三国志 後漢 魏(三国志)

荀彧は最高峰の軍師

2023年6月4日

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宮下悠史

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名前荀彧(じゅんいく) 字:文若
生没年163年-212年
時代三国志、後漢末期
勢力袁紹曹操
年表192年 司馬に任命される
200年 官渡の戦い
203年 万歳亭侯に封じられる
画像©コーエーテクモゲームス

荀彧は正史三国志や後漢書、資治通鑑などに登場する豫州潁川郡潁陰県が出身の人物です。

曹操陣営の軍師と言えば真っ先に荀彧の名前が思いつく方も多い様に感じます。

荀彧は曹操が劉邦の軍師である張良に匹敵する人物だと述べたり、王佐の才があるとも言われた人物です。

実際の荀彧も多くの人物を曹操に推挙したり、戦略眼を見せるなど三国志でも最高峰の軍師だったとも言えるでしょう。

ただし、三国志演義の様に荀彧が、二虎競食の計や駆虎呑狼の計などの離間の計を進言した記録は、史実ではありません。

荀彧は名士層の人間であり家柄もよく、さらには容姿にも優れていました。

三国志で容姿端麗なイケメンといれば周瑜孫策を思い浮かべる人が多いですが、荀彧もまた容姿端麗だったとする記述があります。

しかし、荀彧の最後は曹操と対立した様子もあり、三国志でも謎の一つとされています。

荀彧の最後に関しても、陳寿も言葉を濁している様にも見受けられました。

今回は史実における荀彧を解説します。

因みに、荀彧は正史三国志に荀彧伝が立てられており、荀攸賈詡と共に収録されています。

荀彧の一族

正史三国志の荀彧伝を見ると、最初に一族の事が書かれており、ここでもそれに習い荀彧の先祖の事からお話します。

荀彧は性悪説を唱えた荀子の子孫だと言われています。

荀子は楚の春申君により蘭陵の県令になったり韓非子李斯が弟子としていた事で有名です。

荀彧の父親は荀緄は尚書や済南国の相となり、祖父の荀淑は朗陵県令となり当時の権力者だった梁冀を批判した事で名声を得ていました。

荀淑には8人の息子がおり、能力を評価され八龍とも呼ばれていました。

荀淑はには李膺や王暢らが師事しており、当時としては非常に名が通った存在だったわけです。

叔父の荀爽が司空になるなど、荀彧の家柄は名門と言ってよいでしょう。

曹操の軍師として共に仕えた荀攸も荀彧の従弟の関係です。

正確にいえば荀彧の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟となります。

こうした家柄であった事から荀彧も家柄がよい名士であり、儒教の教えにどっぷりと浸かる事になります。

唐衡の娘

典略によると中常侍の唐衡は娘を汝南の傅公明に嫁がせたいと考えた話があります。

唐衡は梁冀の排除で活躍し権勢はありましたが宦官であり、傅公明が嫌ったのか娶ろうとはしませんでした。

唐衡は宦官である事から、養女を嫁がせようと考えたのかも知れません。

傅公明が断った事で白羽の矢が立ったのが荀彧だったわけです。

典略によれば荀彧の父親である荀緄は、唐衡の権勢に魅力を感じ荀彧は娘を貰う事になります。

典略の記述によれば、権勢を目当てに宦官の娘を嫁に貰った事で、荀彧は世間から非難されたとあります。

ただし、裴松之は典略の記述に不自然さを感じており、唐衡は主に桓帝の時代にいた宦官であり、荀彧が2歳の時に亡くなった記録がある事を指摘しています。

さらに、荀緄が目先の利益に動かされる人物ではないと裴松之は考えました。

これを考慮すると、荀彧が赤子の頃か誕生前に、荀緄と唐衡の間で縁談が纏まっていた可能性も出て来るはずです。

それでも、親同士の約束による部分が大きかったのかも知れませんが、荀彧が宦官の唐衡の娘を嫁として迎えたのは事実なのでしょう。

王佐の才

荀彧が若かった頃に、南陽の何顒に会った事がありました。

この時に何顒は荀彧を見るや「王佐の才を持っている」と評価しています。

王佐の才と言うのは、王者を補佐する才能を持っているという事であり、荀彧に対し何顒は最大限の評価をした事が分かります。

因みに、何顒は曹操の事を「天下を安んずる者」と評価した事でも有名です。

何顒は後に捕らえられて亡くなると、荀彧は何顒の遺体を引き取っています。

自分に王佐の才があると言ってくれた何顒に対し、特別な感情もあったはずです。

冀州に移る

荀彧は189年に孝廉に推挙され守宮令に任じられました。

189年は霊帝が崩御した年であり、大将軍の何進が宦官に暗殺され、董卓が実権を握るなど政局は荒れていました。

こうした中で荀彧は地方に下級役人になりたいと願い出て、亢父の令となります。

しかし、荀彧は官位を棄てて帰郷しました。

荀彧は潁川の戻りますが、地元の長老たちからは次の様に言われました。

※正史三国志 荀彧伝より

潁川は四方から攻撃を受ける地であり、天下に変事が起きれば戦いの渦となる。

速やかにこの地を去った方がよい。

いつまでも留まっていたら危険すぎる。

しかし、多くの者が土地に執着しており、決断する事が出来ませんでした。

冀州牧をしていた韓馥が潁川に騎兵隊を差し向け、迎えに来た事もありましたが、ついて行く者は一人もいなかったとあります。

ここで、荀彧だけが潁川を離れ冀州に移る事になります。

曹操に仕える

荀彧は冀州に移りますが、冀州に到着した頃には、袁紹が韓馥から冀州牧の位を譲り受けていました。

袁紹は荀彧を上賓の礼で迎える事になります。

荀彧の兄弟の荀諶を始め郭図や辛評など潁川名士の多くが袁紹に仕えていました。

しかし、荀彧は袁紹を観察し「大事を成し遂げる事が出来ない」と判断し去る事になります。

191年に荀彧は袁紹の元を去り、曹操の元に赴きました。

当時の曹操は東郡に駐屯し奮武将軍になっていて、荀彧の来訪を聞くと大喜びした話があります。

曹操は荀彧をみて「わしは子房を得た」と述べました。

子房と言うのは、前漢の劉邦を支えた軍師である張良の事であり、曹操は荀彧に対し最高級の評価をしたと言えるでしょう。

曹操は荀彧を司馬に任命しました。

この時に荀彧は29歳だったと伝わっています。

董卓の最後を予言

荀彧は曹操の配下となったわけですが、西暦191年の時点では董卓は洛陽を焦土と化し長安に遷都していました。

既に董卓は少帝弁を廃し何皇后もろとも李儒に毒殺させ、強大な勢力を誇っていたわけです。

曹操は荀彧に董卓の事を質問すると、次の様に答えました。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「董卓の暴虐さは酷すぎると言っても過言ではありません。

必ず禍を受け命を落す事でしょう。

董卓は何も出来ません」

荀彧は董卓が「何も出来ない」と言いましたが、董卓は李傕らを派遣し関東の地で略奪を行わせています。

この時に李傕が潁川や陳留までやってきて略奪した話があり、潁川に留まっていた人々の多くが命を落しました。

荀彧は地元の人々の言う様に潁川から出ていた事で禍を受けなかったわけです。

董卓の方ですが、192年に王允呂布により暗殺され生涯を終えており、荀彧の予見した通りになったと言えます。

尚、曹操は兗州牧の官位を受け、後に鎮東将軍となりますが、荀彧は司馬として曹操の傍におり支え続ける事になります。

兗州の乱

193年に曹操は父親の曹嵩を兗州に迎え入れようとしますが、徐州の陶謙の領内で殺害されてしまいました。

曹操は194年に陶謙の徐州征伐に向かいますが、荀彧に留守を一任し出兵しています。

この時に曹操の幕僚の筆頭格であった陳宮張超張邈と結託し、呂布を迎え入れ曹操に反旗を翻しました。

荀彧は陳宮らが謀反を起こした事を知らず、張邈は荀彧がいる鄄城に劉翊を派遣し兵糧を奪おうと画策しています。

劉翊は呂布が援軍として来たからと食料提供を求めますが、荀彧は異変を察知しました。

こうしている間に兗州の大部分が呂布に靡いてしまったわけです。

荀彧は夏侯惇を招き寄せて鄄城の反乱に加担した者たちを処刑させ、城内は落ち着きを取り戻しました。

こうした中で豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて鄄城に様子見に来る事になります。

郭貢が面会を求めると、夏侯惇は「危険すぎる」と荀彧に郭貢との会見を諫めますが、荀彧は郭貢を味方につける事は出来なくても中立を維持させる事は出来ると述べました。

荀彧は郭貢と果敢に面会し、郭貢も荀彧の態度から鄄城を攻め落とせないと判断し去る事になります。

荀彧と言えば、行儀のよい人の様に思うかも知れませんが、時には果敢な決断も出来る事が分かるはずです。

荀彧は程昱には范に向かって貰い程昱が靳允を説得した事で、多くの城が呂布に靡く中で鄄城、范、東阿の三城を曹操陣営に残す事に成功しました。

曹操は徐州から戻ると濮陽にいる呂布を攻撃し、呂布は東に移る事になります。

195年に曹操は乗氏に陣を布きますが、大飢饉が起こり呂布と曹操の戦いは中断しました。

天才軍師荀彧

荀彧の戦略

194年の段階で徐州の陶謙が亡くなり劉備が後継者となっていました。

曹操は手始めに徐州を取り返す力で呂布を討伐したいと考えたわけです。

荀彧は曹操の考えに異を唱える事になります。

荀彧は劉邦が関中を確保し、光武帝(劉秀)が河内を本拠地にしたと説きました。

荀彧は劉邦や光武帝は確固たる基盤があった事で、覇業を成す事が出来たと説明します。

荀彧は強固な地盤があれば例え戦いに負けたとしても復活出来ると説きました。

荀彧は攻守にわたり地盤の重要さを述べたわけです。

さらに、荀彧は兗州の民は曹操に懐いていると語りました。

荀彧は兗州の地盤を整える事が最優先だと曹操に進言したわけです。

過去に曹操は荀彧を高く評価し張良に例えましたが、今度は荀彧が曹操を劉邦に例えており、気が利いた説得にもなっていると言えるでしょう。

呂布の平定を優先すべき

この時の曹操呂布配下の李封と薛蘭を破っており、東にいる陳宮を攻撃すれば、陳宮は西方をみる余裕が無くなると荀彧は情報分析しました。

荀彧は陳宮を釘付けにし、兵士に麦を刈り取らせ食料を節約し備蓄すれば、1度の戦いで呂布を破る事が出来ると説きます。

さらに、荀彧の戦略では揚州の劉繇と組み協力して袁術を討ち、淮水・泗水に進出すべきだと告げました。

荀彧の頭の中では呂布を無視して徐州を攻めた場合は、後で多数の兵を残す必要があり、少数の兵を残す場合は、呂布が各地で暴れ回り民衆が困苦すると見解を述べています。

荀彧の頭の中ではシミュレーションが出来ており、徐州を討った場合は鄄城、范、衛(濮陽)しか守り切る事が出来ないと判断しました。

さらに、曹操が徐州を平定出来なかった場合は、帰還する場所すらなくなってしまうと告げたわけです。

徐州の守り

荀彧は徐州の守についても曹操に語っています。

徐州は曹操に攻められて敗北した事を懲りており、周辺の勢力と同盟を結んだ上で内外で手を結び対抗すると考えました。

さらに、東方(徐州)では麦の刈り取りも終わっており、田野を空にして城壁を高くし守ると予想したわけです。

この状態で曹操が徐州を攻めたとしても、略奪しようにも物資が無く城を攻めても落せず、10万の軍勢で攻めても10日も持たないと話しました。

曹操が徐州で大虐殺をした事も荀彧は問題視しており、敵は恥辱を感じ必死で戦う様になり降伏は考えないはずだと予想しています。

荀彧は徐州を攻めても守りが固く攻め落とす事も出来ずハイリスク・ローリターンになっていると考えたのでしょう。

曹操は徐州での評判は悪く、攻め取ったとしても保持する事は難しいと語った事にもなります。

尚、正史三国志の注釈で有名な裴松之は荀彧の言葉を聞き、曹操が徐州を攻めるのに10万の兵を用意出来るのに、官渡の戦いで1万の兵しか集める事が出来ないのはおかしいと述べています。

この時の荀彧が述べた曹操軍の10万の兵は大軍を指す言葉なのかも知れませんが、官渡の戦いの時に曹操の動員兵力が1万だったという事は無い様に感じています。

正しい選択

荀彧は徐州を攻める愚を語った後に、物事について次の様に語りました。

安全を選んで危険を棄てるのは正しい選択

大を選んで小を棄てるのは正しい選択

形勢を考慮して根本に危険がないなら正しい選択

荀彧は上記の3点に対し、曹操の徐州攻めが合致していないと述べました。

曹操は荀彧の言葉を理解し、徐州攻めを中止して、麦の確保に走る事になります。

再び曹操は呂布と戦うと多いに破り、呂布は劉備を頼って徐州に落ち延びました。

曹操は再び兗州を取り戻し強固な基盤を築く事になります。

この時の荀彧の戦略眼は曹操よりも遥か上を行っていたと言えるでしょう。

荀彧の発言を見ると全てを見通した「天才軍師」にも見えて来るわけです。

献帝を迎え入れる

献帝董卓の意向により少帝弁が廃位となり即位した皇帝でした。

董卓死後に李傕政権が誕生しますが、郭汜との争いもあり長安は荒廃し、献帝は洛陽に移ったわけです。

献帝は苦難も多くありましたが、何とか洛陽に到着する事になりますが、諸侯の助けが無ければ飢えに苦しみ何も出来ない様な状態でした。

この時に曹操は献帝を自分の勢力下である許昌に入れようとしますが、韓暹、楊奉、張楊らがいるから難しいと主張する人もいたわけです。

しかし、荀彧は晋の文公(重耳)劉邦における次の2つのポイントを述べました。

晋の文公は周の襄王を都に戻した。

劉邦は義帝の死で喪服を着た。

晋の文公は周の襄王を都に戻した事で諸侯同盟の長となり春秋五覇の一人に数えられ、劉邦は項羽が殺害した義帝の死で喪服を着た事で天下の信任を得たと語ったわけです。

荀彧は帝を敬意を表す姿勢は、天下の人々の心を惹きつける効果があると述べました。

これまでの曹操は正義の挙兵を行いながらも、山東の混乱で余裕がなく関右に遠征する余裕がなかっただけだと述べ、それでいながら将軍を派遣し献帝を連絡を取っていたと指摘しています。

これらの行為は天下から救済の志があると評価される対象になると告げました。

荀彧は献帝を迎え入れれば人々の心を心服させる事が出来ると述べます。

荀彧はこの機会を逃さずに、献帝を許昌に迎え入れる様にと進言したわけです。

この時に献帝の側近である董承の思惑もあり、曹操は献帝を許昌に迎えれる事に成功しました。

袁紹も献帝を迎え入れた方がよいとする考えもありましたが、行動に移せず後で後悔した話があります。

正史三国志荀彧伝によると献帝を許昌に迎え入れた事で曹操は大将軍に任命され、荀彧は漢の侍中・守尚書令に昇進したとあります。

多くの人材を推挙

荀彧は多くの人材を推挙した人でもあります。

荀彧は策謀の士として戯志才を推挙しましたが、早くに亡くなってしまい後任として郭嘉を推挙しました。

郭嘉は三国志を代表する軍師であり、卓越した予見力で曹操の覇業を支えた人物です。

さらに、曹操が「貴方(荀彧)の代わりになる様な人物はいないか?」と問うと荀攸と鍾繇を推挙しました。

荀攸は戦場で曹操の傍におり数々の献策をした人であり、鍾繇は関中を纏め上げた人物です。

荀攸も鍾繇も三国志を代表する参謀であり、荀彧の人を見る目が確かだった事の証となります。

荀彧伝によると袁術死後に揚州刺史となり、孫策が任命した廬江太守・李術に殺害された厳象や、馬超に殺害された韋康も荀彧が推挙したとあります。

他にも、司馬懿、陳羣、華歆、王朗、杜襲、杜畿、趙儼、辛毘、孫資、郗慮、荀悦など荀彧が推挙した人材は極めて多いです。

荀彧が推挙した人材で卿相になった者は数十人を数えたとあります。

荀攸は後に魏の尚書令となりますが、荀攸も多くの賢人を推挙しており、曹操は次の様に述べていました。

※荀彧別伝より

「二人の荀尚書令の人物鑑定は時間が経過すればするほど、益々信頼に値する事が分かった。

この事は儂がこの世を去るまで忘れない様にしたい」

曹操は荀彧だけではなく荀攸の人物鑑定も高く評価したわけです。

蜀などは諸葛亮は名宰相でしたが人材不足をよく言われる所ですが、魏で人材が豊富なのは荀彧が多くの優秀な者を推挙した結果だとも言えるでしょう。

尚、荀彧の甥で才能や品行が優れない者がいましたが、ある人が「貴方(荀彧)は政務を担当しているから、議郎に出来ない筈がない」と述べた事がありました。

つまり、荀彧の力で能力や品行が欠如している者を議郎に取り立てる様に述べたわけです。

しかし、荀彧は笑って次の様に述べました。

※典略より

荀彧「官職という者は才能を発揮させる為にあります。

貴方の言う通りにすれば、人々は私の事を何と言うでしょうか」

荀彧は公正を旨としており、能力がないと思えば一族の者でも官職に就かせる事はありませんでした。

荀彧の人柄

公正な性格

典略によれば荀彧は、身分に隔たり無く士人にへりくだったとあります。

敷物を重ねて座ったりする事も無かったとあり、人に関してはかなりの気遣いが出来ていた様です。

士人にへりくだる辺りは、戦国時代の孟嘗君平原君信陵君春申君戦国四君を思い起こさせる部分もあると感じました。

荀彧は儒教の思想を強く受け継いでおり、儒教の教えに則り行動した人でもあったのでしょう。

尚、荀彧の人柄や才能に関しては、司馬懿も絶賛している程です。

美しき容姿

典略には荀彧の容姿に関しても述べられており、容姿端麗な偉丈夫だったとあります。

三国志随一の奇人と言えば禰衡ですが、禰衡は荀彧に対して次の様に述べています。

※平原禰衡伝より

禰衡「文若(荀彧)はその顔を使って弔問に行かせるのが適任だ」

禰衡は荀彧を大した人物ではないと言いたげですが、顔が良い事は認めているわけです。

潘勗は荀彧の碑文をあらわし「優れた容姿、りっぱな外貌」と称賛していたとあります。

荀彧は今でいえば容姿端麗なイケメンだったという事なのでしょう。

余談ですが、正史三国志の禰衡の話は荀彧伝の注釈に収録されています。

袁紹からの手紙

曹操が献帝を許に迎えてから、袁紹は不機嫌極まりなかったわけです。

袁紹は公孫瓚を相手に有利に戦いを進め、天下で最も強大な勢力となっていました。

曹操の方では呂布袁術を滅ぼす事も出来ず、張繍との戦いでは曹昂や典韋を失うなど負け戦もあったわけです。

袁紹は曹操に対し無礼で馬鹿にした様な手紙も送りつけて来るようになります。

袁紹の手紙を受け取った曹操は不機嫌になり平常心でいられなくなります。

曹操は不機嫌の理由を明かさなかった事で、多くも者が張繍との敗戦を思い出し不機嫌になっていると考えました。

しかし、荀彧は曹操の事をよく観察しており、張繍に敗れたから不機嫌になったのではないと見ていたわけです。

鍾繇が荀彧に曹操が不機嫌な理由を聞くと、次の様に答えました。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「公(曹操)は聡明な方であり済んだ事をくよくよする様な人ではない。

他に何か別の事があり、心が乱れているのだろう」

荀彧は曹操をよく理解しており、多くの人々と違う考えを持っていた事が分かります。

荀彧は曹操と面会し理由を尋ねると、袁紹からの手紙を見せて次の様に答えました。

曹操「道義に背く者を征伐しようと思っても力では及ばない。

どうしたらよいものだろうか」

曹操は張繍に負けたから機嫌が悪かったのではなく、袁紹の手紙を受け取り気分を害していたわけです。

曹操と袁紹を比較

心が乱れていた曹操に対し、荀彧は本当に「優れた人物なら弱くても強くなるし、不適当な人物なら強くても必ず弱くなる」と述べました。

荀彧は項羽劉邦の戦いを見れば明らかだと伝え、袁紹と曹操も似たようなものだと伝えます。

荀彧は袁紹と曹操を比較し、次の様に評価しました。

袁紹は外面は寛大だが内面は猜疑心が強く仕事を任せながらも疑い、曹操は適材適所に人を配置する事を心掛けている。

袁紹は優柔不断で決断が出来ないが、曹操は変化に応じて決断する事が出来る。

袁紹は軍の締まりがなく軍を使いこなす事が出来ないが、曹操は信賞必罰が行われており兵士は必死で戦う。

袁紹は先祖の名声で人を集め能力に乏しく議論好きの人間を好むが、曹操は仁愛と誠実さがあり功績のある者に対し物惜しみもしない。

荀彧は曹操は袁紹よりも度量、計略、武力、徳義の4点において勝っていると述べたわけです。

荀彧は曹操が4点で袁紹に勝り献帝を擁し正義の征伐を行うのであるから、問題ないと告げました。

袁紹の強大さは役には立たないと述べ、曹操を喜ばせています。

この時の曹操は心が乱れていた部分もあり、落ち着かせる為の発言も入っていた事でしょう。

尚、荀彧が推挙した郭嘉も袁紹と曹操を比較し10点において、曹操が勝っていると評価したのは面白い点です。

荀彧の戦略

荀彧は曹操を勇気づけただけではなく、今後の戦略に関しての述べています。

荀彧は最初に徐州にいる呂布を討伐する事を進言しました。

しかし、曹操は次の様に述べています

※正史三国志 荀彧伝より

曹操「儂もそれは考えたが、袁紹が関中に侵攻し荒しまわり、羌族を味方につけ、南方の蜀漢に誘いの手を伸ばすのではないかと心配なのだ。

そうなると儂は兗州と豫州だけで天下の6分の5と対峙する事になる。

これで、一体どんな手が打てるというのだ」

曹操の頭の中では戦略が行き詰まっていたわけですが、荀彧は次の様に述べました。

荀彧「関中の人々は十単位の数に別れており、一つにまとまる事は不可能です。

関中の諸将の中では馬超と韓遂が最も強大ですが、彼らは山東で戦争が起きれば各自軍勢を抱えたままで自勢力を保とうとするでしょう。

今、恩徳により彼らを慰撫し使者を派遣し友好を結べば、長期間の安定を保つ事が出来なくとも、公(曹操)が山東を平定する期間くらいは充分に釘付けに出来ます。

西方の事は鍾繇に任せておけば問題ありません」

曹操は荀彧の進言に従い涼州や関中の事を鍾繇に任せ呂布を滅ぼし、張繍を討伐しました。

張繍に曹操は賈詡の進言により何度か敗れますが、最終的に張繍は曹操に帰順しています。

官渡の戦い

荀彧と孔融

曹操が徐州を手に入れた頃には、袁紹公孫瓚を滅ぼし河北四州を平定していました。

ここにおいて袁紹と曹操の対立は頂点に達します。

曹操配下の孔融は荀彧に袁紹は強大な力を持っていると述べました。

孔融は袁紹の配下には智謀の士の田豊許攸、忠臣の審配逢紀、軍事には顔良文醜がいるから勝利するのは難しいと語ります。

しかし、荀彧は袁紹の兵が多くても軍法が整っていないと指摘しました。

荀彧は田豊は剛情、許攸は貪欲、審配は独断的、逢紀は向こう見ずな性格だと欠点を述べています。

荀彧は田豊や許攸などの人材の優秀さを認めながらも、同時に欠点も理解していたのでしょう。

さらに、逢紀と審配が留守を守るのであれば、許攸の家族が何かあった時に上手く対処する事が出来ず、許攸が裏切る事まで予言しました。

顔良と文醜の武勇も一戦で討ち取れると述べています。

荀彧の予言とも取れる発言は、成就される事となります。

ただし、荀彧の予言が余りにも正確過ぎる事もあり、本当の話なのか?と疑いたくもある部分でもあるはずです。

曹操を励ます

官渡の戦いでは前哨戦で荀攸の計略もあり、顔良文醜が討ち取られ荀彧の予見した通りとなります。

しかし、物量に勝る袁紹が優勢となり、曹操は徐々に後退し官渡まで押し込まれました。

曹操は兵糧が少なくなってくると、弱気になったのか許に引き返し袁紹をおびき寄せたいとする手紙を荀彧に送っています。

しかし、荀彧は曹操が許昌に引き返す事には反対であり、次の手紙を曹操に送りつけました。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「現在の我が方の兵糧が少ないと申しても、楚と漢が滎陽と成皋の間で争っている時に比べればマシな方です。

この戦いでは劉邦項羽も退こうとしなかったのは、先に退いた方が負けだと分かっていたからです。

公(曹操)は敵の十分の一の兵で境界を設け、敵の喉元を締め付けながらも前に進む事が出来ないまま半年が経過しました。

内情があらわとなり、勢いが尽きれば必ず変事が起こります。

その時こそが奇策を用いる時であり、逃してはなりません」

荀彧は曹操に耐え抜く事を要求し、撤退に反対したわけです。

ただし、荀彧は「敵が自滅するのを待て」と言ったに過ぎず、具体的な策を述べたわけでもありません。

しかし、官渡の戦いでは荀彧が予想した通りの展開となります。

袁紹陣営では留守を任された審配許攸の家族を捕えてしまい、怒った許攸は曹操に寝返り烏巣にある兵糧庫の位置を教えました。

曹操は楽進を連れて烏巣を急襲し、烏巣の戦い淳于瓊を斬り袁紹軍の兵糧庫を焼きます。

これにより袁紹は軍を維持できなくなり、北に撤退しました。

全ては荀彧の思った通りになったと言えます。

南征を諫める

袁紹は北方に逃れますが、曹操は東平郡安平県に行き食料を確保したいと思案しました。

曹操は食糧の少なさから河北(袁紹)を追い詰めるには不十分だと考えたわけです。

さらに、曹操は袁紹の傷が癒える前に劉表の討伐をしたいと画策しました。

荊州では張羨桓階が曹操への支持を表明し劉表と争っていた事で、曹操は張羨らを助けたい気持ちもあったのでしょう。

しかし、荀彧は次の様に進言しました。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「現在の袁紹は戦いに敗れた事で兵士の心が離れており、困窮に付け入り河北平定を目指すべきです。

袁紹に背を向け長江や漢水の流域(劉表の支配地域)に遠征するとなれば、袁紹が残兵を集結させ背後を襲われる事も考えられ、成功は困難となります」

曹操は荀彧の進言により南征を取りやめ、北上し黄河のほとりに布陣する事になります。

高幹と鍾繇

袁紹は反乱鎮圧に忙殺されてはいましたが、袁紹が存命中は曹操は北方の領土を奪う事が出来ませんでした。

しかし、袁紹が202年に病没すると、曹操は黄河を渡り袁紹の遺児である袁譚と袁尚を攻撃しました。

この時に袁氏の中枢にいた高幹が黄河を渡り、郭援を使い侵略しています。

西方が動揺しますが、荀彧が推挙した鍾繇が馬騰を味方につけるなどもあり、龐徳が郭援を斬り高幹を打ち破りました。

郭援と鍾繇は親戚でしたが、鍾繇は私情を挟む事はなく、この辺りも荀彧の期待通りの働きだったと言えるでしょう。

荀彧の目に狂いはなかったわけです。

万歳亭侯

203年に曹操は荀彧の功績に報い上表して万歳亭侯に封じました。

この時の曹操の上表文が荀彧別伝に残っています。

※荀彧別伝より

私は計慮こそが功績の第一で策謀こそが恩賞の根本だと考えております。

戦場での手柄も廟堂における方策の勝利に優先せず、数多の戦いへの参加も国政における勲功を凌駕する事はありません。

それ故に周の武王は周公旦の曲阜の恩賞を呂尚の営丘の恩賞の後回しにしなかったのです。

前漢の蕭何の領土も曹参よりも先にしております。

策謀を評価し計略を重視するのは、古今を通じて尊重されております。

侍中・尚書令の荀彧は立派な道徳心と行いを積み上げ、幼年の頃から成年に達するまで悔いる所もなく、世の中の混乱に遭遇しても忠義心を忘れず、混乱が治まるのを念じていました。

私は征伐を行うにあたって荀彧と心を一つにして、国家の計略を助けて来ました。

荀彧の計略に助けられて私は成功を収め日月の光を輝かせたのです。

陛下(献帝)が許に御幸なさってからは、荀彧は側近くに仕え忠勤に励み、神経を研ぎ澄まして政務に当たりました。

天下が安定したのは荀彧の功績であります。

彼に高い爵位を与え、大きな功績を顕彰すべきだと存じます。

曹操は西周王朝の初期の人物である周の武王、周公旦、呂尚を例にして献帝に上表しました。

曹操は荀彧を高く評価し献帝に上表した事が分かります。

しかし、荀彧は「自分は労苦の経験が無い」として固辞し、曹操は上表文を帝に差し出しませんでした。

代わりに荀彧に手紙を送り、次の様に述べています。

君(荀彧)と共に仕事をする様になり、朝廷に立ち君が行ってくれた補佐、計画、策謀、人材推挙は何と多い事だろうか。

そもそも功績というのは、必ずしも実戦でのみ立てられるとは限らないのだ。

辞退はしないで欲しい。

荀彧は漸く爵位を受け入れたわけです。

名士の礼儀の一つとして「何度も断り仕方がなく受けた」とするのが一般的ですが、曹操が献帝に荀彧の言葉を上表しなかった事から、荀彧は本気で辞退するつもりだったのかも知れません。

荀彧が礼儀で爵位を辞退したのか、本気で辞退したのかは分からない部分があります。

尚、荀彧が任じられた万歳亭侯ですが、韓浩、曹茂、許褚、高柔などもなった記録があります。

九州制

曹操は204年に審配が守る袁氏の重要拠点である鄴を陥落させました。

曹操は冀州牧となりますが、曹操に対し次の様に意見する者がいました。

※正史三国志 荀彧伝より

古代の制度である九州制を復活させたならば、冀州が治める範囲は広大となり天下を従わせる事が出来るはずです。

曹操はこの意見に従おうとしますが、荀彧は次の様に述べました。

荀彧「その様な事をなされば、冀州は河東、扶風、西河の諸郡と幽州・并州の地を支配する事になり、多くの地を奪い取る事になります。

先に公(曹操)は袁紹を撃破し、審配を生け捕りになされた結果として四海の内は震えあがっております。

全ての人は領土を保持し、軍勢を有し続ける事が出来ないのではないかと恐れているに違いありません。

ここで冀州に分属させたとしたら、動揺が広がるだけです。

さらに、多くの人が関右の諸将に対して関所(函谷関、武関など)を閉ざし、防衛する事を考える様になります。

今、この話を聞いたとしたら、多くの者が順番に領土や軍勢を奪い取られる事になると考えるはずです。

仮に返事が起こったとしたら、善良な者であっても脅迫され悪に染まるに違いありません。

そうなれば袁尚は死を免れる事になり、袁譚は二心を抱き劉表は、このまま長江と漢水流域地帯を保有し続け天下が定まらなくなります。

公は急いで兵を引き挙げてまず河北を平定し、洛陽を復興し南下して劉表が貢献を怠っている事をお咎めになるべきです。

その様になされば、天下の人々は公の真意を悟り人々は自然と落ち着きます。

天下が安定した上で古の制度を議論する。これが国家を永続させる為の施策となります。

荀彧は九州制を採用すると、反旗を翻す勢力が出て世の中は混乱すると説きました。

ただし、九州制には反対しておらず、天下統一後に考えればいい事だと述べた事になります。

華麗なる荀氏一族

当時の荀彧の一族は甥の荀攸が曹操の謀臣として活躍し、荀彧の兄である荀衍は監軍校尉として鄴を守備し河北の軍事や政治を見る立場となっていました。

袁譚が討たれた後に袁尚と袁煕は烏桓族を頼り北方に移動しますが、高幹が鄴を襲撃しようとしました。

荀衍は高幹らの攻撃を防ぎ誅殺したとあります。

高幹が敗れたのは曹操や曹仁楽進らが出陣した壺関の戦いのはずですが、この辺りは記録の違いが出ており何とも言えない部分でもあります。

しかし、荀衍は後方で何かしらの活躍などを行い、高幹を破った戦いで列侯に封じられたようです。

曹操の荀彧に対する厚遇はこれだけに留まらず、自分の娘を荀彧の長男である荀惲に嫁がせました。

この女性が安陽公主と呼ばれる様になります。

荀彧と荀攸は揃って政府高官となりますが、謙虚に務め恩賞などは親戚や知人にばら撒き家に余分な財産を残さなかったと言います。

荀彧だけではなく荀攸も儒者が絶賛する様な行いだったのでしょう。

207年になると曹操は荀彧の領邑を千戸加増し合計で二千戸としました。

曹操は荀彧に対し最大限の評価をし恩賞を与えたと見るべきでしょう。

三公就任を断わる

荀彧別伝によると、曹操は次の様に上表したとあります。

※荀彧別伝より

「過去に袁紹が畿内に侵入し官渡の戦いが起こりました。

当時は我が軍は劣勢であり食料も少なく許への帰還も考え、手紙を荀彧に送りましたが、荀彧は私の考えに反対しました。

荀彧は踏みとどまる事への利点を説き進撃の計を授け、愚かな私を奮い立たせてくれたのです。

それにより、私は悪を懲らしめ、その軍勢を打ち破り降伏させる事が出来ました。

荀彧は勝敗の流れを読み取り、世にも稀な智謀の士だという証となります。

袁紹が敗北した時は、我が方の兵糧が少なく南方の劉表への遠征を考えていましたが、荀彧が利害を説きました。

これにより、私は河北四州を平定する事が出来たのです。

私が荀彧の事を無視して南征を行っていたならば、勝利を得る事は難しかっただけではなく本拠地をも失っていたでしょう。

荀彧の二つの計は滅亡を存亡に変え、禍を福に転じ、その謀は私が及ぶところではございませんでした。

それ故に過去の帝王は獲物の足跡を指摘する人間の功績を尊重し、獲物を捕らえる犬の恩賞を軽くしたのです。

古の人は軍幕の中で立てる策略を尊び戦いにおける功績を低くしました。

先に記録された爵位は荀彧の図抜けた功績に相応しくありません。

公正に論定し荀彧の領有を古人並みにして下さいます様にお願い致します」

曹操は荀彧の爵位や俸禄を挙げる様に上表したわけです。

曹操の上表文にある「獲物の足跡と獲物を捕らえる犬」の話は、劉邦が論功行賞を行った時に兵站を司った蕭何を第一とし、傷だらけになりながらも戦い抜いた曹参よりも上にした話を述べているのでしょう。

荀彧は深く辞退しますが、曹操は荀彧に次の様に申し送りました。

君の策謀は上奏した二つの事例に留まらない。

何度も辞退するのは魯仲連先生を慕うお考えだろうか。

その様な態度は人の生き方をわきまえた聖人を尊重するものではない。

昔、介子推が『人の財産を盗む者でも、なおこれを”盗人”と呼ぶ』という。

ましてや君は人に知られぬ策謀を立てて民を安全に導き、私の栄誉を光り輝かしてくれた事は三桁もある。

二つの事柄だけを考え、再度辞退するなど謙虚な態度を取る事ははなはだしい。

荀彧別伝の曹操の口調を見るに、辞退する荀彧に対し怒りも見える様に感じます。

曹操は荀彧を三公にしようとしますが、荀彧は荀攸を使者として深く辞退し、これが十数回も繰り返された事で、曹操は漸く諦めたとあります。

南征

曹操は北方を平定したので、兵を南に向けて荊州の劉表を討とうと考えました。

荀彧は荊州討伐の方策を曹操に訪ねられると、次の様に答えています。

※正史三国志 荀彧伝より

荀彧「現在、中華の地は平定されました。

南方の勢力は追い詰められたと気が付いております。

宛と葉に出兵し、その一方で間道を軽装の兵が進み不意を衝くのが良いでしょう」

曹操は荀彧の言葉を聞き南征を始めますが、この時に劉表が亡くなり、劉琮が後継者となりますが、蔡瑁などの説得もあり曹操に降伏しました。

劉琮は降伏しましたが、兄の劉琦を擁立した劉備が江陵に向かい、呉の魯粛により孫権と劉備の同盟が結ばれています。

呉の周瑜と曹操の間で赤壁の戦いが起こりますが、曹操は戦いに敗れ荊州の中南部を失いました。

董昭との対立

荀彧ですが、赤壁の戦い後から急に史書に姿が見えなくなっていきます。

正史三国志の荀彧伝によると、212年に董昭が曹操の爵位を「公」に進めようとした時です。

董昭は荀彧が推挙した郭嘉の死後に後任となった人物でもありますが、政敵だったとも伝わっています。

董昭は荀彧に曹操は公となり九錫の礼物を備えて勲功を顕彰すべきではないか?と相談しました。

しかし、荀彧は曹操が義兵を起こしたのは朝廷を救い国家を安定させる為だと述べています。

荀彧は曹操には真心があり謙虚さを守り通して来たのだから、魏公に就任するのは宜しくないと伝えました。

曹操はこの荀彧の発言を喜ばず、内心穏やかではなかったと記録されています。

保身に走る荀彧??

袁暐の献帝春秋に荀彧と曹操が不仲を引き起こした話があるので紹介します。

董承が処刑され伏皇后は父親の伏完に手紙を送り「司空の曹操が董承を殺害し、帝は復讐を念じております」と伝えました。

伏完は手紙を受け取ると荀彧に見せます。

荀彧は嫌な顔をしますが、長い間、黙っており秘密にして報告しませんでした。

伏完が妻の弟である樊普に見せると、樊普は封をして曹操の献上しました。

樊普が曹操に手紙を渡した事を考えれば、荀彧は知っていながら見過ごすという曹操に対する裏切り行為が露見する可能性も出て来たわけです。

曹操は事が起こるのを警戒し、荀彧は知りながら黙っていた事が発覚するのを恐れ告発を決心しました。

荀彧は曹操がいる鄴を訪れ曹操の娘を帝の后になる様に進言しました。

しかし、曹操は「朝廷には伏皇后がおり、私の娘は后にはなれないし、自分は宰相の地位にあるのだから、娘の寵愛を頼りにする必要もない」と答え荀彧の進言を却下しています。

ここで荀彧は引き下がらずに、次の様に述べました。

荀彧「伏皇后には子がなく邪悪な性格をしております。

伏皇后は平素から父親に手紙を送っておりますが、邪悪な事を書き示しており、それを理由に廃すべきです」

ここで、曹操は「その事をなぜもっと早くに言ってくれなかったのか」と問いました。

荀彧は驚いたふりをして「既に私は公に申し上げていましたが」と責任逃れする様な口調で言うと、曹操は「これは儂が忘れる程の些細な問題ではないはずだ」と述べます。

ここで荀彧は再び驚いたふりをして、次の様に発言しました。

荀彧「本当はまだ公に申し上げてはおりませんでしたか。

昔、官渡で袁紹と対峙していた時ですから、公に国内を懸念させてしまったら、戦いに集中出来ないのではないか?と気遣い、それで申し上げなかったのでしょう。

曹操は納得せず「だったら官渡の戦いが終わった後に何で言ってくれなかったのだ」と問います。

曹操の問いに対して荀彧は上手く答える事が出来ず、詫びる事しか出来ませんでした。

献帝春秋だと伏皇后の事を荀彧が曹操に黙っていた事から、二人の関係が冷めて行った記述があるという事です。

曹操は荀彧を嫌う様になりましたが、表面上は荀彧を受け入れているかの如く接した事で、世間の人は曹操と荀彧の不仲が分からなかったと言います。

献帝春秋の記述を見ると荀彧が保身に走りいい訳ばかりしている様に見受けられます。

献帝春秋の記述に関して裴松之は、曹操の問いに言葉を詰まらせる荀彧を見て「凡人であっても、こんな稚拙な追い込まれ方はしない」と述べています。

裴松之は荀彧ほどの者であれば「こんなつまらない弁明はしない」と考えたのでしょう。

裴松之は献帝春秋の袁暐の下手な勘繰りから出た出鱈目な記述として一蹴しました。

荀彧は曹操が認めた程の逸材であり三国志でも最高峰とも呼べる軍師であり、個人的には献帝春秋の記述は世間の噂程度のものだと考えています。

尚、献帝春秋には荀彧の最後も書かれており、後ほどお話します。

曹操と荀彧が不仲になった理由

荀彧と曹操が不仲になった事に関して、董昭が関係している事は間違いないでしょう。

一般的には曹操と荀彧の対立の原因は、曹操の「魏公就任」が原因だと考えられています。

公の位を持つ事は「公国」が誕生する事であり、国が出来る事で、その先には「王」や「皇帝」もあり人臣の位を超える事を指します。

漢王朝の簒奪への第一歩とも見て取れる曹操の魏公就任の賛成派が董昭であり、反対派が荀彧だったわけです。

この時の情勢を見ると曹操は赤壁の戦いでの敗北により、曹操の代での天下統一がほぼ不可能な状態になっていました。

曹操は天下統一が出来た事を想定して準備を進めていましたが、天下統一が難しくなり困った状態となったのではないか?とも考えられます。

曹操が赤壁の戦いで勝利していれば、天下統一が成り禅譲により曹操が皇帝となり、部下達にも恩賞を与える事も出来たわけです。

しかし、実際には、それが不可能となってしまい困窮した曹操は、魏公になれば公国も立てられ部下達に、それなりの地位を与える事が出来ると思案したとも考えられます。

下記が実際に曹操の魏公就任に賛成した者たちで記録されている人物たちですが、多くの者が曹操の魏公就任に賛成している事が分かります。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

曹操の魏公就任に対しては、荀彧を慕う鍾繇や一族の荀攸の名さえある程です。

しかし、荀彧は曹操は朝廷の為に動いたのであり、権力を得る為に動いたわけではないと見せる様に主張しました。

荀彧は曹操に漢王朝の臣下としての態度を貫くべきだと進言したわけです。

これにより荀彧は漢王朝を慕う臣下の様に言われる事も多いですが、実際の荀彧は献帝を使って勢力拡大する様に曹操に進言した事実もあります。

それを考えると、荀彧がどこまで漢王朝にとっての忠臣だったのかは分からない部分もあり、荀彧は魏公なり帝位に就くのは天下統一後が相応しいと考えていた説もあります。

その説が正しいのであれば、荀彧は曹操が魏公になれば求心力を失い動揺が起きるから、反対したという事になります。

しかし、曹操の意見は変わらず、魏公就任を諦める事はなく、荀彧は遠ざけられ二人の関係に溝が出来ていったとも考えられます。

曹操は最も賛成して欲しかったのが荀彧であり、反対されがっかりした気分もあったのかも知れません。

尚、荀彧と曹操の政治に関して思想の違いがあったのではないか?とする説もあります。

荀彧はバリバリの儒教の教えを持っている人物であり名士たちが政治を行うのが理想と考え、曹操は出自に関係なく有能な者を使いたいと考えていたとする説です。

三国志の世界では至る所で、名士と非名士の間で問題が起きており、同じ事が曹操と荀彧の間で起きたのではないか?とする説もあります。

曹操は荀彧死後に魏公に就任していますが、特には問題もありませんでした。

ただし、曹操は後に魏王となりますが、218年に金禕耿紀が漢王朝を救おうと許都襲撃計画を立て実行に移しています。

荀彧の家の隣に耿紀が住んでいた話がありますが、荀彧の死などで耿紀にも何かしらの考えが芽生えたのかも知れません。

許都襲撃計画では負傷した王必が亡くなるなどはありましたが、金禕らの謀反は失敗に終わりました。

曹操は魏公や魏王となって漢王朝から禅譲の流れに持って行っていますが、荀彧が警戒した様な国が転覆する程の反乱は起きなかったとも言えます。

曹操の代では漢王朝は残りますが、曹丕が即位すると直ぐに禅譲があり漢王朝は滅びました。

荀彧の最後

正史三国志

正史三国志によると、曹操は212年に孫権征伐を行う為の遠征を行っていました。

この時に曹操は上表して譙の軍慰労において荀彧を派遣して欲しいと要請しています。

今までの荀彧は曹操が遠征中は本拠地を守るのが役目でしたが、この時の曹操は荀彧を呼び出したわけです。

荀彧は譙まで行きますが、曹操は軍中に荀彧を留め置き侍中・光禄大夫として節を持ち丞相の軍事に参与しました。

これまでの荀彧は軍の内部にいた経験は皆無だったはずであり、不慣れな事を強いられる事になるでしょう。。

曹操の軍が戦場に到着し濡須口の戦いが始まるという所で、荀彧は病に倒れたとあります。

荀彧は病気になった事から、濡須口の手前にある寿春に残り憂悶のうちに亡くなりました。

荀彧は最後を迎えたわけですが、この時の荀彧の年齢は50歳だったと伝わっています。

荀彧は敬侯と諡され、翌年に曹操は魏公に就任しました。

正史三国志の記述は簡略ですが、やはり曹操との関係が上手く行かなくなっている様に見受けられます。

献帝春秋

献帝春秋の記述でも荀彧は曹操の魏公就任に反対であり、董昭が曹操に告げようとしました。

献帝春秋でも荀彧は軍を慰労する為に譙に向かいますが、荀彧は宴会が終わると曹操に「時間を作って欲しい」と述べます。

曹操は荀彧が天子の上申書(曹操の魏公就任と関係している)に関しての意見だと思い、会釈だけして荀彧を去らせました。

これにより荀彧は曹操に意見する事が出来なかったわけです。

正史三国志と同様に荀彧は寿春で亡くなりますが、寿春から逃げ帰った者が「太祖(曹操)は荀彧に伏后の殺害を命じ、荀彧は従わず、その為に自殺した」と孫権に告げたとあります。

孫権が聞いた話をそのまま蜀の劉備に流しました。

劉備は「老いぼれ(曹操)が死ななければ、禍乱が終わる事は無い」と述べ、献帝春秋は締められています。

魏氏春秋

魏氏春秋には正史三国志とは別の荀彧の最後が描かれています。

魏氏春秋によると、曹操は荀彧に食物を贈りました。

しかし、荀彧が開けてみると空っぽの器だけがあり、荀彧は毒薬を飲んで自殺したという話です。

この話を信じるのであれば、空っぽの器を見た荀彧は、曹操が自分の死を望んでいると判断した事になるでしょう。

ただし、空っぽの器が何を意味するのかはイマイチ分からない部分もありますが、曹操から荀彧への何かしらのメッセージだと見る事が出来ます。

魏氏春秋によると、荀彧は咸照2年(265年)に大尉の位を追贈されたと書かれています。

尚、265年は司馬昭が亡くなり司馬炎が後継者となり、曹奐の禅譲により魏が滅んだ年でもあります。

荀彧別伝

荀彧別伝にも荀彧の最後に関する逸話が掲載されています。

荀彧別伝によれば、荀彧は尚書令だった時から文書で意見を申していましたが、臨終の際にこれを全て焼き払ったと言います。

それ故に、荀彧が立てた策謀は大半が失われてしまったと記録されています。

荀彧は自分の死後に、この様な策謀は必要が無いと思って燃やしてしまったのかも知れません。

荀彧の思想

荀彧が生きた時代は征伐と国家草創の時期でもありました。

多くの制度が復活したりした時期でもありましたが、荀彧は曹操に古の瞬が禹、稷、契、皋陶などを例に次の様に述べました。

荀彧「古の舜は禹、稷、契、皋陶をそれぞれが見合った官位に就けました。

舜は職務を統制し教化と征伐を同時に行ったのです。

劉邦の時代の初期には多くの戦役がありましたが、登用した人物は教化の面であり、叔孫通は戦いの合間に礼儀を教えています。

光武帝は矛を脇におき六経を習い馬を休ませている間に、先王の道について議論いたしました。

『君子は食事を終える間も仁から離れない(論語)』ものなのです。

現在の公(曹操)は外では武威を示し、内では学問が盛んになっておられます。

そのお陰もあり戦争は収束に向かい人々は睦み合い国難は静まり六礼が全て整う様になってきました。

これこそが姫旦(周公旦)が周の政治を行い速やかに安定に導いた方法でございます。

道徳、功績を打ち立てると同時に立派な言葉も打ち立てる事こそが、仲尼(孔子)が六経を書き残した真理だとも言えます。

当代において制度を確立し、後世において名声を得るのは偉大な事なのです。

仮に武力征伐が全て終わってから、制度を樹立し文治、教化を始めるのでは敏速ではありません。

どうか天下の大秀才・大学者を集め六経を研究・校訂させ正しい注解を決定し古今の学問を存立し、その間にある重複を除去させます。

聖人の真意を統一し、同時に礼の学問を盛んにして、暫時強化を深めてください。

その様になされば政道は文武共に成就される事になるでしょう」

上記の記述を見ると分かる様に、荀彧は名士であり儒教の教えが強く、上記の様な内容を何度も曹操に伝えていたと言います。

曹操は荀彧の進言を喜び取り入れていた事も記録されています。

荀彧も正しき道でなければ心を働かせなかったとあります。

荀彧の名は天下に重く手本にしない者はいなかったとし、海内の英才は荀彧を第一人者として尊敬しました。

荀彧の評価

司馬懿の評価

荀彧別伝によると司馬懿は、いつも荀彧に対し次の様に述べていたとあります。

司馬懿「書物に書かれている事や遠方の出来事を、私は自分の耳目で聞いたりしているが、百数十年間に渡り荀令君(荀彧)に及ぶ賢才は存在しない」

三国志の勝者とも呼ばれる司馬懿も荀彧を絶賛していた事が分かります。

因みに、司馬懿もまた、先に述べた様に荀彧に推挙された者でもあります。

鍾繇の評価

鍾繇も荀彧を高く評価した人物です。

鍾繇は次の様に述べました。

※荀彧別伝より

顔回が没してから九つの徳を完備し過失を二度と繰り返さなかったのは荀彧しかいない。

顔回は孔子の一番弟子であり徳行に優れた者として評価されており、鍾繇が荀彧の人格及び才能を如何に高く評価したのかが分かるはずです。

ある人が鍾繇に「なぜ顔回の名前を出してまで荀彧をそこまで評価するのか」と問うと、次の様に答えました。

鍾繇「名君は臣下を師として扱い、それに次ぐ者は臣下を友として扱う。

太祖(曹操)は聡明さもありながら大事が起きるたびに荀君(荀彧)に相談しておられた。

これは古代における師友と同じである。

我々は命令を受けて事を行うが、それでもなお任務を尽くせない場合もある。

その差は遠すぎるという他ない」

鍾繇は曹操と荀彧の距離を見て高い評価をしたわけです。

陳寿の評価

陳寿は荀彧を涼やかな容姿を備え、道理をわきまえた態度を持ち、王佐の才覚を備えていたと述べました。

ただし、陳寿は荀彧が時運を認知し先見の明がありながらも、自己の理想を実現出来なかったと述べています。

陳寿の評の部分は簡略に書かれていますが、裴松之は次の様に書き示しています。

※正史三国志 荀彧伝・裴松之の言葉

世間の論者の多くは荀彧が魏氏(曹操)に従い謀を張り巡らせた結果として、漢王朝が傾き君主と臣下の地位が逆転したのは「荀彧が原因」だと述べている。

荀彧が晩年に魏氏の簒奪に反対の立場を取ったとは言うが、天命が移るのを防ぐ術も持たず、功績自体が道義に反し見識の面でも欠陥があったと非難している。

陳寿の評も世評に同調している様に思う。

しかし、私はこの様な世評が蔓延するのは、荀彧の偉大さが分かっていないからだと思案する。

魏の武帝(曹操)が衰えた漢王朝の忠臣として終始する意思がない事は、荀彧ほどの人が知らないはずがない。

当時は王道が廃れ邪流が既に出回っており、英雄豪傑は虎視眈々と隙を伺い人々も二心を抱いていた。

仮に乱世を正す資質、時勢にそった計画が存在しなかったならば、漢王朝はたちまち滅亡し人民は滅び尽きてしまったであろう。

時代の英雄を補佐し行き詰まった世の中を打開するのであれば、この人物(曹操)に協力せずに、誰に協力すればよいのだろうか。

天下の激しい病に対処するには我が身を救うのと同じように、困難な中でよく行動し世の立て直しに成功したのである。

溺れてしまいそうな万民は助け船に救われ漢王朝は二紀に渡り、命運を伸ばす事が出来た。

これこそが荀彧の本位であり、その仁愛が遠くまで及んだ結果ではなかろうか。

武帝の覇業が成立し、漢王朝を滅亡させようとする行動が歴然となるに従い、荀彧は身を挺して平素の心情を明らかとし、正義を全うし百代の後世まで真心を伝えたのである。

遠い道のりを重荷を背負って歩き、理想を実現する為に正義を樹立した。と言えるはずだ。

しかし、理想を完全に実現する事は出来なかった。

裴松之が荀彧の人間性・人柄・能力を評価していた事が分かります。

尚、裴松之は賈詡に対し荀彧や荀攸と同じ伝に収録するべきではないと述べている事から、荀彧の人間性を特に高く評価していたと見る事も出来るはずです。

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宮下悠史

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