諸葛亮は字が孔明であり、三国志好きであれば誰でも知っている人物です。
三国志演義では無敵の軍師として描かれ、誰も敵わない最強の人物として描かれています。
史実と考えられる正史三国志だと、諸葛亮が戦下手などの評価もありますが、史実を見ても偉大な政治家だった事が分かります。
諸葛亮は劉備の三顧の礼により招かれ、天下三分の計を立案し、司馬懿との五丈原の戦いまで蜀を支え続けました。
今回は三国志の蜀の名臣である、諸葛亮孔明の史実の実績を解説します。
徐州の出身
諸葛亮は徐州琅邪郡陽都県の出身とされています。
諸葛亮の祖先には諸葛豊がおり、前漢の元帝の時代に司隷校尉に任命された記録があります。
諸葛豊は最後は無官で終わりますが、前漢で高官となった実績があり、諸葛一族は名門であり名士の家柄です。
諸葛亮の父親は諸葛珪ですが、早くに亡くなったともされています。
諸葛亮には7つ年上の兄である諸葛瑾がおり、呉では大将軍になった話があり、弟には諸葛均がおり諸葛亮と共に蜀に仕えました。
一族の諸葛誕も魏で高官になっています。
それを考慮すれば、諸葛亮の一族は魏、呉、蜀でトップクラスの役職を得た凄い一族と言えるでしょう。
ただし、諸葛瑾の子である諸葛恪は才気はありましたが、最後は破滅の道を歩んでいます。
尚、諸葛亮には名前が分かりませんが妹もいた事が分かっています。
諸葛玄を頼る
諸葛亮は後漢の霊帝の時代である、西暦181年に生まれました。
余談ですが、諸葛亮が生まれた年に後漢の劉協(献帝)も生まれた話があります。
185年には黄巾の乱が勃発しており、世の中は混乱への向かって行きます。
張角の死や皇甫嵩の活躍などで、黄巾の乱は鎮圧されますが、社会不安は大きくなっていきます。
こうした中で、霊帝が崩御し大将軍の何進が宦官により殺されています。
何進が殺された事で怒った袁紹が宮中に雪崩れ込み、宦官を虐殺しました。
混乱の中で董卓が少帝と劉協(後の献帝)を保護した事で、実権を握ります。
こうした混乱期に、諸葛亮の父親である諸葛珪は亡くなったと思われ、諸葛亮と諸葛均の二人の兄弟は、叔父の諸葛玄に養われる事になります。
幼き日の諸葛亮の父親代わりが、諸葛玄だったのかも知れません。
尚、兄の諸葛瑾は洛陽に留学した話もあり、諸葛亮とは別行動を取る様になります。
諸葛瑾と諸葛亮がなぜ別行動を取ったのかは不明です。
諸葛瑾は父親の後妻と呉に向かったなどの説もありますが、はっきりとしない部分が多いです。
尚、諸葛瑾と諸葛亮は異母兄弟とする説も存在しています。
徐州から荊州に移動
諸葛玄は袁術から豫章太守に任命されています。
諸葛玄は袁術から任命された豫章太守の任を受け任地に向かい、諸葛亮や諸葛瑾も帯同する事になります。
しかし、袁術の使者が後漢王朝の朝廷がある長安に到着する前に、朝廷側は黄巾の乱で功績があった朱儁の子である、朱皓を豫章太守に任命してしまいました。
豫章太守が二人いる事となり、朱皓は劉繇から兵を借りて諸葛玄を攻撃します。
諸葛玄は形勢不利であり、劉表を頼って襄陽に行く事になります。
これにより諸葛亮と諸葛均は、襄陽の西にある隆中に住んだわけです。
劉表が学校を建てるなど、学問にも熱心であり、諸葛亮も荊州で学ぶ事になります。
尚、献帝春秋では、諸葛玄は劉繇に属する笮融の攻撃で命を落とし、諸葛亮と諸葛均は襄陽に行った事になっています。
諸葛亮は荊州に行くと、諸葛玄の伝手などを使い、荊州の知識人達と交流を持つ事になります。
これにより、諸葛亮は当時の知識人である「名士」の仲間入りをしたわけです。
尚、諸葛亮は成人すると、身長八尺(184cm)とあり、張飛と同じ位の身長を手に入れた事になります。
因みに、諸葛亮の肌の色は三国志演義のイメージで白っぽい雰囲気があるかも知れませんが、実際には浅黒い皮膚をしていた様です。
諸葛亮は晴耕雨読の生活をしていた話しもあり、外で仕事をしているうちに、日焼けにより黒くなってしまったのかも知れません。
管仲・楽毅にも匹敵する人物
諸葛亮は196年頃になると、司馬徽の門下生になったのではないか?と考えられています。
諸葛亮は石韜、徐庶、孟建、崔鈞、向朗らと交わりを結んだ話があります。
この頃の荊州は多くの知識人が集まっており、諸葛亮は多くの人々に対し「刺史や郡守になれる」と述べていた様です。
それに対して、諸葛亮は自分の事を「管仲や楽毅」にも匹敵する人物と言っていました。
管仲は春秋時代に斉の桓公を春秋五覇の一人に押し上げた人物であり、楽毅は弱小の燕で合従軍を組織し、天下の強国である斉を壊滅状態にした名臣です。
諸葛亮の管仲・楽毅発言は、大半の人は相手にしなかった話があります。
ただし、崔州平と徐庶だけは諸葛亮の能力を認めていました。
尚、諸葛亮の管仲、楽毅発言は、管仲は主君を殺された事があり、楽毅は祖国である中山が滅んでいます。
諸葛亮も戦乱で徐州を出なければならず、諸葛玄も殺されている事から、諸葛亮は管仲・楽毅を自分に重ね合わせて述べたとする説もあります。
因みに、諸葛亮を見ていると、管仲や楽毅よりも漢の高祖劉邦を支えた蕭何に近い人物だと言えます。
臥竜鳳雛
当時の名士グループの中には、龐徳公なる人物がいました。
龐徳公の従弟が龐統です。
龐徳公が諸葛亮を「臥竜(伏龍)」と名付け、龐統の事を「鳳雛」と名付け、司馬徽の事を水鏡と名付けました。
臥竜と言うのは、地に伏せた竜を指し、諸葛亮が天に昇る竜だと考えて、龐徳公が命名したのでしょう。
龐統が鳳凰の雛であり、二人合わせて「臥竜鳳雛」となるわけです。
三国志演義で司馬徽が「伏龍鳳雛のいずれかを得る事が出来れば、天下を取る事が出来る。」と述べた話しは有名です。
諸葛亮の将来性を期待しての、言葉でもあるのでしょう。
尚、三国志演義だと、司馬徽が諸葛亮と龐統の事を臥龍鳳雛と名付けていますが、これは三国志演義の創作です。
余談ですが、諸葛亮の妹は龐徳公の息子である龐山民に嫁いだ話があります。
真面目に勉強をしなかった諸葛亮
劉表が学問を栄えさせた事で「荊州学」とも呼べる程に学問が、荊州では盛んでした。
益州や中原からも多くの名士が襄陽に集まっています。
諸葛亮は後に天才軍師と呼ばれるわけだから、さぞかし真面目に勉強したのではないか?と考える人もいるかと思います。
しかし、荊州学では春秋左氏伝の一つの文を細かく議論したりした話があります。
徐庶などは学問を精密に理解しようとした話がありますが、諸葛亮の肌には合わなかった様です。
諸葛亮は広く浅くで多くの事を学んだとされています。
諸葛亮が広く浅く多くの事を学んだ理由は、将来の事を考えて細かい事は官僚にやらせればよいと考えていた説があります。
つまり、国のトップである丞相であれば、全体を見て判断すればよく、細かい事に捉われるべきではないと考えていたのでしょう。
ただし、諸葛亮は劉備亡き後に、多くの事を自分でやろうとした形跡もあり、初心を忘れてしまったのではないか?とも考えられます。
因みに、諸葛亮は大して勉学に励まなかったとする話もあります。
尚、青年期の諸葛亮は梁父吟を好み、よく歌っていたと伝わっています。
孔明の嫁選び
襄陽記に孔明の嫁選びの話があります。
黄承彦は名士であり、諸葛亮に会うと次の様に述べています。
黄商彦「君(諸葛亮)は妻を探していると聞いたが、儂の娘はどうであろうか。
容貌は赤毛で色黒と外見はイマイチだが、才知の方は君とお似合いだ。」
諸葛亮は黄承彦の娘を貰い受ける事を決めると、黄承彦は直ぐに娘の黄月英を諸葛亮に送り届けた話があります。
黄月英の外見が酷かった事もあり、「孔明の嫁選び」は笑い者となり、次の諺が出来たとも言われています。
「孔明の嫁選びを真似するでないぞ。黄承彦の醜い娘がやって来る。」
酷い言われ様ですが、諸葛亮は外見ではなく中身を見て判断したと言う事なのでしょう。
尚、孫策や周瑜が美人で有名な大喬と小橋を娶ったのと対比して考えると、諸葛亮らしいなと思う部分もあります。
ただし、諸葛亮は47歳まで実子が誕生しなかった話もあり、黄月英との間には子供が出来なかったとも考えられています。
諸葛亮も黄月英との夜の営みは少なかった可能性もあるでしょう。
因みに、黄承彦の妻の妹達の夫は劉表や蔡瑁であり、荊州の有力者だと言えます。
一説によると徐州を離れて地盤を失った諸葛亮の一族が後ろ盾を欲し、黄月英と諸葛亮が結婚したとする説もあります。
夢がない説でもありますが、真実は不明です。
劉備に仕える
諸葛亮は三顧の礼により劉備に仕える事になります。
諸葛亮は劉備と面会すると、隆中策とも天下三分の計とも呼ばれる戦略を提示したわけです。
尚、この時の諸葛亮の年齢は27歳だったと伝わっています。
劉表や曹操に仕えなかった理由
諸葛亮は名士であり、劉表や曹操に仕える事も可能だったはずです。
諸葛亮は襄陽付近にいるのに劉表に仕えなかった理由は、劉表は学問振興には熱心でしたが、劉表の政治は評判が悪かった事が原因ともされています。
諸葛亮は「劉表は大事を成せる人物ではない。」と考え仕官しなかったのでしょう。
諸葛亮が曹操陣営に加入しなかった理由は、当時の曹操は官渡の戦い後に一大勢力を築いており、自分が曹操に仕えても活躍の場は少ないと考えたはずです。
当時の曹操陣営には、優れた人材が多くいましたし、実際に諸葛亮が曹操に仕えても、丞相にはなれなかった可能性は高いでしょう。
そこで、白羽の矢が立ったのが劉備となります。
三顧の礼
諸葛亮は名士たちと交わりはありましたが、仕えようとはせずに晴耕雨読の気ままな生活をしていた話があります。
この時に劉備は劉表の後援もあり、新野に駐屯していました。
諸葛亮の友人の徐庶は、既に劉備に仕えており、徐庶が諸葛亮の事を教えたとされています。
劉備は諸葛亮に興味を持ち、三度も諸葛亮に会いに行く事になります。
この時の劉備は位で言えば後漢王朝の左将軍であり、諸葛亮は書生とも言える身分です。
劉備の方が圧倒的に位が高いにも関わらず、劉備は諸葛亮の元に三回も会いに行った事から、三顧の礼と呼ばれる様になります。
ただし、当時の名士の世界では出仕を求められても、断るというパフォーマンスが主流であり、同じ事を諸葛亮がやったとも言えます。
一説によると、三顧の礼を通じて、諸葛亮は劉備に名士への対応の仕方を教えたとも考えられています。
ただし、魏略の記述では諸葛亮から劉備にアプローチした事になっており、三顧の礼は存在しません。
三顧の礼があったのかは不明ですが、劉備と諸葛亮は荊州で会い、諸葛亮が劉備の配下になった事だけは間違いありません。
因みに、劉備も諸葛亮を配下にした事で、名士層を部下に持つ事が可能になったともされています。
劉備は過去に陳羣や陳登などの名士層と交流を持った事はありましたが、陳羣や陳登は劉備に従って各地を転戦する事はなかったわけです。
諸葛亮は劉備に戦略を示すだけではなく、名士の迎える重要さを説き、名士を迎え入れる為の用意もしたとされています。
尚、諸葛亮が劉備の配下になったのは西暦207年であり、あと1年遅く劉備が諸葛亮を得ようとしたら、会えない可能性もあり、劉備は蜀を建国出来なかったと指摘されています。
天下三分の計
劉備は諸葛亮の元を訪れますが、3回目で漸く諸葛亮に会う事が出来ました。
諸葛亮は劉備に天下三分の計を進言した話があります。
諸葛亮は人払いを行い、次の様に劉備に語ります。
諸葛亮「曹操は袁紹に比べると物資も兵士も少なかったのに、最後に勝ったのは人間の為す計略のお陰です。
曹操は既に天子を擁立し100万の軍隊を持ち、対等に戦える相手ではありません。
孫権は孫堅、孫策の後を継ぎ国家は堅固であり、多数の賢人が孫権の手足となり働いています。
孫権とも争う事は出来ません。
荊州は武を立てる事が出来る国なのに、領主はその器ではありません。
益州は堅固な要塞の地であり、豊かな平野が広がっていますが、治めている劉璋は暗愚であり、北方の張魯に悩まされている状態です。
益州の人々は、明君を望んでいます。
孫権と誼を結び、荊州を益州をまたがって支配する事が出来れば、覇業を成就する土地を得ます。
変事が起きた時に、北上すれば覇業は成就する事でしょう。」
諸葛亮は曹操は既に強力な勢力となっており、孫権は孫堅、孫策の遺業を継ぎ、江東で地盤を固めているから、攻略する事は出来ない。
しかし、荊州と益州であれば支配する事が出来て、天下を望めると説いたわけです。
曹操の勢力が北を治め、孫権の勢力が南東、劉備の勢力が南西を支配する構想を諸葛亮は述べており、天下を三つに割る事から、天下三分の計と呼ばれています。
諸葛亮が天下三分の計を劉備に説く事が出来たのは、名士層からのネットワークで情報を得ていた事が大きいでしょう。
因みに、天下三分の計は諸葛亮のオリジナルではなく、楚漢戦争で項羽配下の武渉や蒯通が韓信に述べた事で有名です。
尚、韓信は天下三分の計を採用せずに、変に劉邦に義理を果たしたが為に、最後は呂后や蕭何の計もあり、処刑されています。
水魚の交わり
劉備は諸葛亮を得ると、日に日に親密になっていきます。
劉備は諸葛亮の能力を認め重用していきます。
劉備が諸葛亮の意見に耳を傾けるのに、面白くなかったのが古参の配下である関羽と張飛です
劉備は関羽と張飛を宥めて、次の様に言っています。
劉備「儂が孔明(諸葛亮)を必要とするのは、魚に水が必要なのと同じだ。諸君らは二度と文句を言わないで欲しい。」
劉備の話を聞いた関羽と張飛は、以後は文句を言わなかったとあります。
諸葛亮自身もかなり気を遣う事が出来る人間なので、関羽や張飛には、かなりの心配りがあった様に感じます。
劉琦が諸葛亮を高く評価
劉表の長子は劉琦と言い、異母弟に劉琮がいました。
劉琦も諸葛亮の能力を高く評価していた話があります。
劉邦は後妻の子である劉琮(りゅうそう)を後継者にしたいと願い、劉琦の居場所は無くなっていきます。
劉琦は身の危険を感じ諸葛亮に相談しようとしましたが、諸葛亮はいつも拒否した話があります。
劉琦は高殿で諸葛亮と宴会を催し、高殿に昇るはしごを取り外してしまいました。
諸葛亮らしからぬ失態ですが、諸葛亮は高殿から降りられなくなってしまったわけです。
劉琦は諸葛亮に意見を求めると、諸葛亮は春秋時代の申生と重耳の話を例に出し、江夏太守だった黄祖の後任になる様に自薦するのが良いと伝えます。
劉琦は諸葛亮の言葉を聴き入れ、江夏太守となり危険を回避した話があります。
曹操軍の南下
曹操軍が南下を始めると、新野で対抗する事は難しい状態となり、劉備も江陵を抑える為に南下を始めています。
劉琮が降伏
曹操は袁紹の遺児である袁譚、袁煕、袁尚を倒し北方を平定すると南下を始めます。
この時に荊州では劉表が亡くなり、劉琮が後継者になっていました。
荊州の世論では「劉備を将軍にして曹操を迎え撃つ」という考えだった話もありますが、劉琮は降伏を決意します。
劉琮には戦う意思があった話もありますが、新曹操派の蒯越(かいえつ)、傅巽、王粲らの説得により降伏を決断しました。
この時に劉備には一言も相談せずに降伏を決断し、降伏するとした連絡も劉備に入れなかったわけです。
勿論、劉備は怒りますが、荊州の兵を使う事が出来なくなり、新野では曹操軍の攻撃を防ぐ事は不可能と判断し、劉備は諸葛亮らを引き連れて南下を始めます。
襄陽攻撃を進言
劉備軍は物資が大量にある江陵を目指して南下しますが、劉琮の本拠地である襄陽城の前を通ると、諸葛亮が次の様に述べた話があります。
諸葛亮「今の状態で劉琮を攻撃すれば荊州を支配する事が出来ます。」
諸葛亮は襄陽を攻撃すれば、荊州の主になれると劉備に述べたわけです。
劉備は劉表にお世話になった事を考え「忍びない」と発言し、襄陽攻撃を控えています。
上記の諸葛亮の言葉は正史三国志の先主伝にある言葉ですが、このタイミングで襄陽を攻撃すれば落とす事が出来るのかは謎です。
襄陽は劉琮の本拠地であり、守りも固かったのではないでしょうか?
さらに、劉琮の配下には蒯越ら知恵者がおり、襄陽を取るにしても騙し討ちをするなどの策が必要だと感じています。
諸葛亮の「襄陽攻撃案」は謎があります。
徐庶の離脱
劉備軍は江陵を目指して南下しますが、劉備を慕った民衆たちが後に続く事になります。
劉備は民衆を引き連れての退却戦を余儀なくされ、曹操軍に追いつかれる事になります。
諸葛亮の学友である徐庶も母親が捕らえられた事で、劉備に別れを告げました。
徐庶が劉備陣営から離脱した理由は、母親が原因と言わていますが、実際には劉備陣営に身を置く場所がなくなったとする説もあります。
劉備は徐庶が配下になった時は、徐庶のビジョンで動いていたが、諸葛亮が加わると諸葛亮のビジョンで動く様になったとも考えられています。
劉備陣営は曹操陣営と違って勢力が小さく、徐庶は身を置く場所を失っていったとする説もある様です。
徐庶の離脱を聞いた諸葛亮が、徐庶に対して何を思ったのかは記録がなく残っていません。
尚、曹操軍の追撃戦である長坂の戦いは趙雲が阿斗と甘夫人を保護し、張飛の長坂橋仁王立ちなどもありましたが、劉備は手痛い打撃を受ける事になりました。
赤壁の戦い
赤壁の戦いで劉備と孫権は手を組み曹操を破る事になります。
三国志演義では諸葛亮が風を吹かせたり、矢を集めるなどの超人的な活躍がありますが、史実ではそこまでの活躍はしていません。
魯粛との出会い
劉備軍は南下を続け江夏太守の劉琦や関羽らと合流し一安心します。
劉備は交州の呉巨を頼る事を考えていた話しもありますが、諸葛亮は夏口まで来ると次の言葉を述べた話があります。
諸葛亮「事態は切迫しております。孫将軍(孫権)に救援依頼を求めたいと思います。」
諸葛亮は自ら使者となり、孫権に援軍要請の使者になると言ったわけです。
劉表の弔問とする名目で荊州の視察に来た、孫権配下の魯粛と出会った事もあり、トントン拍子で諸葛亮が援軍の使者になる事が決まったのでしょう。
諸葛亮伝によると、この時の孫権は軍勢を従えて柴桑にいた話があります。
諸葛亮は孫権の前で弁舌を奮う事になります。
孫権に弁舌を奮う
諸葛亮は孫権に会うと状況を伝えた上で、次の様に述べています。
諸葛亮「曹操軍と戦う力があれば決戦を挑み、戦う力がなければ臣下の礼をとって服従すべきです。」
諸葛亮の言葉を聞いた孫権は「劉備が曹操に降伏しないのは何故だ。」と問う事になります。
諸葛亮は秦末期から楚漢戦争で活躍した斉の田横の話を引き合いとし、劉備が王室の後裔である事や多くの士に敬慕されている事を述べた上で、次の様に語っています。
諸葛亮「劉備様が成就されないのであれば、それは天命なのです。
どうして曹操の配下になる事が出来ましょうぞ。」
孫権は諸葛亮の言葉にムッとし、次の様に述べています。
孫権「私は十万の軍勢を持ちながら人の下に就くわけにはいかない。儂は決断をした。」
孫権の言葉を聞き終わると諸葛亮は江夏の劉琦が1万の軍勢を擁し、関羽の水軍も1万いる事を述べ、孫子の兵法も例に出し、孫権に畳みかけたわけです。
孫権は納得し周瑜、程普、魯粛ら水軍3万で曹操軍と決戦を挑む事になります。
正史三国志の諸葛亮伝だと諸葛亮の言葉で孫権が動いたとしたようなニュアンスとなっていますが、実際には孫権に開戦の決意をさせたのは周瑜と魯粛だったはずです。
周瑜や魯粛の伝では、周瑜や魯粛が孫権を説得し開戦に向かわせた事になっています。
尚、三国志演義では諸葛亮が張昭、虞翻、歩隲、陸績、厳畯、程秉、張温、駱統らを論破した話がありますが、三国志演義の虚構だと考えた方が良いでしょう。
諸葛亮が孫権の配下にならなかった理由
袁準が著した「袁子」によると、孫権配下の張昭が、諸葛亮を孫権の配下となる様に推薦した話があります。
しかし、諸葛亮は孫権の配下になる事を受けませんでした。
ある人が、諸葛亮に孫権の配下になる事を断わった理由を尋ねると、次の様に答えています。
諸葛亮「孫権様は人主の器と言っても良いでしょう。
孫権様の度量を監察してみるに、私の才能を認める事は出来ても、私の才能を十分に発揮させる事は出来ないでしょう。
それ故に、私は孫権様の元に留まらないのです。」
裴松之は「ならば孫権が諸葛亮の能力を使いこなす事が出来れば孫権に仕えるのか?」と投げかけていますが、諸葛亮は劉備の配下となる事を決めた時から、主君を変えようとは思わなかった様に感じています。
荊州の一部を借用
赤壁の戦いが始まりますが、三国志演義の様な諸葛亮の活躍は無く、実際に勝利に貢献したのは周瑜、程普、魯粛、黄蓋などの呉の将軍達です。
諸葛亮ファンからしてみると残念に感じるかも知れませんが、周瑜の策略を全て諸葛亮が見切っていたなどの話もありません。
史実を見る限りでは、諸葛亮が赤壁の戦いに関与した形跡もないです。
赤壁の戦いは黄蓋の火計があったり、曹操軍で疫病やら寄生虫が蔓延したお陰で、曹操は北に撤退しました。
曹操は曹仁を江陵に残し、徐晃や満寵には当陽・漢津を守備させていますが、結局は周瑜の軍に敗れて北に退いています。
劉備は赤壁の戦いの後に、荊州四英傑とも呼ばれる劉度、趙範、金旋、韓玄らを撃破しています。
劉備は孫権から借用という形ではありますが、赤壁の戦い後に領土を得る事になったわけです。
劉備は長沙、武陵、桂陽、零陵の四郡を手に入れ、諸葛亮は軍師中郎将に任命され三郡の統括を担当した話があります。
諸葛亮の役割は領地を安定させ、十分な税収を確保し軍事に充てて行く事だったとされています。
裏方仕事が諸葛亮の役割であり、政治が主な仕事だったはずです。
尚、諸葛亮も天下三分の計のプランに入っている荊州の一部を領有した事で、喜びはあったのではないかと思われます。
因みに、孫権は妹の孫尚香を劉備に嫁がせて誼を結んだ話があります。
孫尚香は孫夫人と呼ばれる事になります。
劉備の入蜀
孫権から借用という形で荊州の一部を領有しましたが、劉備は益州を取る為に動く事になります。
周瑜の死
諸葛亮は益州を取り劉備の本拠地にしたかったわけですが、呉の周瑜や甘寧は天下三分の計ならず、天下二分の計を狙っていました。
中国の北方が曹操の勢力となり、南方が孫権の支配下となる一足早い南北朝時代を画策していたわけです。
孫権も周瑜に孫瑜を付けて、益州侵攻の許可を出します。
しかし、周瑜が益州を攻める前に病死してしまったわけです。
三国志演義だと諸葛亮が周瑜を憤死させた事になっていますが、これも史実ではありません。
ただし、周瑜が死亡した事で、劉備は益州を取る事が出来る様になります。
尚、周瑜の部下には龐統がおり、周瑜が亡くなると龐統も劉備の配下となっています。
劉備配下に諸葛亮・龐統が揃い、臥龍鳳雛の両方を手に入れる事になったわけです。
劉備が益州に侵攻
劉備は益州の劉璋を助ける名目で蜀の地に向かいます。
劉備は名目上は、益州の北にいる漢中の張魯討伐でした。
しかし、劉璋配下の張松や法正は劉備に内通しており、劉備も益州を奪う気で乗り込む事になります。
劉備の入蜀に関しては、龐統が中心となり計画が立案されたのでしょう。
この時の諸葛亮の役目も荊州四郡の統治であり、入蜀は龐統と法正の担当となっていた様です。
孫権との関係が悪化
孫権も益州を諦めたわけではなく、この頃から孫権と劉備の仲が悪化していきます。
劉備もそれを感じたのか、入蜀には龐統、黄忠、魏延の様な新加入の武将を引き連れていき、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮などは荊州に留めています。
関羽らを荊州に残したのは、孫権に対する牽制だったとも考えられています。
さらに、劉備は援軍は必要ないとし、呉の軍勢が益州に入る事を嫌がったわけです。
尚、この時期に孫権は妹の孫尚香を呼び戻しています。
これらの行動が孫権と劉備の同盟関係に亀裂が入りますが、諸葛亮の天下三分の計を実行する為には、劉備の勢力は何としても益州を手に入れたかったのでしょう。
劉備の益州攻めは孫権との間に有事が発生する可能性もあり、諸葛亮、関羽、張飛などは荊州に留めて置きたかった様に思います。
龐統の死
劉備は漢中の張魯を討伐する名目で、劉璋から兵士や物資を借り受けます。
劉備は漢中を目指しますが、各地の豪族らを懐柔しながらゆっくりと北上しました。
龐統は劉璋を暗殺する様に進言したり、成都を急襲する様に言いますが、劉備は一向に聞かなかったわけです。
その頃、張松の兄である張粛は、張松が劉備に内通した事を知り、自分の身に禍が及ぶ事を恐れ、劉璋に張松の企みを暴露しました。
劉璋は張松を処刑し、劉備に関わってはならないと益州の役人に言い、これより劉璋と劉備は完全に敵対関係となります。
劉備は南下し成都に向かいますが、李厳が寝返ったり、多くの地で劉璋の軍勢を撃破しました。
しかし、龐統が攻撃した雒城だけは劉循と張任が屈強に守った事で落とす事が出来なかったわけです。
雒城を落とせない事に焦りを感じたのか、龐統は自ら前線で指揮をしますが、流れ矢に当たり戦死しています。
軍師の龐統が戦死した事で、劉備は諸葛亮、張飛、趙雲らを荊州から呼び寄せる事にしました。
益州を手に入れる
劉備は荊州から諸葛亮らの増援部隊を得ると、雒城も陥落させ劉璋が籠る成都を包囲しています。
この時に西涼の馬超が劉備陣営に帰順した事で、劉璋は恐れを抱きます。
このタイミングで劉備は簡雍を劉璋の元に派遣し、劉璋を降伏させる事に成功しました。
劉備は益州の地を手に入れ、借用地でもない本当の基盤を手に入れたわけです。
この時点で諸葛亮が描いた天下三分の計にかなり近づいたと言えるでしょう。
尚、この時に劉備が最大の褒賞を与えたのは、関羽、張飛、諸葛亮、法正の4人だった話があります。
諸葛亮は荊州で兵站を切らさない様にする事が主な任務でしたが、完璧にやり遂げた事を評価されたのでしょう。
これらを考慮しても、諸葛亮は張良よりも蕭何としての役割が強いと言えます。
益州を統治する
諸葛亮は益州の統治にも力を発揮する事になります。
蜀科の制定
諸葛亮は蜀科と呼ばれる蜀の法律を整えた実績があります。
当時の益州は豪族の力を統制する事が出来ず、劉璋も刑罰を緩く行っていた事から、国は乱れていたわけです。
諸葛亮は法を整備し、統制された国家を目指す事になります。
蜀科制定のメンバーは諸葛亮、法正、李厳、劉巴、伊籍だったと伝わっています。
法律を厳しくすると考えると、始皇帝や漢の武帝の様に国が乱れると思う人もいるかも知れません。
始皇帝などの場合は、法律が厳し過ぎた為に、反乱が勃発し最後は国が転覆してしまった程です。
蜀の場合は法律が緩すぎて、統制が取れなかったわけであり、劉璋の言う事を聞く人が少なかったのが問題でした。
諸葛亮の場合は、厳しく公正な民衆にあった法整備を行ったのでしょう。
尚、諸葛亮の政治に関しては、現実に即していたと評価される事が多いです。
組織を作る
諸葛亮は劉備を頂点とする組織を作る事にも重点を置いています。
関羽、張飛、麋竺、孫乾など古くから劉備に従っていた者たちを重職に任命します。
馬超の様な新参者であっても、世に鳴り響いていた豪傑の様な人物も重く用います。
他にも、黄忠や魏延の様に荊州を得た後に劉備軍に入り、功績があった者も評価しました。
さらに、劉璋配下の法正を劉備が気に入った事もあり、尚書令に取り立てています。
尚書令と言えば内政のトップの役柄でもあります。
因みに、この時点では劉備の軍師的なポジションは、諸葛亮ではなく法正です。
他にも、劉璋配下だった董和、李厳、黄権なども重く用いる事にしました。
董和は諸葛亮の下で補佐を行った記録があります。
黄権は軍事に明るく、法正に次ぐ軍師とも言える立場となります。
劉璋の外戚だった呉懿と費観も重用し、名士として名声を得ていた許靖も高官に任命しました。
諸葛亮に会うまでの劉備は名士層を配下に加える事が出来ませんでしたが、諸葛亮がいた事で名士たちを劉備陣営に加える事に成功したとも言えるでしょう。
さらに、益州と荊州の人事でバランスを取って配置した話もあります。
この頃の諸葛亮は法整備や人事、経済対策などに専念すればよく、一番自分の得意分野に専念できた時代にも感じます。
劉備が軍事を担当していたのも大きいと言えるでしょう。
関羽の手紙
関羽、張飛、馬超、黄忠で前後左右将軍となりますが、荊州にいた関羽は馬超を見た事がなく、諸葛亮に馬超とは、どの様な人物なのか?と手紙で問い合わせた話があります。
諸葛亮は「馬超は張飛と同じ位の力を持っているが髭殿(関羽)には及ばない。」と回答しています。
関羽はプライドが高く扱いにくい人物とされていますが、諸葛亮は関羽のプライドを刺激しない様に手紙を返したのでしょう。
これを見ても諸葛亮がバランスを取るのが上手く、相手の性格を考慮した上で対処できる人物だと言う事が分かります。
漢中王劉備
劉備が漢中の地を曹操から奪う事に成功しました。
劉備の全盛期がやってくる事になります。
漢中を奪う
蜀を取った劉備陣営は、次のターゲットを漢中に定めます。
三国志演義では諸葛亮が黄忠を老人扱いしてけしかけ、黄忠と厳顔が奮起するシーンなどもありましたが、史実にはないシーンです。
実際の漢中争奪戦である定軍山の戦いでは、法正が軍師の役割をし黄権が補佐したのが実情と言えます。
さらに、実践指揮官として大活躍したのが黄忠だったのでしょう。
劉備軍は夏侯淵を撃破し、曹操から漢中を奪う事に成功しました。
劉備は曹操に負け続けたわけですが、遂に曹操から領土を奪う事に成功したわけです。
この戦いで諸葛亮が何をしたかと言えば、兵站を繋ぐ事だったり後方支援でした。
地味に思うかも知れませんが、人間は食べ物が無くては戦場で戦えないわけであり、重要な任務だと言えます。
劉備も諸葛亮の功績を認めています。
因みに、魏の賈詡や劉曄は「諸葛亮のお陰で蜀の統治は上手く整っている。」と賞賛の言葉を贈った話もあります。
諸葛亮の国を治める技術は、他国にまで鳴り響いていたのでしょう。
劉備の全盛期
劉備は漢中を領土とした事で漢中王に即位しました。
劉備を漢中王に推挙した人物の中に「軍師将軍の臣諸葛亮」の文字があります。
下記が劉備を漢中王に推挙した人物だと記録されています。
この時が劉備の全盛期だったと言えるでしょう。
後に劉備は皇帝に即位しますが、皇帝に即位した時は荊州の地は北部は曹操、中南部は孫権の領土であり蜀の領土は益州だけとなっていました。
人材で考えてもこの時の劉備は諸葛亮、法正、関羽、張飛、馬超、黄忠、黄権、魏延と揃っていたわけです。
それでも、孫権との荊州問題で一瞬即発の事態となり、単刀赴会で回避された話もあります。
さらに、孫権陣営の親劉備派である魯粛が217年に亡くなっていたのも、劉備にとっては不運だったと言えるでしょう。
劉備は219年に漢中を手に入れ全盛期にいましたが、逆を言えば凋落の始りでもあったわけです。
天下三分の計に狂いが生じる
諸葛亮は天下三分の計を基本戦略としましたが、関羽が荊州を失った事で計画に狂いが生じます。
樊城の戦い
劉備が漢中を制圧すると、関羽は北上を始め樊城の曹仁を包囲しました。
世にいう樊城の戦いが勃発したわけです。
運が重なり魏の援軍である、于禁と龐徳を関羽は撃破する事になります。
ただし、于禁らが敗れても直ぐに兵士を補給出来るのが曹操軍であり、徐晃が樊城の援軍に向かいました。
関羽は徐晃を撃破出来ずに、撤退に追い込まれています。
しかし、関羽の本拠地は呉の呂蒙が占拠しており、関羽は麦城に籠ります。
結局は呉の朱然や潘璋の活躍もあり、関羽は斬首する事に成功しました。
関羽はプライドが高く名士層を嫌っていた話しもあり、荊州の事務方トップである潘濬とも親交を結ぼうとしなかった話があります。
関羽と折り合が悪かった糜芳や傅士仁は、呉の虞翻の説得などで簡単に城を明け渡してしまいました。
関羽は斬られてしまうわけですが、荊州を失った事で諸葛亮の天下三分の計に狂いが生じる事になります。
荊州喪失の意味
関羽が斬られた事で、荊州の北部は魏の領土となり、南部は孫権の領土となりました。
諸葛亮の当初の計画では荊州の襄陽から洛陽に攻めるのがプランだったと考えられるわけです。
荊州から洛陽に繋がるルートは平野が続くので比較的攻めやすいとも言えます。
それに対して、益州のみを領有した場合は、漢中から北に抜けるルートを通る必要があります。
漢中から北上するルートは、秦嶺山脈があり道が険しく補給が困難で、非常に攻めにくい地形だったわけです。
諸葛亮の後に何度も北伐を行い木牛流馬も駆使しますが、補給が困難であり撤退した事は何度もあります。
それを考えると、諸葛亮にとって荊州を失うのは、戦略の練り直しが必要となったはずです。
劉封の死
劉備は実子である、劉禅の方を後継者に指名していたわけです。
関羽が荊州で窮地に陥った時に、劉封と孟達は援軍を派遣しませんでした。
この事から劉封と孟達は劉備から睨まれ、孟達は魏に寝返ってしまうわけです。
三国志演義だと劉備が関羽を見殺しにした事で激怒し、劉封に死を命じています。
しかし、史実を見ると劉封に対し諸葛亮は次の様に述べています。
諸葛亮「劉封は勇猛な武将であり、劉禅様の代になった時に制御しきれなくなる可能性があります。
この際、劉封は排除しておくべきです。」
諸葛亮の進言により劉備は劉封に死を命じたわけです。
諸葛亮にとってみれば、劉封を生かしたままにすると、劉備の死後に後継者問題が勃発する事を恐れたのでしょう。
現実的で冷徹な諸葛亮の一面を見る事が出来る話しもあります。
劉備の皇帝即位
魏では曹操が亡くなり、曹丕が後継者となります。
曹丕は魏王になると、後漢の献帝から禅譲を迫る事になります。
これにより、後漢王朝は滅亡し魏王朝が誕生し、曹丕は皇帝となったわけです。
蜀でも劉備が皇帝になる様に勧める者が多く出ます。
諸葛亮は後漢初期の劉秀(光武帝)に即位する様に願った、呉漢や耿純の話を出した後に、次の様に述べています。
諸葛亮「現在を見るに、曹氏が漢朝から簒奪し天下に主がいない状態です。
大王(劉備)様は漢室の末裔ですし、血筋を受けているのですから帝位に就くのは当然の事です。
士大夫が大王様に従い苦労したのは、恩賞が欲しいからです。」
諸葛亮は劉備に漢の血筋だという事と、皇帝にならなければ付き従ってきた者達が離れてしまうと述べて説得しました。
劉備は諸葛亮の意見を受け入れ皇帝に即位します。
これにより魏と蜀で皇帝が誕生したわけです。
尚、孫権は229年に皇帝に即位し、本当の三国時代が始まる事になります。
丞相に任命される
劉備は皇帝に即位すると、諸葛亮を丞相に任命しています。
さらに、録尚書事に任命し、仮節も与えています。
劉備は諸葛亮に軍令を犯した者を斬る権限まで与えており、この時点で諸葛亮の権限はかなり大きくなったわけです。
諸葛亮が丞相になった背景には、法正が既に亡くなっていたのも原因の一つでしょう。
尚、これまでの諸葛亮は軍師将軍という役職でした。
軍師将軍の状態だと諸葛亮は発言力は大きくても、官位で言えば麋竺よりも低かったわけです。
劉備は皇帝になった所で、最大限の権限を諸葛亮に与えた事になります。
この時に諸葛亮は名実ともに、蜀の臣下の中で最大の権力を持ちます。
ただし、この時期の諸葛亮はまだ劉備、張飛、馬超らが生きていた事で、軍事には殆ど関わっていません。
夷陵の戦い
劉備は荊州を奪還すべく呉に攻め込む事になります。
呉では陸遜が対応し、夷陵の戦いが行われました。
関羽の敵討ちなのか?
劉備は関羽の弔い合戦として、自ら軍隊を指揮し荊州に向かう事になります。
表面上は関羽の弔い合戦ですが、諸葛亮の天下三分の計を復活させたいと、考えていた可能性も指摘されています。
劉備は何十年も戦場を駆け回ってきた人物であり、漢中からの北上よりも、荊州から北上の方が現実的だと思ったのかも知れません。
劉備の頭の中では、諸葛亮の天下三分の計は大きく、何としても荊州を奪還したいと考えてもおかしくはないでしょう。
張飛の死
劉備は張飛も帯同させ、荊州に向けて出陣しました。
しかし、張飛は日頃から部下に対し、乱暴を働いていた事から、部下の張達と范彊に暗殺されています。
張飛は司隷校尉であり、張飛死後は諸葛亮が司隷校尉の役職も引き継ぐ事になります。
司隷校尉になった時から、諸葛亮も軍事に関わっていく事になりました。
この頃から諸葛亮に権限が集中し始め、どんどん忙しくなって行ったはずです。
陸遜に大敗
夷陵の戦いが起きますが、呉の孫桓が夷道を守り切り、陸遜の火計により劉備は大敗します。
劉備は白帝城まで逃げ延びる事が出来ましたが、馮習、張南、馬良、王甫などが戦死し、大打撃を受ける事になります。
黄権や龐林などは逃げ場を失い魏に降伏しています。
夷陵の戦いでは大量の兵士を失うだけではなく、文官・武官と有能な人材を多く失ってしまったわけです。
蜀は夷陵の戦いで大敗した事で、国家戦力の半分を失ったともされています。
尚、諸葛亮は劉備が大敗した事を聞くと、次の様に語っています。
諸葛亮「法正が生きていたら東征を行わなくてもよかったし、たとえ東征を実行したとしても、危険を避ける事は出来たであろう。」
諸葛亮の言葉を見ると劉備が如何に法正を信頼していたのかが分かります。
さらに、諸葛亮の言葉からは「自分は止められなかった。」という悔やみが感じられます。
劉備の崩御
劉備は白帝城まで逃げ延びますが、天下統一の野望が打ち破れた事からか体調を崩していきます。
劉備には再起するだけの気力はなかったわけです。
劉備は白帝城に諸葛亮と李厳を呼び後事を託し、諸葛亮に対しては、次の様に述べた話があります。
劉備「君の能力は曹丕の10倍はある。きっと国家を安んじ大事を成す事が出来るであろう。
もし我が子(劉禅)が補佐する値があれば、補佐してやって欲しい。
もしも補佐する価値がないのであれば、君が国を奪えばよい。」
劉備の言葉に諸葛亮は涙を流し、次の様に述べています。
諸葛亮「臣は心から忠義を尽くし股肱となり、最後には命を捨てる所存です。」
劉備は劉禅を呼ぶと「お前は丞相(諸葛亮)と共に仕事をし、丞相を父だと思って仕えよ。」
この後に劉備は崩御し、諸葛亮が蜀の政務の全般を見て、劉禅は祭祀を担当した話があります。
尚、劉備は過去に徐州を陶謙から譲り受けた話しもあり、劉備が死に際となり陶謙を思い出し、諸葛亮に国を譲ろうとした説もあります。
他にも、劉備は過去に何度も妻子を棄てて逃亡しています。
逆に血の繋がりのない関羽や張飛を大事にしており、血筋よりも自分の意思を継いでくれる諸葛亮に託したとする説もあるわけです。
劉備が崩御した事で、諸葛亮は内政だけではなく軍事も担当する事になります。
尚、諸葛亮が劉備と会う為に成都を離れた時に、諸葛亮と不和だった黄元が反旗を翻しますが、楊洪の策が当たり乱は短期間で鎮圧されました。
諸葛亮の役職
劉備が崩御すると、劉禅が即位しました。
この時点での諸葛亮の役職は下記の通りです。
・丞相(政治の最高責任者・三公の全てを兼ね備える)
・録尚書事(行政機関・尚書台も管轄)
・使持節(天子の代行。外交、軍事に独自の権限を持つ)
・司隷校尉(百官の取り締まり)
・領益州牧(益州のトップであり軍権も持つ)
・武郷侯
諸葛亮が多くの役職を兼任しており、諸葛亮は分かりやすく言えば「内閣総理大臣」「警察庁長官」「州知事」「軍部総司令官」などを兼任した事になります。
諸葛亮は最後は過労死で亡くなった話もありますが、これだけを見れば過労死で亡くなったとしてもおかしくはないでしょう。
さらに、諸葛亮は全てを行うだけではなく、他の人の仕事までやろうとして、楊顒(ようぎょう)に諫められた話もあります。
諸葛亮は若い頃に、深く学ぶ事をせず、多くのジャンルを学んだはずですが、この頃になると深く広く全てを網羅しようとした様にも見えます。
人事を考える
夷陵の戦いで蜀は手痛い敗北を喫しており、人事を整える必要がありました。
諸葛亮と共に蜀の後事を託された李厳は、軍事統括や行政に関わって貰う様にしています。
李厳は「食料を送れなかった問題」ばかりがクローズアップされますが、陸遜にも匹敵すると言われた人物です。
諸葛亮もかなりハードでしたが、李厳も内容でいえばかなりハードな事をやっています。
諸葛亮は丞相府に向朗、蔣琬、費禕、楊儀を入れ行政を補佐する役割としました。
董允と郭攸之は侍中として、朝廷での建議を担当した話があります。
他にも、王連を司塩校尉に任命し、国庫を充実させたとも言われています。
尚、廖立は長水校尉に任命されましたが、不満であり文句を言い続けた事で、島流しとなっています。
呉との同盟の復活
荊州争奪戦や夷陵の戦いを経て、蜀と呉は敵対していました。
諸葛亮は呉との関係を修復させる為に動きます。
孫権も蜀との同盟は結びたいと思っていましたが、劉備が崩御した事から頼りになるのか不安だったわけです。
実際に蜀では丁厷や陰化を派遣し、同盟を復活させようとしましたが、孫権は首を縦に振る事はありませんでした。
諸葛亮は鄧芝(とうし)の話を聞き、適材だと判断し呉への使者とします。
鄧芝は見事に役目を果たし、蜀と呉の同盟は復活しました。
鄧芝はかなり正直な外交を行った様であり、孫権に気に入られたのでしょう。
尚、呉と蜀の同盟は長く継続し、西暦263年に蜀が鄧艾により攻め滅ぼされた時に、呉の歩協や陸抗が蜀の羅憲と戦うまで継続されています。
40年は継続されたわけであり、大国である魏に対抗する為とは言え、長期の同盟だと言えます。
因みに、南蛮が反乱を起こしましたが、裏では呉が交州から反乱に手を引いていた話しもあります。
呉は蜀と同盟を結んだ事で、南蛮からは手を引いたとも考えられています。
南蛮征伐
諸葛亮は南蛮征伐を行います。
孟獲との七擒七縦の故事は有名です。
心を攻めるのが上策
諸葛亮は南蛮征伐に出ると、馬謖が途中まで見送りに来たわけです。
この時に諸葛亮は馬謖と何年も作戦を練ってきた事を言い、最後に作戦を授けて欲しいと願います。
すると、馬謖は次の様に答えます。
馬謖「心を攻めるのを上策。武器による戦いを下策とします。」
諸葛亮は馬謖の言葉を、南蛮の孟獲を最後に屈服させるのに役立てるわけです。
尚、諸葛亮は劉備亡きあとに軍事も担当する様になり、馬謖が諸葛亮に兵法を教えたとする説があります。
それであれば、諸葛亮が馬謖に南蛮征伐の出征前に意見を求めるのも分かる気がします。
諸葛亮の初陣とも呼べる南蛮征伐ですが、軍を諸葛亮の本隊と馬忠と李恢で分け三方向から侵攻しました。
諸葛亮が高定を破る
蜀軍は三方面から南蛮に進撃しています。
諸葛亮の南蛮征伐で諸葛亮の本隊は高定と戦う事になります。
ここで高定は短期決戦を挑んできました。
高定は正面から攻撃してきますが、諸葛亮は高定の軍を破ります。
諸葛亮は高定を処刑した事で、諸葛亮が進んだ西側のルートは平定されました。
さらに、東側のルートでも馬忠が南蛮の朱褒を破っています。
中央から南下した李恢は、倍以上の敵軍に包囲されますが、計略を駆使し南蛮兵を破ります。
孟獲を降伏させる
諸葛亮は最後の孟獲も降伏させる事になります。
この時に漢晋春秋によれば、諸葛亮は孟獲を7度釈放し7度捕えた話があります。
諸葛亮が再び釈放しようとすると、孟獲はその場を去ろうとせずに、諸葛亮に心服させる事に成功しました。
さらに、諸葛亮は南蛮の頭領たちを再び任用した話があります。
尚、馬謖伝によると、諸葛亮がこの世を去るまで、南蛮は二度と反乱を起こそうとはしなかったとあります。
実際には、南蛮は一定の安定を得ましたが、反乱は起きていた様で、蜀では李恢や馬忠を南蛮の抑えに配置しました。
因みに、諸葛亮は南蛮征伐に3年を費やしましたが、極めて優秀だとする話があります。
呉などは滅亡する直前まで、山越などの異民族討伐をしていた事もあり、それを考慮すれば諸葛亮の優秀さが見えてくるという説です。
尚、諸葛亮が南蛮征伐を行っていた頃に、魏は呉を攻撃し失敗しています。
さらに、諸葛亮が南蛮征伐を完了させた翌年である、西暦226年に魏の皇帝である曹丕は崩御し、曹叡が皇帝に即位しました。
蜀の国力回復
蜀は復興し、国力を大幅に回復させる事を成功します。
夷陵の戦いから北伐を開始するまでが、諸葛亮が最も自分の力を生かした時期だと感じています。
南中の交易を確保
諸葛亮の南蛮征伐が達成された事で、南中の交易を確保しました。
南中では金銀、塩鉄、耕牛、軍馬などの産物が取れましたし、南中を通してインドやミャンマーなどの国にも蜀の絹などを輸出する事も出来たわけです。
魏は西涼を確保した事で、シルクロードの権益を得た話がありますが、蜀でも交易による権益を得る事になります。
南蛮を制圧した事は、蜀の国力を豊かにする一因となっています。
諸葛亮の驚異的な能力
劉備が夷陵の戦いで大敗した事で、蜀は戦力の半分を失ったともされています。
劉備が敗れた時の蜀では、外征を行う様な余裕はなかったはずです。
蜀は完全に保有しているのは益州だけであり、荊州は北部が魏の勢力、南部が呉の勢力となりました。
荊州争奪戦からは、蜀は完全に敗れ去ったともいえるでしょう。
この大敗北から5年で諸葛亮は蜀の国を立て直し、南蛮討伐も行い魏に対して北伐が出来るまでにしたわけです。
政治の話などは歴史に残りにくいですが、これを考えると諸葛亮には卓越した政治手腕があったように感じています。
国力が半減した国で民衆を慰撫し、外征が出来るまでに数年で回復させたのは、諸葛亮の驚異的な手腕と言っても良いでしょう。
出師の表
諸葛亮は南征が終わると、出師の表を劉禅に提出する事になります。
出師の表は諸葛亮の決意表明であり、国を一つにまとめる為のものだともされています。
出師の表を見ると、次の点を挙げる事が出来ます。
・漢王室の復興
・北伐は劉備の悲願
・劉禅の行動への戒め
・劉禅が頼りにすべき人材
・蜀の人間は劉備に恩がある
・蜀漢を想う気持ち
・北伐への許可
これが主な出師の表の要点だと言えます。
簡単に言えば「魏を倒す事は劉備の悲願であり、蜀の人間は劉備に恩があるから、劉備に報いる必要がある。」と言う事になるのでしょう。
さらに、劉禅に対しては「勝手な事をしてくれるな。」と釘を刺してるかの様に思える部分もあります。
尚、諸葛亮は劉禅が頼りにすべき人材として郭攸之・費褘・董允・向寵を挙げています。
出師の表は情で訴えている部分も大きく、毛沢東は共産党の機関紙である「八路軍軍政雑誌」で、次の様に述べています。
「諸葛亮の出師の表を読んで、涙を流さぬ者は不忠者だ。」
諸葛亮はこれより先、成都を出て北伐に向かいますが、二度と成都には戻らず劉禅に会う事がなかったわけです。
諸葛亮と劉禅の別れの書が出師の表でもあった事になります。
尚、劉禅の行動を見るに、諸葛亮が亡くなる時まで出師の表を忠実に守った様に思えます。
出師の表の訳文に関しては、下記を読むとよいでしょう。
因みに、後出師の表もあり、こちらは偽書ではないか?とする説も存在します。
第一次北伐
諸葛亮は第一次北伐を開始しますが、一般的に第一次北伐は魏の油断もあり、一番成功する可能性が高かったとも言われています。
ただし、街亭の戦いで敗れた事で結果を見れば失敗に終わります。
孟達を寝返らせる
諸葛亮は第一次北伐を行うにあたり孟達を寝返らせる事に成功しています。
孟達は過去に蜀に属していましたが、関羽が敗れた時に援軍を送らなかった事で、劉備の恨みを買い魏に寝返ったわけです。
魏では曹丕が重用し、夏侯尚や桓階と仲が良かった様ですが、曹叡の代になると立場が悪化した話があります。
諸葛亮は郭模を申儀の元に派遣し、孟達を孤立させ反乱を起こさせる事に成功しました。
ただし、魏の司馬懿が電光石火で孟達の本拠地である上庸を急襲した事で、僅か16日で孟達は戦いに敗れ斬られています。
孟達は斬られましたが、蜀の北伐に関して、それほど影響力は無かった話もあります。
ただし、別説としては孟達を洛陽方面の抑えとして使いたかったとする説も存在します。
涼州刺史の孟建
諸葛亮が北伐を開始した時期の涼州刺史が孟建だった話があります。
孟建は諸葛亮の学友であり荊州で共に学びましたが、後に北方に帰り魏に仕えています。
孟建に関する記述は、非常に少なくよく分かっていませんが、孟建が北伐の時に諸葛亮とコンタクトを取り寝返っていたら歴史は大きく変わっていたのかも知れません。
孟建に関する北伐時の記述は、諸葛亮の元に司馬懿の使者である杜襲がやってきた時に「孟建に宜しく伝えて欲しい。」と諸葛亮が言った記録があります。
尚、孟建は涼州刺史でしたが、後に征東将軍に任命されています。
陸遜が曹休を破る
第一次北伐がチャンスだった理由として、呉の陸遜が石亭の戦いで、魏の曹休を大破した事も挙げられます。
孫権は配下の周魴を、魏に偽りの投降をさせており、曹休を誘き出した所で陸遜に攻撃させています。
曹休の大軍は陸遜、朱然、全琮に三方面から包囲され大敗しました。
賈逵の救援により曹休は助かりますが、軍は散々に破られたわけです。
東部方面で魏が敗れた事も蜀にとっては追い風だったと言えます。
ただし、呉軍は石亭の戦いで魏軍を撃破すると、「これ以上の進軍は難しい。」と判断したのか撤退しています。
夏侯楙の更迭
夏侯楙は正史三国志に「生まれつき武略が無かった。」とする記載もあり、蜀としては大チャンスだったわけです。
魏も夷陵の戦いで大敗した蜀が短期間で、北伐を行える程に回復はしないと舐めていたのか、夏侯楙を重要都市である長安の守備にしていた話があります。
夏侯楙自身も長安で金儲けに夢中だった話があります。
魏の皇帝である曹叡は夏侯楙では危ないと判断し、自ら長安に出向き曹真を夏侯楙の代わりに配置しました。
蜀にとっては、手ごわい曹真が相手をする事になったわけです。
涼州方面の反乱
涼州は異民族が多く反乱が起きやすく、統治しにくい地域でした。
さらに、蜀の陣営では涼州出身の馬超は亡くなっていましたが、馬岱がいるなど涼州の者がいたわけです。
蜀では涼州に住む羌族と交流を持つ事が可能であり、諸葛亮は涼州で魏に反旗を翻す事に成功します。
諸葛亮は涼州を得る事で、シルクロード交易を手に入れたかった話しもあります。
因みに、涼州では安定、天水、南安が魏に背き蜀に寝返っています。
魏の游楚が隴西を守備し奮戦しますが、「このまま行けば長安の西は蜀の領土になってしまうかも知れない。」と言った勢いでした。
諸葛亮の見事な戦略により、魏は危機感を抱いた事でしょう。
魏延の長安急襲策を却下
蜀将である魏延は長安急襲策を進言しました。
諸葛亮は魏延の長安急襲策を却下しましたが、下記の事を危惧したとされています。
・秦嶺山脈を越える事になり補給が続かない
・長安を落としたとしても略奪を行われると困る
楚漢戦争で韓信が秦嶺山脈を越えて関中を急襲した話もあり、魏延は韓信の様な事がしたかったのかも知れません。
ただし、近年の研究などでは秦嶺山脈を越えるのは難しく、魏延の策では補給が続かないと考える人が多くなっています。
その一方で魏延の長安急襲策が、蜀が魏を滅ぼす唯一の方法だと考える人もいます。
しかし、諸葛亮が魏延の秦嶺山脈を越えての長安急襲策を却下したのは間違いありません。
趙雲の陽動部隊
諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて、秦嶺山脈を越えて長安を伺う構えを見せます。
魏と蜀では国力が大幅に違い、正面から戦ったのでは歯が立ちません。
そこで、魏の兵力を分散させる意味で、趙雲らを陽動部隊として派遣したわけです。
これには効果があり、曹真が趙雲らに対応する事になります。
三国志演義では曹真はいい所がなく諸葛亮に敗れていますが、実際の曹真は優秀な人物であり、見事な采配で諸葛亮の侵攻を乗り切っています。
街亭の戦い
魏は張郃を涼州に派遣しました。
諸葛亮は祁山を攻撃中であり、馬謖を張郃の抑えとして向かわせます。
さらに、実戦経験が豊富な王平を副将としたわけです。
この時に蜀軍の間では、呉懿や魏延を派遣するべきとの声が多かった話もありますが、諸葛亮は馬謖に功績を立てさせたかったのでしょう。
しかし、馬謖を派遣した事が裏目に出て、馬謖は功を焦り街亭の戦いで張郃に大敗したわけです。
諸葛亮も祁山を落とせておらず、張郃が涼州の反乱を鎮定するのは確実となり、諸葛亮は撤退するしか無くなってしまいます。
尚、諸葛亮は苦し紛れなのか、撤退途中に住民を千家ほど拉致し、漢中に住まわせています。
泣いて馬謖を斬る
馬謖は戦場では兵士らも置き去りとし逃亡した説が、現在では主流となっています。
馬謖は指揮官として職務を果たさなかった事から、処刑される事になったわけです。
馬謖は友人の向朗の所まで逃げ込んだ話もあります。
諸葛亮は馬謖や職務を果たさなかった、側近らを全員処刑しました。
処刑した上で諸葛亮は、罪を蜀軍の兵士らに謝罪しています。
因みに、諸葛亮は馬謖を可愛がっていた事で、涙を流して馬謖を斬った話があります。
これが「泣いて馬謖を斬る」の逸話です。
この時に馬謖を匿った向朗を流罪とし、諸葛亮自身も三階級降格し、右将軍となります。
諸葛亮のこうした態度が無ければ、北伐は継続できなかったとする話もあります。
尚、第一次北伐では魏で行き場を失った姜維が蜀に帰順しています。
第二次北伐
第一次北伐で蜀は魏を苦しめた事から、魏では蜀を警戒する様になります。
涼州の蜀に味方した勢力も鎮圧され、涼州勢は蜀に対して呼応する事は無くなっていきます。
諸葛亮は第一次北伐終了後も軍隊を解散させずに、第二次北伐に挑んた話があります。
諸葛亮の第二次北伐では陳倉を攻撃しますが、守将の郝昭が巧みに守った事で蜀軍の兵糧が危うくなり撤退しています。
この時に魏の王双が蜀軍を追撃しましたが、諸葛亮は一戦で王双を討ち取っています。
しかし、王双を討ち取ったとしても、蜀軍の兵糧が増えるわけでもなく、撤退する羽目になりました。
第二次北伐は郝昭によって阻まれたとも言えるでしょう。
第三次北伐
西暦229年の第三次北伐では、諸葛亮は陳式に命じ武都・陰平を攻撃しました。
魏の雍州刺史である郭淮は陳式を討とうとしますが、諸葛亮が自ら出撃し建威にまで行った事で郭淮は撤退しています。
諸葛亮は武都と陰平の二郡を平定しています。
この時に、劉禅から諸葛亮に詔勅が降され、諸葛亮は再び蜀の丞相となったわけです。
第四次北伐
西暦231年の第四次北伐では、諸葛亮は再び祁山を攻撃しています。
第四次北伐では木牛を使って食糧輸送を行った話があります。
さらに、諸葛亮は異民族の軻比能を味方とし、魏の兵力の分散させる様に仕向けています。
この時に魏では司馬懿と張郃を派遣しました。
諸葛亮は司馬懿を相手に優勢に戦いを進めます。
しかし、連日の悪天候により食糧輸送が間に合わないと、李厳が報告した事で撤退しました。
李厳は後に漢中に戻った後に、自分の罪を隠す為に事実に反した内容を劉禅に報告したわけです。
最終的に李厳の罪が明らかになった事で、李厳は庶民に落される事になります。
因みに、第四次北伐では撤退する蜀軍を、張郃が追撃仕掛けています。
蜀軍は張郃を射殺しました。
諸葛亮が張郃を殺害した事は、馬謖の仇を取ったとも言えるでしょう。
空城の計
諸葛亮の北伐で、諸葛亮が空城の計を行ったとする話があります。
諸葛亮が小数の兵で司馬懿の軍に城を包囲されてしまい、諸葛亮は門を開き琴を弾き悠然と司馬懿を待ち構えた話しです。
司馬懿は諸葛亮の策だと考えて、兵を引いてしまい千載一遇の好機を逃す事になります。
空城の計ですが、本当に行ったのかはっきりとしない部分もあり、史実なのかは不明です。
三國志演義での諸葛亮の空城の計は、諸葛亮に箔を付けさせる為に行った策だとも考えられています。
五丈原の戦い
諸葛亮の最後の戦いとなる五丈原の戦いを解説します。
第五次北伐
西暦233年で南方の異民族の頭目である劉冑が蜀に対し反旗を翻しますが、張翼に変わった馬忠が劉冑の乱を平定しています。
こうした中で、234年に諸葛亮の第五次北伐が行われました。
この時に、諸葛亮は斜谷道を通って進撃を行い、流馬を使って輸送した話があります。
第四次北伐では木牛を使った話があり、木牛竜馬で食料輸送を考えたのでしょう。
諸葛亮は兵士達に屯田を行わさせ、長期戦の構えを見せます。
戦いの前に魏軍の司令官である司馬懿は次の様に述べています。
司馬懿「諸葛亮に勇気があれば、武功に進み山に沿って東に進むであろう。
もし西に進み五丈原に出て来たのであれば、我らは事なきを得るはずだ。」
諸葛亮は司馬懿の予想した通り、武功郡の五丈原を本拠地とし、魏と相対する事になります。
これが五丈原の戦いです。
郭淮の読みが当たる
五丈原に諸葛亮は布陣し、司馬懿は郭淮を北原に駐屯させたわけです。
郭淮の読みが当たり諸葛亮の攻撃を受けますが、郭淮は撃退しました。
諸葛亮は西方を攻撃する素振りを見せますが、陽遂を攻撃します。
しかし、これも郭淮に読まれ蜀軍は防がれています。
これを見ると郭淮の読みの前に、諸葛亮が苦しめられている様にも見えます。
ただし、晋書の宣帝紀には司馬懿の次の発言が残されています。
「諸葛亮は五丈原で戦おうとしている。陽遂に向かうはずがない。
諸葛亮の狙いは分かっている。」
上記の司馬懿の言葉を考えると、諸葛亮の陽遂への侵略は不意を衝かれたはずであり、司馬懿は諸葛亮の翻弄された事になるでしょう。
記述による食い違いがあり、真実は分かりにくい部分でもあります。
司馬懿は北原に移動し、戦いは膠着状態に向かった事だけは間違いなさそうです。
女物の髪飾り
五丈原の戦いは膠着状態となりますが、諸葛亮は何度も戦いを挑み、司馬懿は応じないという状況が続きました。
司馬懿が諸葛亮との戦いに応じなかった理由は、魏の皇帝である曹叡から「戦いを禁じられていた」からだとされています。
諸葛亮は司馬懿を挑発する為に、女物の髪飾りを贈り付けるなども行っています。
諸葛亮が女物の髪飾りを司馬懿に贈り付けるの行動は「お前は男ではない。」と言いたかったのでしょう。
司馬懿も諸葛亮の挑発に我慢が出来なくなったのか、魏の皇帝である曹叡に諸葛亮と戦いたいと上奏しています。
曹叡は秦郎に2万の兵を率いさせて司馬懿の救援軍としましたが、剛直で有名な辛毗に命じて「戦ってはならない。」と伝えさせた事で、司馬懿も戦う事が出来ませんでした。
呉が動く
諸葛亮は魏を牽制する為に、呉を動かした話があります。
呉では陸遜と諸葛瑾が襄陽に進撃する動きを見せ、孫韶と張承が淮水より侵入しました。
さらに、孫権が自ら軍を率いて合肥新城を包囲しています。
魏では満寵が寿春まで退き呉軍と戦う事を主張しますが、曹叡が自ら親征する事を決めました。
曹叡が合肥新城に向かった事を知ると、孫権は軍を撤退させ、満寵は合肥新城の救援に成功しています。
諸葛亮は呉軍も連動して北上させる様に画策しましたが、全て防がれてしまいます。
曹叡は良い働きをしたと言っても良いでしょう。
諸葛亮と対峙する曹叡を見るに、明らかに名君です。
諸葛亮の最後
諸葛亮は五丈原の戦いの陣中で、最後を迎える事になります。
諸葛亮の死因は、過労死とも言われています。
過労が溜まる
司馬懿の元に諸葛亮の使者がやってくると、司馬懿は「諸葛孔明殿は、どの様に生活し暮らしておいでか。食事はどれ位摂っておるか。睡眠時間はちゃんと取っておるのか。」と聞いた話があります。
すると蜀の使者は次の様に述べます。
「丞相(諸葛亮)は朝早くに起きて、夜遅くに横になられます。
食事は3,4升で、罰棒20以上に当たる刑は、全てご自身でやっておられます。」
司馬懿は使者が去った後に「諸葛亮も長くはあるまい。」と答えました。
司馬懿から見れば、諸葛亮は働き過ぎであり、過労死を予測したのでしょう。
諸葛亮の遺言
諸葛亮は体調を崩すと、李福に自分の後継者として蔣琬と費禕を指名した話があります。
五丈原からは、楊儀に全軍を監督させ撤退する様に命令します。
諸葛亮は姜維が軍を先導し、殿を魏延としました。
諸葛亮は魏延が命令に従わなければ、魏延を残して撤退する様に命じています。
これが諸葛亮最後の命令となったわけです。
因みに、魏延は諸葛亮の撤退命令を聞けずに、撤退を阻止しようとしますが、最後は逃亡し馬岱に討ち取られています。
尚、諸葛亮は遺言で、自分の遺体は定軍山に埋葬して欲しいと願います。
魏軍が蜀に行くには、漢中の定軍山を通る必要があり、死んでも魏から蜀を守るという意思表示にも思いました。
諸葛亮が陣没
諸葛亮は日頃の過労がたたったのか、司馬懿と対峙してから100日ほどで病に掛かり亡くなった話があります。
陣中でハードに働いた事で疲労も蓄積されたのでしょう。
諸葛亮はこの時に54歳だった話があります。
諸葛亮が亡くなった事で、第五次北伐も撤退が決まり、228年から6年間続いた諸葛亮の北伐も失敗という形で幕を引く事になります。
諸葛亮は最後の最後まで、魏から大戦果を挙げる事が出来ませんでした。
この事は諸葛亮にとっても無念だったはずです。
尚、後漢王朝の献帝は曹丕に禅譲後も山陽公として生き残っており、諸葛亮と同じ西暦234年に亡くなっています。
奇しくも諸葛亮と献帝は同じ年に生まれ、同じ年に死去しました。
死せる孔明生ける仲達を走らす
諸葛亮が陣没した話は、司馬懿も耳にする事になります。
蜀軍が撤退を始めると、司馬懿は直ぐに追撃戦に移りました。
この時に蜀の楊儀は旗指物をかえし、戦鼓を鳴らして司馬懿に攻撃を掛ける素振りを見せたわけです。
司馬懿はこれを見て「罠だ」と思ったのか軍を返して、追撃戦を打ち切っています。
この話を聞いた民衆は次の様に述べています。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」
それに対し、司馬懿は笑い次の様に言いました。
司馬懿「儂は生きている者であれば相手に出来るが、死んだ人間にはどうする事も出来ない。」
司馬懿にとってみれば苦笑いするしかなかったのでしょう。
蜀軍が完全撤退した数日後に、司馬懿は蜀軍の跡地に行き蜀軍の文書や兵糧を獲得する事になります。
文書が大量に捨ててある事を知った司馬懿は、諸葛亮が本当に死んだと確信しました。
司馬懿は諸葛亮に対して、次の様に述べています。
司馬懿「諸葛亮は天下の奇才であった」
司馬懿から諸葛亮への最大限の賛辞だった様に思います。
諸葛亮の死の影響
諸葛亮が死んだ事で、様々な人の逸話が残っています。
劉禅の悲しみ
劉禅は諸葛亮の死を聞くと、詔勅を発行しています。
それによると、劉禅は諸葛亮の能力を絶賛し、伊尹や周公旦にも匹敵するだけの業績を挙げようともしていたと述べています。
さらに、天の憐れみが無かった事を嘆き、心臓が張り裂けんばかりと言っています。
劉禅は諸葛亮に忠武侯と諡する事を発表しました。
因みに、諸葛亮の死を嘆き悲しむ劉禅に「諸葛亮の死は全ての人にとって喜ばしい事。」と述べた李邈は処刑されています。
恩赦大好き人間の劉禅が処刑する辺りは、李邈が如何に劉禅の心を逆撫でしたのかが分かります。
諸葛亮の遺産
諸葛亮は生前に、劉禅に次の様に述べた話があります。
諸葛亮「成都には桑八百株、やせた田があり、家族の生活はそれで十分です。
私が出征する時は、国からの支給で十分であり、財産を作る気もありません。
もし私が亡くなり余分な絹があったり、余った財産があったとしても陛下の御心に背く事はありません。」
諸葛亮が亡くなった後に調べてみると、言った通りで財産は殆どなかった話があります。
諸葛亮は蓄財には興味がなく、蜀の為を想い行動した結果なのでしょう。
李厳や廖立の嘆き
李厳や廖立は、罪を犯し庶民にされたり島流しにされていました。
しかし、諸葛亮の死を聞くと愕然とし「自分が再び官職を得る事がない。」と悟った話があります。
諸葛亮は公平な人物であり、罪を犯した人間であっても手柄を立てれば、復帰させてくれると信じていたのでしょう。
李厳や廖立は諸葛亮の公平さを知っていたからこそ、出た言葉だと感じました。
諸葛亮に罰せられた人物でも信用されている所が、諸葛亮の凄さなのかも知れません。
公平さ
諸葛亮の政治は厳しく身内であっても、職務怠慢などは許さず厳しく罰した話があります。
ただし、重罪人でも罪に服し反省の意を示した者は許し、小さな罪であっても嘘で誤魔化そうとする者は死刑にしたとあります。
諸葛亮の政治は非常に厳格であったにも関わらず、公平さが評価されており、蜀の民で諸葛亮を恨む者はいなかったとされています。
それを考えると、諸葛亮の死は多くの民が悲しんだのではないかと感じています。
法律を厳しくし、秦の国力を増大しながらも、憐れむ者がいなかったとする、商鞅と比較してみると面白いかも知れません。
諸葛亮の子孫
諸葛亮は子が出来ず、最初は呉に仕えた兄である諸葛瑾から諸葛喬を養子に貰った話があります。
しかし、諸葛喬は25歳の若さで諸葛亮よりも先に没したと伝わっています。
諸葛亮の実子に諸葛瞻がおり、諸葛瞻の子に諸葛尚、諸葛京、諸葛質がいた事が分かっています。
諸葛瞻は諸葛亮が47歳の時に生まれた子であり、黄承彦の娘である黄月英の子ではないと思われます。
年齢的に考えると、諸葛瞻は諸葛亮の妾の子だった様に感じました。
因みに、正史三国志には諸葛瞻は、悪徳宦官とされる黄皓と私的な繋がりを持ち、姜維の失脚を狙ったとする話もあります。
黄皓は悪徳ではなかった説もありますが、これが本当なら不肖の息子と言えなくもありません。
西暦263年に鍾会と鄧艾が蜀に侵攻しており、綿竹の戦いで諸葛瞻と鄧艾が戦っています。
この戦いに諸葛尚も参戦しましたが、諸葛瞻と共に綿竹の戦いで敗れ命を落としています。
諸葛瞻の次男である諸葛京は蜀の滅亡後に西晋に仕え、三男の諸葛質は蜀の滅亡時に関索・霍弋・呂凱らと南方に逃げた話しもあります。
諸葛亮には諸葛懐なる子もおり、司馬炎と対談し満足させた話があります。
諸葛亮の死後も一族は活躍したと言えるでしょう。
諸葛亮の評価
諸葛亮は政治に関しては公平さがあり、評価が非常に高く管仲や蕭何にも匹敵すると考える人は多いです。
ただし、一般的には戦下手とされています。
諸葛亮の軍事での評価が下がる理由は、5度の北伐を成功に導く事が出来なかった事が要因でしょう。
諸葛亮が5度の北伐を成功させる事が出来なかった理由ですが、曹叡が名君であり隙が無かったと言うのが大きい様に思います。
それでいて、魏と蜀では領土の広さも人口も全然違うわけであり、何もしなければ国力の差は年々広がったはずです。
それを考えると、諸葛亮は魏を攻めて領土を奪うしかないと考えたのでしょう。
諸葛亮の場合は、戦下手というよりも時運に恵まれなかった様な気がしてなりません。
個人的には、諸葛亮は人に任せる事も覚えた方がよい気がしています。
小さな集団であれば、個人の力でもやりくりできるかも知れませんが、大きな組織となれば「如何に他人の能力を使うのか。」の方が大事となるはずです。
魏延などは劉備の下では活躍できますが、諸葛亮の下では活躍しにくい環境だったのでしょう。
諸葛亮は間違いなく名臣で立派な人物ではありますが、人使いの点において残念にも感じました。
因みに、諸葛亮の死が三国志を崩壊に向かわせたとする説もあり、諸葛亮が亡くなり曹叡はだらしなくなり宮殿の造営に取り掛かり、孫権も安心感から耄碌し二宮事件など呉の政局をかき乱す様になります。
蜀でも諸葛亮の遺産とも言える蔣琬と董允が相次いで亡くなり費禕の時代には劉禅の抑えが利かなくなり、黄皓を重用した事で蜀が滅んだとする説です。
三国志では蜀が最初に滅び魏が西晋に代わり、西晋の攻撃を一手に引き受けた呉が最期の滅びました。
諸葛亮の死が魏と呉に安心感を与え君主の堕落から三国志の世界が終わったとする説もあるという事です。
尚、諸葛亮の評価は人によって大きく異なる場合が多いです。
諸葛亮を偉大な政治家と見る場合もありますが、北伐で蜀の財政を傾け蔣琬や費禕が苦労したと考える人もいます。
参考文献:ちくま学芸文庫 諸葛亮伝など