三国志

劉備(りゅうび)の史実・蜀を建国した英雄で魅力的な性格の持ち主

2021年6月29日

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宮下悠史

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劉備の字は玄徳であり、三国志の中でも屈指の人気を誇る人物でもあります。

曹操と並ぶ三国志最大の英雄と言えるのかも知れません。

三国志演義では、曹操が悪人扱いされている中で、劉備は漢王朝の復興を目指す聖人君子の様な人物として描かれています。

しかし、陳寿が書いた正史三国志を読むと、劉備はゴロツキではないか?と思える部分も少なくありません。

何度も部下や妻子を置き去りにして逃亡するなど、現代人から見れば不義に思える様な事もしています。

劉備の最後は陸遜に敗れ永安がある白帝城で病死しますが、中国のほぼ全土を渡り歩き、最後には蜀の皇帝となった英雄と言えるでしょう。

関羽張飛諸葛亮など、三国志でも屈指の人気人物が慕った、劉備がどの様な人物だったのか、正史三国志をベースに解説します。

因みに、正史三国志では劉備は「先主」の名で記載があり、劉禅が「後主」と呼ばれています。

呉の孫権が呼び捨てなのに対し、正史三国志の著者である陳寿は蜀の出身者なだけに、劉備に対して思い入れが強かったのかも知れません。

尚、劉備は三国志のゲームなどでは、魅力が全武将の中で最高値になっている場合が大半です。

史実の劉備も人間的な魅力を武器に皇帝にまでなった人物だと言えます。

劉備は悪政は行いませんが、これと言って画期的な政策を行った話しも聞きません。

しかし、なぜか民衆や天下の英傑に慕われるのが劉備という人物です。

劉備の生い立ち

劉備の少年時代の生い立ちなどを紹介します。

貧乏人の筵売りではなかった

劉備は中山靖王劉勝の末裔と言われています。

言い伝えでは、漢の皇室の血が流れている事になります。

劉備は三国志演義のイメージで、貧乏人の筵売りだったと思っている方もいるかも知れません。

しかし、劉備の祖父である劉雄は孝廉に推挙され、役人として出世していった話があります。

劉雄は孝廉に推挙されるわけですが、当時の涿郡は人口が20万人ほどおり、孝廉の推挙は10年に1回しか行われなかったとされています。

劉雄は10年に一回、20万人一人しか選ばれない難関である、孝廉にパスした事を考えると、並大抵の人物ではなかった事が分かります。

さらに、孝廉に推挙された事を考えれば、自身の家には書物も置かれており、当時の識字率などを考えても、普通の家ではなかった事は明らかでしょう。

確かに、劉備の父親である劉弘は早くに亡くなってしまいましたが、劉備の家はただの貧乏人ではなかったはずです。

劉子敬に育てられる

劉備の父親である劉弘は若くして亡くなってしまいます。

しかし、当時は親戚同士の助け合いが成されるのが普通であり、劉備の親戚である劉子敬が、劉備少年の父親代わりになった話があります。

小さい頃の劉備は「大人になったら皇帝の車に乗る」と劉子敬の前で言った事があり、劉子敬は慌てて「馬鹿な事を言うな。一族皆殺しにされるぞ。」と叱った話があります。

この話は劉備に大志があった事の表れであると、考える人も多いです。

劉備の性格

劉備の容姿に関する記述が正史三国志にあり、身の丈七尺五寸(身長173cm)、手を下げると肘まで届き、振り返ると自分の耳まで見る事が出来たとあります。

この表現をどこまで信じていいのかは不明ですが、魁偉というか特徴的な容姿だったのでしょう。

劉備の性格は口数は少なく、人にはよくへりくだり、喜怒をあらわさず、好んで天下の豪傑と交わり合ったとあります。

劉備の魅力なのか、多くの若者が劉備と積極的に交わろうとした話があります。

さらに、正史三国志によれば、劉備は読書を好まず、「犬」「馬」「音楽」「綺麗な服」を好んだとあるわけです。

劉備が好んだとされる「犬」や「馬」は動物を好んだのではなく、闘犬や競馬などのギャンブルを好んだのではないか?とも考えられています。

音楽や綺麗な服装を好む辺りは、親孝行の貧乏人の劉備像とは、かけ離れている様にも感じました。

劉元起の留学資金

劉備の母親は、劉備が15歳になると盧植の私塾に通わせようと考える様になります。

劉備が遊学させる為の資金は、一族の劉元起が出しています。

劉元起は、劉備の事を高く評価し「劉備は並大抵の人物ではない」と評価しました。

劉元起の妻は、劉備を厚遇する劉元起に不満だった様ですが、劉元起は、劉備の将来を見越して先行投資したとも考えられています。

因みに、劉備の家を見た李定という人物は「この家から貴人が出るであろう。」と予言した逸話も残っています。

李定の予言は成就され、劉備は皇帝にまでなっています。

盧植の弟子となる

劉備は盧植の弟子となりますが、ここで知り合ったのが公孫瓚です。

劉備よりも公孫瓚の方が年上だった事で、劉備は公孫瓚を兄として仕えたとあります。

劉備と公孫瓚は極めて親密になったとする記述があり、二人は馬があったのでしょう。

盧植に関して述べますが、盧植は有名な儒家であり、本当に劉備が貧乏農家出身であれば、盧植の私塾に通えるわけがないと考える専門家もいます。

劉備の記録を見るに儒家の行動とはかけ離れており、盧植の弟子の中でも出来が悪い部類だったのではないか?とも考えられます。

尚、盧植は様々な官位を歴任しており、劉備が盧植の弟子だった期間は数カ月しかなかったのではないか?とする説が有力です。

安熹県の県尉になる

劉備は功績により、安熹県の県尉になった話があります。

関羽と張飛に出会う

184年に張角黄巾の乱を引き起こしています。

この時に、馬商人の張世平と蘇双は、劉備に資金援助をしたわけです。

戦国七雄が争った時代に、呂不韋異人(秦の荘襄王)に先行投資した様に、張世平と蘇双も劉備に出世すると見込み先行投資を行ったのでしょう。

劉備は「馬」を好んだ話があり、馬商人に顔が利いたのかも知れません。

劉備は張世平や蘇双の資金で、関羽や張飛をボディガードとして雇った話があります。

三国志演義だと、劉備、関羽、張飛は意気投合し、桃園の誓いを結び義兄弟になった話がありますが、史実ではない様です。

ただし、劉備、関羽、張飛の三人は行動を共にしているうちに、仲が良くなったというのが史実なのでしょう。

しかし、旗揚げの段階から関羽と張飛が劉備の配下になったのは、劉備の幸運さを現わしている様に思います。

因みに、劉備は旗揚げの時に関羽、張飛だけではなく簡雍も配下としています。

劉備が功績を立てる

三国志演義では、黄巾の乱で劉備は大活躍し、曹操や孫堅などの英雄が登場する事になります。

史実の曹操や孫堅が黄巾の乱で皇甫嵩朱儁の配下として、活躍した事は間違いありませんが、劉備の黄巾の乱での活躍は不明です。

陳寿が書いた正史三国志には、黄巾の乱の手柄により安熹県の県尉に任命されたと記述があります。

しかし、典略によれば劉備が手柄を立てて、安熹県の県尉に任命されたのは187年の張純の乱だとあります。

張純の乱の時に、劉備は早々と負傷し「死んだふり」までした記述があるわけです。

しかし、劉備は上手くやり安熹県の県尉になっています。

黄巾の乱で功績を立てたのか、張純の乱なのかは不明ですが、劉備が安熹県の県尉になった事は間違いないのでしょう。

督郵を百叩きにし逃亡

安熹県の県尉になった劉備の元に、督郵(とくゆう)が派遣される事になります。

三国志演義だと督郵は劉備に賄賂を要求し、自分は民を苦しめ贅沢を好むなど、あくどい人物として描かれて、最後は張飛に百叩きにされたわけです。

しかし、正史三国志には張飛が督郵を百叩きにするシーンは無く、劉備が自ら督郵を百叩きにしています。

正史三国志に劉備が督郵を百叩きにした理由は書かれていません。

一説によると、劉備の解任は既に決定事項であり、劉備が督郵を役人を引き連れて襲撃し、逃亡した説もあります。

劉備と督郵は顔見知りだった話もあり、督郵が悪事を働いたわけではないとする説も有力です。

劉備は「解任される事が決定したから督郵を襲撃した」のではなく、「解任される可能性があるから督郵を襲撃した」とも言われており、悪いのは劉備であり督郵ではないとする説もあります。

しかし、劉備が督郵に暴行を加えた後に、逃亡している所を見ると、劉備にも後ろめたさがあったのでしょう。

母丘毅の配下となる

大将軍何進配下の母丘毅が丹陽で兵士を募集すると、劉備は母丘毅の軍勢に加わる事になります。

母丘毅と劉備は下邳まで来ると、賊軍と遭遇し戦いとなります。

この時の劉備は奮戦し、多くの功績を挙げた様です。

劉備な功績により、下密丞に任命されますが、短期間で官を去っています。

後に劉備は高唐の尉に任命され、昇進して令になりました。

英雄記によれば、この頃に後漢の霊帝が崩御し、劉備も董卓討伐に参加した様な記述も存在します。

三国志演義では、劉備、関羽、張飛の三人は、董卓との汜水関の戦いでは華雄を討ち取り、虎牢関の戦いでは呂布と戦うなど活躍していますが、正史三国志には、その様な記述は存在しません。

三国志演義の汜水関の戦いや虎牢関の戦いなどは、創作だと考えた方がよいでしょう。

尚、正史三国志によれば、令となった劉備は、賊軍に打ち破られ、中郎将になっていた公孫瓚のもとに逃亡しています。

公孫瓚は盧植の弟子だった時代の兄貴分であり、劉備は公孫瓚を頼る事にしたのでしょう。

公孫瓚の配下となる

191年頃には、劉備は公孫瓚の下にいた事が分かっています。

平原の相になる

公孫瓚は逃げてきた劉備を受け入れて重用します。

公孫瓚は劉備を上表し、劉備は別部司馬に任命されています。

この時に劉備は、田豫と知り合い高い評価をしました。

劉備は青洲刺史の田楷と共に、冀州の袁紹の軍と戦う事になります。

劉備は袁紹の軍と戦い軍功を挙げた事で、平原の令代行を命じられ、後に平原の相に任命されています。

この時代は四世三公を輩出した汝南袁氏の袁紹と袁術を中心とした戦いでもあったわけです。

袁紹の勢力には曹操や劉表が味方し、袁術には公孫瓚や陶謙が味方しています。

劉備は公孫瓚に属している事から、袁術側として戦った事になるでしょう。

刺客を持て成す

魏書によれば、劉備が平原の相をやっていた時代に、劉平は劉備を軽んじており、劉備の配下になるのは恥だと考えていました。

劉平は劉備に刺客を送りますが、劉備は刺客を丁寧に持て成すと、刺客は劉備に心酔してしまい、暗殺できなくなってしまった話があります。

刺客はありのままを劉備に告げ、立ち去る事になります。

真実は不明ですが、劉備が人を丁重に扱った逸話となるのでしょう。

暴動を防ぐ

劉備が平原の相をやっていた時代に、飢饉が起こり民衆が暴動を起こした話があります。

この時の劉備は、外に対しては暴徒の侵入を防ぎ、内に対しては経済上の恩恵を十分に与えたとあります。

さらに、劉備は身分の低い士であっても対等に扱った事で、多くの者が心を寄せた話があります。

この話は美徳として語られているわけですが、暴動を起こしたのは飢饉に苦しむ民衆であったはずです。

劉備が「暴徒の侵入を防いだ」とする記述は、劉備が飢饉に苦しみ略奪に走った民衆を弾圧したのではないか?とも考えられています。

さらに、「内に対して経済上の恩恵を十分に与えた」という記述は、裕福な豪族や名士たちに有利な政治を行ったのではないか?とも考えられるはずです。

それを考えると、劉備は決して民衆の味方だったいうわけでもない事になるでしょう。

美談として語られる話ではありますが、真実は不明と言えます。

孔融を救う

後に孫策の配下となる太史慈と劉備は、接点がないと思うかも知れません。

しかし、劉備が平原の相の時代に面識があったはずです。

孔融が黄巾賊の残党に城を囲まれる事態となります。

この時に、太史慈は驚異的な武勇を発揮し、黄巾賊の包囲を破り劉備に援軍要請をしたわけです。

劉備は太史慈がやってきて孔融の危機を伝え聞くと「孔北海(孔融)殿は、この広い天下に劉備がいた事を知っていたのか。」と言い3千の兵を太史慈に与えています。

太史慈は劉備から預かった3千の兵を指揮し、見事に黄巾賊を打ち破り、孔融を救い出す事に成功しました。

公孫瓚の許を去る

曹操は父親の曹嵩を陶謙が殺害したとして、193年に徐州に向けて大規模な軍事行動を起こす事になります。

この時には汝南袁氏の戦いは、袁紹陣営が圧倒的に有利であり、袁術派は不利な状態にいました。

曹操が徐州の陶謙に軍を進めると、公孫瓚は劉備と田楷に陶謙を救う様に援軍を送っています。

この時に劉備は公孫瓚から騎兵1000騎を与えられますが、公孫瓚の元にいた飢民数千と共に陶謙の元に向かっています。

陶謙は劉備がやってくると、4千の兵を与えた話があります。

この時から劉備は公孫瓚の配下から陶謙の配下に移る事になります。

見方によっては、劉備は公孫瓚を見限り、同じ袁術派の陶謙に寝返ったとも考えられるはずです。

この時の劉備の行動は謎であり、劉備は公孫瓚では袁紹に勝つ事は出来ないと考え、飢民数千を手土産に陶謙に鞍替えした説もあります。

徐州の主となる

劉備は公孫瓚の配下から陶謙の配下に移る事になります。

結果として劉備は徐州の牧となり、徐州を領有する事になります。

豫州刺史となる

陶謙は劉備がやってくると豫州刺史に任命した話があります。

劉備は陶謙陣営の最前線である小沛を守備する事になります。

劉備を豫州刺史に任命した所を見ると、陶謙は劉備を高く評価していたのでしょう。

尚、劉備が豫州刺史を行っていた時代に、袁渙を茂才に推挙した話があります。

田豫と別れる

劉備は徐州に行く事になりますが、かなりの突発的な出来事だった様で、劉備配下から田豫が去る事になります。

田豫は「母が高齢なので、故郷に帰りたい。」と述べたわけです。

劉備は田豫の手を握り涙を流し「君と一緒に大事を成す事が出来ないのが悲しい。」と述べます。

劉備は田豫の気持を察し、田豫の帰還を赦す事になります。

因みに、これが劉備と田豫の最後の別れとなり、2度と会う事はありませんでした。

田豫は後に曹操の配下となり、曹操の子である曹彰と共に烏桓征伐などで活躍しています。

田豫は魏では、曹操、曹丕曹叡、曹芳と4代に渡り重用された話があります。

陶謙の後継者となる

194年に徐州牧であった陶謙の病が重くなると、陶謙配下の麋竺は次の様に述べています。

麋竺「劉備以外に徐州を治める事が出来る人物はいない。」

陶謙が亡くなると麋竺は、徐州の人々と共に劉備を徐州牧として出迎え様とします。

しかし、劉備は徐州の牧になるのを断わっています。

下邳にいた陳登は劉備に次の様に述べています。

陳登「現在、天下は乱れており、多くの者が功績を立てて大事を成そうと考えております。

徐州は豊かな地であり、戸口は百万もあり、皆が劉備殿に期待しているのでございます。」

陳登の言葉に対し劉備は「袁術殿が徐州に近い寿春にいます。袁術殿に徐州を治めて貰ったら宜しいかと存じます。」と述べたわけです。

劉備は形勢が悪化しているとはいえ、袁術派であり、袁術を立てる事を進言しました。

しかし、陳登は「袁術は傲慢であり、乱れた世の中を正す事は出来ない。劉備様が10万の騎兵を率いれば、上は天子を助け、下は民衆を救う事が出来る。」と述べ、劉備が徐州牧にならないなら、自分は劉備の元を去ると告げたわけです。

北海の相になっていた孔融も次の様に述べています。

孔融「袁術には国を思いやる心が無く、徐州は天が劉備殿に与えたのです。

徐州牧にならぬと言うのならば、天罰が下る事になるでしょう。」

これを見ると劉備は多くの者に徐州牧になれと言われた様に思うかも知れません。

しかし、劉備配下の陳羣が徐州牧になるのを反対しました。

陳羣「徐州の牧となれば袁術と戦う事は必須となります。しかも、呂布が背後にいて徐州を維持する事は難しいと存じます。」

陳羣は劉備が徐州の主になる事に反対したわけです。

しかし、劉備は陳羣の進言を聞かず、徐州の牧になっています。

陳羣の予想した通り、劉備は呂布や袁術と徐州を巡って戦っていく事になったわけです。

因みに、呂布は劉備を頼って劉備の臣下になっています。

この時に呂布は劉備を弟扱いした話があり、劉備は呂布に対してよく思ってはいなかった話もあります。

徐州攻防戦

劉備は徐州を巡って袁術や呂布と戦う事になります。

曹豹の裏切り

劉備が徐州牧になると、陳羣が予想した通りに袁術が攻撃を仕掛けて来る事になります。

劉備は張飛や曹豹に下邳を守らせ、袁術の攻撃を防ぐ事になります。

下邳を守備する張飛と曹豹が仲違いを起こし、曹豹は呂布を下邳に招き入れる事になったわけです。

呂布は張飛を下邳から追いやると、劉備に対して反旗を翻す事になります。

劉備は正面に袁術、後方に呂布と挟まれた形となり、絶体絶命の危機が訪れる事になります。

呂布には妻子が人質に取られてしまった状態です。

この時の劉備の軍は困窮し、味方同士の人間が共食いを始めた記録があり、かなり悲惨な状況となります。

糜竺は劉備を支援する為に、2000人の小作人と妹(糜夫人)を劉備に献上する事を決めました。

こうした中で劉備は、呂布に降伏を願い出て許されたわけです。

呂布にしてみれば劉備を救ってやったと思っていた様ですが、劉備としては徐州を呂布に奪われる結果となります。

小沛に移る

呂布が劉備に代わり徐州の主となるや劉備配下の多くの者が呂布の配下となります。

呂布の臣下の者達は、劉備の事を次の様に述べています。

「劉備は扱うのが難しい人物であり、多くの人を裏切っています。」

呂布は部下達の言葉を劉備に伝える事になります。

劉備は呂布の元にいては殺害されると考え、呂布に人をやって小沛に移る事を求めました。

呂布は董卓や丁原を殺害しており、今は自分を殺す気は無くても、目先の利益で処刑される可能性があると、劉備は考えたのでしょう。

呂布に助けられる

劉備が小沛に行くと袁術が紀霊を大将にして、劉備に攻撃を仕掛けてきます。

劉備は単独では袁術と戦うだけの戦力を持たない事で、呂布に救援を求めました。

呂布は自ら騎兵や歩兵を率いて、劉備の援軍として現れます。

呂布は紀霊と劉備を宴席に招くと、轅門に戟を置き、弓で当てる事が出来たら、両軍とも兵を引く事を約束させます。

かなりの難易度だったのですが、呂布は武勇に優れていた事で、見事に戟に矢を当て、天意により和睦する事が決まります。

袁術軍の紀霊が兵を引いた事で、劉備は呂布に救われました。

しかし、劉備としては過去に、呂布に徐州を奪われ、味方の兵士が共食いをする程に追い詰められた事があり、呂布への恨みは消えてはいなかった可能性があります。

曹操の元に逃げる

呂布のお陰で劉備は命拾いをしたのですが、何を思ったのか劉備は兵士を集める事になります。

劉備の兵士は1万を超えた話がありますから、劉備はどこかを攻撃するつもりだったのでしょう。

因みに、劉備は1万の兵士で韓暹や楊奉を討ったのではないか?とも考えられていますが、楊奉や韓暹の死は記述には正史三国志でも相違があり、真意は不明です。

しかし、呂布にしてみれば劉備に大人しくして欲しいと思っていたのであり、劉備の行動に不信感が湧きます。

西暦198年に、呂布は劉備に攻撃を仕掛けると、劉備は敗走し、曹操に降伏する事になります。

曹操は劉備を厚遇し豫州牧に任命しました。

さらに、曹操は兵糧を小沛に送り、夏侯惇を劉備の援軍に送りますが、劉備と夏侯惇は呂布配下の高順に敗れています。

呂布は高順を重用しませんでしたが、高順は「陥陣営」の異名をとる名将であり、相手が悪かったとも言えるでしょう。

劉備の妻子は、またもや呂布の捕虜となってしまいました。

劉備自身は曹操の元まで逃げる事に成功しています。

呂布が劉備をなじる

曹操は自ら呂布の討伐に乗り出すと、199年には呂布を捕える事に成功します。

曹操は劉備の妻子を呂布から取り戻す事にも成功しました。

呂布の配下であった陳宮高順は斬られる事になります。

曹操は優秀な人材を使いたいと考えており、呂布を配下にしようとします。

ここで劉備は次の様に曹操に述べています。

劉備「曹操様は呂布が過去に、董卓と丁原を殺害したのをお忘れですか。」

劉備の言葉を聞いた呂布は次の様に述べます。

呂布「この男(劉備)が一番信用できないんだぞ。」

呂布は劉備を罵る事になります。

曹操は呂布の処刑を決め、呂布はこの世を去る事になります。

劉備は呂布に徐州を奪われ辛酸を舐めたわけであり、呂布への恨みは消えてはいなかったのでしょう。

徐州争奪戦で呂布は亡くなりましたが、平定したのは曹操であり、結局のところ徐州は劉備の治める地域では無くなってしまったわけです。

劉備の行動を見ると徐州愛が強い様に感じるわけであり、劉備としては何としても徐州を奪還したいと考えていた様に思います。

曹操を裏切る

曹操は劉備を重用した話があります。

しかし、劉備は曹操を裏切る事になります。

天下の英雄は劉備と曹操のみ

曹操は劉備を重用し左将軍に任命する事になります。

曹操は劉備を食事に招いき会食した逸話があります。

曹操は劉備の天下の英雄に関して質問すると、劉備は「袁紹」「袁術」「孫策」などの武将を英雄として挙げます。

しかし、曹操は次の様に述べます。

曹操「現在の天下で英雄と呼べるのは、儂と君(劉備)だけである。袁紹などは話にもならん。」

曹操の発言を聞いた劉備は、衝撃を受け箸を落とすと、次の様に述べます。

劉備「自分はさっき雷が落ちたのに動揺してしまいました。

孔子は迅雷風烈は必ず変ずと言いましたが、良い言葉だと思います。雷がここまで恐ろしいとは。」

劉備は自分の小物ぶりをアピールする事で、曹操からの猜疑心をかわしたとも考えられています。

この時の状態で言えば、曹操は劉備を重用してはいましたが、曹操配下の参謀である荀彧程昱は劉備を殺害する様に進言しました。

曹操配下であっても、劉備を危険視する人は多かったのでしょう。

ただし、曹操配下の郭嘉は劉備を処刑するのに反対しています。

董承の曹操暗殺計画に参加

董承は曹操暗殺計画を立て仲間を増やす事にしました。

劉備も董承の曹操暗殺計画に加わる事になります。

董承の曹操を排除する計画は、自らの野望の為に考えた話しもあれば、傀儡になっていた献帝の為にやった説もあり、はっきりとしません。

ただし、劉備は董承の曹操暗殺計画は危ういと思ったのか、袁術を討伐する名目で都を離れる事になります。

因みに、董承の計画は露呈してしまい、董承は一族もろとも処刑されています。

劉備が曹操に反旗を翻す

劉備は朱霊と路招らと共に袁術の討伐に向かいますが、袁術は病死してしまったわけです。

朱霊と路招は都に帰り、劉備は徐州に残る事になります。

ここで劉備が曹操に対し反旗を翻し、徐州刺史の車冑を攻撃し討ち取っています。

劉備は関羽に下邳を守らせ、自らは兵を率いて小沛に進撃する事になります。

劉備の謀反に東海の昌豨らも呼応し、数万に膨れ上がる事になりました。

さらに、劉備は河北の袁紹には、孫乾を使者とし誼を結んでいます。

劉備は徐州では人気があり、劉備自身も徐州に愛着があったのか、大勢力になったわけです。

妻子と関羽を置いて逃げる

曹操は劉岱と王忠を劉備の討伐に向かわせますが、劉備は劉岱らを撃退し、次の様に話しています。

劉備「劉岱や王忠が100人攻めて来ても負ける気がしない。曹操本人が攻めて来たら、どうなるかは分からんがな。」

劉備は曹操以外であれば、自分は戦いに負ける事はないと吠えた事になるでしょう。

この時は西暦200年にあたり、曹操は袁紹との官渡の戦いの直前だったわけです。

劉備は曹操が自ら兵を率いて攻めて来る事はないと考え、袁紹と曹操の戦いが始まったら、背後から曹操を討とうと考えていたのでしょう。

劉備は「曹操は袁紹との戦いで自分には手が回らないはずだ。」と考えいてた様ですが、曹操は袁紹を無視し劉備には自ら兵を率いて攻撃を仕掛けてきました。

曹操の攻撃が余りにも迅速だった為か、曹操が攻めて来ると劉備は急いで逃げる事になります。

この時の劉備は、かなり焦っていたのか自分の妻子と関羽を置き去りとし、袁紹の元まで逃げる事になります。

関羽は曹操に降伏する事になります。

袁紹配下となる

劉備は曹操に敗れると、袁紹を頼る事になります。

青州に逃げる

劉備は北に逃亡し、青州まで逃げる事に成功します。

袁紹の長男であり青洲刺史の袁譚を過去に劉備は茂才に推挙した事がありました。

袁譚は劉備に恩があり、劉備の為に軍勢を出して迎え入れる事になります。

劉備は袁譚に袁紹との面会を求め、袁譚は許可しました。

袁紹との面会

袁紹は劉備がやってきた事を知ると、劉備の為に将軍を派遣し、袁紹自らも200里も移動し、劉備と面会する事になります。

当時の劉備は天下に名が響いており、袁紹であっても無下に扱う事は出来なかったのでしょう。

劉備と袁紹は会談し、袁紹は劉備を天下の傑物だと認め、自陣に加わる事を許可しました。

劉備は袁紹軍の客将となり、曹操と戦う事になります。

尚、劉備が袁紹の元にいる事を知ると、曹操に敗れて離れ離れになっていた劉備の側近たちが戻って来る事になります。

官渡の戦い

官渡の戦いの前哨戦とも言える白馬の戦いで、劉備の配下であった関羽が張遼と共に出陣し、袁紹配下の顔良を討ち取る事になります。

自分の部下であった関羽が袁紹軍の猛将である顔良を討ち取ってしまう行為は、袁紹陣営にいた劉備に取って分が悪くなってしまった事でしょう。

劉備は汚名返上の気持があったのか、自ら名乗り出て文醜と共に、曹操軍に攻撃を仕掛けました。

曹操は軍師である荀攸の進言により、囮部隊を出しています。

劉備は自分らを釣る為だと看過し、引っ掛かりませんでしたが、文醜は囮部隊に攻撃を仕掛けた為に、討ち取られる事になります。

劉備は戦下手だと評価される事もありますが、決して戦いが苦手だというわけではない事が分かります。

その後に袁紹は劉備を曹操の後方に派遣し、劉備は曹操の後方を荒らす事になります。

曹操は劉備の行動に憂慮しますが、曹仁は次の様に述べています。

曹仁「劉備は袁紹の兵を借りているだけであり、兵士を自在に操る事は出来ない。数は多くても兵は弱いはずです。」

曹操は曹仁を劉備討伐に派遣しました。

曹仁は騎兵を上手く使い劉備を撃破しています。劉備は再び逃走する事になります。

袁紹の元を去る

劉備は曹操に敗れて袁紹の陣営に帰りますが、この頃には関羽が劉備の元に帰ってきていました。

関羽は袁紹配下の顔良を白馬の戦いで討ち取っており、袁紹陣営では関羽に対する冷たい目が向けられていたはずです。

さらに、劉備は袁紹の様子を見て、参謀の沮授の進言も聞く事も出来ず、田豊は既に獄に繋がれている状態だと知り、袁紹の敗北を悟った様に思います。

劉備は「荊州の劉表を説得し、曹操の背後を攻撃させる様に仕向ける。」と述べ、袁紹の本陣から離脱しています。

劉備は自分の直属の部下達を率いて南下し、汝南において賊軍の龔都(きょうと)らと合流し、軍勢は数千に膨れ上がりました。

曹操は蔡陽を派遣し、劉備を攻撃しますが、劉備は蔡陽を討ち取り撃破する事に成功しています。

ただし、劉備は曹操が南征を行うと知ると、急いで撤退し劉表の元まで逃げる事になります。

尚、官渡の戦いは、袁紹配下の許攸が曹操陣営に寝返り、烏巣にある兵糧庫の場所を教える事になります。

曹操は烏巣を守る淳于瓊を急襲し、楽進が淳于瓊を斬った事で、袁紹軍は破れました。

これを見ると、劉備が袁紹の元を去った事は正解であり、劉備の生きるための嗅覚が強い事が分かります。

劉表の元に身を寄せる

劉備は劉表の元に身を寄せる事になります。

劉表が劉備を受け入れる

官渡の戦いの翌年である201年に、曹操は南下して劉備を討伐する動きを見せます。

劉備は自分の側近である麋竺や孫乾を荊州に派遣し、劉表を説得させています。

劉表は劉備を郊外まで出迎えています。

劉表は劉備の軍才を認め、曹操陣営との最前線に当たる新野に劉備を駐屯させる事にしました。

劉表は劉備を厚遇し、兵士や物資も大量に与えた話があります。

ただし、荊州でも劉備の人気は健在であり、多くの豪傑たちが劉備に心を寄せた事で、劉表は劉備を危険視したともされています。

博望坡の戦い

西暦203年に、博望坡の戦いがあり、劉備が曹操配下の夏侯惇于禁、李典と戦った記録があります。

この戦いで劉備は自陣を焼き撤退の準備を始めます。

この時に夏侯惇は劉備軍の追撃を主張しますが、李典は「劉備は撤退する必要がないのに撤退した。伏兵がいるに違いない。」と追撃を反対しました。

しかし、夏侯惇は于禁と共に劉備を追撃しますが、劉備軍の伏兵が現れた事で夏侯惇は危機に陥ります。

李典が夏侯惇の救援に来た事で、劉備は速やかに兵を引き撤退しています。

博望坡の戦いでは、趙雲が夏侯蘭を捕虜にした記録が残っています。

博望坡の戦いは三国志演義では、諸葛亮が関羽、張飛、趙雲を上手く使い曹操軍を撃破した事になっていますが、実際には劉備が見事な作戦で曹操軍に勝利したと言えるでしょう。

髀肉の嘆

博望坡の戦い以降は、袁紹が亡くなった事もあり、曹操は北方の制圧に全力を尽くす事になります。

荊州は曹操の脅威が消えた事で、比較的平和な時代が訪れます。

ただし、劉備は劉表に曹操を攻める好機と、軍を動かす様に進言しますが、劉表は聞く耳を持ちませんでした。

劉備としては、地団太を踏む様な状態だったのでしょう。

九州春秋に、この時の劉備を現わした逸話があります。

劉備は劉表との宴席の最中に厠に行くと、自分の太ももに余分な脂肪が付いている事に気が付きます。

劉備は席に戻ると涙を流します。

涙のわけを劉表が訪ねると、劉備は次の様に答えています。

劉備「近頃は馬に乗って戦場を駆け巡る事も無くなり、髀裏に余分な脂肪が付いてしまいました。

時は経つのは早いですが、何も成し遂げる事が出来ないのが悲しいのです。」

この言葉から劉備が大志を抱き、曹操が圧倒的な勢力を築く段階になっても、諦めていない事が分かります。

劉備の嘆きでもある髀肉の嘆は、現在では「実力を発揮する事が出来ず、時ばかりが過ぎ去る状態」を指します。

天下三分の計

劉備は荊州にいたわけですが、何もしなかったわけではありません。

荊州時代に劉備は徐庶を配下に加える事になります。

さらに、徐庶が諸葛亮を推薦した事で、道が開かれる事になります。

諸葛亮は劉備に「天下三分の計」を献策し、劉備は諸葛亮の立てた天下三分の計を行動の指針にしました。

天下三分の計は、劉備が荊州と益州を領有し、孫権と同盟を結び北の曹操を討つという策です。

尚、劉備は諸葛亮を配下に加える為に、三顧の礼を行った話があります。

ただし、別説では諸葛亮の方から劉備にアプローチした話もあり、諸葛亮と劉備の出会いは謎な部分もあります。

しかし、荊州で劉備は諸葛亮と出会い、配下にした事は間違いないでしょう。

曹操の南下

西暦207年になると劉表が亡くなり、北方の平定を完了させた曹操は南下して来る事になります。

劉琮の降伏

劉表の後継者は、劉琮に決まります。

劉琮は親曹操派の説得により曹操への降伏を決めますが、曹操に降伏する事を劉備に告げなかったわけです。

親曹操派は劉備に告げれば、面倒な事になると考えたのでしょう。

しかし、劉備は状況の変化に気付き劉琮に問い合わせると、劉琮は宋忠を派遣しました。

劉備は宋忠から荊州が曹操に降伏する事を聞き激昂し、宋忠の喉元に剣を突き立てた話しもあります。

劉備は劉琮の態度に、憤りを感じますが、劉表の客将でしかない劉備では、曹操に対抗できない事は明らかでした。

劉備は江陵を目指す途中で、劉琮の本拠地である襄陽の前を通りかかる事になります。

この時に諸葛亮は「今すぐ、襄陽を攻撃すれば荊州を手にする事が出来る。」と進言しています。

しかし、劉備は「劉表殿にはお世話になった。劉琮は私に黙って曹操に降伏したが、劉琮を攻撃する事は出来ぬ。」と断りを入れています。

劉備は劉琮に挨拶しようとしますが、劉琮は姿を現しませんでした。

因みに、諸葛亮が「襄陽を攻撃すれば荊州が手に入る」と言った話しですが、襄陽は劉表の本拠地だった事もあり、本当に襄陽が攻め落とせたのか疑問視する専門家もいます。

10万の民衆

劉備は江陵を物資がある江陵を抑えようと、関羽をいち早く江陵に派遣します。

これにより関羽は江陵を抑える事に成功しました。

劉備は江陵を目指しますが、この時に劉備を頼って行動を共にしたいと願う者が、当陽に着く頃には10万を超えたとあります。

劉備が如何に人々から慕われていたのかが分かるでしょう。

しかし、この10万は女性や老人、子供を含む民衆が大半であり、戦力として期待出来ずにいました。

この時に、劉備と配下の間で、次のやり取りがあったわけです。

ある人「江陵を保持する事を優先させるべきです。我らは10万もの大軍ですが、殆どが民衆です。

武装している者も皆無と言ってよいでしょう。曹操軍が来たら、蹴散らされる事は目に見えています。」

劉備「私は大事を成す為には、人が重要だと考えておる。

これらの人々は儂を慕ってきてくれているのじゃ。儂は彼らを見捨てる事が出来ない。」

劉備の軍勢はゆっくりと南下して行く事になります。

曹操は劉備軍が江陵まで達し、軍需物資を得られる事を嫌い、精鋭を出して劉備軍を追撃する事になります。

劉備軍は曹操軍に追いつかれてしまい、民衆は多数の捕虜になったわけです。

劉備はこれ以上は、危険だと判断し民衆を置き去りとし逃走する事になります。

史実では、この時に徐庶が劉備に別れを告げ離脱しました。

劉備は仁義を説きながらも結局は逃げてしまった事になりますが、個人的には劉備はギリギリまで仁義を貫こうとした様に思います。

長坂の戦い

劉備軍と曹操軍の間で、長坂の戦いが起きる事になります。

長坂の戦いと言っても、軍勢同士が正面から戦ったわけではなく、逃げる劉備軍を曹操の軍勢が追いかける、追撃戦だったわけです。

劉備は妻子を置き去りにして逃亡しており、劉備の娘二人は曹純の捕虜になった話があります。

劉備の奥さんである甘夫人と息子の劉禅は、猛将趙雲が保護した事で、難を逃れています。

長坂橋では、張飛が橋を切り落とし「我こそは燕人張飛である。」と吠え、曹操軍を恐れさせた話しもあります。

劉備軍は多大な被害を出しますが、張飛や趙雲の活躍により、無事に劉備の本隊は逃げる事が出来たわけです。

長坂の戦いは、三国志の中でも名場面と言ってもよいでしょう。

赤壁の戦い

長坂の戦いでは、劉備軍は曹操軍に惨敗しますが、孫権を手を結び赤壁の戦いが起きる事になります。

魯粛との出会い

劉備は関羽と合流し、無事に夏口に逃げる事になります。

劉表の長男で江夏太守である劉琦も、数万の軍を率いて劉備に合流しました。

ここで劉備は、孫権が派遣した魯粛と出会います。

魯粛は荊州の劉琮と同盟を結び、曹操に対抗しようと考えていたわけです。

しかし、劉琮が曹操に降伏した事で、魯粛は劉備と同盟する事を考案しました。

劉備は魯粛を当初は信用せず、魯粛が「劉備様は、どちらに向かおうとしているのですか?」と尋ねると劉備は「知り合いである蒼梧太守の呉巨の元に行く予定です。」と答えます。

魯粛は孫権の聡明さを語り、呉の精鋭は強く食料も十分にあると諭し、劉備は孫権に使者を送り、孫権と同盟を結ぶ事の利点を述べます。

さらに、魯粛は呉巨では頼りにならないと語ったわけです。

魯粛の言葉により、劉備は諸葛亮を派遣し、孫権との同盟に動く事になります。

ここにおいて曹操に対抗する為の、孫劉同盟が成されます。

劉備は魯粛が信用できる人物だと見定めたのでしょう。

尚、曹操は荊州を降伏させた時に、蒯越は光禄勲、韓嵩は大鴻臚、文聘を江夏太守、鄧義は侍中、劉先は尚書令にするなど厚遇しています。

呉の重臣らは曹操に降伏しても厚遇されると思い、張昭を始め降伏派が多数を占めていましたが、魯粛が戦いを訴え、周瑜も賛同し孫権が曹操との戦いを決意した経緯があります。

余談ですが、魯粛と諸葛亮が初めて会った時に、魯粛は諸葛亮に「自分は諸葛瑾(諸葛亮の兄)殿の友人です。」と答え、魯粛と諸葛瑾は交わりを結んだ話もあります。

史実の魯粛は剛胆な人物であり、三国志演義の様な人物ではありません。

曹操を恐れる劉備

江表伝に劉備が曹操を恐れていた話があります。

劉備は諸葛亮を呉に派遣したわけですが、いつ曹操が攻めて来るかと恐怖し、毎日、見張りの兵を水辺にやり孫権軍を待ち望みました。

ある日、見回り役人が孫権軍の船を発見し、劉備に報告に来ます。

劉備は呉の船がやってきたと聞いて「どうして曹操の船ではないと分かるのだ。」と述べます。

見張り役人は「船の形を見て分かったのです。」と答えると、劉備は信用し、人をやって船を出迎えた話があります。

劉備は曹操が攻めてくるたびに、逃亡しており、曹操を恐れていた事は事実なのでしょう。

劉備と周瑜

呉軍を指揮するのは大都督の周瑜であり、劉備の使者に対して、次の様に述べています

周瑜「私には任務があり、持ち場を離れる事が出来ません。劉備様の方で来て頂けないでしょうか。」

劉備は使者が帰って来ると、関羽と張飛に「周瑜は私が来る事を望んでおる。呉と同盟を結んだからには、無視するわけにはいかない。」と述べ周瑜の元に向かいます。

周瑜の考えとしては、劉備を呼び寄せる事で、劉備よりも自分が上にいる事をアピールし、戦場での指揮系統の乱れを防ぐ狙いがあったのでしょう。

劉備が周瑜の元に向かうと、次のやり取りがあったとされています。

劉備「周瑜殿は曹操を倒す為の策があるのでしょうか。兵の数を教えて貰いたい。」

周瑜「兵士の数は3万です。」

劉備「兵士の数が少ないのが惜しまれます。」

周瑜「水上での戦いは陸上とは違います。3万もあれば十分です。劉備殿は私が曹操を破るのを見ていて頂きたい。」

劉備「魯粛殿や諸葛亮は、どこにいますでしょうか。」

周瑜「命令を受けている以上は、勝手に持ち場を離れる事は出来ません。魯粛には別の任務があり、ここにはおりませぬ。

魯粛に会いたいのであれば後日でお願いします。諸葛亮は3日もすれば、こちらに来るはずです。」

劉備は周瑜の返答に恥じ入った話があります。

周瑜の回答を見る限りだと、周瑜は劉備の事を全くと言ってよい程、信用していない事が分かります。

劉備も周瑜の事を傑物だとは認めましたが、周瑜で曹操の相手になるのか不安だった様です。

ちぐはぐな劉備軍

江表伝によれば、劉備軍はちぐはぐな動きをしたとあります。

劉備は二千の兵を率いて、関羽、張飛らと共に後方におり動かず、周瑜とも関わろうとしませんでした。

一説によれば劉備は、周瑜が負けたとしても、対応出来る様な動きをしていたとも考えられています。

しかし、赤壁の戦いでは周瑜の采配や黄蓋の火計、曹操軍で疫病が流行した事で、曹操軍は撤退を余儀なくされます。

三国志演義では、赤壁の戦いでは劉備軍は大活躍しますが、史実での赤壁の戦いは、孫権軍の活躍により曹操に勝利しています。

ただし、敗北した曹操軍の武将で有力な武将が討ち取られた話もなく、赤壁の戦いは、戦いがあったとしても小規模だったのではないか?とも言われています。

尚、赤壁の戦いで曹操が勝っていれば、天下は平定され三国志の時代が訪れる事は無かったでしょう。

南郡攻防戦

赤壁の戦いの後に、劉備は劉琦を荊州の刺史に推薦しました。

劉備は周瑜らと協力し、荊州の南郡攻防戦を行っています。

劉備は武陵太守の金旋を攻め滅ぼし、長沙太守の韓玄、桂陽太守の趙範、零陵太守の劉度を降伏させます。

劉備は荊州四英傑を降すと、廬江の雷緒が数万を率いて帰順しています。

孫権は劉備に荊州の土地を貸し与える事になります。

この時に龐統が劉備の配下に加わり、諸葛亮が既に配下になっていた事から臥竜鳳雛が揃う事になったわけです。

劉琦が病死すると、劉備は群臣に押されて荊州牧に就任し、公安を州都に定めました。

劉備の勢力が大きくなると、孫権は劉備を恐れ、妹の孫尚香を劉備に嫁がせています。

孫尚香は孫夫人とも呼ばれています。

劉備の入蜀

荊州を孫権から借用する形で、荊州の主になった劉備ですが、今度は益州(蜀)の地を得る事になります。

孫権からの提案

孫権は劉備に「一緒に蜀を取らないか?」と誘う事になります。

劉備の臣下の中では「孫権に協力すべき。」という人もいれば、「拒否するべき」と述べる人もいて、意見が別れる事になります。

この時に劉備配下の殷観は次の様に述べています。

殷観「今の状態で、呉に先んじて蜀を討伐しても勝てる見込みはありません。

蜀を取れずに撤退すれば、今度は呉が蜀に派兵する事になるでしょう。これでは我が方で蜀を領有する事は出来ないはずです。

孫権には、蜀を討伐すべきと伝えながらも、「まだ行動を起こすだけの余裕がない。」と伝えるのが最善です。

呉の孫権もこの言葉を聞けば、我が領内である荊州を超えて、無理に蜀討伐を行う事はないでしょう。」

劉備は殷観の言葉を評価し、殷観を別駕従事に昇進させています。

孫権も益州を攻撃するのを断念したとあります。

孫権陣営では周瑜が益州を攻撃するプランもあったようですが、周瑜が病死した事で完全に取りやめとなります。

張松の暗躍

西暦211年になると、益州にいた劉璋は、曹操が漢中の張魯を攻略する話を耳にし、危機感を抱く事になります。

劉璋配下の張松は「曹操軍の兵士は強く、張魯の物資まで手に入れてしまったら、相手になる者はいません。」と述べ、劉璋は納得しました。

そこで張松は、次の様に述べています。

張松「荊州の劉備様は劉璋様と同族であり、曹操とは仇敵の間柄です。

それでいて劉備様は用兵術に優れています。

劉備様であれば張魯を撃退できますし、張魯さえいなければ曹操は怖い敵ではありません。」

劉璋は荊州の劉備に連絡を入れ、法正には4千の兵を与え劉備を出迎えて、張魯討伐を依頼する事になります。

裏を言ってしまえば、張松、法正、孟達などは、劉璋を見限っていたわけです。

張松は劉備に益州の地図を渡した話もあり、張松は劉備を益州の主にする為に動いていた事は明らかでしょう。

龐統の進言

劉備は諸葛亮、関羽、張飛などを荊州に残し、龐統を連れて益州に向かう事になります。

益州の涪で、劉備と劉璋は会見を開きますが、この時に龐統、張松、法正らは「劉璋を暗殺すべき」と劉備に進言します。

しかし、劉備は「ここは重大であるから、慎重に行かなければならない。」と、龐統らの進言を却下しました。

劉備は劉璋から2万の兵士を支給され、北上し張魯がいる漢中を目指す事になります。

勿論、劉備は張魯を討伐するつもりはなく、豪族の懐柔などを始め、益州の人々から支持される様に務めています。

龐統は上策、中策、下策などを進言した話もありますが、劉備は上策を採用せずに中策を採用するなどの行為もありました。

策謀よりも、自分を支持する人々を増やす辺りは、劉備らしいとも言えるでしょう。

呉の救援要請

212年に曹操と孫権の間で、濡須口の戦いが起きています。

孫権は劉備に援軍要請する事になります。

さらに、関羽と楽進が戦闘状態になった情報も入ってきたわけです。

この時に劉備は、曹操が呉を攻撃した事や荊州が危機になっている事を告げ、さらなる軍需物資の援助を劉璋に要求しました。

しかし、劉璋は劉備を怪しんだのか、要求した量の半分だけ与えています。

魏書によれば劉備は蜀の兵士に向かい次の様に述べた話があります。

劉備「自分たちは無償で益州の救援に来て、兵士達は疲労がたまり余裕もない。

それにも関わらず、劉璋は財物を惜しんでいる。

士大夫に死力を尽くし、戦う様に望んだとしても、そんな事が出来るはずがない。」

劉備の言葉により、蜀の兵士は劉備に付き従う事になります。

尚、孫権の濡須口の戦いは、呂蒙の活躍により呉の勝利となり、関羽も青泥で楽進を退けました。

勿論、劉備も荊州に戻らず益州に留まる事になります。

裏切りが発覚

劉備が荊州に帰る情報を張松が聞くと、焦って次の様な手紙を劉備に出します。

「益州を取る計画はどうなってしまうのでしょうか。」

ここで、張松の兄で広漢太守の張粛が、自分に禍が及ぶ事を恐れ、張松の企みを劉璋に暴露しました。

これにより、張松は捕らえられて処刑される事になります。

劉璋も劉備の目的が分かり、劉璋と劉備の仲は、完全に決裂します。

劉璋配下の鄭度は劉備軍を破る為に、焦土作戦を進言し、劉備は不安になった話があります。

しかし、法正は「劉璋は鄭度の策を用いない」と述べ、実際に焦土作戦は行われませんでした。

益州の主となる

劉備は劉璋がいる成都に向かって軍を発する事になります。

劉備は、白水軍の総督である楊懐を呼び出して斬り、劉備は黄忠や卓膺に命じて、劉璋がいる成都に向かって進撃しました。

劉璋は冷苞や劉循張任らに命じて防がせますが、全て劉備軍に破られる事になります。

軍師の龐統は戦死しましたが、李厳が劉備に降るなどもあり、劉備は劉璋を追い詰める事になります。

さらに、諸葛亮、張飛、趙雲らも荊州から劉備の救援に来ました。

劉璋は成都に1年ほど籠城した話もありますが、西涼の馬超が劉備に降った事を聞くと、戦意を無くし降伏しています。

214年に劉璋が劉備に降伏した事で、劉備は益州をとり蜀の主となったわけです。

これにより劉備の入蜀は成されたと言えるでしょう。

論功行賞と劉備陣営

劉備は蜀を取ると論功行賞を行い、大規模な酒宴を開いたり、兵士らの労に報いた話があります。

劉備は荊州牧だけでなく、益州牧も兼ねる事になり、強大な勢力になったわけです。

劉備の陣営では諸葛亮が補佐役となり、法正が相談役で、関羽、張飛、馬超らが爪牙の武臣となり、 許靖、麋竺、顧雍らは賓客友人の扱いを受ける事になります。

さらに、董和、李厳、黄権、呉壱、費観、呉懿らを重用しました。

劉璋から排除された彭羕を復活させ、恨みがあった劉巴も高官に任じています。

劉備が部下の才能を発揮させた事で、「志がある男子で忠勤に励まないものはいなかった。」と正史三国志にあります。

さらに、劉備は劉巴の経済政策を実行したり、諸葛亮、法正伊籍、李厳、劉巴などに命じて、蜀科を作らせて政権を安定させようとした話があります。

孫権の荊州返還運動

劉備は蜀を手に入れますが、西暦215年に孫権は劉備に「荊州を返して貰いたい」と述べます。

これに対して、劉備は「涼州を取ったら荊州を返す。」と孫権に返事をしました。

涼州と取ったら荊州を返すというのは詭弁であり、劉備からしてみれば荊州を返還する気はなかったのでしょう。

劉備の態度に怒った孫権は呂蒙に命じて、荊州の長沙、零陵、桂陽の三郡を実力で奪取しました。

劉備は焦って兵五万を率いて、荊州の救援に行きますが、曹操が漢中の張魯を攻めた情報も入ってきます。

荊州を守備する関羽と魯粛の間で、単刀赴会が行われたりもしますが、魯粛が機転を利かせた外交を行った事で、劉備は長沙と桂陽を孫権に返還しています。

漢中を取る

劉備は孫権との問題を片付けると、急いで漢中に進撃する事になります。

劉備は黄権を張魯の元に派遣しますが、張魯は既に曹操に降伏していました。

曹操は夏侯淵張郃を漢中を守らせ、巴の境界を荒らしまわった話があります。

劉備は張飛に命じて張郃の軍を破る事に成功しました。

さらに、219年にも漢中に侵攻し、法正や黄忠の活躍もあり、定軍山の戦いで夏侯淵を破り漢中を支配下にしました。

曹操に負け続けた劉備ですが、遂に曹操から漢中の地を奪取する事に成功したわけです。

尚、劉備が北上した時に馬秦高勝が秭帰で反乱を起こし、馬秦らの反乱軍は数万にも膨れ上がりますが、李厳が見事に乱を鎮圧しました。

ここで李厳が敗れる様な事があれば、劉備は漢中王にはなれなかったはずです。

漢中王と劉備の全盛期

劉備は219年に諸将の勧めもあり、漢中王に即位しています。

重要拠点の漢中は、魏延に守らせました。

前後左右の将軍に関羽、張飛、馬超、黄忠を任命するなど、劉備は漢中王になった時が全盛期だったと言えるでしょう。

後に劉備は蜀漢の皇帝になっていますが、領土でいえば漢中を奪取し、荊州の一部を領有していた時が最大領域だと言えます。

ただし、劉備の全盛期は長くは続きませんでした。

漢中王に即位した年に、既に陰りが見え始めています。

関羽の死と荊州の喪失

219年に関羽は北上を始め曹仁らと戦っています。

これが樊城の戦いです。

関羽は援軍に来た于禁や龐徳を撃破しますが、徐晃が救援に来ると敗れ撤退を余儀なくされます。

しかし、荊州の南部では孫権が呂蒙の計略を用い、劉備との同盟を破棄しました。

関羽配下の糜芳、傅士仁らが虞翻らの説得により、孫権に寝返る事になります。

これにより関羽は行き場を無くし、最後は関平と共に孫権軍に捕らえられ、孫権に斬られています。

劉備は旗揚げの頃より戦ってきた盟友である、関羽を失うだけでなく、荊州全域を失う事になったわけです。

劉備の支配地域は、益州と漢中のみとなります。

尚、劉備は漢中を支配下にした後に、魏延を漢中太守に任命し成都に戻って内政を行った話があります。

しかし、北上する関羽を助ける行動を、劉備が行ったとする記述は一切ありません。

その事から、劉備が漢中を制圧してから、関羽が亡くなるまでの期間に、劉備が何をしていたのかは謎な部分でもあります。

皇帝に即位

220年になると、曹操が亡くなり、曹丕が後継者となります。

この時に劉備は韓冉を派遣し、曹操への弔問の使者としました。

劉備の韓冉派遣は偵察する説と曹操への敬意を表したなどの説がある状態です。

劉備としても最大のライバルである曹操の死を見て、思う所があったのでしょう。

曹丕は献帝から禅譲という形で皇帝となります。

献帝が廃位された事を知った劉備は、大いに悲しみ自ら皇帝に即位する事になります。

劉備が人々の頂点に立った瞬間でもあったのでしょう。

劉備は呉夫人を皇后としました。

張飛の死

劉備は221年に呉に侵攻し、関羽の仇討ちに動く事になります。

ただし、呉に攻める最中に、張飛が部下の張達・范彊に暗殺されています。

劉備は関羽に続き張飛まで失ってしまったわけです。

関羽と張飛は共に性格に問題を抱えており、性格が災いし最後を迎えたと言われています。

夷陵の戦い

221年になると劉備は関羽の敵討ちとばかりに、呉を攻撃しました。

劉備が呉を攻める行為は、大義名分がなく、個人的な恨みで呉を攻めたとも言われています。

ただし、最近では劉備は関羽の恨みで、呉を攻めたわけではなく、別の理由があり、呉を攻めたとも考えられる様になってきています。

劉備は、呉の大都督になった陸遜との間で、夷陵の戦いが勃発します。

夷陵の戦いが開戦した頃は、劉備軍は順調に進撃を続け、馬良が武陵蛮の沙摩柯を味方にするなど、優位に戦いを進めていました。

呉から逃亡を図った廖化も、劉備と合流する事となります。

しかし、劉備は補給路を確保させる為に、40以上の陣営を長く築かせるなどもしています。

陸遜は蜀軍の弱点を見破り、火計を使い劉備軍を崩壊させたわけです。

夷陵の戦いでは蜀の先鋒を務めた張南や馮習、馬良、沙摩柯、王甫など多くの将軍が亡くなっています。

赤壁の戦いで魏の将軍が殆ど亡くなっていないのに対し、夷陵の戦いで多くの将軍が戦死している事を考えると、蜀が呉の陸遜に歴史的大敗を喫したのは確実でしょう。

夷陵の戦いで北方に配置した黄権龐林などは、劉備が敗れ孤立した事で、やむをえず魏に降伏しました。

尚、劉備の布陣を知った曹丕は「劉備は兵法を知らない」と述べた話しもあります。

劉備は戦いのベテランではありましたが、陸遜が優秀過ぎたと見る事も出来ます。

劉備が荊州を奪還出来なかった事で、魏、呉、蜀の勢力図は固定されたとも言えるでしょう。

多くの人が見る三国志の地図は夷陵の戦いで、劉備が負けた直後の勢力図だと思えばよいはずです。

公孫淵の独立などもありましたが、蜀が鄧艾により滅亡する263年まで、魏、呉、蜀の勢力図は殆ど変わっていません。

呉との同盟復活

劉備は夷陵の戦いで、呉の陸遜に敗れると白帝城まで撤退する事になります。

魏の曹丕の勢力は名目上は、呉の救援に来ていましたが、実際には呉を滅ぼそうと狙っていたわけです。

孫権や陸遜曹丕の考えを見破っており、孫権は劉備と同盟を復活させる様に動く事になります。

劉備の方でも、呉が滅びてしまったら、さらに魏が強大になり蜀に襲って来る事は確実であり、劉備は孫権と同盟を結ばない訳にはいかなかったのでしょう。

これ以降の三国志の展開は、呉と蜀が同盟を結び、最強国の魏と対峙する方式に固定されます。

曹丕は呉に対して三方面作戦を展開し、曹休、張遼、臧覇らを洞口に派遣し、曹仁が濡須を攻撃し、曹真・夏侯尚張郃徐晃らが荊州の南郡に侵攻しました。

孫権軍はよく奮戦し、朱然、呂範、朱桓らが、魏の三方面軍を撃退しています。

劉備の最後

西暦223年に劉備は崩御しますが、劉備の最後がどの様なものだったのか解説します。

劉備が病気となる

劉備は白帝城まで逃げる事は出来ましたが、精神的にかなり疲弊していた様です。

劉備の用兵は決して下手ではありませんが、何度も負け妻子を置き去りにし逃亡を繰り返していました。

それでも、蜀の地を領有して皇帝にまでなっています。

しかし、劉備はこの時に既に60歳を超えていましたし、年齢的に考えても劉備の代での、天下統一の夢は断たれた事になったわけです。

さらに、蜀の将軍や兵士を多く失っており、蜀漢の首都である成都に帰る事も出来なくなってしまったのでしょう。

尚、劉備は魚腹を永安と改名した話があります。永安に白帝城があり、劉備の最後の地となります。

劉備は体調を崩すわけですが、体調が日々悪化し、助からない事を悟ります。

尚、劉備が病気になった話を聞くと、漢嘉太守の黄元は反旗を翻しますが、成都にいた楊洪が上手く対処し、黄元は斬られました。

劉備の遺言

成都にいた諸葛亮が劉備がいる永安に到着する事になります。

劉備は後継者の劉禅を諸葛亮に託し、尚書令の李厳に補佐させたとあります。

諸葛亮集によれば、劉備は劉禅に遺詔を次の様に残した話があります。

「朕が病気になった時は、最初は下痢だと思っていた。しかし、様々な病気が重なり助かる事はないであろう。

人間50になれば若死にとは言わず、60まで生きられたのだから恨む所もない。

自らを悲しむ事もないが、お前たち兄弟(劉禅ら)事だけが心配である。

丞相(諸葛亮)は、お前(劉禅)は知恵があり、期待以上に成長していると聞いておる。

その言葉が真実であれば、何も心配はいらない。修練を重ね努力する様にせよ。

悪事は小さな事でも決してしてはならず、善事は小さな事でも怠ってはならない。

賢明さと徳義だけが人を服従させる事が出来るのだ。お前たちの父は、徳が薄く見習ってはならない。

時間がある時は、太公望の兵法書である「六韜」、商鞅の「商君書」を読み、知恵を増す様にせよ。

申不害、管仲、韓非子の書を習熟するのだ。」

この様に劉備は劉禅ら、自分の子供たちに勤勉で徳を積むように伝えた話があります。

さらに、劉備は劉永(劉備の子で劉禅の異母弟)には、次の様に述べています。

「わしの死後、お前たち兄弟は、丞相(諸葛亮)を父だと思って仕え、大臣達が丞相に協力して事を成す様に仕向けよ。」

これにより劉備死後の蜀は諸葛亮が政務を執り、劉禅は祭祀を行う事になります。

劉備は諸葛亮に対しては、次の様に述べています。

「君(諸葛亮)の才能は曹丕の10倍はある。国家を安んじ、最後には大事を成し遂げる事が出来よう。

蜀の跡継ぎが補佐する値がする人物であれば、補佐してやって欲しい。

補佐する価値が無い人物であれば、自ら国を奪うがよい。」

諸葛亮は劉備の言葉を聞くと涙を流し、心からの忠誠を誓い、最後には命を捨てる覚悟だと述べています。

諸葛亮伝によれば、劉備は劉禅に自ら手紙を書き、劉永と同様に「汝は丞相を父と共に仕事を行い、丞相を父を思って仕えよ。」と述べています。

この後に、劉備は崩御し、棺は永安から成都に送られる事になります。

劉備は昭烈皇帝と諡され、恵陵に埋葬される事になります。

劉備は63歳で世を去ったと伝わっています。戦い続けた激動の人生だったと言えるでしょう。

劉備の評価

陳寿は劉備の事を次の様に述べています。

劉備は度量が広く、意思が強く、心が大きくて親切であった。

人を遇する事において、漢の高祖である劉邦の面影があり英雄の器である。

しかし、権謀と才略に掛けては、魏の武帝(曹操)に及ばず、領地も狭かった。

それでも、戦いに敗れながらも最後まで屈服しなかった。

陳寿は劉備の人間性を評価しながらも、曹操に才能は及ばなかったと述べているわけです。

劉備と劉邦は似ているとよく言われますが、劉邦が天下統一を成し遂げ、劉備が魏を征服出来なかった事に関しては、様々な議論が行われています。

個人的には劉邦の最大のライバルは項羽でしたが、項羽は戦いでは曹操よりも優れているかも知れません。

しかし、范増を追放したり智謀や政治力の面では、曹操に大きく及ばない様に思います。

それを考えると、劉備が天下統一出来なかった大きな理由は、曹操と言う壁が高すぎたのが原因なのかも知れません。

個人的に、春秋五覇の一人に数えられる晋の重耳、漢の高祖である劉邦、蜀漢の劉備はタイプ的に似ている様な気もします。

重耳、劉邦、劉備の最大の魅力が、人を引き付ける力であり、人材を使いこなす力にある様に思います。

重耳は狐偃、先軫、趙衰を配下にしていますし、劉邦は張良蕭何韓信陳平を使いこなし、劉備は諸葛亮、関羽、張飛、趙雲らを配下にしています。

それを考えると、劉備が蜀の国を建国出来たのも当然と言えるのかも知れません。

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宮下悠史

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