三国志 魏(三国志)

曹操(そうそう)は三国志で最大の英雄

2021年9月6日

スポンサーリンク

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細

曹操(そうそう)の字は孟徳であり、三国志の魏の礎を築いた人物です。

漢王朝から禅譲により、曹操の子である曹丕が皇帝となりましたが、魏が建国されたのは曹操の功績が極めて大きいと言えます。

正史三国志の曹操を見る限りでは、万能の天才とも呼べる人物であり、三国志最大の英雄とも呼べる人物です。

三国志の人物の中で、能力の合計値が最も高いのは曹操だったと感じます。

曹操は三国志演義で悪人の様に描かれていますが、実際の曹操は厳しいながらも、人の面倒を見るなど優しさも垣間見る事が出来ます。

今回は史実の曹操が、どの様な人物だったのか解説します。

尚、曹操には軍事や政治の他にも、様々な逸話がありますが、最後にまとめて記載しておきます。

因みに、日本では孫子の兵法書がビジネスなどにも応用が出来ると人気があります。

孫武が書いたとされる孫子の兵法書に注釈を入れたのが曹操であり、曹操がいなかったら、日本でここまで孫子の兵法書が広まる事は無かったと考えられています。

宦官の孫

曹操は前漢王朝の創業で活躍した、曹参の子孫だと言われています。

曹参は漢の高祖劉邦に初期から付き従い、全身が傷だらけになりながらも戦い続けた武将です。

しかし、曹操の祖父である曹騰は宦官でした。

曹騰は後漢の安帝、順帝、沖帝、質帝、桓帝に仕えたとされています。

宦官は「悪」というイメージが強いですが、曹騰は張温などの優れた人物を推薦する事を好んだ話があります。

宦官は本来は生殖機能を持っておらず、普通であれば子を作る事は出来ません。

しかし、宦官として大出世を果たした曹騰は養子を取る事が許され、曹嵩を養子としました。

曹嵩は夏侯惇の叔父とする説があり、曹操と夏侯氏は結びつきが強かったわけです。

因みに、夏侯氏は前漢の劉邦の御者をやっていた、夏侯嬰の末裔とされています。

尚、曹操の父親の曹嵩は金の力で大尉に昇った話があります。

曹操の一族は汝南袁氏ほどではありませんが、後漢王朝で高官の家柄でした。

ただし、曹操の祖父が宦官だった事もあり、曹操は「宦官の孫」と呼ばれ馬鹿にされ奮起した話もあります。

不良青年だった曹操

正史三国志の魏書武帝紀によると、曹操は今でいう不良少年だったような記述があります。

ただし、能力を認めていた人もいたわけです。

叔父の信用を落とす

正史三国志によれば、曹操は若年より機知があり、権謀があり男気もあったとされています。

しかし、曹操は品行が良くなかった事で、世間で曹操を評価する者はいなかったとあります。

曹操は鷹や犬で遊んだりするなど、放蕩息子だったわけです。

曹操の叔父は、曹操を問題視し、度々父親の曹嵩に曹操の問題行動を語っていました。

曹操は叔父を厄介だと考えており、叔父に会うと急に口が麻痺したと病気の振りをします。

叔父は慌てて曹嵩の所に行き、曹嵩は驚き曹操の元に向かいました。

しかし、曹操は曹嵩の前で、元気な姿を見せると、次の様に述べています。

曹操「叔父さんは、私の事が嫌いなので、口から出まかせを言っただけです。」

曹嵩はこれより先は、叔父の言葉に全く耳を傾けなかった話があります。

これにより、曹操の素行は益々悪くなったとも伝わっています。

曹操の要領の良さを現わすエピソードだと言えます。

袁紹と花嫁を強奪

世説新語によると、若い頃の曹操と袁紹は悪友だった話があります。

曹操と袁紹は何を思ったのか、花嫁泥棒をしたわけです。

花嫁をさらった、曹操と袁紹ですが、袁紹がイバラの中に落ちてしまいます。

イバラの中では、動くと棘が刺さる事で、袁紹は動けなくなってしまいます。

このまま袁紹が動けないと捕まってしまうと判断した、曹操は次の様に叫びます。

曹操「犯人はここにいるぞ!」

驚いた袁紹は慌てて飛び出し、曹操と無事に逃げ出す事に成功した話があります。

尚、別の話では袁紹は寝ている曹操に刀を投げましたが、刀が少し低かったので曹操には当たりませんでした。

曹操は袁紹が次は高めを狙うと判断し、曹操は身を低くします。

袁紹は高めに刀を投げた事で、曹操には当たらなかったわけです。

これらの話は、創作とも言われていますが、袁紹は曹操に及ばない事を現わすエピソードにも見えます。

一族に優れた人物が多かった

曹操は若い頃から、人材を得ていたと考えられています。

先にも話した様に、曹操の父親である曹嵩は夏侯氏の一族であり、夏侯惇夏侯淵がいました。

さらに、曹操の一族には曹仁曹洪、曹休と人材が揃っていたわけです。

後に天下に鳴り響く様な人物を、曹操は初期から揃える事が出来たと言えます。

前漢の高祖であり項羽を滅ぼした劉邦も初期の段階から、蕭何、周勃、曹参なども優れた人材がいました。

劉備関羽張飛簡雍がいたわけであり、天下を取る様な人物は、初期の頃から人材に恵まれたいる運も良さもあるのでしょう。

曹操自身も高い能力を持っていましたが、一族に夏侯惇、夏侯淵、曹仁がいたなどは恵まれていたと言えます。

乱世を鎮める人物

曹操は今でいう不良青年だった事は明らかでしょう。

ただし、橋玄や何顒王儁らは曹操を高く評価し、橋玄は次の様に述べた話があります。

橋玄「天下は乱れようとしている。一世を風靡する様な才能が無ければ、世を救う事は出来ない。

乱世を鎮める事が出来るのは、君(曹操)ではなかろうか。」

後の事を考えると、橋玄は人を見る目を持っていたと言えるでしょう。

曹操も橋玄の言葉に発奮した部分もある様に思います。

治世の能臣、乱世の奸雄

曹操は人物鑑定家である許劭の元を訪れた事があります。

許劭は曹操を見ると、次の様に述べます。

「治世の能臣、乱世の奸雄」

つまり、許劭は曹操が安定した世の中であれば優れた臣下となるが、天下が乱れれば「悪知恵に長けた英雄」になると評価したわけです。

尚、許劭の人物評価は絶大であり、高い評価をされれば、世間の評判が一気に変わったとも言われています。

こうした事もあり曹操は許劭の人物鑑定を望んだのでしょう。

後に、許劭は劉繇にお世話になりますが、太史慈を酷評した話があります。

それにより、太史慈は劉繇の元では重用される事はありませんでした。

劉繇が許劭の人物鑑定の結果を気にした事が原因です。

曹操自身は許劭の鑑定を出世に利用はしましたが、それほど信じてはいなかったのかも知れません。

余談ですが、後漢書では許劭の曹操への人物鑑定は「清平の奸賊、乱世の英雄」と書かれており、正史三国志とは食い違いが出ています。

実際に、許劭が曹操をどの様に評価したのかは分かりません。

権力者でも容赦せず

曹操は20歳になると、洛陽北部尉に任命された話があります。

洛陽北部尉は門番であり、曹操は厳しく取り締まる事になります。

曹瞞伝によれば、曹操は違反者が出れば、高官であっても容赦なく殴り殺したとあるわけです。

霊帝のお気に入りの宦官で、十常侍の蹇碩がいましたが、蹇碩の叔父が違反を犯す事になります。

蹇碩の叔父は夜間に禁止されている、夜間に通行を行った事で、曹操は即座に処刑しました。

蹇碩の近くの者達は曹操を憎みますが、曹操は隙を見せなかった事で、どうする事も出来なかったとあります。

これにより、曹操を恐れ禁令を侵す者がいなくなった話があります。

曹操の統治への厳しさは、若い頃から出ていたのでしょう。

曹操は実績を認められて、屯丘の令に出世した話があります。

ただし、霊帝に近い宦官たちが、曹操を都から追い出したくて、地方で出世させる名目で左遷したとする説もあります。

後に曹操は都に呼び出され、議郎になった話があります。

黄巾の乱

太平道の教祖である張角が184年に黄巾の乱を引き起こします。

黄巾の乱は北は幽州から、南は揚州や荊州まで拡がり、大規模な反乱となります。

後漢王朝の朝廷は皇甫嵩朱儁盧植の3人を討伐軍の指揮官に任命しました。

最初のうちは黄巾賊の攻勢が強く朱儁が敗れ、皇甫嵩が長社で黄巾賊に包囲されたわけです。

霊帝や大将軍の何進は、曹操を騎都尉に任命し、曹操は皇甫嵩の援軍に向かう事になります。

皇甫嵩の方でも長社の戦いでは火計を行い、黄巾党の波才の軍を混乱させ多いに敵を打ち破ります。

勢いに乗った皇甫嵩の軍に、曹操軍も加勢し大勝しました。

曹操は皇甫嵩や朱儁の軍に加わり、功績を立てます。

黄巾の乱は張角の病死などもあり終焉に向かい、曹操は功績により済南国の相に任命されたわけです。

それまでの曹操は県令でしかありませんでしたが、郡の長官にまで一気に抜擢されています。

尚、黄巾の乱では朱儁の配下に孫堅がおり、曹操と孫堅が出会った可能性もあるでしょう。

劉備に関しては、黄巾の乱に参加したのか分からない部分も多いです。

郡を浄化

曹操は済南の相となりますが、貴族や外戚に迎合する長吏が多く、賄賂が横行していました。

長吏は貪欲に賄賂を取りますが、権勢がある者が後ろ盾となっていた事で、歴代の相は取り締まる事が出来なかったわけです。

魏書によれば曹操は相に任命すると、長吏らを全員免職にした話があります。

これにより、多くの者が曹操に恐れをなし、悪人たちは他郡へ逃亡しました。

曹操は郡全体を浄化したと記録があります。

さらに、済南では前漢初期の劉章信仰が盛んであり、商人たちは信仰を利用して多くの利益を得ていたわけです。

人民は劉章信仰の取り立てに苦しみますが、曹操は劉章信仰を全て禁止しています。

劉章の祠や神社を徹底して破壊した事で、邪教な宗教行事は根絶され、郡内の淫祀は根絶しました。

曹操の合理的な政治手腕は、地方の郡であったとしても、十分に発揮されたと言えます。

曹操は天下の政を行える人物であり、曹操にとってみれば地方を治める事など、造作なく行われたのでしょう。

曹操は功績を認められて東郡の太守に任命されます。

ただし、曹操は東郡太守の赴任を拒否し、故郷に帰る事になります。

西園八校尉

霊帝は後漢王朝の復興を目指しており、西園八校尉を設置しました。

西園八校尉は皇帝直属の親衛隊であり、隠遁中とも言える曹操も選ばれる事になります。

霊帝は黄巾の乱での曹操の活躍を憶えており、大抜擢して西園八校尉に任命したのでしょう。

後漢書何進伝によれば、西園八校尉のメンバーは下記の6人の他に左右校尉の二人がいたとされています。

上軍校尉 ― 蹇碩(小黄門)

中軍校尉 ― 袁紹(虎賁中郎将)

下軍校尉 ― 鮑鴻(屯騎都尉)

典軍校尉 ― 曹操(議郎)

助軍校尉 ― 趙融

佐軍校尉 ― 淳于瓊

西園八校尉の筆頭が宦官の蹇碩なのは、霊帝が宦官愛が強かった証明とも考えられています。

後に袁紹配下で曹操と戦う淳于瓊も西園八校尉のメンバーに入っているのは、因縁深さもある様に見えます。

曹操は西園八校尉となり、後漢王朝の中枢に入り込んだとも言えるでしょう。

宦官撲滅政策を嘲笑

189年に霊帝が亡くなると、何進や袁紹らは力を持ちすぎた十常侍ら宦官を危険視します。

何進や袁紹は宦官の撲滅を考えますが、宦官に恩があった少帝の母親である何皇后が納得しませんでした。

何進は何皇后を納得させる為に、董卓ら地方の軍勢を洛陽に呼び寄せて圧力により、何皇后を納得させようとします。

何進や袁紹の宦官撲滅策を聞いた、曹操は嘲笑し、次の様に述べた話があります。

曹操「宦官を処刑するのであれば、一人の獄吏がいれば十分だ。

なぜ外にいる将軍を呼び寄せる、必要があると言うのであろう。

その様な方法で宦官を撲滅させようとすれば、事は露見するに違いない。

失敗するのは目に見えている。」

曹操が予見した通り、宦官たちは先手を打ち何進を暗殺しました。

袁紹と袁術は危機感を覚え、兵を率いて宮中に乗り込み宦官たちを皆殺しにしたわけです。

宮中は大混乱となり、皇帝である少帝や弟の劉協(献帝)の行方が分からなくなります。

董卓政権の誕生と反発

涼州の董卓は何進の要請により、洛陽に来ていました。

ここで董卓が少帝と劉協(献帝)を保護し、実権を握るべく動きます。

董卓は何進の軍勢を吸収しただけではなく、呂布を寝返らせ丁原の軍も吸収しました。

これにより後漢王朝の朝廷は董卓の軍事力により、支配される事になったわけです。

董卓は名士らの支持を取り付けようと考え荀爽、韓馥劉岱孔伷張邈らを要職に就けています。

さらに、名門汝南袁氏の袁紹を地方の要職に任命し、袁術は後将軍に任命しました。

しかし、董卓の強引なやり方や名士層が董卓を見下していた事で、反発も大きかったと言えます。

こうした中で、董卓に嫌気がさした曹操も洛陽から出奔したわけです。

洛陽から逃亡した時に、曹操は呂伯奢一家惨殺事件を起こしています。

曹操が呂伯奢を殺害してしまい「儂が人を裏切っても、人が儂を裏切る事は許さん。」と述べた話しもあります。

尚、洛陽からの逃亡で曹操は妻子を置き去りとし、袁術が曹操の妻子の面倒を見た話があります。

反董卓連合の結成と惨敗

曹操は反董卓連合に参加しますが、結果は惨敗に終わっています。

曹操の挙兵

曹操は故郷に戻ると、挙兵の準備を始めます。

曹操は父親の曹嵩に資金を提供して貰ったり、交友関係があった衛茲にも資金援助を受けています。

曹操に付き従ったのは、夏侯惇夏侯淵曹仁曹洪と一族の者が中心でした。

曹家の私財で2千の軍勢を用意し、衛茲が3千の兵を集めた事で、5千の軍勢が曹操は反董卓連合に加わる事になります。

曹操の演説

反董卓連合には袁紹、韓馥、劉岱、孔伷、張邈、王匡、橋瑁、袁遺、鮑信など多くの者が加わる事になります。

反董卓連合の盟主には袁紹が推戴され、曹操は奮武将軍を兼務しました。

諸侯らはは反董卓連合として集まったのですが、董卓の力が強大だった事もあり、積極的に戦おうとする者はいなかったわけです。

ここで曹操は、反董卓連合の諸将に不甲斐なさを語り演説をします。

しかし、曹操の演説は諸侯の心には届かなかった様で、曹操がほぼ単独で董卓軍を戦う決断をしました。

ただし、曹操の軍には鮑信が加わり、曹操の親友とも呼べる張邈が自分の兵の一部を割いて曹操に与えています。

こうして曹操は西を目指す事になります。

徐栄に大敗

曹操は董卓が洛陽から長安に遷都する事を知ると、董卓軍に戦いを挑む事になります。

董卓は徐栄を曹操にぶつけました。

曹操は鮑信や衛茲らと奮戦しますが、徐栄を相手に惨敗しています。

この戦いは激戦だったようで鮑信が負傷し、鮑信の弟と衛茲も戦死しました。

曹操自身も流れ矢に当たっています。

曹操はこの戦いで兵の9割を失ったとも言われています。

ただし、曹操軍にまだ士気が残っていたせいか、徐栄は兵を引いており、曹操は無事に逃げ延びています。

この後に、孫堅も徐栄と戦いますが、孫堅も徐栄に敗れています。

しかし、孫堅は曹操程の酷い負け方はしなかった様で、陽人の城に籠城し董卓軍と戦っています。

三國志演義では汜水関の戦いや虎牢関の戦いがあり、劉備配下の関羽が華雄を討ち取るなどの話があります。

しかし、史実を見る限りでは、虎牢関の戦いも汜水関の戦いも存在しません。

華雄を討ち取ったのは孫堅軍です。

反董卓連合の解体

曹操は酸棗まで戻ると、諸侯の数十万の軍勢が終結していました。

しかし、諸侯らは会議と称する酒盛りを行っており、戦意が無かったわけです。

ここで曹操は諸侯の責任を追及し、正義を語り長安に遷都した董卓を倒す為の戦略を述べます。

曹操は私財を投げ打った軍勢が壊滅しており、諸侯を動かす以外に董卓を倒す事は出来ないと判断したのでしょう。

曹操は諸侯を叱責し、熱く語りますが、ここでも諸侯の心には響きませんでした。

こうなると、曹操は反董卓連合にいても無駄だと判断したのか、離脱する決断をしています。

反董卓連合は、解体に向かい味方だった諸侯が互いに争う時代に突入します。

周昕の援助を受ける

曹操は徐栄に大敗した事で、動かせる兵が殆どおらず、資金援助を願い揚州に向かいます。

揚州は南方の州であり、意外に思うかも知れませんが、曹操は揚州まで夏侯惇らと共に行った記録があるわけです。

揚州刺史の陳温と丹陽太守の周昕は、4千の兵を曹操に提供しました。

しかし、ここで一安心とはならず、龍亢まで戻った所で兵士達の多くが反乱を起こし、曹操を襲撃しています。

兵達は曹操の軍幕を焼きますが、曹操は自ら剣を持ち十数人を殺害し、危機を乗り越えた話があります。

この時に、反乱に与しなかった兵は五百人ほどだったと伝わっています。

曹操は再び兵を集め、千を超える兵士を集める事に成功しました。

曹操は河内に入る事になります。

曹操は河内に入ると1万人ほどの軍勢を擁する勢力になった話があります。

この時から、曹操も群雄になったと考える人もいます。

しかし、曹操は独断では戦えないと判断したのか、袁紹の傘下に入る事にしました。

劉岱の援軍要請

青州の黄巾賊が、兗州に大軍で押し寄せる事になります。

この時期に、劉岱は反董卓連合で共に戦った橋瑁を殺害しており、袁紹派に属し兗州刺史となっていました。

劉岱は青州黄巾賊の兵の多さから独自で対抗するのは不可能だと考え、曹操に援軍を要請したわけです。

袁紹も曹操を東郡の太守に任命し、黄巾賊に対応させる事にしました。

荀彧が軍師となる

曹操は陳留にいましたが、荀彧と出会う事になります。

荀彧は袁紹の元にも出向きましたが、袁紹を見限り家族を連れて曹操の元を訪れたわけです。

曹操と荀彧は董卓、袁紹、袁術など天下について語り合います。

この時に荀彧は曹操が覇権を握る為の、道筋も述べた話があります。

曹操と荀彧は意気投合し、曹操は荀彧に参謀になる様に願い、荀彧は許諾しました。

これにより荀彧は曹操の軍師となったと言えるでしょう。

荀彧は曹操よりも7つ年下だった話がありますが、曹操は荀彧を認め敬意を払って接した話があります。

曹操は荀彧の戦略眼に敬服し「我が張子房」と述べています。

張子房は項羽を破り前漢を建国した、劉邦の軍師である張良を指します。

曹操は荀彧を張良に匹敵する者だと認めた事になるでしょう。

荀彧を得た曹操は勢力を拡大し、黒山賊、黄巾賊、匈奴の於夫羅などを撃破しました。

因みに、荀彧が曹操に推挙した人材は多く荀攸、鍾繇、陳羣、杜襲、辛毗、杜畿など様々な人材がいたわけです。

荀彧は潁川の名士であり、独自のネットワークを使い優れた人物を曹操に推挙しています。

兗州牧となる

兗州刺史の劉岱が青州黄巾賊に殺された事件が起きます。

劉岱が殺害されると鮑信らは、曹操を高く評価し兗州牧として迎えました。

鮑信らの計らいにより、曹操は兗州牧を名乗りますが、正式に朝廷より認められた兗州牧ではなかったわけです。

朝廷の方では新たに兗州刺史を送り込みますが、曹操らは追い返しています。

この時の兗州では、青州黄巾賊が大挙して雪崩れ込んできており、大変な状況でした。

青州兵を得る

この時の青州黄巾賊は30万もの軍勢がおり、兵も強く大勢力だった話があります。

さらに、兵士も強く、真っ向から立ち向かって勝てる相手でもなかったわけです。

曹操は勝ち目がないと判断すると、青州黄巾賊を自軍に取り込もうと考えます。

この時に、曹操と青州黄巾賊との間で密約が結ばれ、青州黄巾賊は曹操の配下となります。

青州黄巾賊は「青州兵」と呼ばれる事となり、曹操軍の中核を成す軍事力となります。

圧倒的な武力を誇っていた青州黄巾賊を、どの様にして曹操が懐柔したのかは謎と言ってよいでしょう。

曹操が亡くなった時に、青州兵は去った話もある事から、曹操一代だけの契約で青州兵は曹操に従ったのでないか?とも考えられています。

青州兵と曹操に関しては、謎が多いと言えるでしょう。

劉虞の皇帝擁立に反対

董卓は李儒に少帝を殺害させ、献帝を皇帝に即位させています

袁紹は献帝に正統性がないとも考え、韓馥と共に幽州にいた劉虞に皇帝になって貰おうと画策しました。

袁紹は曹操に対しても、劉虞の皇帝擁立に賛成する様に使者を派遣します。

しかし、曹操は袁紹に反対し、劉虞の皇帝擁立に断固として反対の立場を取ったわけです。

袁紹は使者を派遣し、曹操を説得しようとしますが、曹操が賛同する事はありませんでした。

魏書によれば曹操は袁紹には私欲があると判断し、袁紹を滅ぼす計画をしたとあります。

劉虞の皇帝になろうとしなかった事で、袁紹の皇帝擁立計画は失敗に終わりました。

袁術との戦い

天下は群雄割拠となり、袁紹派と袁術派に分かれて戦う事になります。

こうした中で曹操は勢力を拡大させています。

袁紹と袁術の対立

西暦192年になると、董卓が王允の計略により呂布に殺害され命を落としています。

実権を握った王允ですが、董卓の仇を討つために進撃してきた李傕郭汜らに敗れて亡くなっています。

呂布も長安から追い出される事になります。

李傕が長安を占拠し、朝廷を牛耳り関東では袁紹と袁術が対立する事になります。

袁紹に味方したのが曹操、劉表らであり、袁術に味方したのが公孫瓚陶謙、孫堅などがいたわけです。

この時に、公孫瓚や陶謙は地盤があり強大な戦力を有しており、袁術派が圧倒的に有利でした。

袁紹も苦しい立場となり、黒山賊に本拠地の鄴を奪われるなど苦しい立場だったわけです。

しかし、ここで曹操が奮戦する事になります。

匡亭の戦い

袁術は曹操を攻撃し、匡亭の戦いが勃発します。

この時に劉表が孫堅を何とか戦死に追い込み撃退し、袁術軍の糧道を断ちます。

袁術は本拠地の南陽から食料を供給できなくなりますが、黒山賊の支援があったせいか、曹操と戦いを挑む事になります。

この時に曹操は兵力の上では、圧倒的に不利な状況でした。

しかし、曹操の采配が当たり屈強な青州兵の活躍もあり、袁術は大敗しました。

袁術は退路を断たれていた事で、南陽に帰る事も出来なくなり、揚州に逃げようと考えます。

曹操は袁術を執拗に追撃し、袁術は寿春に入り漸く勢力を挽回させる事に成功しました。

袁術との戦いは曹操の大勝利に終わったわけです。

徐州大虐殺

袁術を破った曹操は陶謙と戦いますが、ここで徐州大虐殺を行っています。

これが後に曹操の足を引っ張る事になります。

陶謙と全面戦争

袁術を倒した曹操は徐州の討伐に向かいます。

徐州の陶謙は勢力も大きく手ごわい相手です。

この時に曹操は信頼していた友人である、張邈に家族を預けています。

曹操は本拠地の兗州に夏侯惇荀彧陳宮と最低限だけ残し、陶謙の討伐に向かいました。

曹操がほぼ全軍を徐州に向けた事を考えると、曹操が陶謙を滅ぼそうとしていた事は明らかでしょう。

于禁と曹仁

曹操は軍を二つに分けて、本体を自分が率いて別動隊は曹仁が率いる事になります。

曹操と陶謙の軍勢は彭城の付近で対峙しました。

この時に曹操軍の先陣となったのが于禁です。

于禁は鮑信配下の兵卒でしたが、鮑信が亡くなった時に、曹操が軍勢を吸収し、于禁を大抜擢した経緯があります。

曹操軍と陶謙軍は激戦となり、数万規模の軍勢が戦う事になります。

曹操軍は苦戦しますが、曹仁が敵を蹴散らし援軍にやってきました。

この時に曹仁が敵の背後に現れた事で、陶謙軍は大混乱に陥ります。

陶謙は急いで撤退を行い、初戦は曹操軍の勝利となりました。

曹嵩が殺される

曹操は過去に曹嵩の資金などにより挙兵しました。

曹嵩は戦乱を避けるために、徐州にいましたが、曹操が徐州を攻めた事で曹嵩の身も危うくなります。

曹操は曹嵩の身の危険を考え、自陣営に呼び寄せる事にしました。

曹操は応劭を派遣し、曹嵩と弟の曹徳を呼び寄せる手筈を整えます。

曹嵩は曹操陣営に向かいますが、陶謙の配下の張闓により殺害されてしまったわけです。

正史三国志の記録で、当時の曹操は多くの兵糧を動かしていた話があり、陶謙に警戒されていました。

曹操軍の食料輸送を陶謙軍が襲撃し、その過程で曹嵩も殺されたとも考えられています。

曹嵩や曹徳が殺害された事で、曹操は激怒します。

徐州で殺戮

曹操は曹嵩を殺された事で、曹操は徐州大虐殺を始めています。

後漢書によれば曹操の徐州で「数十万の男女を殺した」とあります。

この時の曹操軍が通った地域では、犬や鶏の声も聞こえなくなり、泗水が死体で堰き止められたとも伝わっています。

曹操は怒りに任せて徐州大虐殺を行ったのかも知れませんが、後の事を考えると曹操の汚点であり悪手だと言えるでしょう。

徐州は曹操に対して、反抗的な地域となります。

曹操は徐州で大虐殺を続けながら進軍しますが、ここで思いもよらぬ事態となります。

兗州争奪戦

曹操は本拠地である兗州の大半が、呂布に味方し窮地に陥ります。

陳宮が反旗を翻す

曹操が徐州に侵攻していた頃に、陳宮が曹操に対し反旗を翻します。

陳宮は張邈を説得し、呂布を兗州の盟主にする為に迎え入れました。

兗州の大半が呂布や陳宮に靡き、曹操に与した城は鄄城・范・東阿だけでした。

夏侯惇も敵に捕まる一幕もあり、荀彧程昱が何とか曹操に味方し、靳允も引き込み抗戦を続けたわけです。

曹操は張邈を最も信頼していた話しもあり、ショックは大きかったとされています。

尚、陳宮が曹操を裏切った理由は、徐州大虐殺が原因ともされていますが、真実は明らかになっていません。

曹操と呂布の戦い

荀彧と程昱は不利な状況ながらも、曹操方の3城を守り抜く事に成功します。

曹操も兗州の危機を知り、徐州討伐を諦めて兗州に戻りました。

曹操と呂布は兗州の主を巡って激戦を繰り広げています。

この時の曹操と呂布の戦いは熾烈を極め、多くの将兵が亡くなっただけではなく、曹操自身も大やけどを負う怪我をしています。

総大将である曹操が負傷している事からも、呂布との戦いが壮絶だった事は明らかです。

蝗で停戦

曹操と呂布が戦いを繰り広げますが、こうした時に蝗(イナゴ)が大発生する事態となります。

この時のイナゴの被害は甚大であり、食料が無くなった民衆は人間同士が食べ合うまでに発展しました。

こんな状況で戦いを継続できるわけもなく、曹操と呂布との戦いは停戦となります。

曹操も呂布も食料難となり、苦しい状態となります。

この時に袁紹は完全に自分の傘下に入れば、食料を援助すると曹操に申し出ました。

曹操は袁紹の申し出を受諾しようとも考えた話しもあります。

しかし、程昱が楚漢戦争の田横を例に出し、袁紹に与しない様に曹操を説得しました。

曹操は程昱の進言を取り入れ、袁紹に屈する事はしなかったわけです。

しかし、食料は何とかせねばならず、曹操は東郡の大部分を袁紹に割譲し、食料を得ています。

因みに、この年は米の価格が暴騰し、一石五十余万銭になった話があります。

呂布を破る

兗州の豪族たちの大半は呂布に与していた状態でしたが、李典などの一族は曹操を支持しました。

曹操は定陶にいる呉資を攻撃しています。

呉資の救援に呂布がやって来ると、呂布を打ち破りました。

呂布の将である薛蘭と李封が、鉅野に駐屯した情報が曹操の元に入って来る事になります。

曹操が薛蘭、李封を攻撃すると、呂布は後詰に向かいます。

ここでも曹操は呂布を破り、薛蘭などを討ち取りました。

曹操は乗氏に駐屯する事になります。

この時に陶謙が亡くなった情報が曹操に入り、曹操は徐州を取った上で呂布を討伐しようと考えます。

しかし、荀彧が劉邦や劉秀(光武帝)の例を出し、曹操を押しとどめ呂布を先に討伐する事を勧めました。

曹操は荀彧の進言を聴き入れ、呂布を攻撃します。

この時に、曹操の兵は少なかったのですが、伏兵を配置するなど工夫し、呂布の軍を大いに破る事になります。

呂布との兗州争奪戦では、曹操は兵が少ない時には、女性や子供を武装させ兵に見せかけて戦ったなどの話もあります。

最終的に兗州争奪戦で曹操は勝利を収めますが、かなり苦しい戦いだった事が分かります。

尚、徐州の陶謙は亡くなりましたが、糜竺らの要請により劉備が徐州の主となったわけです。

因みに、呂布は劉備を頼って、徐州に落ち延びる事になります。

兗州争奪戦は曹操の、勝負強さが光る戦いであったとも言えるでしょう。

呂布を駆逐した曹操は正式に兗州牧に任命されています。

献帝を迎え入れる

後漢王朝の皇帝である献帝は長安にいました。

しかし、当時の長安は李傕と郭汜が仲違いし、市街戦を行うなど荒廃していきます。

こうした中で献帝が長安を脱出したわけです。

既に献帝には力がなく名目だけの皇帝になっていましたが、献帝をどうするかで曹操陣営で話し合いが持たれています。

この時に荀彧程昱の発言が採用され、献帝を曹操陣営で迎える事になったわけです。

荀彧は献帝を迎える為に、春秋時代の晋の文公や漢の劉邦を例に出し、曹操を説得しました。

曹操は曹洪に命令し、献帝を迎え入れさせる様に手配させています。

これにより曹操は後漢王朝を手中に収めています。

献帝は曹操を大将軍に任命しようとしますが、曹操は袁紹の強大さに配慮し、大将軍の位を袁紹に譲っています。

曹操自身は司空に就任しました。

曹操の改革

曹操は献帝を迎え入れると、政治改革を行っています。

兵戸制

当時の中国では、豪族が非常に強い力を持っていたわけです。

兵士の大半が豪族の管理下に置かれているなど、豪族の意向を無視して戦う事も出来ませんでした。

曹操の兵戸制は当時では画期的な制度であり、豪族から兵権を取り上げ、戸籍を基本とする軍隊を形成するに至ります。

兵戸制により曹操は豪族の力を削ぎ落し、安定した軍事力を持つ事が出来る様になります。

屯田制

曹操は屯田制を推進しています。

屯田制は曹操配下の棗祗や韓浩が推進した政策だとも言われています。

屯田制には軍屯と民屯がありますが、棗祗や韓浩が進言したのは民屯だと考えられています。

屯田制は政府が土地と農具を貸し与え、農民たちに田畑を耕させて、収穫の一部を税として納めさせる制度です。

当時は戦乱で荒れ果てた土地が大量にあり、流民たちも多くいました。

流民たちにも屯田制を実施させています。

流民たちは曹操領に集まる様になり、民衆が増えた事で税収が増えるなど、屯田制が国家の基盤になったとも考えられています。

屯田制は当時の社会状況とマッチしていた様で、評価の高い政策です。

任峻は典農中郎将に任命され高い功績を残しています。

新の王莽の様な理想主義の政策ではなく、現実にマッチした優れた政策と言えるでしょう。

尚、屯田制は世界の各地で行われましたが、大規模な屯田を始めたのは、曹操が最初だとも言われています。

張繡討伐に失敗

曹操は宛を拠点とする張繡の征伐に向かいます。

しかし、曹操は油断もあり大敗を喫し、典韋までも失っています。

張繡を降伏させる

曹操は劉表の征伐を考えますが、劉表を倒す為には宛城の張繡を征伐する必要がありました。

張繡は過去に董卓に属していましたが、董卓軍の崩壊と共に宛城に流れ着き拠点にしていた経緯があります。

曹操と張繡は小競り合いを続けますが、西暦197年に曹操は自ら大軍を率いて張繡討伐に向かいます。

曹操と張繡では戦力差が開き過ぎていた事もあり、張繡は戦わずに降伏しました。

鄒氏を得る

張繡の叔父である張済の妻であり、未亡人となっていた鄒氏なる女性がいました。

曹操は鄒氏を見ると、すっかりと夢中になって惚れ込んでしまいます。

曹操は政務を放り出し、鄒氏と夜な夜な楽しむ生活に没頭する事になります。

張繡は叔父の張済の妻であった鄒氏に、やりたい放題の曹操に嫌気がさし、賈詡(かく)に相談しました。

賈詡は張繡に対し、曹操に反旗を翻す様に策を出します。

賈詡は智謀に凄味がある人物であり、後に曹操の参謀となりますが、曹操は賈詡の存在を知らなかったのでしょう。

曹操は油断仕切っており、自分の親衛隊長とも言える典韋にでさえ酒を勧めて酔わせていました。

賈詡は油断している曹操を見て「今なら勝てる」と判断し、張繡に曹操の不意を突いて強襲する様に進言したはずです。

張繡の襲撃

曹操はいつもの様に、鄒氏と夜を楽しみ寝ていたわけです。

この時に曹操は外が騒がしい事に気が付きます。

曹操が異変を感じた時は、既に張繡の襲撃が始まっており、危機的な状況でした。

曹操と鄒氏が寝ている部屋に、長子の曹昂が入って来て、張繡の謀反を伝えます。

曹操は慌てて脱出する事になり、命からがら危機を乗り越えたわけです。

典韋の死

曹操が油断したツケが、訪れる事になります。

張繡に強襲された事で、長男の曹昂、一族の曹安民、典韋が帰らぬ人となります。

曹操は長男の曹昂や一族の曹安民を失った事よりも、典韋を失った事を悲しんだ話があります。

典韋は怪力の持ち主であり、曹操は殷の紂王に仕えた怪力武将である「悪来の様だ」と言わしめた人物です。

曹操は典韋の死を聞くと号泣し、告別式の時にも号泣した話があります。

典韋は忠誠心が高い武将であり、曹操にとっては惜しいと感じる人物だったのでしょう。

尚、曹操の長男である曹昂の育ての親は丁夫人であり、丁夫人は曹昂の戦死を聞くと、ショックを受け実家に帰ってしまった話があります。

曹操と言えども、油断すれば足元をすくわれると言った例になるのでしょう。

曹操の反省

曹操は舞陰まで軍を引きますが、張繡は曹操に対して攻撃を仕掛けてきます。

舞陰での戦いは、曹操が勝利を収め張繡を撃退しました。

張繡は軍を穣に移し、劉表と合流しています。

曹操は安全圏まで非難しますが、ここで諸将に次の様に述べた話があります。

曹操「儂は張繡を降伏させた時に、人質を取らなかった。

人質を取らなかったのは、張繡に配慮したからである。

その結果が、この失敗を招いた。

儂は戦いに敗れた原因がよく分かった。諸将らよ見ていてくれ。

儂はこの様な失敗は二度とせぬぞ。」

曹操の負け惜しみにも見えますが、曹操は戦いに敗れながらも許昌に戻る事に成功しました。

尚、曹操が許昌に戻ると、南陽や章陵などの地域が張繡に靡く事になります。

曹操にとっては張繡討伐は完全に失敗だったと言えるでしょう。

しかし、曹操は再び張繡を討伐しようとします。

第二次張繡討伐

西暦198年に曹操は再び張繡を攻撃しました。

この時に、曹操は穣に駐屯していた張繡を攻撃しています。

しかし、張繡は劉表に援軍を依頼し、劉表軍が曹操軍の退路を断った事で、曹操は撤退を決意します。

張繡は追撃を行いますが、曹操は軍をゆっくりと移動させると、荀彧に次の手紙を送っています。

「敵は儂を追撃して来ておる。1日に数理軍を動かすだけだが、安衆まで来れば、必ずや張繡を打ち破る事が出来る。」

曹操が安衆に到着すると、張繡は劉表の兵と合流して城を守ったとあります。

曹操は夜中に地下道を作り伏兵を隠し、張繡と劉表の軍を待ち構えていました。

曹操軍が夜のうちに主力を隠した事で、張繡と劉表は曹操が逃げたと思い、追撃戦を行います。

しかし、曹操の伏兵が現れ、大いに張繡・劉表連合軍を破る事になります。

曹操が許昌に帰った後に、荀彧に「安衆まで来れば、なぜ勝てると思ったのですか。」と問われると、次の様に答えています。

曹操「張繡らの軍は我が軍の帰還を遮っておった。

我が軍は死地に追い込まれたから、兵士らは必死に戦うと判断し、勝利出来ると思ったのじゃ。」

曹操にとってみれば、楚漢戦争において韓信が行った、背水の陣と同じ状態を作り出せたと思ったのでしょう。

尚、正史三国志の賈詡伝には、張繡と曹操が戦い追撃した張繡が敗れた話があります。

しかし、賈詡伝では賈詡の進言により、張繡は再び追撃を行い勝利しています。

武帝紀には記録されていませんが、張繡は曹操に敗れた後に、再び追撃を行い勝利した可能性もある様に思います。

武の張繡と智謀の賈詡の組み合わせは手ごわく、圧倒的に優勢にも関わらず、曹操は中々破る事が出来なかったわけです。

呂布の最後

張繡に敗れた曹操ですが、下邳で呂布を討つ事に成功しています。

劉備を助ける

徐州は劉備が治めていましたが、曹操に敗れた呂布を養う事になります。

しかし、劉備が袁術と戦った時に、下邳で張飛と曹豹が争い、曹豹が呂布に内通しました。

これにより下邳の主が呂布となり、劉備は呂布に降伏しています。

後に劉備は兵を集め出し、劉備を怪しんだ呂布は劉備に攻撃を仕掛けたわけです。

呂布配下である高順が劉備の軍勢を破り、劉備は曹操に助けを求めています。

曹操は夏侯惇を劉備の援軍としますが、夏侯惇も高順に敗れました。

ここにおいて、曹操が自ら出陣し、呂布と戦う事になります。

曹操は彭城で呂布の軍を破り、侯諧を捕えています。

呂布は自ら騎兵を率いて迎撃を行いますが、曹操が大勝し呂布配下の成廉を捕虜にする戦果を挙げています。

曹操軍は呂布の本拠地である下邳を包囲しました。

水攻め

呂布は曹操に恐懼し、降伏しようとしますが、陳宮に止められて袁術に救援を要請しました。

呂布は再び城外で曹操軍と戦いますが敗れています。

呂布は下邳の城を堅固に守り、曹操は手を焼く事になります。

曹操軍は連戦により疲労が濃くなり、撤退も考える様になります。

しかし、参謀の荀攸郭嘉が曹操を止め、水攻めを提案しました。

下邳城への水攻めは極めて効果的であり、呂布軍の士気を大いに削ぐ事になります。

先賢行状に下邳城内にいた張弘陳登の弟達を連れて、城を脱出した話がありますが、下邳の落城が見えてきた時なのかも知れません。

こうした中で侯成、魏続、宋憲が呂布を裏切り、陳宮を捕縛し曹操に引き渡す事態となります。

呂布も城を持ちこたえる事が出来ずに、下邳の城は落城し呂布は捕らえられました。

陳宮の最後

曹操は兗州で陳宮に裏切られて窮地に陥っており、曹操と陳宮は因縁の相手でした。

しかし、曹操は陳宮に対し高い評価をしており、曹操は陳宮に次の様に問います。

曹操「老婆や妻子はどうするつもりなのだ。」

曹操は陳宮を殺すには忍びないと考え、老母や妻子を理由に生きる道を選ばせたかったのでしょう。

しかし、陳宮は次の様に答えています。

陳宮「天下を治める者は人の親や妻子を殺したりはしないと聞く。

母や妻子は貴方の手の中にあり、私にはない。」

陳宮は言い終わると、処刑場に向かってしまいました。

曹操は陳宮が自分に仕える気がなく、死を望んでいると悟ったのでしょう。

この時に曹操は涙ながらに、陳宮を見送ったとあります。

因みに、曹操は陳宮の家族を保護し、陳宮の娘は嫁ぐまで面倒をみた話があります。

曹操は陳宮に兗州で裏切られた事で、苦境に立たされたわけですが、最後に陳宮を惜しむ辺りは英雄の器だと言えるでしょう。

尚、呂布配下で陥陣営と呼ばれた名将高順も潔く処刑されています。

ただし、呂布配下の張遼袁渙、陳羣や呂布に味方した泰山軍閥の臧覇などは許されています。

呂布を処刑

呂布も曹操の前に引き立てられますが、次の様に述べます。

呂布「私が騎兵を率いて、お主(曹操)が歩兵を率いれば天下が取れる。」

曹操は呂布の武勇を高く評価しており、呂布を許そうか考える様になります。

曹操は呂布の縄を緩めようとしますが、主簿の王必が止めた話しもあるわけです。

しかし、劉備は曹操に呂布が丁原や董卓に行った事を述べ、曹操に処刑を勧めています。

この時に呂布が劉備に向かって、次の様に叫びました。

呂布「この男(劉備)が一番信用出来ないんだぞ。」

曹操は結局は劉備の意見に従い、呂布を処刑したわけです。

西暦199年に裏切り続けた呂布も遂に滅亡を迎えました。

杜氏を側室とする

呂布の配下に秦宜禄なる者がおり、秦宜禄の妻である杜氏は美人だったわけです。

劉備配下の関羽が呂布を破ったら、杜氏を娶りたいと曹操に熱望します。

しかし、曹操は杜氏を見るや気に入り、自分の側室にしてしまった話があります。

関羽としては、曹操の行動に納得がいかなかった様に思いますし、関羽は曹操に対し悪感情を抱いたのかも知れません。

杜氏の連れ子には、秦郎がおり、秦郎は曹操の養子となり厚遇されています。

秦郎は曹操の子である曹丕曹叡の代になっても、厚遇されますが、金に煩いなどいい話はありません。

しかし、曹丕や曹叡には何故か気に入られていた様です。

それでも、母親の杜氏や子の秦郎は何かしらの魅力があり、多くの人から目を掛けられたのでしょう。

治めにくい徐州

曹操は呂布を滅ぼし徐州を手に入れますが、曹操にとっては非常に治めにくい地域でした。

曹操は過去に徐州で虐殺を起こしており、曹操に対する反発が強い地域だったからです。

曹操は献帝を手中に収め、朝廷の人間であり車冑(しゃちゅう)を徐州刺史に任命しています。

しかし、車冑の力は弱く名目上だけの刺史となっていた話しもあります。

曹操は呂布に味方した臧覇を海岸地帯を任せて、徐州と青州の一部の統治を任せました。

呂布に従いながら、曹操に味方した徐州の名士である、陳登にも徐州の一部を委ねています。

さらに、徐州の大富豪である糜竺と糜芳にも、徐州の一部を統治させました。

曹操は自分が徐州で人気がない事を察して、この様な配置としたのでしょう。

徐州大虐殺は後の事を考えると、曹操の足を引っ張っていると言えます。

尚、陳登と孫策や孫権との間で、匡奇城の戦いが起きた話しもあります。

匡奇城の戦いでは、陳登が陳矯を曹操への援軍要請の使者とし、曹操も援軍を出し呉軍を破った記録もあります。

鍾繇を長安に配置

呂布が滅んだ頃には、西の方では長安の李傕が自滅し関中は混乱していました。

関中の地には馬騰や韓遂などの勢力がおり、安定には程遠い状態だったわけです。

曹操はこうした中で、荀彧の推挙もあり鍾繇を長安の守備に配置しています。

曹操は鍾繇を司隸校尉としました。

鍾繇は曹操の期待に答え、馬騰や韓遂などを仲裁し、帰順させる事に成功しています。

張繡が帰順

袁紹が北方を制圧し終わると、曹操との決戦に向けて動き出します。

この時に、袁紹は張繡を味方に引き入れようとします。

張繡も過去に曹操と敵対していた事から、袁紹に組みしようとしますが、賈詡が反対しました。

賈詡の進言もあり、張繡は曹操に帰順したわけです。

この時に賈詡も曹操の配下となり重用される事になります。

余談ですが、最終的に賈詡は主君である張繡よりも出世しました。

さらに、南方の長沙で張羨が曹操に味方すると態度を鮮明にした事で、張羨が劉表の背後を突く形となり、劉表は動けなくなったとする話もあります。

張羨や張繡などの小規模な戦力であっても、曹操にとってみれば有難く重用したのでしょう。

劉備を厚遇

正史三国志の先主伝によると、曹操は劉備を丁重に持て成し厚遇した話があります。

曹操は上表し、劉備を左将軍に任じました。

さらに、曹操は外出する時は劉備と同じ輿に乗り、座る時は席を同じとしたとあります。

これを見ると分かる様に曹操は劉備を高く評価し、同格として扱い厚遇したわけです。

劉備は徐州で人気があり、曹操は劉備の人気を利用しようとした説もあります。

曹操は皇帝を僭称した袁術対策として、劉備を徐州に配置しようと考えます。

董承による曹操暗殺計画

車騎将軍をしていた董承は恩賜である帯の中に、献帝からの密勅がある事に気が付きます。

献帝の密勅には、次の言葉があったとされています。

「曹公を誅殺すべし」

献帝は曹操に保護されていましたが、曹操の排除を考えたわけです。

献帝としてみれば、政治の実権を取り返したかったのでしょう。

董承は王子服、呉碩、呉子蘭、种輯などの仲間を集めます。

董承の曹操暗殺計画には劉備も加担していましたが、劉備は袁術の北上を阻止する為に、都を離れています。

董承の曹操誅殺計画は露見してしまい、董承の計画に加担した者達は全員が処刑されています。

董承は三国志演義の影響で、後漢王朝の最後の忠臣と思うかも知れません。

しかし、実際の董承は董卓配下の牛輔の下におり、李傕、郭汜らと好きな様にやっていた話しもあります。

董承韓暹、楊奉、張楊らと権力争いを繰り広げた過去もあり、人間的には信頼できる人ではなかった様にも思います。

董承が曹操を排除したかったのは、自分が権力を握りたかった側面も強い様に感じました。

劉備討伐

劉備は徐州で曹操に反旗を翻しています。

曹操は袁紹の事も気にしますが、自ら劉備討伐に出向きました。

劉備が反旗を翻す

董承の曹操暗殺計画が露見した頃に、劉備は反旗を翻す事になります。

劉備は袁術討伐を理由に、都を離れており、この時には袁術も病死しています。

劉備は徐州刺史である車冑を斬りました。

この頃になると袁紹公孫瓚を滅ぼしており、曹操との雌雄を決する時が迫っていたわけです。

曹操は袁紹に備えて北上し、徐州の一部を任されていた臧覇も曹操と共に北上しています。

曹操は劉岱(反董卓連合に参加した劉岱とは別人)と王忠を劉備に派遣しますが、劉備は劉岱、王忠を撃破しました。

劉備は糜竺や昌豨を味方とし、徐州に一大勢力を築こうとしたわけです。

さらに、劉備は北方の袁紹にも使者を派遣し、袁紹と連携しようとしました。

尚、曹操配下の郭嘉と程昱などは劉備を危険視していましたが、曹操が徐州に派遣してしまった経緯もあります。

劉備の逃走

劉備は曹操が北方で袁紹が控えていた事で、曹操が自ら自分の討伐に来る事はないと考えていました。

さらに、南方には荊州の劉表がおり、劉備は「曹操以外は敵ではない。」と豪語していた話しもあります。

しかし、曹操は于禁を袁紹への抑えとし、自ら兵を率いて劉備の討伐に赴きます。

袁紹に背後を衝かれるとまずい状況でしたが、荀彧荀攸程昱郭嘉などの参謀勢は、袁紹は攻めて来ないと判断します。

袁紹配下の田豊などは曹操の背後を急襲する様に進言しましたが、袁紹は息子である袁尚の病気を理由に却下しました。

袁紹が息子の病気を優先させた為に、曹操は窮地を脱する事になります。

尚、この時期には揚州で勢力を固めていた孫策許貢の食客に襲われ命を落としたのも、曹操にとってみれば幸運だったと言えるでしょう。

劉備は下邳を関羽に任せ、自らは小沛で曹操を迎え撃とうとしますが、曹操が自らやってきた事を知ると、劉備は戦わずに袁紹の元に逃げています。

この時に劉備は妻子を捨てて逃げており、関羽も置き去りにされています。

結局、関羽は張遼の説得もあり、条件付きで曹操に降伏しました。

官渡の戦い

三国志における天下分け目の戦いと呼ばれる官渡の戦いが西暦200年に勃発しました。

曹操は圧倒的に不利な立場でしたが、見事に勝利を得ています。

短期決戦を選択

官渡の戦いでは、北方を制圧した袁紹が兵力・物資共に曹操軍を圧倒していたと考えられています。

曹操と袁紹の決戦が近づいており、曹操軍では短期決戦か長期決戦かで議論となります。

孔融は袁紹の軍には優れた人材も多くおり、短期決戦で勝つのは難しいと述べます。

それに対して、荀彧は袁紹配下の欠点を述べて、短期決戦を主張しました。

短期決戦は少数派だった様ですが、曹操は短期決戦を採用します。

袁紹の方では田豊沮授が長期戦を主張しますが、袁紹は採用せず多くの臣下が望む短期決戦を挑んだわけです。

さらに、袁紹の長子である袁譚が青州から徐州に侵攻し、并州の高幹も袁紹軍として参戦しています。

顔良と文醜を討ち取る

曹操は荀攸の進言により、陽動部隊として楽進于禁を向かわせています。

袁紹軍が楽進らに気を取られた隙に、張遼と関羽が白馬を急襲しました。

白馬には顔良がいましたが、関羽が討ち取っています。

白馬の戦いは関羽が顔良を討った事で、曹操軍の完勝でした。

この後に、延津の戦いが起きますが、ここでも荀攸の策を実行し文醜を討ち取っています。

顔良・文醜は袁紹軍の中でも名が通っている武将でしたが、初戦で曹操軍に破れ姿を消す事になります。

尚、この時期に袁譚が兗州に攻撃を仕掛けていますが、程昱が寡兵で守り切りました。

さらに、高幹の攻撃も于禁と楽進が守り切り、高幹軍を撃退し、多数の捕虜を得ています。

これを見ると、曹操軍が優勢に思うかも知れませんが、袁紹軍の方が兵も強く強大であり、曹操は押されまくります。

窮地に陥る

曹操は白馬の戦いや延津の戦いで勝利を収めますが、結局は白馬も延津も放棄しています。

袁紹軍の物量の前に、維持できないと判断したからです。

曹操は官渡まで退き袁紹と戦いますが、苦しい戦いが続きます。

さらに、袁紹軍に補給も抑えられた部分もあり、兵糧が不足しジリ貧となります。

曹操は許昌への撤退も考える様になりますが、荀彧が曹操を励まし官渡を守り抜く事にしたわけです。

この間に、袁紹が劉備を豫州に派遣し、曹仁が打ち破るなどもありました。

しかし、曹仁は局地戦で劉備を破っただけであり、戦況を変える事は出来ていません。

曹操軍が不利となるや、曹操領で反乱が起き徐晃や呂虔が討伐に向かうなどもあったわけです。

局地戦では曹操は勝利していますが、全体的に見れば押されまくっています。

ただし、袁将の参謀である沮授が軍から離脱するなど、曹操にとって幸運な出来事もありました。

烏巣を急襲

曹操は苦しい戦いが続きますが、袁紹配下の許攸が曹操に寝返ります。

袁紹が許攸の進言を取り上げない事で、許攸は曹操方に寝返ったわけです。

許攸は烏巣に袁紹軍の兵糧庫があると暴露しています。

許攸は偽りの投降ではないかとも考えましたが、荀攸と賈詡は真実だと判断しました。

曹操は曹洪に本陣を守らせ、自身は楽進らと淳于瓊が守る烏巣を急襲したわけです。

烏巣を守る淳于瓊は過去に霊帝の元で、曹操と西園八校尉だった事があり、因縁を感じる部分でもあります。

袁紹軍では烏巣が攻められている事を知ると、郭図は曹操の本営への急襲を主張し、張郃は烏巣への救援を主張しました。

しかし、ここで何故か袁紹は烏巣への救援を主張した張郃に曹操本陣への襲撃を命令し、別の人物には烏巣への救援も行わせせています。

張郃は曹洪の堅守を攻略出来ずに終わり、烏巣の戦いでは淳于瓊は楽進に斬られ曹操軍の勝利となりました。

烏巣の兵糧庫が焼かれた事で、袁紹は軍を維持できないと判断し、北に撤退しています。

官渡の戦いは厳しい戦いでしたが、曹操軍の勝利で終わっています。

尚、郭図が張郃を讒言した為に、張郃や高覧は帰る場所を失い曹操に降伏しました。

曹操軍の五大将軍と言えば張遼、楽進、于禁徐晃、張郃ですが、張郃が曹操陣営に加わった事で、全員が終結した事になります。

曹操は人材コレクターと呼ばれる事もあり、張郃の加入は願ったり叶ったりの状態だったはずです。

袁紹の死

曹操は官渡の戦いでは、袁紹を破りましたが、まだ袁紹の方が力が強く手出しは出来ませんでした。

袁紹の方も自国領内で反乱が勃発した事で、対応に追われます。

しかし、官渡の戦いで曹操に敗れたのがショックだったのか、反乱が多発した事で心が折れたのか、袁紹は西暦202年に亡くなっています。

袁紹は明確な後継者を決めていなかった事で、長子の袁譚と三男の袁尚が後継者の座を争います。

袁氏の兄弟が争った事で、曹操は好機到来と考え、北方の平定を開始します。

しかし、ここで并州の高幹が長安に向けて進軍していたわけです。

曹操は袁紹の子らと戦いが待っており、関中まで手が回らない状態でした。

鍾繇が関中を守り切る

高幹が関中に向けて進軍が始まると、馬騰や韓遂などの軍閥が高幹に呼応する様な動きを見せます。

高幹は南匈奴の単于である呼廚泉も味方とし、郭援らと共に関中に雪崩込みます。

曹操は関中の事は鍾繇に任せており、鍾繇配下の賈逵が奮戦しますが、多くの城が高幹に靡き劣勢でした。

こうした中で鍾繇は張既を馬騰の元に派遣しました。

張既が馬騰を説得した事で、馬騰は再び曹操の味方となり、長子の馬超龐徳(ほうとく)を鍾繇の援軍に向かわせています。

鍾繇は馬騰や韓遂の援軍を得た事で盛り返し、高幹と呼廚泉を降伏さて、曹操軍の完全勝利となりました。

この戦いで曹操は賈逵の功績を讃えて自らの属官とした話もあります。

余談ですが、賈逵は呉との石亭の戦いで敗れた後に、曹休に恨まれて病死しています。

賈逵の子である賈充は、司馬昭に従い曹操の子孫で魏の皇帝である、曹髦の殺害に大いに貢献しました。

さらに、賈逵の孫である賈南風は西晋の恵帝の皇后となり、八王の乱を引き起こしています。

それを考えると、関中の戦いで賈逵が活躍し、曹操が重用しなかったら歴史は大きく変わっていたのかも知れません。

冀州平定戦

曹操は袁家が治めていた冀州を平定する事になります。

袁譚との戦い

西暦203年に曹操は黎陽に兵を進め、袁譚の軍と戦う事になります。

袁譚の後方にあたる鄴には、袁尚が控えていましたが、袁譚と袁尚は後継者争いをしていたわけです。

袁譚は袁尚に援軍要請しますが、袁尚が援軍を送らない事態になります。

その後に、袁尚派の逢紀が袁譚の援軍に来ますが、怒った袁譚により逢紀は殺害されています。

袁尚は袁譚を嫌っていましたが、曹操に破られても困ると考えて、袁譚の援軍に向かいました。

しかし、袁譚と袁尚はいがみ合っているわけであり、連携も取れずに曹操に敗れています。

鄴からの撤退

黎陽を抜いた曹操は袁尚が籠る鄴を包囲しました。

しかし、鄴は袁紹が本拠地とした場所でもあり、堅城に手こずります。

ここで郭嘉が曹操に鄴から撤退すれば、袁譚と袁尚が勝手に争い消耗すると述べます。

曹操は郭嘉の進言を取り入れて撤退しています。

袁譚と袁尚の争い

この時に袁譚は曹操の追撃を行うべきだと主張し、袁尚に援軍を求めますが、袁尚は却下しました。

怒った袁譚が袁尚が籠る鄴を攻撃しますが、鄴は堅城であり抜く事が出来ずに南皮に撤退しています。

袁譚と袁尚は打倒曹操で協力しなければならないのに、お互いを攻撃しあったわけです。

袁譚は袁尚の攻撃により南皮を失い、袁譚が治めていた青州も袁譚を裏切ります。

袁譚は袁尚の軍に平原を囲まれ窮地に陥りますが、曹操への降伏を選択をしました。

袁譚は危機に陥った事で、仇敵でもある曹操に降伏し助けを求めたわけです。

鄴攻めを再開

曹操は袁譚と袁尚が争っている隙に、劉表攻めを行う予定でした。

しかし、予想以上に早く袁譚が敗れ好機が訪れる事になったわけです。

袁譚の使者である辛毗や郭嘉、荀攸などの勧めもあり、曹操は再び鄴の陥落を目指します。

曹操は息子の曹整と袁譚の一族で縁組を行いますが、曹操は袁譚の事は全く信頼していなかった様です。

この時に劉表への備えとして、夏侯惇や李典を残しています。

曹操が鄴への攻撃に向かうと、袁尚に与していた東平の呂曠、呂翔が、曹操に降伏してきました。

この時に、袁譚は将軍の印綬を呂曠に送った話があります。

袁譚としてみれば、手勢が欲しかった事もあり、呂曠を自分の傘下に組み込みたかったのでしょう。

しかし、呂曠は袁譚に与する事はなく、印綬を曹操に送ると、曹操は次の様に述べています。

曹操「儂は袁譚のこざかしい計略を知っておる。

儂に袁尚を攻撃させ、その隙に軍勢を集めたいと考えているはずじゃ。

袁譚は袁尚が敗れれば、我が軍は疲弊すると思っておる様じゃが、実際には袁尚が敗れれば、儂は強大になる。

どうして、儂に付け込む事が出来ようか。」

曹操はこの状況を利用し、袁尚がいる鄴攻めを中止し、袁譚を攻める素振りを見せます。

袁尚は曹操が袁譚を攻撃したと考え、鄴を審配に任せて袁譚を攻撃しました。

鄴の陥落

審配は袁譚と袁尚の仲違いは、曹操に付け込まれるだけだと判断し、劉表に袁譚、袁尚の仲介を依頼しました。

しかし、劉表が仲介しようとしても、袁譚も袁尚も戦いを続ける事になります。

曹操は袁譚と袁尚が争っている隙に、再び鄴を包囲しました。

この時に曹操は邯鄲や易陽、上党なども占拠し、鄴を孤立させています。

曹操は徐晃が降伏させた易陽の将である韓範を関内侯にするなど寛大な処置をし、降伏を促す策も実行しました。

曹操は鄴を陥落させようと攻勢を掛け、鄴城の蘇由馮礼が寝返りますが、審配の堅守にあい手こずります。

曹操は審配の守備は力攻めでは落とせないと判断し、水攻めを実行しました。

この時になって、袁尚は鄴が危機に陥っている事に気が付きます。

袁尚は審配と連絡を取る為に、李孚を派遣しました。

この時に李孚は2度も曹操を出し抜き、鄴城に出向き袁尚の陣に戻る荒業を見せています。

袁尚は鄴に戻ると夜襲を仕掛けますが、曹操に破れて袁尚は包囲される事になります。

袁尚は配下の陰夔と陳琳を使者とし、降伏を申し出ますが、曹操は許しませんでした。

袁尚は夜に紛れて逃亡し再び曹操と戦おうとしますが、配下の馬延張顗が曹操に寝返り戦いにならず、中山まで逃亡する事となります。

袁尚は逃走しますが、鄴の城内では士気が大きく下がったわけです。

審配は最後まで戦い抜く気でいましたが、一族の審栄が城門を開き曹操軍を城内に導いています。

審配はそれでも諦めずに、市街戦を行いますが、最後は曹操に生け捕られました。

審配の最後

審配の奮戦は凄まじく、曹操も配下に加えたい気持ちがあったようです。

曹操と心配の間で、次のやり取りがあったとされています。

曹操「誰が城門を開いたのか知っておるか。」

審配「知らない。」

曹操「其方の兄の子である審栄じゃ。」

審配「審栄は役立たずのクセに余計な事をしおって。」

曹操「儂が包囲した時に、大量の矢を降らせたのはなぜじゃ。」

審配「あれでも、矢の数は少なかったと思っておる。」

曹操「其方は袁氏にとって忠義の士であり、仕方がないと思っておる。」

曹操は審配を許したいと考えましたが、審配は最後まで強気に振る舞う事になります。

曹操は審配を配下に加える事を断念し処刑しました。

審配は処刑される時に、北の方を向き「我が主君は北におられる」と述べ、最後を迎えています。

曹操は袁尚の本拠地だった鄴を手に入れ、曹操は鄴を本拠地としました。

戦国七雄が争った時代に、魏の名臣である西門豹が鄴で善政を行った話があります。

曹操は西門豹を尊敬していた話があり、曹操にとってみれば鄴を手に入れた事は、感慨深かったのではないかと思います。

袁紹の墓参り

曹操は鄴を取ると、袁紹の墓参りをした話があります。

正史三国志によると、曹操は袁紹の墓に赴いて祭り、哭して涙を流したとあります。

曹操が袁紹の墓参りをし、どの様な気持ちで涙を流したのかは分かりません。

この時に、袁紹の妻の劉氏も捕らえられますが、劉氏を労わり、下僕と宝物を返上したとあります。

劉氏は大事に扱われたようで、絹や綿を授け、扶持米を与えた話しもあります。

尚、鄴の戦いが終わった後に、袁紹の次男で袁煕の妻である甄姫(甄氏)も捕虜とし、曹丕が甄姫を妻として迎えた話しもあります。

因みに、曹操の孫で魏の明帝となる曹叡は甄姫の子であり、袁煕の子ではないか?とする説も存在します。

ただし、始皇帝呂不韋の話の様に真実は分からない部分でもあり、世間の噂話なのかも知れません。

袁譚の最後

曹操が鄴を包囲し、審配や袁尚と戦っている隙に、袁譚は袁尚領を攻撃しています。

袁譚は甘陵、安平、渤海、河間の地を奪取しました。

袁譚は袁尚に取られた土地を取り返す事に成功します。

曹操は袁譚を放置すれば、後の禍になると判断し、袁譚への攻撃を決断します。

曹操は袁譚の本拠地である南皮を攻撃しますが、袁譚は激しく抵抗しました。

魏書によれば、曹操の軍と袁譚の軍は明け方から、真昼まで戦ったが決着が付かなかったともあります。

曹操は自ら太鼓やばちを手に取り、兵士を鼓舞した事で、曹操軍は奮い立ちます。

袁譚との南皮での戦いは、曹純や楽進の活躍もあり袁譚を討ち取る事に成功しました。

袁譚を討ち取ったのは、曹操軍の最精鋭部隊を率いる虎豹騎だったと伝わっています。

虎豹騎を指揮していたのが、曹純です。

袁譚を討ち取った事で、曹操は冀州全域を領土に加えています。

曹操の領土は大きく広がったと言えるでしょう。

冀州を治める

曹操は冀州を取ると次の様に述べています。

曹操「袁氏の悪事に加担した者も、一緒に新しい時代に出発しよう。」

曹操は人民に布告し、個人的な復讐を許さず、贅沢な葬儀も禁止したとあります。

曹操は法律を統一させ、冀州を治めた話があります。

袁譚の死を以って、曹操の冀州征伐は完成した事になるでしょう。

この時点で天下第一の勢力は曹操となっていたはずです。

尚、袁尚は北に逃亡し、袁煕と合流しました。

しかし、幽州の豪族の反感を買い、袁煕と袁尚は烏桓まで逃亡しています。

各地で反乱が勃発

曹操は鄴を攻略した時に、高幹は降伏し曹操から并州刺史に任命されていました。

しかし、高幹は曹操が烏桓討伐征伐に向かった事を知ると、反旗を翻したわけです。

この時期に壺関の戦いがあり、楽進や李典が奮戦しています。

曹操は烏桓討伐から一転して、高幹征伐に向かいます。

高幹は曹操が来る事を知ると、配下の将軍に壺関の守備を任せ、匈奴の逃亡しました。

しかし、匈奴の単于は高幹の受け入れを拒否し、高幹は荊州に逃亡します。

曹操は三カ月で壺関を陥落させ、高幹は王琰に捕らえられ斬られています。

曹操は東に進み、曹操は青州の海賊である管承を討伐しました。

昌豨も反旗を翻しますが、于禁、臧覇、夏侯淵らが撃破しています。

この時期に黒山賊の張燕が曹操に帰順し、列侯に封じられた話がありますが、曹操は休む間もなく戦いの連続だったと言えるでしょう。

反乱の平定が片付くと、烏桓討伐に戻ります。

烏桓討伐

曹操は烏桓討伐を実行しています。

これにより曹操は北方を平定しました。

郭嘉の進言

袁煕と袁尚が烏桓に逃げた事で、郭嘉は北方の烏桓賊を討伐する様に進言します。

南方の荊州には劉表がいましたが、劉表は後方を脅かす事はないと、郭嘉は予想したわけです。

烏桓賊の蹋頓(とうとん)は、袁家と協力して戦った事があり、袁煕を袁紹を匿っています。

曹操は袁紹と袁煕だけではなく、烏桓も平定し北方を安定させようとしました。

曹操は郭嘉、張遼、徐晃張郃、曹純など名だたる部下を連れて出陣したわけです。

さらに、兵站は董昭に任せた話があります。

この時に曹操は補給用の運河まで完成させ、万全の体制を作り烏桓討伐を行っています。

曹操の烏桓征伐で道案内をしたのが田疇です。

先を急ぐ

曹操は烏桓の本拠地である柳城に向けて進軍を始めます。

烏桓は異民族ではありますが、10万の兵を擁していた話しもあり、手ごわい相手だったわけです。

さらに、道は険しく、北方の寒さなどもあったはずですが、郭嘉が曹操に次の様に述べた話があります。

郭嘉「軍の移動が遅すぎます。補給隊は残して騎兵数万だけを連れて先を急ぐべきです。」

曹操は郭嘉の進言に従い、最低限の兵糧だけを持ち前に進む事になります。

この時の曹操軍の行軍は熾烈を極めたとする話もあります。

道なき道を行く状態だったとも伝わっている程です。

白狼の戦い

郭嘉の進言により曹操は強行軍で移動しており、烏桓族は戦う準備が出来ていませんでした。

不意を衝かれた烏桓は慌てて準備をし、白狼山で曹操軍と激突します。

これが西暦207年に起きた、白狼山の戦いです。

曹操軍は疲労が濃く、烏桓族は準備が出来ていない状態での戦いでした。

しかし、先陣の張遼と張郃が奮戦し、烏桓を撃破しています。

この戦いで曹純が烏桓の首領である蹋頓を捕虜にするなど、大戦果を挙げています。

蹋頓は斬首されました。

袁氏の滅亡

蹋頓が敗れると、袁煕と袁尚は遼東の公孫康の元に逃げています。

遼東の公孫氏は董卓の時代に公孫度が遼東太守に任命され、公孫康が後継者となり勢力を維持していました。

公孫康は曹操が遼東まで迫っている事を知ると、臣従を決意します。

公孫康は逃げて来た袁煕と袁尚を斬首し、曹操に首を届けて来たわけです。

後漢王朝で最大の名門である汝南袁氏は、ここにおいて滅亡しました。

汝南袁氏は袁術と袁紹で分裂し、袁紹の死後に後継者を決めなかった事で、袁譚と袁尚が争い滅亡したとも言えます。

団結するべき時に、団結する事が出来ず袁氏は滅亡したとも言えるでしょう。

公孫康の帰順と袁氏の遺児が亡くなった事で、曹操は北方を平定しました。

郭嘉の死

曹操は北方を平定し鄴に帰る事にしました。

行きの道中も大変でしたが、帰りの道中もかなり大変だったようで、疫病が蔓延してしまいます。

曹操の軍師である郭嘉も体が弱く病気がちだった事で、病に倒れてしまいました。

郭嘉は回復する事も無く、この世を去っています。

曹操は呉との赤壁の戦いで破れていますが「郭嘉が生きていれば、負けなかった。」と述べた話があります。

曹操は郭嘉に絶対的な信頼を寄せており、郭嘉の死は衝撃的だったはずです。

尚、郭嘉は性格に問題があったようですが、曹操と最も気が合ったのは郭嘉だったのかも知れません。

丞相に就任

曹操は北方の平定が終わると、三公を廃止して自らが丞相に就任しています。

丞相は三公の権限を全て持ち、自分に権限を集中させたわけです。

副丞相とも言える御史大夫には、名士の郗慮(ちりょ)を任命しました。

ただし、郗慮は曹操軍の№2になったはずですが、何をしたのかもよく分からない状態です。

曹操は論功行賞も行い荀彧荀攸、鍾繇、夏侯惇など活躍した将相たちの功労に報いる事になります。

後漢に献帝はいましたが、既に傀儡であり、曹操が天下の大半を運営していたとも言えるでしょう。

曹操が残す敵は、荊州の劉表、揚州の孫権、益州の劉章くらいになっていました。

この時に曹操は中原の地を抑え自分の手で、天下統一が出来ると思ったのかも知れません。

孔融を処刑

曹操は南方に出陣する前に、孔融を処刑しています。

孔融は儒教の祖とも言える、孔子の末裔と呼ばれ、影響力が強かった人物です。

孔融は名声が高く厄介な人物であり頑固者で、曹操と何度も意見衝突を起こしていました。

曹操は名士の代表格でもある、孔融を西暦208年に処刑しています。

孔融が処刑された理由に関しては、孫権の使者に対して、曹操を誹謗中傷する言動があったからだとされています。

西暦208年頃から荀彧の記述が極端に減る事もあり、名士層と曹操の対立が始まっていたのではないか?とする説もあります。

余談ですが、孔融は奇人とも言える禰衡を曹操に推薦した事があります。

曹操は禰衡を理由を付けて劉表に送り込み、劉表も手が負えず、最後は短気で有名な黄祖により、禰衡は命を落としています。

荊州を取る

北方を制圧した曹操は荊州の平定に動きます。

劉琮の降伏

曹操は西暦208年の7月には劉表征伐に向かいます。

この時に趙儼を都督護軍に任命し、張遼、楽進、于禁朱霊、李典、曹純らを率いて南下を始めました。

しかし、8月には劉表が病没して、劉琮が後継者となります。

劉琮は戦う意思があったとされていますが、新曹操派である蒯越、蔡瑁王粲らが劉琮を説得し降伏させています。

曹操は趙儼らと共に、襄陽に向かいますが、劉琮配下の文聘は城を明渡そうとしませんでした。

曹操は文聘の城を無視し通り過ぎますが、文聘は劉琮が正式に降伏した時点で城を明渡しています。

三国志には徐栄や高順など目立たないが、優れた武将がおり、文聘も隠れた名将の一人だと言えます。

文聘は後に関羽らとの戦いで本領を発揮しています。

ここで曹操は荊州の人材を重用し、重職に付けた話があります。

劉琮も青州刺史に任じ厚遇しました。

尚、曹操は蒯越が配下となるや、次の言葉を述べています。

曹操「荊州を得た事よりも、蒯越を得た事の方が嬉しい。」

人材コレクターと呼ばれる事になる、曹操らしい発言だと言えるでしょう。

因みに、曹操が荊州の人材を優遇したのは、揚州を支配する孫権勢力の降伏派を盛んにさせる為の施策だとも考えられています。

しかし、劉表から新野を任せられていた劉備は、曹操に屈する事はありませんでした。

長坂の戦い

劉備は南下し物資が豊富にある江陵を抑えようとしました。

この時に、劉備を慕う民衆10万が後に続く事になります。

曹操は劉備の人を惹きつける力を理解しており、劉備を危険人物だと考えていたはずです。

曹操は劉備を逃す訳には行かないと考え、襄陽から南下し徹底的に追撃を行い、長坂で追いつく事になります。

この時に先陣として追撃したのが曹純や文聘となります。

長坂の戦いは、趙雲甘夫人劉禅を保護したり、張飛が長坂橋仁王立ちをするなど、劉備軍の見せ場は多いです。

しかし、結果を見れば、徐庶が曹操に降伏するなど、曹操軍の圧勝でした。

劉備はまたもや妻子を置き去りとし、逃亡したわけです。

劉備は江陵を抑えるのは不可能と判断し、関羽の水軍を使い、夏口にいる劉表の長男である劉琦と合流しました。

劉備と孫権の同盟

揚州では孫策が200年に亡くなると、弟の孫権が後継者になっていました。

曹操が南下した時に、孫権は魯粛に命じて、荊州の視察を行わせています。

曹操から逃げる劉備と魯粛が出会い、孫権と劉備は同盟を結び、曹操に対抗する事になったわけです。

劉備を荊州から駆逐した事で、曹操は荊州のほぼ全てを制圧したと言えるでしょう。

荊州四英傑と呼ばれる金旋趙範韓玄劉度らは、曹操が任命した太守の可能性もあるでしょう。

この時に、益州にいた劉璋は曹操に対し、兵を提供し臣従する意思を見せており、天下統一目前ともいえる状態でした。

しかし、天は曹操の天下統一を許さなかったわけです。

赤壁の戦い

赤壁の戦いで曹操は破れ、天下統一の夢を打ち破られる事になります。

呉が徹底抗戦を選択

曹操は荊州の名士を優遇した事で、呉の陣営は降伏論が盛んでした。

張昭を筆頭に曹操への降伏を主張したわけです。

張昭らは曹操が後漢王朝の丞相でもあり、降伏するべきだと孫権の説きます。

しかし、魯粛や周瑜が徹底抗戦を説き、劉備陣営の諸葛亮も使者となり徹底抗戦を主張しました。

これにより孫権は周瑜と程普を左右の都督に任じ、曹操と雌雄を決するべく戦いに挑む事になります。

曹操の敗北

赤壁の戦いで曹操は自分が率いる本軍と、趙儼の二軍に分けて戦いを挑んだとされています。

赤壁の戦いは謎が多く、様々な説があり分かっている事は少ないです。

一般的には黄蓋が偽りの降伏から火計を行い、呉軍が勝利を得たとしています。

別の記録では曹操陣営で疫病が流行し、軍を維持する事が出来なくなり、曹操が撤退した話もあります。

他にも、寄生虫が発生したり、船の数が少なくて長江を渡る事が出来なかったなどの説もあります。

三国志演義の様に龐統連環の計を行うなどの記録も、正史三国志にはありません。

一つだけ分けっている事があるとすれば、曹操は呉の孫権を降す事が出来ずに、何らかの理由で敗北したと言う事です。

曹操軍で名のある大将で戦死者がいない事を考えると、夷陵の戦いで劉備が敗れた時ほどは、損害は出なかったのでしょう。

ただし、赤壁の戦いで敗れた事で、曹操は天下統一の野望を潰えたと言えます。

尚、曹操は荊州の防衛に曹仁徐晃、満寵らを残しますが、結局は敗れて江陵を失っています。

荊州の南部も劉備が金旋、劉度、趙範、韓玄を駆逐し制圧しました。

それでも、曹操は襄陽など荊州の北部は保持する事になります。

この時に、劉備軍は孫権から借用という形で、荊州を領有しています。

第一次合肥の戦い

赤壁の戦いの直後に、孫権張昭と共に合肥を攻撃しています。

これが第一次合肥の戦いです。

過去に合肥の城は空城でしたが、曹操が任命した揚州刺史の劉馥が善政を行い強固な城になっていました。

劉馥は合肥が要地になると判断し、城を整備したと考えられています。

第一次合肥の戦いの時には、合肥は重要拠点となっていたわけです。

208年の合肥の戦いでは、蒋済が城をよく守り、曹操も自ら援軍に駆け付けています。

曹操は張遼に呉軍と戦わせていますが、大規模な戦闘が発生する事も無く、合肥の戦いは終了しました。

尚、合肥の戦いは魏と呉の間で何度も繰り返され、合肥新城での戦いも含めれば5度も行われています。

西暦253年の合肥の戦いでは魏の張特が呉の諸葛恪の軍を退けて勝利しています。

呉は最後まで合肥を抜く事が出来ませんでした。

潼関の戦い

西暦211年に曹操は、馬超や韓遂を中心とする涼州連合との間で、潼関の戦いが勃発しています。

涼州勢が反旗を翻す

曹操は涼州刺史の韋康により、漢中の張魯討伐を決断します。

この時に曹操は夏侯淵を長安に移動させるなど、動きを活発化させています。

長安にいた鍾繇は長安に大軍が終結すれば、漢中の馬超や韓遂らが反旗を翻すと考えます。

鍾繇の不安は的中し、関中の軍閥らは、張魯討伐は名目であり、自分らが討伐されると考えて、蜂起したわけです。

馬超の父親である馬騰は朝廷に入っていましたが、馬超は父親を捨てて韓遂と組み、曹操に反旗を翻しました。

馬超や韓遂を中心に涼州の侯選、程銀、李堪、張横、梁興、馬玩、楊秋らは、曹操と戦う事になります。

涼州連合は10万ほどの軍勢に膨れ上がったとされています。

事態を重く見た曹操は、曹仁を潼関に向かわせ守備を行わさせ、自らも軍を率いて出陣しました。

涼州軍に苦戦

馬超や韓遂を中心とした涼州勢と曹操は戦いますが、涼州勢に押されまくります。

曹操自身が討ち取られそうになりますが、丁斐が馬を戦場に放った事で、涼州勢は馬に気を取れられ、曹操は無事に避難しました。

初戦から曹操にとってみれば、試練が訪れたわけです。

この時に曹操は自ら殿になった話もありますが、曹操も許褚(きょちょ)に守られ何とか撤退しています。

涼州勢の強さは、曹操の予想を遥かに超えていたのでしょう。

氷城の計

曹操は馬超ら涼州連合を攻めあぐねますが、ここで配下の婁圭(ろうけい)が策を出します。

婁圭によれば、砂を集めて城壁を作り、一晩中水をかけ続ければ、氷の城が出来ると言います。

つまり、婁圭は「渭水を渡り敵の襲撃が来る前に、氷の城を作ってしまえいばいい。」と進言したわけです。

婁圭の氷城の計を曹操は実行し、渭水の馬超陣営側に氷の城を作る事に成功しました。

これにより形成は逆転し、曹操が有利となります。

尚、婁圭の氷城の計は季節的に不可能で創作だと、裴松之は否定しています。

しかし、現在では気候の研究が進み、三国志の時代は寒冷化が進んでおり、氷城の計は可能だったのではないか?とも考えられています。

寒い地域で砂に水を撒き、本当に城が一日で出来るのかは、やってみないと分からない部分もあると感じています。

馬超らは和睦を願う

馬超や韓遂は戦意を失い、曹操に人質を差し出し和睦を求めます。

しかし、曹操は既に馬超の父親である馬騰は朝廷に出仕する名目で、鄴で人質になっている様な状態でした。

韓遂も既に人質を差し出しており、涼州の軍閥にとって人質は意味を成さない事を、曹操は知っていたわけです。

曹操は馬超らと和議を結ぶ気はなく、戦いで撃破しようと考えます。

離間の計

曹操の参謀である賈詡が離間の計を進言します。

馬超と韓遂の仲を決裂させた上で、涼州連合に攻撃を仕掛ける様に進言したわけです。

曹操は韓遂と会談を行い、親しげに喋った事で、馬超は韓遂が曹操に内通したと考えます。

馬超と韓遂は元々は争っていた事もあり、共闘するには信頼が足りませんでした。

曹操は突如として、涼州軍を襲撃しますが、お互いを疑い合っていた涼州軍は連携も取れずに、曹操に大敗しています。

これにより曹操は、潼関の戦いでの勝利が決まります。

馬騰が殺害された理由

三國志演義だと曹操が馬騰を殺害した事で、馬超は曹操を恨み復讐の鬼と化しています。

しかし、正史三国志では馬超が反旗を翻した事で、曹操は馬騰を処刑しました。

三國志演義では曹操が悪人として描かれている為、馬騰を先に処刑していますが、史実では真逆です。

尚、潼関の戦いで敗れた馬超は涼州に逃亡し反旗を翻し、涼州刺史の韋康を殺害します。

韋康の部下であった趙昂や楊阜、王異らが馬超を倒す策を練り、最後は馬超を涼州から追い出す事に成功しました。

因みに、王異は女傑と呼ばれていて、実際に手に弓を取り戦った人物でもあります。

馬超は張魯の元に逃亡しますが、結局はいられなくなり、一族の馬岱など僅かな者を連れ、最後は劉備に帰順しました。

荀彧の死と魏公に就任

曹操は政治工作を行い、魏公に就任する事になります。

その過程で荀彧と対立し、荀彧は最後を迎えます。

曹操の政治工作

西暦212年頃になると、曹操は董昭に政治工作を行い魏公になれる様に取り計らっています。

曹操は後漢の丞相という立場でしたが、魏公へと位を進めようとしたわけです。

魏公となれば、公国が誕生するわけであり、魏が建国される事にもなります。

曹操が魏公になる事を賛成したメンバーとして、下記の名が挙がっています。

下記の表を見ると分かりますが、三國志演義では荀攸は曹操の魏公就任には反対の立場を取っていますが、正史三国志では荀攸は曹操の魏公就任に賛成の立場を取りました。

荀攸鍾繇涼茂毛玠劉勲劉若
夏侯惇王忠劉展鮮于輔程昱賈詡
董昭薛洪董蒙王粲傅巽王選
袁渙王朗張承任藩杜襲曹洪
韓浩曹仁王図万潜謝奐袁覇

荀彧が反発

曹操が魏公へ就任する事を宣言すると、荀彧が反発しました。

荀彧は名士であり、儒教の思想に基づいて国を治めるべきだと考えていた話があります。

それに対して、曹操は能力主義を掲げており、思想の観点からも対立があったようです。

ただし、荀彧が曹操に対して強く反発した理由は、分からない部分も多いと言えます。

しかし、西暦212年頃になると、曹操と荀彧の仲は冷え切っていた事は間違いないでしょう。

荀彧の死

西暦212年に曹操は孫権を征伐すると言い、荀彧にも従軍命令を出します。

荀彧は官渡の戦いや兗州争奪戦でも分かる様に、本拠地を守る役割が多かったわけです。

曹操は合肥の手前にある譙(地名)に駐屯しました。

曹操は荀彧を呼び寄せますが、荀彧は寿春で自害しています。

有名どころの話だと曹操は空の器を荀彧に送り「用済み」だとした話もあります。

空箱の話は創作とする説もありますし、真意は不明です。

しかし、荀彧が自害した事だけは確かなのでしょう。

初期の頃から曹操の覇道を支え、絶大な功績があった荀彧の死を曹操がどの様に思ったのかは定かではありません。

第一次濡須口の戦い

曹操と孫権は西暦212年から213年に、濡須口で戦っています。

これが第一次濡須口の戦いです。

孫権は孫瑜に諫められますが、自ら出陣しました。

ただし、大規模な戦いは無かったする話もあります。

曹操も短期間で兵を引いており、引き分けとも取れる内容だったのでしょう。

魏公に就任

曹操は国に戻ると、魏公に就任し魏国が誕生しました。

曹操は公国の主となったわけです。

荀彧の死から濡須口の戦いまでの流れは、曹操が魏公に就任する事と関係しているとも考えられています。

曹操が魏公になるのに、荀彧が障害だった可能性も指摘されています。

尚、曹操が魏公になった事で、最終的に皇帝になる為の、道筋が出来たと考える人もいます。

曹操は様々な革新的な政策を行っており、漢の儒教に縛られない理想の国を造りたかったのかも知れません。

漢中制圧

西暦215年になると、曹操は漢中の張魯討伐の軍を起こしています。

陽平関の戦いが起こり、幸運も重なり曹操は漢中を奪取しました。

夏侯淵の快進撃

この頃になると、劉備は劉璋から益州を奪い、蜀の主となっていました。

曹操が張魯討伐の軍を起こすと、張魯は降伏しようと考えますが、弟の張衛が決戦を主張します。

張衛は兵を率いて陽平関で、曹操を迎え撃つ事にしました。

この時に曹操は戦法隊として夏侯淵を総大将に徐晃張郃らを派遣しています。

夏侯淵らは羌族、氐族(ていぞく)ら異民族を大いに破り、漢中までの進路を確保しました。

この頃に麹演、蒋石らが韓遂の首を斬り、曹操に届けた話があります。

涼州に割拠し、しぶとく生き残っていた韓遂も遂に命を落としました。

陽平関の戦い

曹操も陽平関に到着し、陽平関の戦いが勃発します。

陽平関を超えれば、漢中の地です。

先にも述べた様に、陽平関を守るのは、張魯の弟である張衛でした。

陽平関は守りに適していないとする、情報を曹操はキャッチしていましたが、実際の陽平関は非常に強固な関門だったわけです。

曹操は陽平関を抜くのは難しいと判断し、夏侯惇、許褚、劉曄らに命じ撤退の準備に入りました。

この時に、鹿の大軍が偶然にも、張衛の軍に突っ込み始めたわけです。

張衛の軍は鹿の大軍を曹操の奇襲と間違え大混乱を起こしました。

軍師の劉曄は「今なら勝てる」と判断し、曹操に張衛の軍に突撃を掛ける様に進言します。

曹操は夏侯惇らと協力し、陽平関を攻撃し張衛を撃破しています。

難攻の要塞である陽平関も陥落しました。

張魯の降伏

張魯は降伏を決意しますが、参謀の閻圃が次の様に進言します。

閻圃「戦わずに降伏すれば敵に軽く見られます。

一戦した上で降伏した方がよいでしょう。」

張魯は閻圃の進言を採用し、巴中に逃亡しました。

この時に張魯の部下で宝物を焼いた上で、巴中に逃げる様に進言した者もいましたが、張魯は「財宝は国家の物」といい許しませんでした。

曹操は張魯の財宝を無傷で手に入れたわけですが、張魯の態度に感心した事でしょう。

曹操は使者を巴中に派遣し、降伏を呼び掛けると、張魯と閻圃は曹操に降伏しました。

五斗米道の宗教勢力である張魯が降伏した事で、漢中も曹操の領地となったわけです。

曹操は張魯や閻圃の実力を認めており、優遇した話が残っています。

余談ですが、劉備は黄権を使者として、張魯の元に派遣していますが、黄権が張魯の元に到達する前に、張魯は降伏していた話しもあります。

隴を得て蜀を望む

漢中を取った曹操ですが、司馬懿と劉曄は続けて蜀の地を攻撃する様に進言しています。

しかし、曹操は「隴を得て蜀を望む」と言い、蜀への遠征は行いませんでした。

隴を得て蜀を望むの言葉は、光武帝の言葉であり、詩人でもある曹操は光武帝の故事に従ったのでしょう。

尚、三国志の研究者の中には、この時に曹操が蜀に攻撃を仕掛けていれば、劉備を倒す事が出来たと考える人もいます。

ただし、曹操が蜀を攻めなかったのは、この時期に孫権が合肥を攻撃した事が原因とも考えられています。

合肥の戦いは張遼、楽進、李典が良く守り、孫権は命からがら逃げています。

魏王となる

曹操は西暦216年に魏王になった話があります。

魏公から魏王にステップアップしたわけです。

遡りますが、215年に献帝の皇后である伏皇后は曹操の排除を画策していました。

しかし、事が露見し伏皇后は幽閉され亡くなっています。

曹操は自分の娘である曹節を献帝の皇后としました。

この一連の出来事も曹操が魏王になったのと関係している様に思います。

尚、曹操は殷の紂王の臣下で天下の三分の二を持つ勢力になりながら、殷の臣下でいた周の文王を見習い、最後まで皇帝になる事はありませんでした。

最後まで皇帝にならなかったのは、世間の声を気にしたのかも知れませんが、曹操の美学に一つだったのかも知れません。

因みに、曹操が魏王になると、南匈奴の呼廚泉と烏桓族が来朝した話もあります。

曹操の後継者問題

曹操は後継者問題で悩む事になります。

最終的に曹丕を後継者としています。

曹操の後継者候補

曹操の後継者となりうる人物は曹丕、曹彰、曹植の3人がいました。

曹操の子の中で最も賢かったのは、曹沖であり、曹操は曹沖を後継者にしたかった話もありますが、早世しています。

曹彰は武勇に優れ田豫と共に、烏桓征伐で活躍しましたが、武勇一辺倒であり早い時期から後継者候補から外れた様です。

こうなると、曹丕と曹植となるわけですが、曹操は悩む事になります。

曹丕派と曹植派の形成

曹操が後継者を曹丕にしようか、曹植にしようか悩むと、臣下たちは派閥を形成していきます。

曹丕派には賈詡、陳羣、毛玠、崔琰などが属しました。

司馬懿も曹丕と仲が良かった話もあり、曹丕派だったとも考えられます。

曹植派には楊修や丁儀、丁廙の兄弟らがいたわけです。

三國志演義などでは曹丕と曹植の争いもありますが、実際には曹丕と曹植は、それほど仲が悪くなかった説もあります。

そもそも曹植にどれだけの野心があったのかも不明ですし、曹操の死後を見ると、曹彰の方が野心的にも見えます。

儒教と文学

普通に考えれば、長男の曹丕を後継者にすればよいと考える人が大半だと思います。

劉表も長子の劉琦を立てずに弟の劉琮を立て混乱し、袁紹も長子の袁譚を立てずに、袁尚を擁立した事で袁家も分裂しました。

これらの例を考えれば、曹丕を後継者にしておけば間違いなしと思うかも知れません。

しかし、曹操には丁廙に向かい、次の発言をした話が残っています。

曹操「曹植を後継者にしたいと思うが、どうであろうか。」

この言葉を見るに、曹操が後継者問題で悩んでいた事は間違いないでしょう。

曹丕派には賈詡の様な人物もいますが、儒教を重んじる名士が多かったとされています。

儒教の考えに従えば、曹丕の後継者は絶対だと言えます。

しかし、曹操は儒家の考えに疑問を持ち、新たな思想で国づくりを目指していた説もあるわけです。

それが文学です。

曹植も文学に優れていましたし、曹植派には文学者が多くいました。

これが曹操が後継者問題で悩ませた原因でしょう。

曹操は文学の力を増やし、名士や儒家の思想を抑制したかったわけです。

しかし、曹丕を後継者にすれば、儒家の台頭を許す事になり危惧します。

曹丕を後継者に選ぶ

曹丕派と曹植派はお互いを讒言しあい、最終的には曹丕派の毛玠、崔琰、曹植派の丁儀、丁廙らが命を落としています。

後継者争いは、孫権の二宮の変が有名ですが、曹操の後継者問題も似た様な事態となります。

一般的には、曹操は賈詡に助言を求め、賈詡は何も答えず、曹操が答えない理由を聞くと、賈詡は次の様に述べたとされています。

賈詡「袁紹と劉表の親子の事を考えていまして。」

賈詡は末子を後継者にして内紛を引き起こした、袁紹と劉表を引き合いに出し、暗に長男が継ぐべきと伝えたわけです。

曹操は最終的に曹丕を後継者に指名しました。

ただし、名士層が強く曹丕を推した事で、曹操は曹丕を後継者にしない訳にはいかなくなったとする説もあります。

しかし、曹操の後継者は曹丕と決まり、後継者問題も決着しました。

尚、曹丕の後継者で魏の2代皇帝となる曹叡の事を曹操は非常に可愛がっていた話があります。

濡須口の戦い

曹操は自ら大軍を率いて、孫権を攻める決断をしました。

西暦216年頃に濡須口の戦いが起きていますが、謎も多い戦いでもあります。

因みに、濡須口の戦いが曹操と孫権の最後の戦いとなります。

呉に侵攻

曹操は赤壁の戦い以上の20万の兵を集めて、呉に侵攻した話があります。

この時に、曹操は陳琳に檄文を書かせ、呉にバラまき反乱を誘発させています。

陳琳の工作により、陸遜、徐盛、賀斉らが呉国内の反乱の鎮圧に回り、濡須口には参陣できなくなります。

曹操は自ら総大将となり夏侯惇、曹仁、臧覇、張遼、孫観らを率いて南下します。

さらに、参謀として荀攸、華歆なども連れており、曹操は本気で呉軍を叩き潰すつもりだったのでしょう。

孫権も自ら総大将となり、呂蒙蒋欽甘寧、朱然、淩統らを引き連れて総力戦を挑みます。

ここにおいて、曹操と孫権の最後の戦いとなる濡須口の戦いが幕を開けます。

疫病に悩まされる

曹操軍は南下しますが、赤壁の戦いと同様に疫病に悩まされる事になります。

疫病により曹操の軍師として大活躍してきた荀攸が亡くなった話もあります。

さらに、司馬朗も薬を兵士に与えるのを優先させ、自らが疫病に掛かり命を落とした話もあるわけです。

ただし、荀攸の死は異説があり、どのタイミングで亡くなったのかは不明な部分もあります。

荀攸は曹操の魏王就任にも賛成の立場をとっていた話しもあり、曹操にとってみれば痛い人物を失ったと言えるでしょう。

呂蒙の先制攻撃

曹操軍の先陣は張遼や臧覇でしたが、準備が整う前に呂蒙が攻撃しています。

呂蒙は張遼、臧覇の軍を破る事に成功しました。

張遼は呉では恐れられた武将であり、呂蒙は見事に出鼻を挫く事に成功したと言えるでしょう。

張遼や臧覇は後退しますが、曹操の本軍が濡須口に到着しました。

孫権も呉の自慢の大船団を率いて、戦場に到着したわけです。

甘寧の決死隊

兵力的に考えれば曹操が孫権を圧倒しており、呉は不利な状態でした。

こうした中で、孫権軍の将である甘寧が100人の兵士を率いて、決死の夜襲を仕掛けたわけです。

この戦いで、曹操軍の大将が討たれるなどはありませんでしたが、甘寧がほぼ無傷で生還した事で、呉は大いに士気を上げます。

横江を攻撃

この頃になると、徐盛が国内の反乱を片付け、横江に駐屯していました。

曹操は兵を割き、横江にいた徐盛の軍に攻撃を仕掛けています。

兵力は曹操軍が圧倒的に多かったわけですが、船上での戦いは呉が有利であり、曹操軍は破れています。

兵数では曹操軍が圧倒していても、海軍力では孫権軍に分があったとも言えるでしょう。

曹操は大軍を擁しながらも、呉軍を崩せない状況が続きます。

暴風に救われる

曹操は大軍を擁しながらも、呉軍を崩す事が出来ない状態が続きます。

しかし、この時に暴風が吹き荒れ、孫権軍は多くの船を失う事になります。

暴風により呉の董襲の船が転覆し、董襲が亡くなるなどの事態にも陥っています。

暴風は曹操にとって、非常に幸運だったと言えるでしょう。

孫権の降伏

多くの船を失った事で、孫権は曹操に対し臣従すると申し出た話があります。

西暦217年には濡須口の戦いは終わり、曹操は何とか勝利を収めました。

しかし、呉は完全に曹操に屈したわけではなく、独自に勢力を保っています。

つまり、名前だけの降伏だったわけです。

尚、曹操は孫権を見て「孫仲謀(孫権)の様な子が欲しい。」と述べた話もあります。

孫権の父親である孫堅が曹操と同時代の人物にあたり、自分の子ほどの年齢であった孫権の采配を見て、曹操は思う部分があったのでしょう。

漢中を劉備に奪われる

曹操は定軍山の戦いで、夏侯淵が劉備に敗れた事で、漢中を喪失しています。

勢いに乗る劉備

劉備は曹操が孫権と対峙している最中である西暦216年に漢中に侵攻しています。

この時に、曹操は孫権と対峙しており、直ぐに漢中に向かう事が出来ませんでした。

龐統は入蜀時に戦死しましたが、劉備は人材においては最盛期だったわけです。

諸葛亮が内政を固め、法正、黄権など軍事に明るい武将がおり、関羽に荊州を守らせていました。

さらに、張飛、趙雲、馬超、黄忠李厳魏延など人材が揃っていたと言えるでしょう。

こうした中で、劉備は夏侯淵が守る漢中に侵攻しています。

一進一退の攻防

劉備は自ら総大将として漢中に侵攻し、法正、黄権、張飛、馬超などを引き連れていたわけです。

この時の劉備軍は10万を超える大軍だったとも伝わっています。

劉備は張飛、馬超、呉蘭、雷銅らを武都に派遣しています。

夏侯淵は漢中におり、武都の救援に行く事が出来ず、曹操は曹洪、曹休、曹真らを武都の援軍に差し向けました。

武都の戦いでは、曹休、曹洪らは呉蘭と雷銅を撃破しています。

しかし、張飛の武名を警戒したのか、漢中へは進む事が出来ていません。

劉備の本隊は漢中の要所である陽平関に兵を進めますが、陽平関は堅固な要塞であり落とす事が出来ませんでした。

劉備は陳式を別動隊とし陽平関の裏に回り込ませようとしますが、夏侯淵は徐晃に陳式の対応を任せています。

一進一退の攻防が続きますが、劉備は陽平関から兵を引く策に出ます。

劉備は定軍山まで退きますが、夏侯淵は陽平関を出て定軍山に進出してしまいました。

夏侯淵が斬られる

劉備と夏侯淵の間で、定軍山の戦いが勃発します。

劉備は火計を行い夏侯淵の軍の一部に火を点けました。

夏侯淵は自ら兵を率いて、鎮火に向かいます。

これを待っていたかの様に、劉備軍は黄忠に命令し、夏侯淵を急襲しました。

黄忠は猛将であり、夏侯淵は斬られ定軍山の戦いは、魏軍の敗北で終わっています。

定軍山の戦いで敗れた事で、曹操は漢中を失い、劉備に領地を奪われてしまいました。

曹操は夏侯淵の勇猛だが軽率な行動を戒めていた話がありますが、夏侯淵の軽率な行動により漢中を失ったとも言えるでしょう。

劉備は漢中王となり全盛期を迎える事になりました。

曹操は長安にいましたが、漢中の地は秦嶺山脈の反対にあり、守り難い地だったわけです。

それを考えると、曹操は漢中の地は放棄した方がよいと判断した可能性もあります。

尚、曹操は長安におり、劉備は魏延を漢中太守に任命して成都に帰った話があります。

樊城の戦い

曹操は劉備に漢中を奪われ荊州からは、関羽が北上してきます。

関羽の北上

江陵にいた荊州の責任者である関羽は、北上を始めています。

関羽の北上は単独で北上した説もありますし、劉備との連携だった説もあり、はっきりとしない部分があります。

関羽は曹仁や満寵が籠る樊城を包囲しました。

劉備が漢中を曹操から奪った事で、激震が走り魏では動揺します。

関羽が印綬を魏の領内でばらまいた事もあり、鄴で魏諷(ぎふう)が反乱を起こそうとした話もあります。

魏諷は謀反がバレてしまった事で、未然に防がれました。

それでも、この時期は反乱が多発し、魏の領内は不安定になったわけです。

于禁が敗れる

曹操は長安にいましたが、漢中は取られても襄陽を取られるのは、不味いと判断し洛陽に戻ります。

曹操は于禁に鄴の七軍を預けて、曹仁の救援に向かわせました。

しかし、于禁は船を持たず、大雨により敗れています。

于禁配下の龐徳が戦い抜いて斬首され、于禁が降伏した事を知ると、曹操は次の様に述べています。

曹操「儂が于禁を知ってから30年になるが、危機に対し龐徳に及ばないとは、思いもよらなかった。」

于禁は軍令に厳しく毅然とした人物で数多くの手柄を立てて来た事から、曹操にとってみれば于禁の降伏は信じられなかったのでしょう。

曹操の反撃

襄陽を取られてしまうと、洛陽や許昌が目と鼻の先となり、焦った曹操は遷都も考える様になります。

しかし、司馬懿と蒋済が遷都に反対した事で、曹操も粘る決断をしました。

曹操は呉の孫権に連絡し、関羽の背後を衝くように要請しています。

孫権と関羽は表面上は同盟を結んでいましたが、関羽が孫権との縁談を断わるなど、ギクシャクしていたわけです。

さらに、呉の都督である呂蒙は関羽を背後から襲い、荊州を奪う計画を持っていました。

関羽は傲慢な面もあり、荊州の守備を任せていた糜芳や傅士仁には、嫌われていたわけです。

こうした状況の中で、曹操は徐晃を曹仁の援軍に向かわせています。

関羽の死

徐晃は関羽と戦い打ち破る事に成功します。

徐晃が関羽を破った事で、樊城の曹仁は救われたわけです。

樊城の戦いは、魏軍の兵糧も尽きており、曹仁でなかったら守り抜く事が出来なかったと考えられています。

関羽は本拠地の江陵に帰ろうとしますが、既に呉軍が江陵を奪取していました。

関羽の本拠地を守っていた糜芳や傅士仁は、呉の虞翻の誘いもあり、呆気なく降伏しています。

関羽は帰る場所を失い麦城に関平らと籠りますが、上党の劉封孟達の救援も受ける事が出来ず、孤立してしまいます。

関羽は臨沮に逃げますが、最後は呉軍に捕まり斬首されています。

孫権は関羽の首を曹操の元に送ると、曹操は諸侯の礼を以って関羽を埋葬した話があります。

曹操の最後

曹操の最後は、関羽が亡くなってから数カ月後に訪れます。

曹操は西暦220年の3月15日に亡くなったと伝わっています。

曹操の享年は65歳でした。

曹操の死因は悪性の脳腫瘍だったとも考えられています。

曹操は自分の死を悟ると、次の様な事を述べた話が残っています。

曹操「天下は安定しておらず、古式に従うわけにはいかない。

埋葬を終われば、服喪を棄て去れ。

兵を統率し駐屯している者は、持ち場を離れてはならない。

官吏は自分の職務を行う様にせよ。

遺体は平服を着せ、金銀財宝を納めてはならない。」

曹操は遺言として、いつも通りに職務をこなし、派手な葬儀はしない様に命令したわけです。

正史三国志によれば、曹操は高陵に葬ったとあります。

曹操は数々の強敵を打ち破り、最後まで戦い抜いた不屈の人だったとも言えるでしょう。

尚、曹操は武王と諡されますが、曹丕が皇帝として即位すると武帝と諡されています。

曹操の子孫

曹操が亡くなると、息子の曹丕が後を継ぎます。

曹丕は献帝から禅譲により、皇帝に即位する事になったわけです。

西暦220年に曹丕により、漢王朝は滅亡し、魏王朝が誕生しています。

223年には夷陵の戦いで敗れた劉備が亡くなり、蜀では劉禅が後継者となりました。

226年に曹丕が亡くなると、曹叡が即位しますが、南蛮で孟獲を降した諸葛亮が何度も北伐を行います。

曹叡は諸葛亮の北伐をよく耐えきったと言えるでしょう。

西暦229年に呉の孫権が皇帝となり、魏・呉・蜀それぞれに皇帝がいる事となり、三国時代が始まります。

曹叡が239年に亡くなると、曹芳が魏の皇帝として即位しました。

曹叡は司馬懿と曹爽の二人を曹芳の後見人としますが、司馬懿が西暦249年にクーデーターを起こし魏を掌握します。

西暦249年以降は、魏は司馬懿の一族が実権を握り、司馬師、司馬昭と続きました。

曹操のライバルである劉備が建国した蜀では、劉禅が未だに実権を握っていましたが、曹操の子孫は早々と実権を失ったわけです。

西暦263年に魏では鍾会と鄧艾を派遣し蜀を討ちます。

鍾会が剣閣の戦い姜維廖化張翼、董厥らと対峙している間に、鄧艾が蜀の首都である成都を急襲し劉禅を降伏させています。

その後に、鍾会と姜維が反乱しますが、鎮圧されています。

魏の方では司馬氏の傀儡である曹髦(そうぼう)、曹奐と続きますが、西暦265年に曹奐が司馬炎に禅譲した事で、魏は滅亡しています。

曹操が建国したと言える魏は、西暦265年を取って幕を下ろしました。

尚、司馬炎は西晋を建国しますが、曹奐を陳留王としています。

司馬炎は280年に呉の孫晧を降伏させ、西晋が天下統一を成し遂げました。

曹操の子孫である曹奐は、その後も生き続け西暦302年の八王の乱の最中に亡くなっています。

曹奐が亡くなった時期に、天下は再び混乱の時期に入っていました。

この時期に曹操の様な英雄が現れなかった事で、中華は長い混乱の時代に突入したとも言えます。

曹操の逸話

曹操の逸話を解説します。

ただし、これらの逸話は真実なのか分からない部分もあります。

尚、上記は曹操の逸話を6つ選んで解説したゆっくり解説動画となっています。

スープ皿に頭を突っ込む

曹瞞伝によれば、曹操は「軽佻浮薄な人柄で威厳がなかった。」とあります。

曹操は常に芸人を側に起き楽しんだとする話もあり、人と話す時もからかい半分で話したと記録があります。

曹操は宴会で上機嫌になると、スープ皿に頭を何度も突っ込み、頭巾はベトベトになったとあります。

この話が本当なのかは分かりませんが、本当であれば曹操にはお笑い芸人の様な部分もあった事になるでしょう。

麦を荒す者は死刑

曹操は行軍の際に次の様に命令します。

「士卒は麦を荒してはならぬ。麦を荒した者は死刑に処する。」

曹操の命令を聞いた配下の者たちは、馬から降りて進んだわけです。

この時に、曹操の馬が暴れ出し、麦畑を荒してしまいました。

曹操は主簿に命じて、自分の罪を問います。

主簿は春秋では尊貴な身分の者は、刑罰を加えない事になっていると述べます。

しかし、曹操は次の様に答えています。

曹操「法を制定しておきながら自分で破ってしまっては、部下を統率する事は出来ない。

しかし、儂は軍の総帥であるから、自殺するわけにも行かない。

自分で自分に刑罰を降す事にさせて貰いたい。」

曹操は剣を取り自らの髪を切り地面に置きます。

現代の価値観であれば、『髪を切るだけか。』と思うかも知れません。

しかし、儒教の価値観では髪を切るのは、重い罰だった話もあります。

髪を切ったのは、曹操なりのけじめだったのでしょう。

昼寝の話

曹操は昼寝をする時に、寵姫に向かい次の様に述べます。

曹操「しばらくしたら起こしてくれ。」

この時に曹操はぐっすりと寝てしまい、直ぐに起きる事はしなかったわけです。

寵姫は気を利かせて、曹操を起こす事はしませんでした。

曹操は自分で目を冷ますと、寵姫を棒で殴り殺したとあります。

曹操にとってみれば、命令を忠実に実行しなかったのを罪と見たのでしょう。

責任を押し付ける

曹操が賊を討伐した時に、食料が不足してきました。

曹操は悩み担当官に意見を求めると、次の答えが返ってきます。

担当官「小さなますを使って、規定を満たせばよいでしょう。」

曹操は担当官の意見に従い、小さな升で食料を供給したわけです。

しかし、軍中で曹操が兵士を騙していると、噂が立つ事になります。

曹操は自分の評判が地に落ちると判断したのか、担当官に向かって次の様に述べました。

曹操「ここは、君の遺体を使って兵士達を鎮めたいと思う。

そうでなくては、事態が収まる事はないであろう。」

曹操は担当官を処刑し、兵士らには次の様に述べます。

曹操「小さな升を使い、おかみの穀物を盗んだので、軍門で斬り捨てた。」

酷い話に聞こえるかも知れませんが、曹操はこの様にして場を収めたのでしょう。

尚、曹瞞伝には「曹操の残酷にして、偽りに満ちた駆け引き。」と述べられています。

参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志など

スポンサーリンク

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

宮下悠史

YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細