたいと願っていると伝え、さらに毛皮などの珍奇な品も贈ってきたわけです。
孫権は公孫淵に爵位を与えました。
翌年には重臣たちが反対する中で、宿舒、孫綜を帰国させ、さらには臣下の張弥、許晏、賀達らが1万の兵を指揮さ公孫淵への使者となります。
孫権は公孫淵に対し、珍奇な品々まで贈り丁重に扱ったわけです。
孫権としては、魏の背後に位置する公孫淵に、後方を攪乱して欲しかったのでしょう。
しかし、公孫淵は兵士と財宝だけを受け取り、張弥らを処刑し首は魏に送りました。
孫権は公孫淵の態度に激怒し、遼東遠征を画策しますが、薛綜らが諫めた事で遼東遠征は中止となっています。
尚、裴松之は孫権が公孫淵を重く扱おうとした態度に対し、民衆に対する思いやりもなく、暗愚というだけではなく無道の君主だと批判している状態です。
因みに、公孫淵は魏と呉に二枚舌外交を仕掛けますが、西暦238年に魏の司馬懿に攻撃され命を落しています。
しかし、呉側の記録だと公孫淵が滅びた翌年である239年に鄭冑、羊衜、孫怡を遼東に派遣し、魏の守備隊である張持や高慮を破り、男女を捕虜にしたとあります。
それらを考慮すると、孫権が遼東の公孫淵を討つという行為は、全くの無謀というわけではなかったのかも知れません。
ただし、呉の支配地域と遼東は距離が離れており、呉が遼東を征服しても維持する事は出来なかったはずです。
尚、233年に孫権は北伐を行い第三次合肥の戦いがありましたが、満寵が守る合肥新城を攻略する事が出来ず撤退しました。
因みに、朝鮮の歴史書である三国史記によれば孫権は公孫淵だけではなく、高句麗にも使者を派遣した話があります。
孫権が送った高句麗の使者も斬られており、孫権が公孫淵に激怒した理由は、高句麗の方も上手く行かなかった事に起因するのかも知れません。
第四次合肥の戦い
西暦234年に孫権は荊州の江夏にある夏口に、陸遜と諸葛瑾の軍営を置く様に命じました。
さらに、孫韶や張承は淮陰に進軍させ、孫権は自ら合肥新城を包囲しています。
昨年に続き合肥の戦いが行われ、これが234年の第四次合肥の戦いです。
この年は蜀の諸葛亮も北伐を行っており、魏の司馬懿との五丈原の戦いがありました。
孫権の頭の中では、魏は蜀の動きに対応するだけで手いっぱいとなり、東方に隙が出来ると考えていたのでしょう。
しかし、孫権の予想に反し、曹叡は自ら水軍を率いて東征しました。
孫権は曹叡が自ら遠征軍を率いてやってくる事を知ると、兵を引き曹叡が到着する頃には、撤退を完全に終えています。
第四次合肥に戦いは孫権の采配がまずかったわけではなく、曹叡が見事な動きを見せた事で魏に軍配があがりました。
尚、第四次合肥の戦いでは呉軍の孫泰が命を落し、五丈原では諸葛亮が没しています。
蜀軍は撤退しましたが、楊儀と魏延の対立もあり魏延が命を落しています。
蜀では蔣琬が政務を執る事となりました。
この年に呉では、李桓と羅厲が反旗を翻しますが、翌年に呂岱、吾粲、唐咨らにより鎮圧されています。
鄱陽の彭旦も反乱を起こしますが、陸遜が乱を鎮めています。
呂壱事件
孫権が呂壱を信任した話があります。
正史三国志によると呂壱は「生まれつき容赦のない男で法令を厳しく適用した」と記録されています。
これを見る限りでは呂壱は酷吏だったのでしょう。
呂壱が余りにも度を越えて法律を適用するせいか、太子の孫登や顧雍が孫権を諫めますが、聞き入れられる事はありませんでした。
孫権は呂壱を信任しており誰の話も耳を貸さなかった事から、重臣たちの孫権を諫めなかったわけです。
荊州からやってきた潘濬が命がけで孫権を諫めようとすると、状況は変わり始めました。
呂壱自身にも冤罪で同僚を失脚させたり利益を貪ろうとしたり、悪事を行っていた事が発覚する事となります。
呂壱は誅殺されました。
しかし、孫権と重臣たちの関係は悪くなり、孫権は袁礼を使者に立て、諸葛瑾、朱然、歩隲、呂岱や将軍達に詫びた話があります。
それでも、孫権と重臣たちの溝は埋まらず、最後は諸葛瑾が上手くまとめました。
尚、孫権が酷吏である呂壱を重用したのは、呉は名士や豪族の力が強く、孫権は苦々しく思っており、彼らを法律を持って取り締まる事が出来る呂壱を重用したとも考えられています。
呉は豪族連合の上に孫家が君臨している状態であり、中央集権化したい孫権が呂壱を重用したとする見解もあるという事です。
恩赦を出す
239年に蒋秘が南の異民族を討伐しました。
この時に蒋秘配下の廖式は厳綱を殺害し、平南将軍を名乗り弟の廖潜と共に反旗を翻す事になります。
廖式、廖潜の乱は大規模となり数万に膨れ上がりました。
孫権は呂岱と唐咨を派遣し、1年ほどで乱を鎮圧しています。
しかし、呉の国内で大規模な反乱が起きたからなのか、孫権は次の様な詔を出しています。
※正史三国志呉主伝より
主君というものは民衆がいなければ成り立たない。
その民衆は食料が無くては生きていく事が出来ない。
しかし、最近は民衆を軍役に出す事が多く、天候不順も重なり作物の稔りも少ない。
それにも関わらず役人の中には良からぬ者がおり、民衆たちを農繁期に労役として使い、飢餓と困窮を招いている。
これからは督軍と郡守は、法を守らぬ者は注意深く見て察知する様にせよ。
農繁期に労役により民を乱す者は摘発し上聞する様にして貰いたい
さらに、孫権は大赦を出し、郡や県に詔を出し城郭を修理し、物見やぐらを造り塹壕や堀で、盗賊に備える様に命令しています。
三国志の時代は魏、呉、蜀で三人の皇帝が争った時代であり、戦いがある度に国内は疲弊したと言えるのでしょう。
それでも、戦いをやめるわけにも行かず、諸葛恪が六安を攻撃し、朱然は樊を包囲した話があります。
尚、241年に孫権は大規模な軍事展開を行い、魏に対し一定の成果を挙げる事に成功しています。
ただし、全てに完勝したわけではなく、魏の王淩に全琮が敗れ秦晃ら10数人の将校が命を落す事態にもなっています。
二宮の変
241年は孫権にとってのターニングポイントでした。
241年に孫権の後継者であった孫登が亡くなったわけです。
さらには、孫権を巧みに諫める事が出来る諸葛瑾まで亡くなっています。
孫権は孫登に大きな期待を寄せており、ショックは大きかったはずです。
これが二宮の変に繋がり、呉に暗雲が立ち込める事になります。
孫登は亡くなる時に遺書を残しており、次男の孫和を次の皇太子に指名しました。
孫権も孫和を寵愛していた事で、孫和を皇太子とし孫覇を魯王としています。
孫権の考えでは孫和の補佐を孫覇にさせようと考えたともされています。
孫策と孫権の様な関係を孫和と孫覇に期待したのかも知れません。
しかし、孫権の期待とは裏腹に孫覇は孫和を嫌っていた話があり、さらに言えば孫和と孫覇の母親はそれ以上に仲が悪かったわけです。
さらに、孫魯班の讒言もあり皇太子派と魯王派に分裂し争う事となります。
呉の宮中では孫和派と孫覇派で完全に分裂しました。
こうした状況を見て丞相をの陸遜は「皇太子の孫和と魯王の孫覇にはしっかりと待遇に差をつけるべきだ」と進言しました。
陸遜は一度ならず四度も孫権を諫めますが、孫権は激怒し陸遜は245年に憤死しています。
陸遜は亡くなりましたが、それでも二宮の変は収まりませんでした。
250年に孫権は孫和を廃立し、孫覇には自害を命じています。
孫権は孫和派や孫覇派だった人間を悉く処罰し、中には墓を掘り返されて長江に流された者もいた程です。
孫権は形の上では喧嘩両成敗の立場を取り、孫権の七男である孫亮を後継者に据えました。
孫亮が生まれたのは西暦243年であり、この時はまだ7歳の子供でしかなかったわけです。
孫権の最期
孫権は252年に亡くなる事となります。
この時に孫権は71歳だったと伝わっています。
孫権の後継者は孫亮がなりますが、僅か9歳でしかなく孫権は諸葛恪を後見人としました。
さらに、呉の国内では二宮の変で多くの者が命を落しており、官僚機構など国力はがた落ち状態だったわけです。
後に蜀の親呉派の宗預が解任され、閻宇が巴東に駐屯した事で、蜀ですら弱体化した呉への侵攻を考えていたのではないか?とする説があります。
孫権は二宮の変で孫呉をボロボロにして世を去ってしまったと言えるでしょう。
孫権の評価
陳寿は孫権の事を「身を引くし恥を忍び越王勾践の様な非凡さを兼ね備えている」と述べています。
越王勾践は臥薪嘗胆の諺でも有名な人物で、21年掛けて呉王夫差に復讐した人物でもあります。
越王勾践は強大な呉に対し身を引くし、最後には呉を滅ぼしたわけです。
孫権が魏に対し頭を下げる行為が越王勾践と重なったのでしょう。
尚、孫権が多くの賢臣に支えられた様に、越王勾践も范蠡や文種などの賢臣に支えられて呉への復習を成し遂げています。
さらに、陳寿は孫権の綿密な計画などを評価し、英傑だと述べました。
その反面で孫権の疑り深い性格や残忍な部分なども指摘しています。
孫権は皇帝になるまでは、派手さは無くても英傑と呼べる人物でしたが、最後の方は暗愚な君主になっていたと言えるのかも知れません。
陳寿は呉の滅亡が孫権にある様な事を言っていますが、裴松之は呉が滅亡した最大の理由は、孫権ではなく孫晧が皇帝になった事や孫休が若くして亡くなった事だと述べています。
孫権は評価が難しい君主だと言えるでしょう。
それでも、三国志の中では呉を興隆させた人物でもあり、英傑だと感じました。