その他 三国志 魏(三国志)

三国志の史実のあらすじを分かりやすく解説

2024年4月1日

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宮下悠史

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名前三国志
年代184年ー280年
年表184年 黄巾の乱
191年 董卓が長安に遷都
200年 官渡の戦い
208年 赤壁の戦い
219年 定軍山の戦い
220年 後漢の滅亡
222年 夷陵の戦い
234年 五丈原の戦い
249年 高平陵の変
263年 蜀の滅亡
265年 魏の滅亡
280年 呉の滅亡

三国志は西暦184年に起きた黄巾の乱から魏、呉、蜀が争い280年に呉が西晋に滅ぼされるまでを指す事が多いです。

三国志という明確な時代区分があるわけではなく、後漢末期から西晋による天下統一までを指すと考えればよいでしょう。

三国志は魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が覇を競った時代であり、日本でも非常に人気があります。

尚、三国志と似た言葉で三国時代というものも存在します。

三国時代というのは、西暦229年に孫権が皇帝となり魏の曹叡、蜀の劉禅と並びたち中華に3人の皇帝が誕生してからを指す場合が多いです。

日本では三国志演義が非常に有名であり、三国志と言えば「三国志演義」を指す場合もあります。

しかし、羅貫中が書いた三国志演義はあくまでも創作であり、史実とは言えない部分が多々混ざっています。

史実の三国志を知るのであれば陳寿が著した正史三国志を読む必要があります。

今回は三国志の史実に基づきあらすじをなるべく簡単に分かりやすく解説しました。

因みに、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムが人気ですが、キングダムの世界は三国志の前の時代となります。

三国志のあらすじを40秒で理解する動画

三国志のあらすじを40秒で理解するYouTube動画です

この動画では三国志の英雄の名前も一切出て来ませんが、40秒(動画時間は1分ほど)で大体の流れが理解できる様になっております。

ぴよぴよ速報さんが作った三国志の超あらすじ動画です。

あらすじ動画を視聴した上で、本文を読むと理解度も高まる事でしょう。

後漢王朝の衰退

後漢王朝では幼帝が続き外戚と宦官での権力闘争が多く起こりました。

後漢の桓帝の時代に外戚の梁冀が権勢を得ていましたが、滅ぼされています。

宦官が権力を握る様になると、名士達を弾圧する党錮の禁まで起きています。

後漢王朝の内部では権力争いが続きますが、当時は寒冷化もあり不作が多く人口減に見舞われるなどしていました。

遊牧民が漢人の居住区に入ってくるなどもあり、後漢王朝の政府は軍隊を派遣して追い払うなど、国家財政を圧迫していたわけです。

後漢後期の寒冷化が引き金となり、社会を混乱させ乱世である三国志の時代に突入していく事になります。

霊帝の政治

霊帝の時代になると、霊帝は財源の確保の為に売官制を行う様になります。

霊帝は悪化する国家財政を潤す為に、金で官位を売る事にしたわけです。

売官により一時的に国家財政は潤いましたが、金で官位を買ったものは「使った金銭以上の見返り」を期待するケースが多かった話があります。

売官が行われた結果として、役人は国家への忠誠心よりも自分の利益を優先させる事になったわけです。

こうした事情もあり、社会不安が広がり世の中は混乱の時代に突入する事になります。

霊帝の時代の腐敗などは三国志が始まる原因になったとも言えるでしょう。

尚、正史三国志の三国志の主役とも言える曹操の父親である曹嵩は「一億銭」で売官を行い三公の一つである大尉になった話があります。

黄巾の乱

社会不安が拡大する中で、太平道の張角が求心力を集めました。

張角は大賢良師を名乗り犯した罪を懴悔させ病を癒した事で支持を集める事になります。

張角は効果が出れば奇跡だと宣伝し、効果が無ければ信仰心が足りないとした話があり、現在の宗教と似た様な手法で信者を増やしました。

張角の元には様々な人が集まり、いつしか後漢王朝を転覆させる野心を抱く様になります。

太平道の馬元義が都の洛陽で内通者を募りますが発覚し処刑される事件がおきました。

これにより張角の危険性が後漢王朝の内部で知れ渡り、張角は予定を早めて挙兵したわけです。

これが黄巾の乱であり、三国志の幕開けともいえる事件となります。

三国志演義では劉備関羽張飛の3名が桃園の誓いにより義兄弟となり黄巾賊と戦い、曹操孫堅も登場するなど英雄たちの登場となっています。

三国志演義では黄巾の乱で劉備らは多大な功績を挙げますが、史実を見る限りでは黄巾の乱の主役は皇甫嵩朱儁盧植の三名だと言えるでしょう。

黄巾の乱の最中に張角は病死し弟の張梁、張宝も討ち取られ1年もしないうちに黄巾の乱は鎮圧されました。

霊帝崩御の混乱

黄巾の乱が終わっても張純、韓遂、張燕らが反乱を起こすなど、後漢王朝の政局は中々安定しませんでした。

こうした中で189年に霊帝が崩御する事になります。

霊帝が崩御した時に蹇碩が大将軍の何進を暗殺しようとしますが、返り討ちにされる事件も起きています。

霊帝の後継者は少帝となりますが、外戚の何進と宦官の争いになる事は目に見えており、袁紹は何進に宦官誅滅を進言しました。

しかし、何皇后は宦官らを庇い何進は実行が出来ず、袁紹は各地の軍閥を洛陽に呼び寄せて、軍隊で何皇后を威圧し宦官を制圧する様にと進言したわけです。

何進は都に軍勢を集めますが、この時に董卓丁原などの地方の軍勢が洛陽に集結しました。

危険を察知した宦官は何進を暗殺し怒った袁紹が宮中に突撃を仕掛け宦官を皆殺しにしてしまいました。

この時に袁紹らは髭の無い者は宦官とみなし皆殺しにしてしまった話があります。

こうした混乱の中で少帝が行方不明となり、少帝を保護したのが董卓であり、ここにおいて董卓政権が誕生しました。

この時期に丁原の配下であった呂布が董卓の部下となり、董卓は何進や丁原の軍を吸収し巨大化したわけです。

董卓政権

皇帝の廃位

董卓が実権を握りますが、少帝は廃し弟で陳留王となっていた劉協を皇帝にしようと企てる事になります。

劉協に難色を示したのが袁紹であり、董卓と袁紹は対立し袁紹は冀州に出奔してしまいました。

董卓は袁紹がいなくなると、少帝を廃し陳留王だった劉協を皇帝としています。

これが献帝であり、後漢王朝の最後の皇帝となります。

尚、董卓は李儒に命じて少帝弁と母親の何皇后を殺害してしまいました。

皇帝を入れ替えた事で董卓の天下が来るかに思われましたが、ここからが董卓の破滅への序曲だったわけです。

反董卓連合の結成

董卓は名士優遇策を行っており、自分の部下達よりも名士層を優遇し張邈橋瑁劉岱などの名士を太守や刺史に命じ優遇しました。

しかし、董卓自身は名士ではなく名士層の反発もあり、董卓が任命した名士達は現地に到着すると、反董卓の姿勢を見せる事になります。

臧洪張超らに反董卓連合を進言し、初期の反董卓連合が結成され、名門の袁紹曹操も加わりました。

反董卓連合の盟主が臧洪から袁紹に代わり、諸将は挙兵し董卓との対立を鮮明にしています。

江東の虎と呼ばれ畏れられた孫堅も荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨を斬り北上し、袁術と合流しました。

反董卓連合は多くの諸侯を集め董卓と戦う事になります。

尚、三国志演義では公孫瓚の配下の武将として劉備関羽張飛が参戦し汜水関の戦いや虎牢関の戦いで活躍した事になっています。

しかし、史実の歴史から三国志を見る限りでは劉備は反董卓連合に参加した様ではありますが、三国志演義ほどの活躍はありません。

史実を見れば公孫瓚も反董卓連合に参加した記録がなく、反董卓連合に参加はしなかったのでしょう。

反董卓連合に参加した諸将の一覧は下記の通りとなります。

袁紹袁術臧洪曹操張邈張超
橋瑁劉岱孔伷鮑信王匡張楊
袁遺孫堅韓馥劉表劉備

長安遷都

反董卓連合の中で戦意があったのは、曹操孫堅くらいのものであり、他の諸将は董卓と積極的に戦おうとはしませんでした。

連合軍は河内や酸棗に駐屯したままで会議や宴会を催し戦おうとはしなかったわけです。

反董卓連合の諸将が董卓と戦おうとしなかったのは、自分の地盤強化の為の足場固めを優先した結果として、董卓と戦おうとしなかったとも考えられています。

史実の三国志を見る限りでは、諸将は単に宴会に明け暮れていたわけでも無かったのではないかともされています。

こうした連合軍の諸将の姿を不甲斐なく思ったのか、曹操は鮑信と張邈が預けた僅かな軍勢で董卓に戦いを挑みました。

董卓は曹操の動きに対し徐栄を派遣し、滎陽の戦いで曹操の軍を大破しています。

この時の曹操の負け方は余りにも酷く、自らは馬を失い曹洪の馬を譲って貰い鮑信の弟も戦死するなど惨敗を喫しました。

曹操は酸棗に戻ると連合軍の諸将に奮起を促しますが、賛意を得る事が出来なかったわけです。

曹操は敗れましたが、続いて孫堅が徐栄の軍と戦う事になります。

徐栄は戦上手で知られた孫堅の軍も破りました。

しかし、孫堅は曹操と違い徐栄に敗れても軍を崩壊させる様な事はしなかったわけです。

董卓は孫堅に対し胡軫呂布をぶつけますが、董卓軍は内部分裂を引き起こしており、孫堅の軍に敗れました。

孫堅は活躍しましたが、孫堅の活躍を妬んだ袁術が、孫堅に兵糧を送らないなどの事件もあり、袁術と孫堅の仲も一枚岩とはいかなかったわけです。

董卓は戦況を考えて念を入れたのか、洛陽を放棄し長安に遷都しました。

董卓は献帝を連れて洛陽を焦土と化し、長安に入ったわけですが、ここから連合軍の諸将の間で亀裂が入る事になります。

共通の敵である董卓が長安に去った事で、諸将の対立が表面化する事になりました。

反董卓連合の劉岱橋瑁を殺害し、袁紹韓馥から冀州を奪う事になります。

董卓が長安に遷都した事で反董卓連合は瓦解しました。

董卓の死

董卓は長安に遷都しますが、自分が名士層に嫌われていた事を熟知していたのか、警戒心はかなり強かったと考えられています。

董卓は郿城を築き30年分の食料を得て、豪勢に暮らしていたとも伝わっています。

この時に董卓は孫娘でまだ成人してもいない様な董白に官位を与えるなど、董卓の一族は多いに栄えました。

董卓がいた長安付近では董卓の暴虐により苦しんだとされたとする話もありますが、実際にはかなり景気が良かったのではないかとも考えられています。

しかし、董卓の粗暴な部分は変わっておらず、呂布との関係がもつれ、董卓打倒を志していた王允は呂布と結託しました。

呂布自身も董卓の侍女と密通しており、董卓にやましい心を持っていたわけです。

王允は呂布をそそのかし、董卓を惨殺させました。

三国志で最大の悪役ともされる董卓は呆気なく命を落とす事になります。

董卓が亡くなったのは192年の4月だったと伝わっています。

尚、三国志演義では王允の養女として育てられた貂蝉なる女性が、呂布と董卓の仲を割く連環の計を実践した事になっています。

しかし、史実の三国志を見る限りでは呂布は董卓の侍女と密通していたとはありますが、貂蝉の名前は出てはきません。

貂蝉のモデルは董卓の侍女のはずですが、貂蝉は架空の人物だと言えるでしょう。

因みに、董卓政権の時代に公孫度が遼東太守となっており、これが半ば独立政権となった遼東公孫氏の始まりでもあります。

李傕・郭汜政権の誕生

董卓が亡くなると司徒の王允が実権を握る事になります。

王允は過去には郭泰から「王佐の才」があると能力を高く評価されていましたが、実権を握ると人望が厚かった蔡邕を殺害するなど独裁色を強めていきます。

蔡邕は董卓よりの名士だったとも伝わっていますが、董卓を何度も諫めていましたが名声が高く董卓でも手が出せない様な存在でした。

王允は頑固者の理想主義であり、蔡邕の董卓よりの姿勢を赦す事が出来なかったのでしょう

董卓の部下の涼州勢は陳留や潁川方面に軍を率いて出ていましたが、董卓の死を聞くと王允に帰順を申し入れました。

王允は暗殺により董卓を討っており、人望がある蔡邕を処刑するなど、人心を失い政権は不安定だったわけです。

呂布であっても王允に涼州勢を赦す様に諭しますが、理想主義の王允は涼州勢を赦す事が出来ませんでした。

李傕郭汜の上司にあたる牛輔は逃亡の末に命を落としており、李傕と郭汜は軍を解散し涼州に帰還しようと考えていました。

李傕と郭汜の軍には賈詡がおり、賈詡は「涼州に逃亡するよりも董卓の仇を討つべきだ」と主張しました。

賈詡は王允と一戦交えて敗れてから逃亡しても遅くはないと述べたわけです。

賈詡の進言を聴き入れた李傕と郭汜は長安急襲策を実行する事になります。

王允は涼州勢が長安に向かっている事を知ると徐栄胡軫に迎撃させますが、胡軫のやる気のなさもあり、涼州勢が勝利を収めました。

李傕と郭汜ら涼州勢は王允のいる長安を陥落させ、王允は命を落とし呂布は関東の地へ逃亡しています。

ここにおいて、李傕・郭汜政権が誕生しますが、李傕と郭汜の政治は董卓以下だと酷評されている状態です。

袁紹と袁術の対立

孫堅の死

関東の地では群雄割拠となり汝南袁氏の袁紹派と袁術派に分かれて戦う事になります。

袁紹派に与したのが曹操劉表で、袁術派には陶謙公孫瓚孫堅がいました。

群雄の地盤などを考えると袁術が有利だったわけです。

袁術は孫堅に命じて劉表を攻撃させ快進撃を続けますが、孫堅の個人の武勇に頼るやり方が仇となり不意を突かれ黄祖に討ち取られる事になります。

孫堅は当時では董卓を外せば最強の軍閥とも考えられていましたが、呆気なく戦死してしまったわけです。

曹操と青州兵

東では東郡太守の王肱は不甲斐なく、曹操が袁紹に命じられて東郡太守となります。

この時の曹操はまだ弱小勢力ですが、ここにおいて基盤となる土地を得ました。

この時に青州黄巾賊が猛威を振るっており、無謀な戦いを挑んだ兗州刺史の劉岱は戦死しています。

劉岱が戦死すると済北郡の相となっていた鮑信が曹操の元を訪れ、兗州牧になる様に要請しました。

曹操の配下であった陳宮も兗州牧に就任する事を進言し、曹操は兗州牧となります。

曹操は黄巾軍の残党と戦い盟友とも言える鮑信を失うなどもありましたが、青州兵30万を配下に加える事になります。

青州兵は気性が荒かったなども言われますが、青州兵は曹操軍の中核として各地で戦功を立てる事になりました。

匡亭の戦い

193年になると、南陽郡を支配していた袁術曹操が支配する兗州に侵攻し、勢力の拡大を目論見ました。

ここにおいて曹操と袁術の間で、匡亭の戦いが勃発しています。

この時の曹操は既に屈強な青州兵を配下に加えており、匡亭の戦いで袁術を圧倒しました。

袁術は曹操に大敗北を喫しますが、封丘、襄邑と恐るべき速さで撤退を続け、揚州の淮南郡まで逃げ延びる事になります。

曹操は揚州までは追撃を行う事が出来ず袁術を討ち取るのを諦めました。

袁術は揚州刺史の陳温を殺害して再び勢力基盤と整える事になります。

袁術は戦国時代のの都でもあった寿春を本拠地として勢力拡大を狙う事になります。

界橋の戦い

話しは若干遡りますが、192年に袁紹公孫瓚の間で界橋の戦いが勃発しました。

当時の袁紹は韓馥から冀州を譲り受けたばかりだったのに対し、公孫瓚は北方で大勢力を手にしており、公孫瓚が有利な状態だったわけです。

袁紹は公孫瓚との和睦の道も画策しますが、結局は袁紹と公孫瓚の間で界橋の戦いが勃発しました。

袁紹が名士を優遇したのに対し、公孫瓚は名士を迫害しており、界橋の戦いはイデオロギーの戦いでもあったわけです。

公孫瓚は白馬義従とも呼ばれる強力な騎馬隊を持っていましたが、袁紹の配下の麹義は涼州の出身であり騎馬戦に長けており、公孫瓚自慢の騎馬隊を封じ込めました。

界橋の戦いでは終盤に袁紹の本隊が公孫瓚の軍に襲われ、袁紹自身が危機となり田豊に後退する様に進言されても踏みとどまって戦うなどもありました。

袁紹の意地が公孫瓚を上回り、界橋の戦いでは袁紹の大勝利となり、界橋の戦いを境に袁紹と公孫瓚の優劣が逆転しました。

公孫瓚は名士を優遇せず、人望があった劉虞を殺害するなどもあり、味方になる者が少なく袁紹に追い詰められていく事になります。

兗州の乱

徐州大虐殺

曹操は兗州を手に入れると徐州にいた父親の曹嵩を迎え入れようとしますが、陶謙配下の張闓により殺害される事件が起きます。

怒り狂った曹操は徐州に出兵しますが、この時の曹操のやり方は酷く徐州大虐殺と呼ばれる程の惨状を起こしました。

徐州側の反撃により曹操は一旦は撤退しますが、翌年(194年)に再び徐州に侵攻し陶謙の援軍にやってきた劉備を打ち破るなどもしています。

曹操は徐州の要衝である郯も陥落させ再び虐殺を行いますが、曹操の本拠地である兗州では陳宮張邈らが呂布を盟主に迎え入れ曹操に反旗を翻しました。

呂布や陳宮に兗州の大部分が靡き東阿、甄、范以外の三城を残し、残りは全て呂布に味方する事態となります。

曹操の徐州大虐殺は名士らの不興を買い曹操に叛逆を決意させる事態となったわけです。

徐州大虐殺は曹操にとって最大の汚点だいう専門家もいます。

曹操は兗州の大部分を失いましたが荀彧程昱夏侯惇らは曹操陣営に残る事になります。

尚、兗州の乱が勃発した時に、曹操が最も信頼していた張邈までもが裏切っており、曹操のショックは大きかった話があります。

張邈は曹操との関係は良好でしたが、強大な力を持つ袁紹との関係が上手く行っておらず、呂布に味方したとも考えられています。

呂布との戦い

曹操は兗州の乱を収束させる為に帰還しますが、兗州の大部分が呂布に靡いており苦戦を要する事になります。

ただし、曹操は用兵の達人でもあり、呂布も攻めあぐねる事になります。

こうした中で蝗が大発生し曹操も呂布も戦える様な状態では無くなりました。

蝗の害が終わると曹操は呂布を破り兗州を再び取り戻す事になります。

曹操が兗州の乱で苦闘している頃に、徐州では陶謙が亡くなり麋竺らの意向もあり、棚ぼた式で劉備が徐州牧となっていました。

曹操に敗れた呂布や陳宮は劉備を頼り徐州に落ち延びて行く事になります。

呂布は丁原董卓を手に掛けた様な危険人物でしたが、劉備は受け入れました。

尚、呂布は劉備と面会した時に放浪の身にも関わらず劉備を「弟」と呼び妻に接待させるなど非礼な振る舞いを見せています。

呂布は中国では三姓家奴とも呼ばれ呂家、董家、丁家の奴隷だとする悪い呼ばれ方もしている状態です。

因みに、呂布を破った曹操は、その勢いで豫州も手に入れています。

曹操が献帝を迎え入れる

長安の方では李傕郭汜が仲違いを起こし、長安を舞台に市街戦を展開しました。

長安は荒廃し、こうした中で献帝は楊奉、董承らに守られて東を目指す事になります。

献帝は東に移る最中で気が変わった李傕や郭汜の軍に襲われ困窮しますが、賊の李楽韓暹に守られて洛陽に向かいました。

この時の献帝は皇帝でありながら、賊軍に守られており正規軍なのか賊軍なのかも分からない様な状態だったと言えます。

献帝は苦難の逃避行の末に洛陽に到着しますが、ここでも配下の者達が権力闘争を起こす事になります。

献帝が洛陽にいる事を知ると、曹操荀彧の進言もあり献帝を自らのお膝元である許に迎え入れる事に成功しました。

献帝を迎え入れる前は許県と呼ばれていましたが、献帝を迎え入れた事で許都と呼ばれる様になります。

許が許昌と呼ばれる様になるのは、洛陽に都を移してからです。

曹操は徐州大虐殺により大きく評判を落としていましたが、献帝を手中に収め大義名分を得る事になります。

曹操にとっては献帝を迎え入れる事は、天下に号令をかける為の大きな躍進だったと言えるでしょう。

尚、袁紹も配下の沮授田豊などは献帝を迎え入れる様に進言した話がありますが、袁紹は董卓が少帝を廃し献帝を擁立しようとした時に、猛反対し出奔までしていた過去があります。

袁紹は献帝の擁立を認めない立場を取っており、献帝を迎え入れるのに抵抗もあったはずです。

袁紹や袁術劉表が献帝を迎え入れるか迷っているうちに、曹操が献帝を手にしてしまったとも言えるでしょう。

曹操は後漢王朝の皇帝である献帝の権威を利用し勢力の増強を図りました。

曹操が献帝を迎え入れるのは、織田信長が室町幕府の将軍である足利義昭を迎えたのと似ています。

小覇王孫策

寿春の袁術は江東の制圧に乗り出しますが、後漢王朝が任じた揚州刺史の劉繇の反撃にあい難航していました。

孫堅の長子である孫策は袁術を頼っていましたが、袁術は旧孫堅軍を自分の軍に吸収し、孫策は大した手勢は持ってはいませんでした。

孫策は祖郎の討伐に向かうも大敗北を喫するなど苦い思いもしますが、袁術は曹操に千の兵を返還しています。

袁術も江東制圧が上手くいっていない事もあり、孫策を試す事になります。

孫策の兵は数こそ少なかったわけですが、軍中には孫堅四天王の程普黄蓋、朱治がおり、猛将の韓当など孫呉を支える名将が揃っていたわけです。

孫策の弟の孫権も軍内におり、さらには幼馴染の名士である周瑜も加わりました。

父親の孫堅は各地を転戦しており、天下に名が通っていた事から、孫策に寄せる期待も大きく、次々と人が集まり孫策軍は五千に膨れ上がる事になります。

孫策軍には呂蒙蒋欽周泰など後の孫呉を支える人物が集いました。

孫策は江東制圧に乗り出すと劉繇を圧迫し、太史慈と一騎打ちを繰り拡げるなど武勇を見せつけ、躍進する事になります。

孫策は劉繇、厳白虎、王朗などを短期間で駆逐し、一大勢力として成り上がりました。

孫策の躍進は凄まじく小覇王の名で天下に鳴り響く事になります。

ただし、孫策は張昭や張紘ら名士を自陣営に組み入れる事には成功しましたが、呉の四姓の出身である陸康を殺害するなど名士層との溝もあり、統治が安定しないなどの問題もありました。

袁術、劉備、呂布の仁義なき戦い

孫策が快調に江東を制圧する中で、袁術劉備が統治する徐州を支配下に収めようと企てました。

196年に袁術は北上し、徐州を攻撃しています。

劉備は下邳を張飛に守らせ、自ら軍を率いて袁術と対峙する事になります。

袁術と劉備の戦いは膠着状態となりますが、袁術は呂布を動かし、呂布は劉備を裏切り下邳を占拠してしまいました。

張飛は下邳を守っていましたが、曹豹と不和であり、曹豹が呂布に内応した事で下邳は呆気なく陥落したわけです。

張飛は劉備の妻子も置き去りとし逃亡してしまいました。

劉備は前には袁術、背後には呂布という切羽詰まった状態となり、劉備の軍では兵糧も尽きた事で、人間同士がお互いを食べ合うなどの惨状が起きています。

劉備は戦い続ける事は不可能だと判断し、呂布に降伏しました。

呂布は劉備に対する負い目もあったのか、劉備を殺害せず小沛に駐屯させています。

袁術は劉備を生かしておこうとは考えず、紀霊を派遣し小沛を攻撃しました。

袁術としては小沛を自勢力に取り込み琅邪の相である臧覇を味方につけ、一気に勢力拡大したい狙いがあったのでしょう。

呂布の方では小沛が抜かれれば徐州が危機になる事は目に見えており、劉備と紀霊の仲裁を行う事になります。

呂布は劉備と紀霊を呼び出し、遠くに建てた戟に矢を当てるという荒業を見せ「天意」だと述べて仲裁しました。

当時の中国では「天意」に非常に弱い部分もあり、紀霊は戦わずに撤退する事になります。

この時に呂布としては劉備に絶大なる恩を施したと思ったのかも知れませんが、劉備にとっては過去の恨みは忘れる事は出来なかったはずです。

袁術の皇帝僭称

197年頃になると袁術は皇帝になりたいと考える様になります。

袁術は帝位を称する事に対し、閻象が反対し一度は断念しますが、今度は張炯なる人物が瑞兆が出たと述べます。

袁術は張炯の説に従い皇帝を名乗りました。

袁術は国号を「仲」とし仲王朝が誕生しますが、国号を「仲」とした理由はよく分かっていません。

過去に袁紹が劉虞を皇帝にしようとした時に、反対の意を示した話があります。

袁術が皇帝を変えるのを阻止した行為は見方によっては、後漢王朝への忠義と見る事も出来ます。

しかし、実際の袁術は自らが皇帝になりたいが為に、袁紹の劉虞の皇帝への擁立を阻止したと考えられています。

袁術は皇帝となり仲王朝を建てますが、余りにも早急すぎた事で各方面から非難を浴び求心力を多いに下げる事になります。

袁術配下の軍閥であった孫策も、袁術の皇帝僭称を理由に群雄となり独立勢力となりました。

袁術の皇帝僭称は結果として最悪な方向に向かう事になります。

袁術は呂布を攻めますが大敗を喫し、陳国の劉寵を頼るそぶりを見せますが結局は殺害しています。

陳国の隣には許都があり、曹操献帝を置いた場所でもあります。

陳国は曹操と袁術の緩衝地帯にもなっていましたが、袁術が陳を取った事で曹操は袁術を攻めました。

袁術は袁術四天王に任せ自らは逃亡し、ここにおいて袁術の勢力は壊滅状態になってしまったと言えるでしょう。

皇帝になってからの袁術の行動は滅茶苦茶であり、破滅に向かって行きました。

因みに、曹操は袁術は破りましたが、南陽の張繍との戦いでは長子の曹昂や怪力無双の剛将である典韋を失うなど敗戦を続けました。

曹操は張繍を舐めてかかっている部分もありましたが、張繍の武力と参謀の賈詡の智謀の前に敗れ去ったと言えるでしょう。

群雄の淘汰

呂布の滅亡

198年頃になると小沛の劉備が突如として兵を集め出し、1万を超える軍勢を集結させた話があります。

劉備が何を企んだのかは不明ですが、呂布にとってみれば劉備は厄介な存在であり、呂布は劉備を攻撃し打ち破りました。

劉備は曹操に助けを求めると、曹操は夏侯惇を援軍の将としますが、呂布配下である高順に敗れています。

夏侯惇が敗れた事で曹操が自ら出撃し劉備と合流し呂布を攻めました。

呂布は籠城を決意し、これにより下邳の戦いが勃発する事になります。

呂布は袁術に助けを求めようともしますが、袁術の方でも既に弱体化しており呂布を助けるだけの余力はなかったはずです。

下邳の戦いは長期戦となり曹操は撤退も視野に入れますが、軍師の郭嘉荀攸などの反対もあり曹操は踏みとどまりました。

荀攸が下邳の城に水攻めを進言し、実行に移されると下邳の城内では内部分裂が起こる事になります。

呂布配下の魏続、侯成、宋憲らは主戦派の筆頭である陳宮を縛り上げて、曹操に降伏しました。

呂布も戦意を無くし、曹操に投降する事になります。

呂布は曹操の前に引き立てられると「自分が騎兵を率いて、曹操が歩兵を率いれば天下が取れる」と述べますが、劉備の一言もあり曹操は呂布の処刑を決めました。

処刑が決まった時に呂布は劉備に向かって「こいつが一番信用出来ない」と述べた話しが残っています。

呂布は配下の陳宮や高順と共に処刑され、張遼は曹操の配下となりました。

呂布が敗れた時に、曹操が手に入れた張遼は名将であり、各地で活躍する事になります。

公孫瓚の滅亡

曹操呂布を滅ぼした頃に、北方では袁紹が公孫瓚を追い詰めていました。

192年の界橋の戦い公孫瓚と袁紹の形成が逆転しますが、公孫瓚は辛抱強く戦ったとも言えるでしょう。

公孫瓚は易京城に籠城し易橋の戦いが勃発してから数年が経過しましたが、公孫瓚を救援しようとする者は現れませんでした。

袁紹の軍は地下道を堀り公孫瓚を自害に追い込む事になります

公孫瓚は199年の3月に、この世を去りました。

公孫瓚を助けようとする者がいなかった理由は名士を重用しなかった事で、基盤が安定せず援軍が得られなかったと考えられています。

尚、公孫瓚を滅ぼすまでの袁紹は名士を優遇しましたが、この頃から中央集権化を意識したのか、名士を遠ざける様になり君主権の強化を図りました。

袁紹は公孫瓚を滅ぼす原動力にもなった冀州名士の沮授田豊などを遠ざける様になったとも伝わっています。

仲王朝の滅亡

袁術は皇帝を名乗っており仲王朝を開きましたが、既に2年目の198年には滅亡寸前でした。

袁術は過去に配下だった雷薄陳蘭を頼りますが、受け入れを拒否されています。

困った袁術は同じく汝南袁氏の袁紹を頼り、袁紹の長子である袁譚と合流しようとしました。

しかし、袁術は袁譚と合流する事は出来ず寿春から僅か80里(33キロ)の地点である江停の地で餓死する事になります。

袁術は最後に蜂蜜を所望するも得られず亡くなった事から、ハチミツ皇帝と揶揄される事もあります。

袁術も死を以って仲王朝は滅亡したと言えるでしょう。

尚、旧袁術軍は袁胤が率いて劉勲を頼りますが、劉勲は孫策に攻撃されて曹操を頼る事になります。

孫策は西塞山の戦いなどで劉勲を破りますが、この時に手に入れたのが大喬と小喬であり孫策と周瑜が共に側室としています。

劉勲を滅ぼした時点で孫策と劉表は国境を接する事になり、沙羨の戦いで孫策は劉表配下の黄祖を破りました。

孫策は旧袁術軍も配下に取り込む事に成功します。

因みに、袁術の子の袁燿は呉に仕え、袁術の娘は孫権の側室となり袁夫人と呼ばれました。

仲王朝は僅か2年で滅亡しましたが、袁術の血筋は呉で残りました。

199年の段階で過去には強勢を誇っていた袁術、公孫瓚呂布の勢力が淘汰されたと言えるでしょう。

この頃に残っている群雄は袁紹、曹操、孫策、劉表、劉璋張魯らであり、群雄の淘汰がかなり進んだことが分かります。

199年は群雄が淘汰された年でしたが、南陽の張繍は賈詡の進言もあり曹操に帰順する事になります。

曹操は過去の恨みを忘れ張繍の基準を赦しました。

劉備が徐州で反旗を翻す

曹操は呂布を破ると車冑を徐州刺史としました。

劉備にとって徐州は陶謙から譲り受けた地であり、徐州に対する想いも強く不満もあったはずです。

話しは戻りますが、このタイミングで袁術袁紹に合流する為に北上しているとする情報が入ってきます。

劉備が袁術討伐に名乗り出て曹操は許可を出しました。

曹操は劉備を完全に信用していたわけではなく、朱霊と路招を監軍とし劉備に同行させますが、程昱郭嘉は劉備が出陣した話を聞くと曹操の元に駆け付けて諫めました。

曹操は慌てて張遼許褚を派遣し劉備に帰還命令を出しますが、劉備は命令を拒否し徐州に向かって進撃しています。

袁術は劉備が手を下すまでもなく餓死しており、劉備は徐州に到着すると朱霊や路招も曹操の元に帰還させました。

劉備は徐州刺史の車冑を斬り小沛に駐屯し、関羽を下邳の太守に任命しています。

劉備は千載一遇のチャンスをものにし、陶謙から譲られ呂布に奪われた徐州を奪い返す事に成功したわけです。

劉備にとってみれば、徐州を陶謙から譲られたのは自分であり、徐州の主となる正統性は自分が持っていると考えていたのでしょう。

勿論、曹操は劉備の態度に激怒しますが、北方では河北四州を平定した袁紹がおり、安易に動けない実情もありました。

曹操の徐州討伐

200年になると董承による曹操暗殺計画が露見しました。

董承は献帝の密命を帯びて曹操暗殺計画を企てたとされています。

曹操は董承に結託した者達を族滅させました。

曹操暗殺計画には劉備も加担していた事も明るみとなり、曹操は徐州討伐を決断する事になります。

曹操は手始めに王忠らを徐州に派遣しますが呆気なく劉備に敗れています。

ここにおいて曹操が自ら徐州討伐を行う事になりました。

ただし、曹操が徐州を攻撃すれば、河北四州を統一した袁紹が曹操の本拠地に攻め込む可能性もあり、曹操にとってみれば徐州討伐はリスクの大きい決断だったわけです。

実際に袁紹陣営では曹操が徐州討伐を行うと耳にした田豊は曹操陣営への攻撃を袁紹に進言しました。

しかし、袁紹は袁尚の病気を理由に断り、怒った田豊が地面に杖を叩きつけた話しがあります。

袁紹は動かず曹操は大軍で徐州を攻めると、劉備は妻子や配下の将軍らも捨てて袁紹の元に逃しました。

劉備にしてみれば、曹操は袁紹の大軍が北方にいる事から動けないと見込んでいましたが、曹操が自ら大軍で徐州を攻めた事で敵わないと判断し逃亡してしまったのでしょう。

劉備が逃亡した事で関羽は下邳で孤立する事になり、曹操に降伏しました。

関羽は一時的ではありますが、曹操の配下となります。

尚、200年の曹操の徐州討伐時に、袁紹が軍を南下させていたら、曹操の領地を一気に占拠し滅ぼしてしまったとする見解もあります。

官渡の戦い

短期決戦と長期戦

袁紹陣営と曹操陣営では短期決戦と長期戦のどちらかで議論が行われました。

孔融などは袁紹の配下には優秀な人材が多くいると述べ、長期戦を主張しますが、荀彧などは袁紹の能力は曹操に及ばないとし短期決戦を主張しました。

曹操は短期決戦を選択する事になります。

袁紹陣営では沮授田豊などは長期戦を主張しますが、郭図審配が短期決戦を主張した事で、袁紹は短期決戦を選択しました。

袁紹と曹操が共に短期決戦を選択した事で、三国志の天下分け目の戦いとも呼ばれる官渡の戦いが勃発する事になります。

この時の曹操は献帝を擁しているとはいえ戦力は河北四州を制圧した袁紹に圧倒的に劣っていたと伝わっています。

曹操は袁紹に対し兵力や物資など圧倒的に劣っており、開戦の直前まで決戦を避けようとした話もありますが、郭嘉は曹操の能力を讃え、曹操は決戦に踏み込みました。

白馬・延津の戦い

曹操袁紹の間で官渡の戦いが勃発しますが、官渡の戦いの前に前哨戦とも言える白馬の戦いと延津の戦いが勃発しています。

白馬の戦いでは白馬を守る劉延に袁紹軍の顔良が攻撃を仕掛けました。

これが白馬の戦いです。

この時に荀攸の策で顔良が孤立してしまい、この好機を見逃さず曹操は張遼と客将の関羽に出撃を命じました。

白馬の戦いでは関羽の武勇が光り顔良を討ち取る活躍を見せています。

関羽は劉備に忠誠を誓っており、顔良を討った事で曹操への恩返しは出来たと判断し劉備の元に向かいました。

袁紹は顔良が討たれた事を知るや延津に文醜と劉備を向かわせており、延津の戦いが勃発する事になります。

延津の戦いでは曹操は荀攸の策に従い輜重隊を囮とし、文醜の部隊が略奪に夢中になった所で兵を繰り出し文醜も討ち取ってしまいました。

劉備は曹操の輜重隊は囮だと判断しており、事なきを得ています。

白馬・延津の戦いでは荀攸の功績が極めて大きかったと言えるでしょう。

尚、沮授は袁紹に顔良や文醜の弱点を指摘し諫めた話しもありますが、袁紹は聞かず白馬・延津の戦いで顔良と文醜は命を落としたと言えるでしょう。

曹操は白馬・延津の戦いで勝利を修めましたが、ここでは守り切れないと判断し官渡まで撤退しました。

劉備の離脱

劉備は何としても徐州を奪還したいと考えており、袁紹に兵を借り受け汝南に進軍するなどしています。

曹操としては劉備が目障りであり、曹仁に攻撃命令を出しています。

曹仁は用兵が巧みであり、劉備を破りました。

劉備が袁紹の本陣に戻った頃には、官渡の戦いは膠着状態となっていました。

こうした中で関羽顔良を討ったとする情報が袁紹陣営に入っていた様であり、劉備の立場が悪化していたのでしょう。

袁紹と劉備の仲も悪化していたのか、劉備は袁紹陣営を離れる事を決意し「荊州の劉表を説得する」と述べて、袁紹陣営を離れました。

袁紹がどの様な気持ちで劉備を劉表の元に出したのかは不明ですが、後の劉備の行動を見るに袁紹の元に帰る気はなかったわけです。

尚、官渡の戦いで劉表は曹操にも袁紹にも味方せず動かなかった事で優柔不断扱いされますが、実際には劉表は張羨桓階の乱に手を焼き軍を割きたくはなかったのでしょう。

烏巣の戦い

曹操は官渡まで後退しますが、ジリ貧状態であり後方の許都を守る荀彧に撤退を視野に入れた手紙を出しています。

しかし、荀彧は精神論で曹操を励まし、曹操は踏みとどまる事になります。

曹操軍は崩壊寸前であり、曹操の部下の中には「曹操の持参し袁紹に帰順する」と述べた手紙を袁紹に贈り届けたものまで出てしまいました。

許褚の活躍もあり、曹操への暗殺は防がれましたが、曹操が如何に苦しい立場だった事が分かるはずです。

こうした中で袁紹陣営の後方を守っていた審配が罪を犯した許攸の家族を捕えてしまい、袁紹の本陣にいた許攸自身も袁紹に対しよからぬ感情を持つ様になりました。

許攸は過去には袁紹と奔走の友となっていましたが、献策を聞き入れられる事が無く、家族の事もあり曹操に帰順したわけです。

許攸は烏巣に袁紹軍の兵糧庫があり淳于瓊が守っていると伝えました。

曹操は烏巣の兵糧庫を襲えば勝利が得られると確信し、楽進を連れて自ら烏巣に向かいました。

曹操が烏巣を急襲した事が袁紹の本陣にもたらされると、張郃は淳于瓊への救援を主張しますが、郭図はがら空きの曹操の官渡の本陣を攻撃すれば勝てる述べています。

袁紹は中間の策を採用し大軍を生かし、烏巣への救援と曹操の本陣への攻撃を同時に行いました。

この時に袁紹は何故か淳于瓊への救援を主張した張郃に、曹洪が守る曹操軍の本陣を攻撃する様に命じました。

烏巣の戦いでは激戦となりますが、楽進が淳于瓊を討ち取り、袁紹軍の兵糧を全て焼き払いました。

これにより袁紹は大軍を維持する事が出来ずに撤退しています。

張郃の方でも曹洪の守を崩せず、高覧と共に曹操に降伏する事になります。

官渡の戦いは最後の最後で曹操が逆転勝利を掴む事になりました。。

しかし、曹操軍の方でもギリギリの勝利であり、北伐を行い袁紹を滅ぼすだけの余裕はありませんでした。

尚、官渡の戦いが終わった後で、逢紀の讒言により田豊が処刑されています。

孫策の死

孫策は短期間で江東を平定しカリスマもあり小覇王とも呼ばれ天下の注目を集めていました。

曹操袁紹官渡の戦いで争った時も、孫策は北上の構えを見せる事になります。

一般的には孫策は中原進出の野望を見せ献帝がいる許都の襲撃の準備をしていたと考えられています。

しかし、孫策は江東を軍事的に制圧しただけであり、地盤も固まっていない事で、許都への進撃はあり得ないとする意見が強くなってきています。

実際に孫策が北伐を行うにしても、狙いは曹操ではなく陳登だったのではないかとされているわけです。

孫策は江東を平定するにあたって苛烈な行いも多々しており、多くの者から恨みを買っていました。

孫策は陸康に恨みを持っており殺害してしまった事で、陸康らと婚姻関係がある呉の四姓と呼ばれる有力者と溝も出来ていました。

孫策は張昭や張紘、周瑜などの名士は重用しましたが、非協力的な名士の高岱や周方などを殺害しています。

さらに、孫策は不用心であり、許貢の食客に襲われ重体となります。

孫策は自分の命が尽きた事を悟ると弟の孫権を後継者に指名しました。

孫策は自らの子である孫紹が幼かった事で孫権を指名したわけです。

孫策は孫権には「天下の覇権を争う事ではお前は自分には及ばない。しかし、江東を上手に治めるのならば、儂は其方に及ばない」と述べています。

孫策自身も苛烈な性格が禍し多くの名士にそっぽを向かれており、自分では江東を纏め上げる事が出来ないと考えていたのでしょう。

それでも、孫策には圧倒的なカリスマがあり亡くなると、孫呉に動揺が走りました。

しかし、周瑜や張昭が率先して孫権に頭を下げた事で、呉は安定に向かう事になります。

孫策は名士と対立しましたが、孫権は名士を重用し地盤を固めました。

孫権が君主になると北方名士である諸葛瑾魯粛、歩隲、陸遜なども政権へ参加する事になります。

孫策の死で呉は方向転換があったと言えるでしょう。

袁家分裂

袁紹は官渡の戦いに敗れると河北四州に動揺が走り、袁紹は反乱討伐を行っています。

袁氏の勢力は強大であり、曹操は袁紹が生きている間は手を出す事は出来ませんでした。

袁紹は疲れからなのか官渡の戦いの敗戦から僅か2年後の202年に没する事になります。

袁紹は妻の劉氏と共に三男の袁尚に期待するなど明確な後継者を定めないままに亡くなる事になります。

当主である袁紹の死は袁氏の分裂を引き起こし、長子の袁譚と三男の袁尚の間で後継者争いが勃発しました。

専門家によっては袁紹が治めた河北四州は青州が袁譚、冀州は袁尚、幽州は袁煕、并州が高幹を支配し四分割されたと考える人もいます。

袁紹が治めた河北四州は袁譚と袁尚の後継者争いを中心に分裂してしまったと言えるでしょう。

ただし、曹操が北伐を行うと袁譚と袁尚は団結して戦う事もあり、郭嘉は曹操に北伐を中止する様に進言しました。

郭嘉は曹操という共通の敵がいなくなれば袁譚と袁尚は互いに抗争を始め、袁氏は弱体化すると読んだわけです。

尚、曹操は分裂した袁氏を滅ぼすのに5年の歳月が掛かっており、袁氏が分裂しなければ、曹操が逆に滅ぼされていた可能性もあると考える専門家もいます。

因みに、劉表を説得すると述べて袁紹陣営から離脱した劉備ですが、汝南あたりで黄巾賊の残党である龔都と共に暴れまわっていました。

しかし、官渡の戦いが終わった曹操が劉備を討伐する為に、汝南に兵を向けると、劉備は一目散に劉表の元に向かう事になります。

劉表は劉備を客将とし新野に駐屯させました。

博望坡の戦い

劉表劉備曹操との最前線である新野に配置しましたが、夏侯惇于禁、李典らが攻めて来ました。

劉備は自ら出陣し小競り合いとなりますが、劉備は直ぐに退却しています。

夏侯惇は李典が諫めるのを無視して、劉備を追撃しますが、劉備軍の伏兵により敗れました。

夏侯惇は撤退しますが、劉備も追撃を行うだけの余裕はなく、ここで戦いを打ち切る事になります。

劉備は徐州や汝南では曹操が出陣しただけで逃走していますが、曹操の配下の者が相手だと劉備は勇敢に戦い勝利したりもしています。

劉備と言えば三国志演義の戦下手のイメージがありますが、史実の劉備は巧みな用兵術を持ち世間から名が通っていました。

尚、三国志演義では劉備が新野に駐屯している時に、徐庶を軍師として迎え入れ曹仁などを破った話がありますが、これらは創作と言ってもよいでしょう。

鄴の陥落

曹操が北方から撤退すると、袁譚と袁尚は争いを始め袁譚は窮地に陥りました。

この時に袁譚の参謀である郭図曹操と手を結ぶ様に進言し、袁譚は辛毗を曹操の元に派遣しています。

曹操は袁譚の要請を受け入れ北伐を始め袁尚の本拠地である鄴を攻撃しました。

鄴は審配が粘り強く守っていましたが、袁尚も曹操を破る事が出来ず審栄の寝返りもあり鄴は陥落しています。

鄴が陥落した時に、曹丕袁煕の妻だった甄姫を自分のものにしてしまった話があります。

袁尚は袁煕に助けを求めて逃亡しますが、袁譚の方は袁尚の土地を自分の領土に組み入れてしまった事で「曹操から盟約違反」だと言われ攻撃を受けました。

南皮の戦いで袁譚軍は奮戦しますが、袁譚は最終的に曹操に敗れ去り郭図と共にこの世を去る事になります。

曹操が北伐を始めた時に幽州の袁煕は傍観し、并州の髙幹は曹操に降伏しています。

袁氏の諸勢力が一致団結して曹操に当たる事が出来なかったのは、袁氏滅亡の最大の原因だと言えるでしょう。

壺関の戦い

曹操は袁氏が本拠地としていた冀州を奪い幽州討伐を行おうとしますが、このタイミングで高幹が曹操に反旗を翻しました。

高幹の乱に呼応するかの様に昌豨、張晟、張琰、衛固らも反旗を翻す事になります。

曹操は楽進や李典を高幹討伐に向かわせますが、苦戦した事で自ら高幹と決戦を行う事としました。

これが壺関の戦いです。

高幹は奮戦しますが壺関は陥落し高幹は荊州に逃げる途中に捕縛され命を落としました。

さらに、高幹の乱に呼応した者達も于禁らにより鎮圧されています。

尚、高幹が反旗を翻した時に、曹操は張既を馬騰の元に派遣し、馬騰は曹操軍として戦った記録があります。

因みに、馬騰は208年に衛尉として朝廷に召し出され馬騰が率いていた軍は長子の馬超が継ぎました。

後に馬超は父親や一族と涼州の人々との間で板挟みとなる事になります。

白狼山の戦い

207年に曹操郭嘉張遼張郃徐晃、曹純らを引き連れて袁氏の息の根を止めるべく北伐を行いました。

袁尚と袁煕の兄弟は烏桓の力を借り曹操と対峙する事になります。

これが白狼山の戦いです。

白狼山の戦いでは袁氏と烏桓の軍を曹操は打ち破りました。

袁尚と袁煕は遼東の公孫康の元に逃亡しますが、公孫康は袁氏の兄弟の首を斬り曹操に送り届けています。

これにより過去に袁紹が治めた北方四州は曹操の支配下となり北方は平定されました。

曹操のライバルである劉備は新野にいましたが、曹操が北伐を行っている間は戦争もなく平和な日々を過ごしていました。

ある時に劉備が厠に行くと、腿に贅肉(髀肉)がついている事に気付きます。

劉備は戦場を駆け巡り過去には腿に脂肪がつく事が無かったのに、脂肪がついてしまった自分の太ももを見て衝撃を受けたわけです。

この時の劉備は50近くになっていましたが、志を遂げる事も出来ず老いさらばえていく自分が許せなかったのか人生の無常さを感じ嘆きました。

これが髀肉の嘆と呼ばれ、当時の劉備の心境をよく現わしたものなのでしょう。

尚、曹操が北方の平定が終わった頃に、孫権の方では国内が纏まりを見せて父親の仇でもある江夏太守の黄祖を討ち取りました。

時代は赤壁の戦いへと向かう事になります。

三顧の礼

劉備劉表の元で曹操との最前線を任されてはいましたが、新野は小城であり劉備を満足させるものではなかったはずです。

既に劉備は関羽張飛らと共に旗揚げしてから20年以上も経過していましたが、未だに新野の小城を任されただけでした。

この時の劉備の元には関羽や張飛、趙雲の様な武に優れた者がおり、曹操の曹仁夏侯淵張遼徐晃許褚などとも引けを取らない面々がいました。

劉備と曹操には決定的な違いあるとされ、一般的には荀彧荀攸程昱らの様な智謀の士がいなかったからだとされています。

しかし、実際には荀彧、荀攸らは三国志を代表する名士であり、劉備は名士らを自陣営に取り込む事が出来ていなかったとされているわけです。

過去には劉備は名士の陳羣や陳登と親しくした事はありましたが、名士が劉備陣営に残留する事はありませんでした。

こうした中で司馬徽に師事した徐庶が劉備に仕え、徐庶が友人の諸葛亮を推挙しました。

徐庶は劉備に諸葛亮に自ら会いに行く事を勧め、劉備は徐庶の言葉に従う事になります。

これが三顧の礼であり、劉備が自勢力に名士を取り込んだ瞬間でもあったわけです。

これまでの劉備は関羽、張飛、趙雲を代表する様な義と情を以って繋がっていた集団から、名士層を中核とする政権へと変貌する事になります。

尚、諸葛亮は三顧の礼においては天下三分の計を進言し、劉備陣営は諸葛亮の方針に従い動く事になります。

劉備と諸葛亮は密接な関係となり水魚の交わりの逸話もありますが、実際には劉備は諸葛亮ら名士を関羽や張飛などの義と情で結ばれた君臣の上に置くとは考えていなかったのではないかとされています。

因みに、司馬徽は諸葛亮と龐統臥竜鳳雛だと述べており高く評価しました。

長坂の戦い

西暦208年に河北を平定した曹操は丞相となり、権勢は比類なき者となっていました。

この時には三国志の世界で残っている勢力は劉表劉璋孫権張魯くらいのものだったわけです。

曹操は自ら軍を率いて南下しますが、このタイミングで劉表が死去しました。

劉表には劉琦と劉琮の二人の子がいましたが、後妻の蔡夫人の子である次男の劉琮が後継者となります。

蔡夫人の弟の蔡瑁は曹操とは旧知の間柄であり、劉琮は最終的に曹操への降伏を決断する事になります。

三国志演義の劉琮は曹操に降伏した後に于禁により殺害されていますが、史実の三国志を見る限りでは劉琮及び荊州の臣下は曹操から厚遇されています。

劉備は曹操が自ら兵を率いてやってくると過去に何度も逃亡していますが、今回も新野を棄てて南に逃亡しました。

いつもの劉備であれば単独で逃亡するわけですが、今回は劉備の後に数万もの民衆が付き従う事になります。

劉備が名声のある名士を自陣営に取り込んだ事で、多くの領民が劉備を慕いついてきたとも考えられています。

しかし、老若男女の混成での移動であり、一日に10里(4キロ)程度しか進む事が出来ず、直ぐに曹操の軍に追いつかれてしまいました。

劉備は最終的に夏口を目指して逃げますが、劉備に従った民衆らは悲惨な目にあっており、劉備の世子である阿斗(劉禅)ですら行方不明になってしまいます。

長坂の戦いは結果でみれば劉備軍の大敗北でしたが、「趙雲一騎駆け」や張飛の「長坂橋仁王立ち」など見せ場もあった戦いでもあります。

阿斗や甘夫人趙雲により無事に救出され劉備の元まで送り届けられています。

尚、この頃に孫権は荊州の様子を見させるために魯粛を派遣しており、劉備と魯粛は出会う事になります。

大戦略家魯粛

魯粛は孫権陣営では極めて異端であり、早い時期から天下三分の計を考えていました。

曹操陣営では名士を重用し、荊州で得た人材を厚遇した事で、孫権陣営でも降伏派が主流となります。

しかし、魯粛の頭の中には降服など考えておらず、徹底抗戦を主張し、孫権の名代として「孫劉同盟」を申し込む事になります。

魯粛が劉備を取り込もうとした理由ですが、劉備は兵力の上では少なかったわけですが、諸葛亮などの名士を自陣営に取り込む政策を行っており、天下にも名が通っており役に立つと考えたのでしょう。

他にも魯粛は劉備の位が左将軍であり、孫権の位が会稽太守でしかない事も影響したとされています。

劉備は手勢は少なくとも、官爵の上では孫権を圧倒していたわけです。

劉備の方でも孫劉同盟を締結させる為に、諸葛亮を孫権の元に向かわせました。

魯粛の行動が三国志の世界を創り上げたとも言えるでしょう。

赤壁の戦い

孫権の決断

魯粛諸葛亮を連れて孫権の元に戻りました。

諸葛亮は孫権に「劉備は曹操に降るつもりは一切ない」とも伝えたわけです。

しかし、呉は各地の豪族の力が強く孫権であっても制御できない部分もあり、豪族らの支持を得なければ孫呉の政権運営も難しい状態でした。

さらに、曹操からも降伏の手紙が届き、劉琮や荊州名士らが曹操に厚遇されている事を知ると、呉の群臣は降服を主張する者が極めて多かったわけです。

呉の名士の筆頭格である張昭は降伏派であり、主戦派は魯粛、周瑜くらいしかいませんでした。

孫権は曹操と戦いたい気持ちがありましたが、決断をしかねていました。

ここで魯粛が孫権に対し脅しとも取れる発言もあり、孫権は机を斬り凄味を見せて曹操との決戦を選択したわけです。

これにより三国志最大の戦いとも言える赤壁の戦いが勃発する事になります。

火計での決着

周瑜程普が呉の左右の督となり曹操との決戦が決まると、曹操は208年の10月に洞庭湖から水軍を出撃して決戦を挑む事になります。

曹操は呉との決戦も考えて洞庭湖で水軍に訓練も行わせていたわけです。

北方の兵は陸戦を得意としており、曹操自身も陸での戦いで決着をつけたかったわけですが、呉の水軍に先を越されてしまい陸口への上陸が困難な状態となります。

曹操は烏林に布陣し、長江を挟んで対岸には呉軍がおり睨み合いました。

曹操は趙儼に援軍を依頼しますが、趙儼は中々姿を見せず時間ばかりが過ぎ去る事になります。

曹操の軍は指揮官たちも海戦に不慣れであり、将兵らも疲労が溜まっており、士気は低く疫病まで発生する事態となりました。

ここで黄蓋が周瑜に火計を進言し、自ら曹操へ偽りの降伏を提案し実行するに至ります。

曹操は黄蓋の降伏を待ちますが、黄蓋は降服する気はなく軍船を曹操軍の船に突っ込ませ火計を仕掛けました。

曹操は黄蓋の火計により軍に撤退命令を出し華容に敗走し、江陵は曹仁に任せ襄陽には楽進を配置し、鄴まで撤退する事になります。

曹操は呉軍の活躍により天下統一の野望を阻まれてしまったとも言えるでしょう。

尚、三国志最大の戦いとも呼ばれる赤壁の戦いですが、曹操軍の代表的な将軍が戦死していない事や、直ぐに曹操が軍事行動を行っている事から大した負けではなかったとする説もあります。

しかし、廬江郡の陳蘭梅成や涼州の張猛、并州の商曜らが反旗を翻し、曹操が赤壁の戦い後に求賢令を出したのは、赤壁で多くの人材が失われたからだとする説もあります。

赤壁の戦いにより曹操が天下統一の野望が打ち砕かれた事は確かですが、どれほどの敗北だったのかは不明な部分が多いです。

荊州の分割統治

赤壁の戦い後に周瑜呂蒙甘寧、淩統らと曹仁が守る江陵を包囲しました。

当時の孫権は揚州の大半を支配下に収めていましたが、淮南だけが曹操の支配下であり、孫権は寿春攻略の為に合肥に兵を進める事になります。

これが第一時合肥の戦いです。

周瑜と曹仁は江陵で長期戦となり、孫権も合肥を抜く事が出来ずに戦いは膠着状態となります。

こうした中で劉備は自ら兵を率いて韓玄趙範金銭劉度荊州四英傑を下し荊州四郡を落しました。

さらに、上奏して劉琦を荊州牧とさせます。

他にも、廬江郡の雷緒が数万の兵を率いて劉備に帰順し、劉備はあっと言う間に大勢力となります。

劉備のこうした状況を孫権や周瑜は苦々しく見ていたかと思いますが、周瑜は江陵で手こずり、孫権も合肥を抜く事が出来ませんでした。

こうした中で周瑜は漸く江陵を落し曹仁は北に撤退しますが、孫権の方は曹操が自ら合肥の援軍にやってきた事で撤退する事になります。

赤壁の戦いが終わった状態で、曹操は荊州北部守をり切り領有しました。

荊州の中部は周瑜が江陵を落した事で、呉が手に入れる事になります。

荊州の南部は劉備の活躍が大きかったわけですが、赤壁の戦いで曹操軍を打ち破ったのは呉軍であり、呉が支配すると言う選択肢もあったはずです。

しかし、魯粛の進言により、劉備が荊州南部を領有する事になります。

孫権は劉備との関係を深める為に、妹の孫尚香を劉備に嫁がせました。

尚、魯粛が劉備に荊州を貸す様に進言した事は悪手だと判断される事もありますが、魯粛の進言により荊州を劉備に貸し与えた話を聞くと、手紙を書いている最中の曹操は筆を床に落とした逸話があります。

孫権陣営では魯粛の意図が全く分かっておらず、曹操だけが魯粛の意図に気が付き恐れたのではないかとされています。

孫権は劉備に荊州を貸し与えたわけであり、これが後に孫権と劉備が揉める理由となるわけです。

中国の諺で「劉備が荊州を借りる」というものがあり、借りたものを返さな例えとなっています。

因みに、赤壁の戦いでの最大の功労者である周瑜は魯粛とは違った考えを持っており、呉が益州を取り天下を二つに割ろうと考えていたのでしょう。

周瑜は益州攻略を目指しますが、西暦210年に病により命を落としました。

周瑜の病死により魯粛が後継者になった事で、呉は劉備との協調路線を重視し益州取りから手を引く事になります。

尚、過去に劉表に仕えていた黄忠や周瑜に仕えた龐統などは、この頃に劉備に仕える様になったと考えられています。

潼関の戦い

揺れる関中軍閥

曹操は211年に張魯討伐の命令を司隸校尉の鍾繇に出し夏侯淵と共に討伐させようとしました。

張魯は漢中に割拠しており、張魯討伐を行う為には大軍で関中を通る必要があり、関中の馬超、韓遂、程銀ら関中十部に衝撃が走る事になります。

涼州には羌族も多く暮らしており、羌族も生活が脅かされると不安になり、馬超を頼りました。

関中軍閥の諸将は曹操は仮道伐虢の策を使ったのであり、本来の目的は張魯討伐ではなく関中を討つのではないかと考えたわけです。

馬超の父親の馬騰を始め一族の多くは入朝しており、韓遂も子を曹操に人質を出したりしていました。

馬超や韓遂は一族の命を取るか関中軍閥の意向を優先させるかで悩みますが、馬超や韓遂は肉親の者を棄て関中軍閥の諸将と共に乱を起こすに至ります。

これにより潼関の戦いが勃発する事になります。

馬超や韓遂が挙兵した事で、曹操は中央にいた韓遂の子や馬超の父親である馬騰、弟の馬鉄、馬休らを処刑しました。

三国志演義では曹操が馬騰らを処刑した事で馬超が挙兵していますが、史実の三国志では馬超や韓遂が反旗を翻した事で、曹操は馬騰らを処刑しています。

史実の三国志と三国志演義では因果が逆になっていると言えるでしょう。

曹操が張魯を討つ名目で関中軍閥を制圧しようとしたのかは不明であり、曹操は関中軍閥の平定を考えていなかった説もあれば、曹操の狙いは張魯ではなく関中だったとする説があります。

それでも、史実の三国志を見ると曹操と涼州軍閥の戦いとなった事は間違いないでしょう。

戦いの行方

関中の涼州連合は潼関に集結し潼関の戦いが勃発する事になります。

潼関の戦いでは涼州連合の兵力が10万で、曹操の兵力が5万とする話もありますが、実際の所は曹操の方が兵力が多かった話もありはっきりとしません。

涼州連合は先に布陣しており準備万端で守りを固めていた事で、曹操であっても簡単に勝てる相手ではありませんでした。

曹操は正面からぶつかる事を避けて徐晃朱霊を北に渡河させ、曹操自身も後続の部隊として渡河しようとしますが、馬超に急襲され危機に陥ります。

ここは丁斐が機転を利かせ曹操を助けた事で、曹操は無事に渡河する事に成功しました。

曹操は次に渭水を渡ろうとしますが、馬超が簡単には渡河させてくれず、ここで婁圭氷城の計を進言し、計略は成功し婁圭の南に防衛線の砦を築く事に成功しています。

氷の一夜城を見た馬超は戦いが不利になっていると悟り関中の安堵と人質を出す事を理由に、臣従しようとしますが曹操は却下しました。

曹操はこれを機に涼州軍閥を一掃しようと考えたのでしょう。

ただし、曹操も泣き所があり冀州では田銀と蘇伯が乱を起こしており、孫権や劉備も曹操の領地を狙っており、予断は許されない状況でした。

こうした中で軍師の賈詡が離間の計を進言し、曹操は採用しています。

曹操と韓遂は対面した時に親しげに話すなど、馬超を疑わせ馬超と韓遂の仲を割きました。

馬超が韓遂を疑い涼州軍閥の足並みが乱れると曹操は涼州軍を攻撃し、涼州連合の李堪、成宜らは討死しました。

楊秋は安定郡の臨涇まで逃亡しますが、夏侯淵張郃の軍に包囲され降伏する事になります。

馬超や韓遂は涼州まで壊走し、曹操は関中を支配下に置きました。

劉備の入蜀

曹操が関中軍閥を潼関の戦いで破った事は、漢中の張魯や益州の劉璋にとってみれば衝撃だったはずです。

こうした中で劉璋配下の張松は、益州に劉備を招き入れて、北の脅威になっている張魯を打ち破って貰うべきだと進言しました。

しかし、劉璋配下の王累黄権などは、劉備の危険性を認知しており猛反対しています。

法正孟達などは既に劉璋に見切りをつけており、張松の発言を支持しました。

お人好しの劉璋は張松、法正、孟達らの言葉を信じ、法正には4千の兵を与えて劉備を出迎えています。

劉備の方でも諸葛亮の天下三分の計を為す為には益州が必要であり、自軍を益州の奥深くまで入れる絶好の機会であり了承したわけです。

劉備と劉璋は梓潼郡の涪で会見を行い劉備は劉璋からの援助を受け取り、張魯討伐に向かう事になります。

涪城での会見の時に劉備の参謀である龐統や法正などは、劉璋を暗殺してしまう様に進言しますが、劉備は性急過ぎると考えたのか却下しました。

劉備は劉璋から借り受けた兵1万を加え3万の軍勢となり、葭萌関に駐屯しますが、北上し張魯討伐を行おうとしなかったわけです。

劉備は北には向かわず、地元の名士や豪族たちの懐柔を行っていました。

劉璋も劉備の行動を怪しむ様になります。

これが劉備の入蜀の始まりであり、後に劉璋と劉備は対立する事になります。

第一次濡須口の戦い

劉備が葭萌関に駐屯していた頃に、東の孫権の方では呂蒙の献策もあり濡須口に濡須塢を建設し守りを固めていました。

この頃に孫権は秣陵を改め建業とし都としています。

関中を制圧した曹操は自ら大軍を率いて東に移動し、濡須口に攻め寄せて来ました。

この時の曹操は赤壁を超える様な大軍を用意したとも考えられています。

孫権が軍を指揮する姿を見て曹操は「孫権の様な息子が欲しい」と述べた話しがあります。

孫権は劉備や曹操と比べると一世代下の人物であり、曹操は孫権の采配を褒め称えたのでしょう。

ただし、濡須口の戦いの方では呉の董襲が亡くなるなどもありましたが、孫権は呂蒙の献策もあり曹操を前に進ませる事はありませんでした。

曹操は孫呉に隙は無しと思ったのか撤退しています。

魏が呉を攻める場合は濡須口で戦い、呉が魏を攻める場合は合肥が戦場となる状態が続く事になります。

涼州の動乱

馬超は潼関の戦いで敗れますが、羌族らの支援を得て短期間で再起する事になります。

馬超が再び反旗を翻すと涼州刺史の韋康は対処が難しくなり、曹操へ援軍要請する事になります。

韋康は冀城に籠城し閻温夏侯淵に救援を求めていきますが、馬超により捕まってしまいました。

さらに、漢中の張魯も楊昂を将とし馬超への援軍とした事で、韋康はさらに苦しい立場となります。

馬超は捕らえた閻温に「夏侯淵の援軍は来ない」と叫ばせて冀城を降伏させようとしますが、閻温は「援軍が冀城に向かっているから必死に防戦せよ」と城に奮起を促しました。

馬超は閻温を処刑しています。

しかし、いつになっても援軍は来ずに「夏侯淵の援軍が馬超に敗れた」とする情報も入り、韋康の心は遂に折れ降伏しました。

この時に馬超は自分を手こずらせた韋康を赦す事が出来ず処刑してしまったわけです。

韋康は人望があり配下の楊阜、趙昂、王異らは馬超に接近し復讐を誓う事になります。

楊阜は鹵城で姜叙らと共に挙兵し、馬超が鹵城を攻撃した所で、楊阜の計略が発動し梁寛や趙衢らが冀城を陥落させました。

馬超は苦労して取った冀城を呆気なく落とされ、楊阜が籠る鹵城も落す事が出来ず、進退窮まり関中を棄てて張魯の元に逃亡する事になります。

215年には韓遂も命を落としており、この年を以って関中は曹操の領地となったと言えるでしょう。

劉備の益州制圧

劉備と劉璋の対立

孫権曹操が濡須口で睨み合っていた頃に、孫権は劉備にも援軍要請した話があります。

劉備はお世話になっている孫権の為とする口実で、劉璋にはさらに1万の兵を援軍として寄越す様に依頼しました。

劉璋にとってみれば劉備に兵を与えたのは、張魯を討伐する為であり、孫権を救う為ではなかったはずです。

それでも劉璋は劉備に4千の兵と兵糧を与えました。

劉備は劉璋が要求した分の援助をしなかった事もあり、怒りを見せここから劉備と劉璋の関係は決裂に向かいます。

劉備が益州を出て孫権を救援に行くとした話が、張松の耳にも入りますが、張松は劉備に益州の主になって貰いたいと思い焦りを覚えました。

張松は劉備の思惑が分からず、劉備に手紙を出して益州に留まる様に説得しますが、これが裏目に出ます。

張松が劉備に出す予定の手紙を兄の張粛が発見し、張松と劉備が結託し謀反を企んでいると劉璋に密告しました。

これにより劉備と劉璋は完全に決裂し、劉備は孫権の救援に行く事もなく劉璋との決戦となります。

劉備は背後の憂いを断つ為に、白水関の楊懐と高沛を斬り劉璋がいる成都に向かって進撃しました。

難所である綿竹関では激戦も予想されましたが、守将の李厳と費観はさっさと劉備に降伏しています。

成都開城

劉備軍は各地で劉璋の勢力を相手に勝利を収めました。

龐統が雒城を攻撃し、雒城が陥落すれば劉璋の本拠地である成都まで軍を進める事が出来る状態でした。

しかし、雒城を守る劉循張任は奮戦し、龐統は前線で指揮をしますが、流れ矢に当たり命を落としています。

劉備は劉璋軍を圧倒してはいましたが、龐統の戦死により危機感を覚えたのか荊州から増援部隊を呼び寄せる事にしました。

荊州の守は関羽に任せ諸葛亮張飛趙雲らは益州に向かって進軍しました。

荊州からの援軍も張飛が厳顔を降伏させるなど、各地で劉璋の軍を圧倒し劉備との合流を急ぐ事になります。

劉備の方でも雒城を陥落させ、遂に劉璋の本拠地である成都を包囲しました。

成都では劉璋が徹底抗戦の構えを見せ成都の戦いは長期化する様相もみせる事になります。

こうした中で成都の城内にいた許靖が城外に脱出しようとして捕らえられ、劉璋陣営に動揺が走る事になります。

さらに、曹操を震撼させた馬超張魯との折り合いが悪くなり、劉備の元に出奔しました。

この時に馬超は馬岱と共に配下の龐徳らと袂を分かち、劉備に帰順する事になります。

馬超の名は天下に鳴り響いており、劉璋は戦意を無くしました。

こうした中で劉備は簡雍を使者として、劉璋の元に派遣し劉璋は降服したわけです。

成都の開城により劉備は益州を手に入れ、劉備の入蜀は成し遂げられる事になります。

劉備が蜀を取った時点で三国時代が幕を開けたと考える人もいます。

この頃に孫権の方では呂蒙の献策もあり皖城を攻撃し朱光を捕虜とし陥落させています。

皖城の戦いでは呂蒙と甘寧の功績が極めて大きかったと言えるでしょう。

孫権もちゃっかりと揚州の地盤を固めに成功していたわけです。

荊州四郡の行方

劉備は益州を取り遂に自らの土地を得る事になります。

孫権の方では劉備が益州を取った事を知ると、215年に諸葛瑾を蜀に派遣し荊州を返還する様に要請しました。

すると劉備は益州はまだ安定しておらず「涼州を取ったら荊州を返還する」と無礼とも言える返事をしたわけです。

劉備の態度に孫権は怒りを爆発させ呂蒙に命じて長沙、零陵、桂陽、武陵ら荊州四郡の奪還を命じました。

呂蒙は長沙、桂陽を降伏させ零陵太守の郝普は策略を用いて開城させています。

蜀の荊州責任者である関羽も3万の兵と共に益陽に向かいました。

魯粛も1万の兵と共に出陣し関羽と対峙する事になります。

孫権は関羽軍3万に対し魯粛の軍が1万しかおらず、危惧したのか呂蒙に魯粛の救援に向かう様に告げました。

兵力の上では関羽と魯粛の軍は拮抗しますが、魯粛は天下三分の計の重要さを理解しており、劉備との全面対決は回避したいと考えていたわけです。

魯粛は関羽に会見を申し込み関羽が応じた事で、単刀赴会が開かれる事になりました。

単刀赴会と呼ばれる理由はお互いの軍を100歩離し数人の共だけを連れて会見を行ったのが理由です。

三国志演義では単刀赴会は関羽の豪胆さが光りますが、史実の三国志では魯粛の前に関羽は圧倒され、上手く言葉を返す事も出来ない状態でした。

関羽が押され気味なのを見た配下の者が魯粛に意見しますが、魯粛は関羽配下の者を一喝し下がらせています。

こうした中で曹操が漢中に侵攻したとする情報もあり、孫権も合肥を攻めたいと考えており、呉は呂蒙が取った長沙と桂陽を領有し、劉備に零陵と郝普は返還しています。

魯粛としては呂蒙が手に入れた三郡の全てを劉備から奪い取ってしまうと遺恨が残ると考え、零陵と郝普を返還する事にしたのでしょう。

張遼の圧倒的な武勇

曹操は張魯攻略の為に西方におり、孫権は好機到来とばかりに10万と号する軍を集結され合肥に進軍しました。

これが第二次合肥の戦いです。

孫権は自ら大軍を指揮し北上しますが、合肥を守る張遼楽進、李典の三将には7千の兵しかいなかったわけです。

合肥守備隊は兵数の上で不利であり、さらに張遼、楽進、李典は名将と呼ばれて高い評価はされていましたが、三将は不仲でした。

こうした中で護軍の薛悌が曹操からの指示書を開示すると、張遼と李典が攻撃し、楽進は城を死守する様に書かれていました。

曹操の命令を見た三将は一致団結し、張遼と李典は800の精鋭を率いて孫権軍を急襲したわけです。

呉の軍勢は大軍ではありましたが、合肥までの移動で疲労が溜まっており、10万の大軍がいた事で油断もあり、張遼や李典の攻撃の前に軍は崩壊していく事になります。

呉軍は賀斉や潘璋の奮戦もあり持ちこたえますが、張遼の奮戦の前に軍の被害は大きく士気は低下しました。

孫権は10日ほどで撤退しますが、退却時にも張遼の急襲があり淩統らの活躍で孫権は何とか逃げ延びる体たらくだったわけです。

呉の将兵は張遼を畏れる様になります。

曹操の魏王就任

曹操は漢中を奪取する為に動きますが、張魯陣営では張衛が戦いを主張し陽平関の戦いが勃発しました。

曹操は陽平関の戦いで劉曄の策や運が味方したなどもあり、最終的には張魯を降伏させる事に成功しています。

この時に劉備は張魯を自陣営に取り込むために、黄権に迎えに行かせていましたが、黄権が漢中に到着する前に、張魯は降服してしまいました。

曹操は漢中を支配下に組み込むと司馬懿などは一気に蜀を攻め落とす様に進言しますが、曹操は光武帝の「隴を得て蜀を望む」の言葉に従い撤退しています。

曹操は漢中を後にし戻ると、魏王に就任しました。

漢王朝の祖である劉邦は「劉氏以外の者が王となったら皆で協力して討て」と述べており、曹操の魏王就任は天下を震撼させた事件でもあったわけです。

漢王朝では呂后の時代に異姓の王が立った事もありましたが、呂后が亡くなると陳平や周勃ら大臣らが協力し呂氏を殲滅してしまいました。

曹操が魏王を名乗るのは劉邦の遺志に反する事であり、漢王朝にとってみれば叛逆行為と見る事も出来ます。

劉備は中山靖王劉勝の末裔を名乗っており、漢王朝復興を呼び掛けていた事から、曹操の魏王就任は許しがたい行為だったわけです。

定軍山の戦い

益州を奪った劉備曹操から漢中を奪い取るべく、動く事になります。

劉備は諸葛亮に後方を任せ法正を軍師として、軍を北に向けました。

劉備は呉蘭と雷銅を下弁に出撃させ魏の曹洪と曹休に対峙する事になります。

魏軍に対し呉蘭らは劣勢であり、劉備は白水の張飛馬超を援軍として向かわせる事になります。

ここで曹休の読みが当たり武都の戦いは魏軍が勝利し、呉蘭と雷銅は討ち取られています。

南鄭にいた夏侯淵張郃は蜀との戦いが武都方面になると読み陽平関や広石関を超えて進軍しますが、劉備には強気にも陽平関に進軍し魏軍の退路を断ちました。

曹操も劉備の動きを知ると自ら長安に入り漢中に向かう事になります。

夏侯淵は劉備軍を破る為に定軍山に沿って陣を構築し、ここにおいて定軍山の戦いが勃発したわけです。

劉備は張郃を攻撃し夏侯淵は救う為に援軍を繰り出し、夏侯淵は自ら軍を指揮するなど慌ただしく動きました。

劉備の軍師である法正は夏侯淵の隙を見抜き黄忠が兵を繰り出し夏侯淵を討ち取る事に成功したわけです。

総大将を失った魏軍は張郃を総大将とし撤退に移るのが精いっぱいでした。

この後に、曹操の本隊がやってきますが、劉備は守りを固めて戦おうとはしませんでした。

いつもの劉備であれば曹操がやってきた事を知ると、一目散に逃亡しますが、この時は踏みとどまったわけです。

曹操の軍は秦嶺山脈を超えて漢中に来ており、兵站を繋ぐのも困難であり曹操は撤退を決断しました。

この時に曹操は「鶏肋」の言葉があり、楊脩が謎解きをした話があります。

漢中王劉備

漢中の地を得た劉備ですが、漢中の地を盤石にする為に上庸と房陵に孟達劉封を入れました。

曹操が漢中から撤退した2か月後の219年7月には、劉備は漢中王に即位しています。

漢中の地は400年前に項羽により劉邦が与えられ前漢が始まった地でもあり、漢王朝再興を掲げる劉備にとっては縁起の良い土地でもあったわけです。

劉備は前後左右将軍に関羽張飛黄忠馬超を任命したのもこの時期となります。

劉備は漢中は魏延に任せ自らは成都に戻りますが、この時が劉備の全盛期だったと言ってもよいでしょう。

既に劉備は59歳になっていましたが、漢中王となり魏打倒の夢が実現できる段階に差し掛かっていました。

劉備が漢中で曹操を破った話は天下に広まり、劉備への期待感が高まった時期でもあります。

樊城の戦い

劉備が漢中を曹操から奪取した事を知ると、荊州にいた関羽は好機到来とばかりに兵を北上させました。

関羽は本拠地の江陵を糜芳に任せ、公安を傅士仁に駐屯させ出陣しています。

しかし、関羽と糜芳・傅士仁は折り合いが悪く、これが仇となります。

関羽は曹仁、満寵が籠城する樊城を囲み、樊城の戦いが勃発する事になります。

曹操は樊城を救う為に于禁龐徳を派遣しますが、長雨が降り水軍を用意していなかった事で、于禁は降服し龐徳は捕虜となり命を落としました。

樊城の曹仁は撤退も考える様になりますが、満寵が諫止しています。

曹操の方でも関羽が北上している話を聞くと弱気になり、献帝を許都から鄴に移す案も考えますが司馬懿と蔣済が耐える様に進言しました。

曹操は樊城への援軍として徐晃を派遣しました。

この頃の呉では魯粛が死去しており、呂蒙が荊州方面の司令官になっていたわけです。

呂蒙は過去に計略を以って郝普を降伏させ荊州三郡を陥落させた事があり、関羽も警戒しており多くの兵を後方に残しました。

呂蒙も関羽が自分を警戒していると悟り、陸遜を後任に推挙し病気と称し建業に戻る事になります。

孫権と呂蒙の間で関羽を討つための謀が練られ、関羽は呂蒙がいなくなり陸遜が謙虚な手紙を寄越した事で油断が生じ、後方の兵を前戦の樊城に向かわせました。

呂蒙は関羽に隙が出たと判断すると自ら出撃し、虞翻の活躍もあり江陵の糜芳と公安の傅士仁が呉に降る事態となります。

関羽の方でも兵力不足に悩んでいた所もあり上庸及び房陵の劉封孟達に援軍要請しますが、支配地域が安定していない事を理由に断られています。

関羽は樊城救援に赴いた徐晃に敗れ、本拠地は呂蒙に奪い取られ麦城に追い詰められ、最後は潘璋配下の馬忠により捕縛されました。

関羽は子の関平と共に処刑され、首は曹操の元に送られています。

呉では蜀に対し関羽を討ったのは呉のせいではないとしたかった事もあり、曹操の元に送り届けられたともされているわけです。

尚、樊城の戦い後に蜀の潘濬が呉に移りました。

呉と蜀の重臣たちの死

関羽が敗れ蜀は荊州を失いました。

呉が荊州の中南部を領地としますが、この時点で三国志の時代の領土は多少の変更はあっても大きくは変わりません。

関羽の死が三国志の領土を決定づけた部分もあります。

呉は荊州を取りましたが、関羽討伐戦で活躍した呂蒙が病死し、孫皎や蒋欽などの呉を支えた名将たちも世を去りました。

蜀の方でも法正黄忠麋竺など蜀漢の中軸を為す人物が亡くなっています。

こうした中で劉備は呉を討ち荊州を取り戻す為に動く事になります。

劉備は義兄弟である関羽の敵討ちの為に我を忘れて呉を攻めたとも伝わっていますが、異説もあり劉備がなぜ呉を攻撃したのかの真実は分かっていません。

劉備は漢王朝再興を旗印としており、大義名分が立たないなどの理由で趙雲は諫めますが、劉備は呉への出陣を決めました。

劉備の呉への出兵で諸葛亮が劉備を止めた記録はなく、諸葛亮は劉備の軍事能力を高く評価しており、荊州を取り戻してくれる可能性があると信じたのかも知れません。

諸葛亮は蜀の荊州派閥の長でもあり、荊州が無くなれば荊州派閥は蜀漢からの俸禄だけで食べて行く必要があり、諸葛亮は劉備の呉への侵攻を止めなかったと考えられています。

法正や黄忠、麋竺などが亡くなった事で、劉備と諸葛亮への負担は増えた部分もあるはずです。

尚、劉備の怒りは関羽を助けなかった劉封孟達にも向いており、孟達は魏に走り劉封は劉備の養子だった事もあり、魏にも下らず処刑されています。

曹操の死と漢帝国の滅亡

曹操は孫権から関羽の首が届けられると「諸侯の礼」で手厚く埋葬しました。

それから1カ月ほどで曹操自身が亡くなってしまいます。

曹操は220年の1月に没し、享年66歳だったと伝わっています。

さらに、夏侯惇も数カ月後に亡くなっており、樊城の戦いから夷陵の戦いの前後までの間に三国志を彩った英雄の多くが世を去りました。

曹操の後継者は曹丕となりますが、曹植との間で七歩詩の話があり、曹丕曹彰、曹植の兄弟の仲が良好だとは言い難い状態でもあったわけです。

こうした中で曹丕は後漢の献帝から禅譲により魏の皇帝として即位しました。

劉邦が前漢を建国し王莽の時代の新があり一時中断しましたが、後漢の光武帝が漢を復活させ400年続いた漢王朝を曹丕が禅譲により譲り受けました。

220年に献帝が帝位を譲った時点で、漢王朝は滅亡したと言ってもよいでしょう。

曹丕は魏の皇帝となりましたが、漢王朝復興を掲げる蜀の劉備は黙ってはおらず、献帝が殺害されたなどの噂もあり、劉備は漢帝国の皇帝として即位します。

劉備は漢を名乗りましたが後世の人々は劉備の漢を蜀漢と言ったり、蜀、李漢などの名で呼ぶ事になります。

中華に魏の曹丕と蜀の劉備という二人の皇帝が誕生したわけです。

三国志の第三勢力とも言うべき、孫権は正統性に貧しかった事もあり、この時点ではまだ皇帝を名乗ってはいません。

夷陵の戦い

張飛の憤死

劉備は皇帝となりますが、先にも述べた様に逆賊であるはずの魏を討つのではなく、関羽の敵討ちとばかりに呉を攻撃しました。

趙雲などは止めましたが、劉備は聞き入れず自ら大軍を率いて東征を行っています。

張飛も呉を討つために出陣しており、江州で合流する予定でした。

しかし、張飛は日頃から部下に対して厳しく張達と范彊が寝込みを襲い張飛は寝首を掻かれました。

劉備は張飛からの報告があると聞くと「飛が死んでしまった」と呟いた話があります。

劉備は張飛の死を悲しみましたが、呉への征伐はやめず東征を続けました。

劉備は数年の間に旗揚げから共にした関羽を張飛を立て続けに失ってしまったわけです。

孫権が魏に降伏

孫権の方でも劉備と戦う気はなく臣下の諸葛瑾なども諸葛亮との関係を利用して劉備を諫めています。

しかし、蜀の重臣が諫めても話を聞かない劉備が孫権の言葉など当然ながら耳を貸さず、蜀軍は荊州に侵攻しました。

ここで孫権は魏に臣従する事を申し出ます。

呉は赤壁や濡須口であっても降伏を拒否し断固として戦い続けましたが、ここにおいて孫権は魏への降伏という道を歩みました。

孫権の魏への降伏に関しては「越王勾践の様な忍耐強い性格」と評価される事もあれば、「その場しのぎの策でしかない」などの意見もあります。

孫権は魏から呉王に封じられました。

蜀の攻勢と呉の不協和音

夷陵の戦いが幕を斬ったわけですが、緒戦で蜀軍は呉班や馮習が呉の李異を破るなど幸先良いスタートを切りました。

呉の孫権は陸遜を大都督とし朱然、潘璋、韓当、徐盛らと共に蜀軍に対し迎撃態勢を取ります。

蜀の陣営では緒戦の勝利で大いに士気が上がったのに対し、呉は諸将が大都督の陸遜に心服しないなどもあり不協和音が流れていました。

夷陵の戦いの前半部では蜀軍の士気が旺盛なのに対し、呉軍は一向に士気が上がらず苦しい展開となります。

黄権の進言

劉備は長江を下ろうとしますが、黄権は「撤退が困難になる」と述べて、自らが先陣になると申し出ています。

黄権は軍事に明るい人物であり、劉備を諫めますが、劉備は黄権の進言を却下し黄権に臨沮に向かう様に述べました。

劉備は黄権が煩いと思ったのか魏に備えるべく北方の臨沮に配置したわけです。

さらに、劉備は馬良を武陵に派遣し武陵蛮の沙摩柯を味方としました。

劉備は長江を下り西陵峡、夷陵、猇亭を突破します。

長江三峡を全て失った呉軍に動揺が走りますが、陸遜は動じず動きませんでした。

陸遜の計略

劉備は猇亭に本陣を置き夷道の城を守る孫桓に攻撃を仕掛け、孫桓は陸遜に援軍要請しますが、陸遜は援軍を送る事はありませんでした。

陸遜は孫桓の人望の厚さなどを理由に、援軍を送らなかったわけです。

蜀軍は夷道と江陵を落せば荊州の旧領奪還となりますが、ここで進軍が止まり長期戦に入る事になります。

劉備は兵站を繋ぐ為に後方に700里(約300キロ)もの陣営を連ね長細い陣を布いていました。

曹丕は夷陵の戦いでの劉備の布陣を知ると、劉備の敗北を予言した話しがあります。

蜀軍は本拠地の蜀から遠く離れており疲労が困憊し厭戦気分となり、この状況を見た陸遜は攻撃命令を出しました。

しかし、呉軍は呆気なく敗れ諸将の不満は募りますが、ここで陸遜は「敵を破る策が見えた」と述べ火計を提案しています。

陸遜は劉備の後方の40カ所以上の陣営に目をつけ、密かに長江の上流に行き後方に火を点けました。

東南の風に煽られて炎は勢いよく燃え上がり蜀軍は大混乱となりました。

蜀軍は多大な被害が出て張南、馬良、馮習などが戦死し、黄権は孤立した事で魏軍に降伏しています。

蜀軍では魏に降伏した黄権の家族を処罰すべしとする声も上がりますが、劉備は「黄権が儂を裏切ったのではない。儂が黄権を裏切ったのだ」と述べ、黄権の一族を罰する様な事はしませんでした。

夷陵の戦いは劉備の大敗北で幕を降ろしました。

劉備の最後

劉備は何とか白帝城まで逃げ延びています。

劉備は夷陵の戦いの敗北で年齢的にも天下統一の望みが消えたと感じたのか、白帝城で死を悟ります。

白帝城には諸葛亮李厳などの蜀の重臣が呼ばれ、劉備の子である劉禅を諸葛亮に託しました。

劉備は諸葛亮を丞相とし、これにより劉備死後に蜀では諸葛亮政権が誕生したわけです。

劉備や自らの子である劉禅や劉永に遺詔を残しました。

劉備が諸葛亮に「劉禅が補佐する値があれば仕え、補佐する価値がなければ自ら帝位に就くように」と述べた話しがあります。

劉備は諸葛亮に蜀の未来を任せ世を去る事になります。

享年63歳だったと伝わっています。

多少のバックボーンはありましたが、庶民から皇帝にまで昇りつめた劉備も世を去ったわけです。

劉備が崩御しても当然ながら三国志の世界は続く事になります。

蜀では政務を諸葛亮が担当し祭祀を劉禅が行う体制が出来上がりました。

三方面作戦

呉軍は蜀軍を退けますが、今度は魏軍が三方向から呉に攻め寄せて来ました。

魏は洞口に曹休、濡須口に曹仁、江陵に曹真を派遣しています。

曹一門を総大将とした魏の三方面作戦でしたが、洞口の戦いで呉の呂範の水軍が暴風雨で大きな被害を出します。

さらに、濡須口の戦いでは朱桓が曹仁の計略に引っ掛かり無駄に兵を割いてしまいました。

江陵の戦いでも呉の朱然が城を守りますが、城内では疫病が発生し苦しい状態となります。

しかし、呉軍も数で劣りながらも奮戦し、遂に魏軍を撤退に追い込みました。

魏と呉は死力を尽くして戦いましたが、蜀は夷陵の戦いの傷があり、さらには諸葛亮と不仲だった黄元が反乱を起こしたり、雍闓、孟獲と反乱は続きました。

朱褒や高定など蜀は討伐せねばならぬ相手が現れてしまったわけです。

諸葛亮は呉との同盟を模索し、孫権も魏に対抗するには蜀と同盟を結んだ方が都合がよく、蜀の鄧芝の提案により同盟を締結しています。

諸葛亮南征

諸葛亮は蜀と呉の関係が再構築されると、諸葛亮の南蛮征伐が行われました。

蜀軍は部隊を諸葛亮の本隊と馬忠で二つに分けています。

尚、ここで登場する馬忠(蜀)は関羽討伐戦で登場した馬忠(呉)とは別人なので注意してください。

馬忠は朱褒がいる且蘭を目指し、諸葛亮は自ら軍を指揮し越巂郡の高定がいる邛都を目指しました。

安定を出た諸葛亮は高定の軍と対峙しますが、雍闓を調略しようと策を張り巡らせます。

雍闓は蜀の大軍を目の前にして降伏も考えますが、高定は雍闓の様子がおかしいと悟り攻撃し雍闓を討ち取りました。

雍闓が亡くなると、その軍は孟獲が引き継ぎますが、諸葛亮は高定を破り馬忠は朱褒を破り昆明に向かい蜀軍と孟獲の戦いとなります。

諸葛亮と孟獲の戦いで孟獲を7度捕えて、7度解き放つの七縦七擒の逸話が残っています。

七縦七擒は話しが出来過ぎており、史実とは考えにくいともされていますが、一度くらいは諸葛亮が孟獲を釈放したのではないかとも考えられています。

それでも、諸葛亮の南蛮征伐では寛大な処置を行い土地は上手く治まった話があります。

蜀は南蛮からの利益で国家財政を潤わし北伐への原動力となりました。

広陵の戦い

曹丕は三方面作戦で呉から撤退しましたが、224年と225年に呉を攻めました。

孫権は濡須口の防備を固めますが、魏の軍勢は広陵に向かう事になります。

これが広陵の戦いです。

呉では広陵が攻められるとは思っておらず、防備を固めていませんでした。

当時の呉は武昌を本拠地にしていましたが、後に首都となる建業と広陵の距離は僅か7キロであり、呉に苦難が訪れた事になります。

呉の臣下は色を失いますが、こうした中で徐盛が簡単な木材で骨組みとし藁を使い偽の城壁を造り出す策を考案しました。

徐盛の偽城の計に対し反対意見も出ましたが、強行され一夜城が完成する事になります。

曹丕は呉の城壁を見ると奇襲が見破られたと判断し、撤退を指示しました。

これが224年の第一時広陵の戦いであり、魏軍の撤退により呉の勝利となります。

曹丕は225年にも広陵に出兵し、第二次広陵の戦いが勃発しますが、大寒波により長江の凍結があり、水軍が動けなくなり魏軍は撤退しました。

夷陵の戦いの後に魏が呉を攻め続けた事もあり、この期間に諸葛亮は南蛮討伐を行うなど国力を充実させる期間に充てる事が出来たわけです。

曹丕の崩御

曹丕は広陵の戦いの翌年である226年5月に崩御しました。

曹丕は40歳の若さで崩御し、曹仁、曹休、司馬懿、陳羣に曹叡の補佐を任せて世を去る事になります。

曹丕は皇族の曹仁、曹休、名士の司馬懿、陳羣に後事を任せたと言えるでしょう。

魏の皇帝曹丕が世を去ったのは蜀や呉にとっては好機到来であり、孫権はいち早く魏を攻撃しました。

孫権は石陽と襄陽に兵を進めますが、孫権自身が指揮を執った石陽の戦いでは魏の文聘の守備を崩せず撤退しています。

呉の諸葛瑾と張覇も襄陽に侵攻しますが、魏の司馬懿により撃退されました。

呉は曹丕の死を聞くといち早く行動を起こしましたが、準備不足もあり撤退を余儀なくされたわけです。

尚、蜀から魏に寝返った上庸太守の孟達は曹丕には気に入られていましたが、魏の大臣達には冷ややかな目で見られている部分もあり、立場を悪化させています。

曹丕の死を聞くと蜀でも諸葛亮が北伐を決意し、劉禅に出師の表を提出しています。

出師の表は「これを読んで涙を流さぬ者は不忠なり」と言われる程の名文であり、後世に大きな影響を与えました。

諸葛亮の第一次北伐

諸葛亮は諸将と共に漢中に駐屯し、北伐を行う体制に入りました。

蜀漢の第一次北伐では魏延の長安急襲策も出ましたが、諸葛亮は採用する事はありませんでした。

諸葛亮や李厳などは上庸の孟達を寝返らせ子午道をを任せ、自らは「褒斜道から東狼関を通過し郿を攻撃する」と喧伝しています。

諸葛亮は趙雲鄧芝に褒斜道を進軍させますが、これは囮であり諸葛亮は魏が想定していなかった関山道に蜀軍の本隊を進ませました。

曹叡の方でも蜀軍に対処する為、長安にいた夏侯楙の配置換えを行い自ら長安に出向いています。

曹叡は曹真を総大将とし斜谷に・郿に向かわせました。

囮の趙雲の軍と曹真の軍が対峙する事になったわけです。

諸葛亮の作戦は滑り出しは順調でしたが、上庸の孟達は司馬懿に急襲され呆気なく命を落としました。

この時点では孟達が斬られても蜀軍の作戦は機能しており、諸葛亮の本隊は武都を超えて祁山を囲み冀城を落す構えを見せます。

諸葛亮の動きに対して天水郡、南安郡、安定郡が蜀軍に寝返り、魏は形勢が不利となります。

しかし、隴西の游楚などは蜀軍に徹底抗戦の構えを見せました。

この頃になると魏の方でも諸葛亮の狙いが分かっており、張郃や郭淮を涼州に派遣し蜀軍と対峙させようとしています。

一般的には張郃や郭淮の軍が涼州に行くには街亭と列柳を通過するしかなく、諸葛亮は街亭に抑えの軍を派遣する事になります。

街亭に派遣する軍は戦いに勝つ必要はなく、諸葛亮の本隊が涼州を制圧する間の時間稼ぎをしてくれればいいだけでした。

それでも街亭が抜かれれば蜀軍の作戦が崩壊する事もあり、諸将は歴戦の猛者である魏延や呉懿を推挙しています。

しかし、諸葛亮は仲が良かった馬謖に手柄を立てさせたいと考えたのか、馬謖を大抜擢し街亭に向かわせました。

馬謖と張郃による街亭の戦いが勃発しますが、馬謖が王平の反対を押し切り山上に布陣し、蜀軍は水不足に陥り軍は崩壊しています。

街亭の戦いで馬謖が敗れた事で諸葛亮の本隊も撤退する以外に道はなくなり、諸葛亮の第一時北伐は失敗に終わりました。

諸葛亮は第一次北伐の責任を取り馬謖を処刑しました。

これが泣いて馬謖を斬るの話であり、馬謖を庇った向朗なども免官になっています。

諸葛亮自身も自らを三階級降格し敗戦に責任を取ったわけです。

尚、第一次北伐で諸事情により行き場を失った姜維が蜀軍に降りました。

姜維は軍事能力に秀でており蜀将として活躍する事になります。

石亭の戦い

呉の方では魏と蜀が争っている隙に、呉の周魴が曹休をおびき出し石亭の戦いが勃発しました。

呉は北伐を行っても合肥を抜く事が出来ず失敗する場合が多く、今度は魏を領内に引き入れて叩こうとしたわけです。

石亭の戦いでは呉軍の作戦が冴えており陸遜、朱桓、全琮、朱然らの活躍もあり曹休の軍は壊滅的な打撃を受けました。

曹休は賈逵の助けもあり何とか撤退に成功しますが、曹休は賈逵を恨み暫くして世を去る事になります。

呉では魏の寿春を制圧するなどの話も出ますが、呉軍は寿春までは落とす事が出来ないと判断し撤退しました。

諸葛亮の第二次・第三次北伐

呉が石亭の戦いで勝利した事を知ると、諸葛亮の方でも動き出し第二次北伐が行われました。

諸葛亮は陳倉の守備兵が少ない話をキャッチしており、陳倉道を抜けて郝昭が守る陳倉城を包囲しています。

これが陳倉の戦いですが、蜀軍は兵站問題と準部不足もあり、20日分の兵糧しか用意で来ていませんでした。

諸葛亮は郝昭が守る陳倉城を雲梯や衝車で攻め立てますが、陳倉の守は固く撤退を余儀なくされています。

諸葛亮は第二次北伐が終わると、直ぐに第三次北伐に取り掛かりました。

第三次北伐では蜀軍の陳式が武都と陰平を落し、諸葛亮の本隊は建威で魏を待ち受ける作戦に出ます。

郭淮は諸葛亮が既に有利な地形を占拠している事を知ると戦わずに撤退しました。

諸葛亮の北伐の中で第三次北伐だけは陳式が武都と陰平を下しており、蜀軍の勝利となっています。

諸葛亮は第三次北伐の功績が劉禅から認められ、丞相に復帰する事になります。

諸葛亮は沔陽に漢城、成固に楽城を築き魏への備えとしました。

孫権の皇帝即位

229年に呉の孫権が帝位に就く事を蜀に通知してきました。

魏は後漢からの禅譲があり、蜀の劉備は漢王室に連なる一族となっていたのに対し、呉では正統性が薄く孫権は皇帝に中々即位する事が出来なかったわけです。

呉の孫権は多くの瑞兆を利用し帝位に就こうとしました。

理念の上では皇帝は天下に一人であり、蜀の立場としては魏は皇帝の位を奪った逆賊であり天子だと認める事は出来ず、魏の打倒を掲げています。

しかし、呉が皇帝を名乗ってしまえば蜀から見れば逆賊となってしまい、理念上として認める事が出来ません。

それでも、現実問題として蜀と呉は同盟を結ばねば魏に対抗する事が出来ず、理念と現実の間で揺れる事になります。

蜀では「許すべきではない」とする意見もありましたが、諸葛亮は蜀と呉の同盟を優先させ、陳震を祝賀の使者として呉に送り出しました。

蜀が孫権の皇帝即位を認めた事で、中華には曹叡劉禅、孫権という三人の皇帝が中華に出現したわけです。

ここに名実ともに三国志の世界が始り、三国時代に完全に入ったと言えるでしょう。

子午の役

230年の1月に魏の満寵は合肥新城を築きました。

東の満寵が呉に備える一方で、西の曹真は蜀に大攻勢を仕掛けました。

これが子午の役です。

子午の役では曹真は三方向から蜀を攻撃し、自らは子午道を進撃し、褒斜道から張郃、漢水方面には司馬懿が侵攻する計画でした。

曹真を総大将とする魏の大攻勢に対し諸葛亮は成固の楽城まで出向き、東方の赤阪に布陣し魏軍を待ち構える事になります。

曹真は蜀を攻めますが、曹叡の近くでは陳羣が出兵に猛反対していました。

陳羣は九品官人法などで有名であり、曹丕からは曹叡の事を任された一人でもあります。

蜀漢が魏を攻める場合は秦嶺山脈を超えねばならず兵站を繋げるのが難しいわけですが、逆を言えば魏が漢中に攻め込む場合も秦嶺山脈を超えねばならず困難な状況だったわけです。

こうした中で長雨が降り兵站を繋げるのが困難になった事で、結局は曹真は撤退するしかありませんでした。

子午の役は大した戦いもなく魏軍は撤退する事になります。

尚、曹真は子午の役が終わった直後に病により亡くなっています。

因みに、曹真は三国志演義では諸葛亮の引き立て役でしかありませんが、実際の曹真は高い能力を持ち人格も優れた人物です。

曹丕が曹叡を託した王族の曹真と曹仁は亡くなってしまい名士の陳羣と司馬懿は生き残っている状態です。

諸葛亮の第四次北伐

231年の3月に諸葛亮は第四次北伐を行っています。

諸葛亮は蜀軍が魏に勝てないのは兵站を繋げることが出来ないからだと考え、木牛流馬を開発した話しがあります。

諸葛亮は第一次北伐と同じルートを採用し、関山道から武都に向かい祁山を包囲しました。

司馬懿は郭淮や費曜に4000の精鋭を与えて上邽に向かわせ、自らも張郃と共に出陣しています。

しかし、先遣隊の郭淮や費曜は既に蜀軍に打ち破られており、蜀軍は周辺の麦畑を刈り取っていました。

三国志において諸葛亮のライバルと言えば司馬懿ですが、史実では第四次北伐が諸葛亮と司馬懿の初対決となったわけです。

司馬懿は蜀軍を前にすると積極的に戦おうとせず、蜀軍の兵糧を尽きるのを待ちます。

諸葛亮は決戦に持ち込みたいと考えており司馬懿を挑発しますが、司馬懿は誘いに乗る事はありませんでした。

しかし、司馬懿配下の魏の将軍たちは我慢できずに戦いを主張し出撃を要請し、司馬懿は部下を制御する事が出来ず蜀軍と戦っています。

魏軍は蜀軍に攻撃を行ったわけですが、魏延・呉班・高翔らの奮戦もあり、魏軍は敗れました。

こうした中で漢中にいた李厳は長雨もあり前線に食糧を供給する事が困難な状況となります。

諸葛亮は撤退を始めますが、司馬懿はここぞとばかりに張郃に追撃を命じました。

張郃は追撃に反対しますが、結局は張郃が追撃の大将となり、蜀軍により射殺されています。

追撃に反対し、しかも元帥クラスの張郃が自ら追撃を行った事に関しては、様々な憶測が流れています。

尚、蜀漢の李厳は兵站を繋げることが出来ず、責任逃れの嘘を上奏したなどもあり、流罪となりました。

諸葛亮の第四次北伐は李厳の失脚により幕を閉じたと言えるでしょう。

第三次合肥の戦い

先に満寵が合肥新城を築いたと言いましたが、233年に孫権が自ら兵を率いて合肥を攻撃しました。

過去の合肥城は川から近く呉が水軍を得意としている事から、守るに不利と判断した満寵が合肥新城の申請を朝廷に行い築いたわけです

第三次の合肥の戦いですが、合肥新城の防備は固く満寵は呆気ないほど簡単に孫権を撃退しました。

満寵が築城した合肥新城は防備に極めて優れ呉軍を寄せ付けなかったと言えるでしょう。

五丈原の戦い

234年に諸葛亮が第五次北伐を敢行しました。

第五次北伐は別名として五丈原の戦いとも呼ばれています。

蜀軍は褒斜道を通過し郿の西にある五丈原に布陣しました。

五丈原は台地でしたが、五丈原に連なる道は五丈(12m)程の隘路で秦嶺山脈に繋がっており、五丈原と名付けられたわけです。

蜀軍は武功水などを利用し防備を固めました。

諸葛亮は木牛流馬で兵站を繋ぐだけではなく、屯田を行い自給自足の生活を極力する事で兵站の負担を減らそうとしました。

魏では司馬懿に大軍を指揮させ五丈原で諸葛亮率いる蜀軍と対峙する事になります。

魏と蜀の兵力さは不明ですが、一般的には魏軍は蜀軍の3倍ほどの兵力を持っていたと考えられています。

司馬懿は徹底的に防備を固めて戦おうとはせず、諸葛亮は女性の髪飾りや着物を司馬懿に贈り挑発しました。

諸葛亮が女性の髪飾りなどを司馬懿に贈ったのは決戦を避ける司馬懿に対し「お前は男ではない」と言いたかったのでしょう。

魏軍の諸将は蜀軍と戦いたいと述べますが、司馬懿は戦いの許可を曹叡に求めました。

曹叡は司馬懿の出撃を許さず、秦朗には2万の兵を率いて司馬懿への援軍とするなど、魏軍は蜀軍の挑発には一切乗らなかったわけです。

この頃に、孫権は自ら兵を率いて北上し第四次合肥の戦いが勃発しました。

呉軍は孫韶、張承が淮陰を攻撃し、陸遜諸葛瑾は襄陽を攻撃するなど、諸葛亮の願った様な展開となります。

しかし、呉軍は防衛線は強くても攻勢に出ると滅法弱く、孫権は曹叡が自ら出陣してきた事を知ると、直ぐに合肥から撤退しました。

呉の出兵では五丈原の戦いの膠着状態から抜け出す事は出来なかったわけです。

死せる孔明生ける仲達を走らす

蜀と魏の戦いは長期戦となり、どちらの兵糧が先に尽きるのかといった状態になるかと思われました。

五丈原の戦いは意外な結末を迎える事になり、秋風で涼しくなってきた頃に諸葛亮の寿命が尽きる事になります。

諸葛亮は楊儀費禕姜維らに撤退を指示し、魏延を殿とし魏延が従わない場合は、そのまま撤退する様に指示して亡くなりました。

蜀軍は撤退に移り司馬懿は諸葛亮が亡くなったと悟りました。

司馬懿は蜀軍を叩く為に追撃部隊を繰り出しますが、魏軍が接近すると蜀軍は反転し陣太鼓を叩き勢いよく応戦してきたわけです。

司馬懿は深追いをさせて張郃を失った事が頭をよぎったのか、急いで追撃を中止させています。

司馬懿が後方に退いた事で「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事成語が誕生しました。

諸葛亮の死は三国志でも名場面となっているのが普通です。

諸葛亮の死を以って三国志が終わる物語も少なくありません。

しかし、三国志の世界はまだまだ続くわけです。

蔣琬政権の誕生

五丈原から撤退した蜀軍ですが、魏延は予想していた様に言う事を聞かず撤退を拒みました。

魏延は置いてけぼりにされてしまいますが、蜀軍を先回りし撤退を邪魔するなどし、蜀の劉禅には楊儀が謀叛したと告げています。

楊儀と魏延はお互いに能力はありましたが、水と油の関係でありお互いを恨み合っていたわけです。

魏延の軍は楊儀が率いる蜀軍の本隊に戦いを挑みますが、先陣の王平が一喝すると魏延の兵は逃げ出してしまいました。

魏延であっても兵が離散してしまっては戦いにならず、最後は呆気なく馬岱に討たれています。

楊儀は無事に撤退を完了させますが、諸葛亮が生前に後継者としてしていたのは、蔣琬であり蜀に蔣琬政権が誕生する事になります。

楊儀は自分が諸葛亮の後継者になれると思っていたにも関わらず、後継者は蔣琬がなり不満が爆発しました。

後に楊儀は流罪となり、流罪先の漢嘉郡でも文句を言うのを止めなかった事で、最後は自刃する事になります。

三帝暗君

諸葛亮が没すると魏では蜀への脅威が無くなりました。

当時の魏では呉よりも蜀の方が脅威だった話があり、曹叡のすっかりと緊張の糸が緩んでしまった部分もあるのでしょう。

魏では首都の洛陽で崇華殿が焼失すると、曹叡は再建するだけではなく、次々と洛陽宮の修繕に取り掛かりました。

曹叡は贅を尽くした昭陽殿や太極殿が造営され農繁期の民まで動員した事で、財政が苦しくなり国は傾いたと伝わっています。

司馬懿や楊阜などは曹叡を諫めますが、曹叡は酒色に溺れ全国から数千人の美女を集める等の暗君に成り下がった話も伝わっています。

曹叡の贅沢は象箸玉杯だとする専門家もいます。

蜀の劉禅は暗君として有名であり、孫権張昭が亡くなった頃から、暗君になっていった話があり、三国志の魏、呉、蜀の三君主が暗君になってしまったとする指摘もあります。

それでも、劉禅は無邪気な君主でもあり諸葛亮、蔣琬、費禕などの邪魔をするわけでも無く、斉の桓公と管仲の関係を造り出せる君主だとも考えられており、孫権や曹叡も耄碌はしていなかったとする説もあります。

孫権や曹叡に関しても心の迷いはあったのかも知れませんが、暗君に成り下がったわけではないとする指摘もあるという事です。

遼東公孫氏の滅亡

遼東では公孫氏が魏に従う形ではありましたが、事実上の独立勢力を維持していました。

公孫淵は呉に通じたと思ったら、呉の使者を殺害し魏に忠誠を見せるなどの二面外交を展開していたわけです。

魏の曹叡にとってみれば公孫淵は目障りでしたが、諸葛亮の北伐もあり、遼東公孫氏に手が回せず、魏では遼東公孫氏に官爵を与える事で機嫌を取ってきました。

しかし、諸葛亮が亡くなり蜀の北伐が行われなくなると、魏では公孫淵討伐に動く事になります。

曹叡は司馬懿に公孫淵討伐を命じ、司馬懿は遼東遠征を行いました。

公孫淵は窮地に陥り降伏を願い出ますが、司馬懿は許さず公孫淵を斬る事に成功します。

呉の孫権は羊衜の策に従い羊衜、鄭冑、孫怡らは、呉の水軍を率いて遼東半島で暴れまわり、魏の張持や高慮を破った話があります。

呉軍は遼東半島の住民を呉に連れ帰るなど戦果を挙げています。

呉は高句麗とコンタクトを取るなど遼東半島に影響力を及ぼしていた事は間違いないでしょう。

尚、蜀の劉禅は公孫淵討伐が行われる時に、蔣琬を漢中に駐屯させ逆賊の魏を討伐する様に詔を発行しています。

これにより蔣琬は成都を離れ漢中に駐屯しました。

曹叡崩御と魏崩壊の予兆

曹叡は放蕩生活が体に負担を掛けたのか239年の1月に34歳の若さで崩御したと伝わっています。

曹叡の後継者には曹芳が選ばれますが、僅か8歳という年齢であり、とても政務が行える年齢ではなかったわけです。

曹芳の後見人として皇族の曹爽と名士の司馬懿が選ばれました。

曹丕が亡くなった時に、曹叡の後見人として曹真、曹休、司馬懿、陳羣が立てられ皇族二人と名士二人でまだ安定感はありましたが、皇族と名士を一人ずつでは政局の安定感は欠けると言えるでしょう。

曹芳が即位してからは、魏の皇帝はお飾りとなっていき、幼帝の曹叡の即位は魏の崩壊の予兆だとも言えるはずです。

歴史的に見ても幼帝が即位した場合は、外戚、宦官、臣下などが入り乱れての権力闘争に突入する事も多く政権運営は安定しない事が多いです。

後漢王朝も幼帝が続いた事を問題視する見方も多々あります。

司馬懿と曹爽も最初のうちはお互いを尊重し曹芳を盛り立てましたが、曹爽が自らの側近である何晏、鄧颺、丁謐らを尚書とするなど権勢を固め出すと、司馬懿と曹爽の仲も冷え込む様になります。

何晏、鄧颺、丁謐らは三匹の犬と揶揄される事もあり、曹爽に進言し司馬懿を名誉職である太傅に祀り上げ政権から遠ざける事に成功しました。

曹爽は弟の曹義、曹訓、曹彦らを出世させ権力基盤を固めて行く事になります。

卑弥呼と邪馬台国

正史三国志の東夷伝に遼東公孫氏が滅びた後に、邪馬台国卑弥呼が朝貢してきた話があります。

卑弥呼は曹叡もしくは曹芳に朝貢し、親魏倭王に冊封されました。

三国志の魏が親魏●●王としたのはクシャーナ朝の親魏大月氏王と倭国の親魏倭王だけであり、特別の扱いがあったと考えられています。

三国志には高句麗、馬韓弁韓辰韓などの話も掲載されていますが、朝鮮半島の国が親魏●●王とした話はありません。

日本では邪馬台国や卑弥呼は有名ですが、邪馬台国も卑弥呼も三国志の中の話の一つだという事です。

ただし、倭国の中では邪馬台国と狗奴国の戦いがあり、魏の張政が調停を行った話もあります。

魏志倭人伝の記録では卑弥呼死後の台与の時代まで書かれており、晋書に266年に倭の女王が朝貢したとあり、これを最後に倭国の記録が途切れ日本では空白の150年と呼ばれる期間に入る事になります。

321年に倭の五王の最初の人物である倭王讃が南朝の宋に朝貢した事で、空白の150年は終わりを告げました。

芍陂の役

魏の皇帝である曹芳が年齢的に政務を見る事が出来ず、曹爽の台頭もあり魏はゴタゴタ状態が続きます。

こうした状況を察知した蜀と呉が動き出しました。

呉の方では241年に10万の大軍を動員し魏への二方面作戦を展開する事になります。

揚州では衛将軍の全琮が寿春を攻撃し、威北将軍の諸葛恪が六を攻撃しました。

荊州では車騎将軍の朱然が樊城を攻撃し、大将軍の諸葛瑾が柤中を攻撃しています。

これが芍陂の役であり呉は戦果も挙げていますが、魏の胡質の奮戦もあり、呉の諸葛瑾が病で指揮を執るのが困難な状態となり、司馬懿の援軍がやってきた事で呉軍は撤退しました。

因みに、芍陂の役の名前の由来は全琮の軍が寿春に侵攻し、芍陂を攻撃し堤防を決壊させた事にあります。

尚、241年は呉の太子で孫権も期待していた皇太子の孫登が亡くなっており、呉に暗雲が立ち込めた年でもあります。

蜀では漢中の蔣琬が蜀の東征計画を考え出す事になります。

しかし、蜀の東征計画は撤退時の困難さが予想され蜀でも反対意見が多く出ており、姜維費禕の反対もあり実行に移される事はありませんでした。

そうこうしている内に、蔣琬が病に掛かり亡くなってしまい費禕が劉禅を除けば蜀の最高権力者となります。

費禕の時代は蜀は戦争は控える様になりました。

興勢の役

司馬懿は芍陂の役で多いに名声を高めますが、政権を掌握しながら何も功績を立てていない曹爽は焦りを覚えました。

蜀では蔣琬が亡くなった事で魏を討つ計画が白紙に戻され、漢中から多くの兵を退かせる事になります。

こうした状況を見て鄧颺、丁謐、李勝らは蜀討伐を曹爽に進言しました。

司馬懿は曹爽の漢中征伐に反対しましたが、援軍が来る前に大軍で漢中を落せばいいとする意見もあり、曹爽は漢中に7万とも10万ともされる大軍を向かわせています。

これが244年の興勢の役であり、蜀では漢中の守備が3万しかいなかった事もあり恐怖しました。

蜀では多くの者が籠城戦を主張しますが、王平は討って出る事を主張し、劉敏だけが賛同しています。

王平は歴戦の猛者でもあり王平の意見が通り蜀軍は興勢山の麓に陣取り重門之計を使ったと伝わっています。

重門之計の詳細は不明です。

隘路で魏軍は大軍を生かせず少数の蜀軍に阻まれ前に進めず、魏軍が黄金谷に入ると王平が待ち構えており攻撃を仕掛けました。

魏軍は僅か千人の王平の軍に散々に打ち破られ、蜀の方では大将軍の費禕が成都から援軍として駆け付ける事になります。

楊偉は曹爽に撤退を進言しますが、興勢の役で蜀を攻撃する様に進言した鄧颺、李勝らは反対しました。

興勢の役に参加していた司馬昭も撤退を進言した事で、曹爽は撤退を決断する事になります。

興勢の役では魏は何の成果も挙げる事が出来ず、曹爽は勝手に名声を下げて司馬懿が名声を得る結果となりました。

高平陵の変

曹爽は敗戦により面子を潰されてしまいますが、自らに権力を集中させようとしました。

曹爽は興勢の役での敗戦に懲りたのか、その後は呉や蜀への遠征は考えない様になります。

こうした中で司馬懿は引退を申し出て、曹爽派の李勝が様子を見に行くと耄碌した姿を見せています。

李勝の報告を受けた曹爽は司馬懿への警戒心を解き、249年に曹爽は曹芳と共に高平陵に参拝しようとしますが、桓範が「司馬懿を侮ってはならない」と猛反対しました。

曹爽は司馬懿を警戒しておらず、高平陵に出立しますが、司馬懿はこの時を待っていたと言わんばかりに挙兵し都を制圧してしまいます。

司馬懿が都を制圧した事件を高平陵の変と呼びます。

司馬懿は郭太妃を味方とし、曹爽討伐の勅許を得ました。

桓範は司馬懿に味方する様に誘われますが、都を脱出し事の成り行きを曹爽に伝える事になります。

桓範は曹爽に司馬懿を討つ様にけしかけますが、司馬懿から曹爽に「今すぐに降伏すれば官位を剥奪するだけで命の保証はする」とする言葉を信じ戦わずに降伏しています。

曹爽は司馬懿を甘く見ており「降伏すれば富貴の身分は約束される」と思っていたわけです。

司馬懿は曹爽を降伏させますが、曹爽の一味を許す事など毛頭も考えておらず曹爽、何晏、鄧颺、丁謐、畢軌らは族滅に追い込まれました。

司馬懿は桓範の能力は認めていましたが、桓範も赦される事は無かったわけです。

高平陵の変により魏は司馬氏に実権を握られる事になり、三国志の世界は三国帰晋に向かう事になります。

尚、司馬懿は皇室に近しい関係であっても赦さなかった事もあり、夏侯覇は蜀に逃亡しました。

夏侯覇は蜀に亡命すると車騎将軍に任命され重用される事になります。

因みに、司馬懿は高平陵の変で実権を握った後の251年に天寿を全うし世を去りました。

司馬懿は高平陵の変から僅か2年で亡くなったと言えます。

正史三国志では司馬懿は司馬宣王の名で記録されています。

司馬懿の後継者の司馬師が魏の実権を握る事になりました。

寿春三叛

司馬氏が魏の権勢を握りますが、司馬懿のやり方は強引でもあり反発も多くあったわけです。

司馬氏に対する反発として250年代に寿春三叛と呼ばれる反乱が起きています。

251年に王淩が楚王の曹彪を擁立しようとして計画を練る事になります。

これが王淩の乱とも呼ばれていますが、情報がリークされ失敗に終わりました。

254年には中書令の李豊が司馬師の暗殺を画策しますが、これも情報が洩れて失敗に終わります。

ただし、李豊の事件は魏の皇帝である曹芳まで加担していた事が判明し、曹芳は廃位に追い込まれました。

既に23歳になっていた曹芳は廃位され曹髦が即位しますが、政府高官は司馬氏の息が掛かった者ばかりであり、曹髦は傀儡でしかなかったわけです。

皇帝が臣下により廃位される事態を見ると、魏の命脈が尽きている事が分かります。

しかし、司馬氏の皇帝廃位は衝撃的な事件でもあり、255年に毌丘倹や文欽らが反旗を翻しました。

毌丘倹や文欽の乱は鎮圧されましたが、この直後である255年に司馬師が48歳の若さで亡くなり弟の司馬昭が後継者となります。

257年になると諸葛誕が乱を起こしました。

諸葛誕の乱は呉も巻き込んでおり、258年まで続きますが、結局は鎮圧されています。

これらの司馬氏一族に対する250年代の反乱を寿春三叛と呼びますが、魏での司馬一族に対する風当たりの強さも象徴していると言えるでしょう。

ただし、寿春三叛が全て失敗に終わった事で、三国志の魏の滅亡が決定的となりました。

魏で司馬氏に逆らう勢力は消滅したとも言えます。

二宮の変と孫権の最後

244年に魏の曹爽が蜀を攻撃していた頃に、普通であれば呉は蜀を助ける為に魏に出兵してもおかしくはないでしょう。

しかし、呉では孫権が呂壱を重用し政局が乱れ、呂壱事件なども起きています。

呂壱事件以降に孫権と呉の重臣たちの間で溝が出来ており、皇太子の孫登が241年に亡くなった事もあり、後継者問題も勃発しました。

孫権は一度は孫登の弟の孫和を後継者としますが、弟の孫覇にも皇太子と同等の待遇を与えています。

それを見た呉の重臣らは孫権は孫和を廃嫡し、孫覇を後継者に指名するのではないかと考えました。

これにより孫和派と孫覇派が形成させ、孫和派には陸遜、諸葛恪、張休、顧譚、吾粲らがおり、孫覇派には全琮、孫魯班、歩隲、呂岱らがおり呉の群臣は二分されました。

これが二宮の変と呼ばれており、呉の名将で丞相であった陸遜が245年に憤死するなどの事態にもなります。

孫権は曖昧な態度を取り続け二宮の変は収まらず、最終的に孫権は孫和も廃嫡し、孫覇には死を賜わり二宮の変を結着させました。

孫権は8歳の子供である孫亮を後継者に指名しました。

二宮の変により呉の政局は君臣や臣下同士の対立が目出ち呉は消耗しますが、孫権は2年後に諸葛恪と孫峻に後事を任せて世を去る事になります。

三国志と言えば曹操劉備、孫権を思い浮かべる人は多いかと思いますが、最後に残った孫権も252年に71歳で世を去りました。

呉の権力闘争

孫権に後事を任された諸葛恪は税金を安くしたり東興の役で丁奉の活躍もあり、魏軍を破り多いに名声を挙げる事になります。

しかし、20万の大軍を率いて第五次合肥の戦いに挑みますが、合肥新城を守る張特を崩せず敗北し名声は地に堕ちました。

第五次合肥の戦いで張特に敗れた後に、諸葛亮や司馬師を見習い自らを降格させるなどの処置をすればよかったのかも知れませんが、諸葛恪はプライドが高く自らの位はそのままとしました。

諸葛恪と孫峻の対立も表面化し諸葛恪は諸将の反発もあり、253年に孫峻により命を落としています。

諸葛恪を排除した孫峻は呉の皇帝である孫亮をも上回る程の権勢を得ました。

しかし、孫峻はデリケートな心の持ち主だったのか諸葛恪に殴られる夢を見て病となり世を去る事になります。

孫峻の権力は従弟の孫綝に移りました。

権力を握った孫綝は皇帝の孫亮を廃嫡し、孫休が呉の皇帝として即位する事になります。

魏は幼帝の曹芳が皇帝となり臣下が争い滅亡に向かいますが、呉でも幼帝の孫亮が立ち臣下が権力闘争を行い滅亡へと向かう事になります。

魏と呉は似たようなパターンで弱体化し、三国志の世界は終焉に向かう事になります。

三国志の終焉

蜀の滅亡

劉禅の時代は諸葛亮蔣琬費禕、董允ら蜀の四相が活躍した時代でもありました。

劉禅は諸葛亮が政務を見始めた時代は成人しておらず、政務に口出しはしませんでしたが、費禕が政務を執った時代になると、劉禅も中年になっており政治に口を出す様になったとも考えられています。

宦官黄皓が政治の中心に入ったとも言われますが、黄皓は劉禅の側近とも呼べる立場であり、劉禅の政治参加を表しているともされているわけです。

253年に費禕が魏の郭循に暗殺されると、尚書令には陳祗がなり、姜維による北伐が再開されました。

姜維は254年の狄道の戦いでは張嶷の読みが当たり勝利を得ますが、256年の段谷の戦いでは魏の鄧艾の前に大敗北を喫する事になります。

段谷の戦いでの敗北により蜀は大幅に国力を落してしまったわけです。

ただし、魏では250年代に寿春三叛が起きており、蜀に遠征する余裕はありませんでした。

260年代になると魏では司馬氏に対抗する者もおらず、実質的な最高権力者の司馬昭は蜀への遠征を計画する事になります。

263年に司馬昭の蜀への遠征は多くの者が反対しますが、鎮西将軍の鍾会が賛成した事で司馬昭は鍾会に10万の兵を与え総大将としました。

さらに、司馬昭は征西将軍の鄧艾と雍州刺史の諸葛緒に3万ずつの兵を与え三方向から蜀を攻撃する構えを見せます。

当時の姜維は隴西を狙って沓中に駐屯しており、鄧艾が襄武から正面攻撃で注意を北に向けさせ、諸葛緒が祁山から出撃し姜維の退路を断ち孤立した所で、鍾会率いる本隊が斜谷、褒斜道を進み成都を陥落させる作戦でした。

姜維は魏の動きに対し早い段階から察知しており、援軍を要請しますが、黄皓が巫女の言葉を信じ援軍を出さなかったと伝わっています。

魏の作戦が始まると姜維は沓中で動けなくなり、鍾会の軍は漢中に雪崩込み楽城、漢城を陥落させ陽平関を抜けて関城に向かいました。

姜維は策で諸葛緒を振り切り、白水から剣閣に入る事になり、張翼廖化、董厥らと籠城戦を展開する事になります。

これが剣閣の戦いです。

剣閣の姜維ら蜀将の守は固く鍾会は攻めあぐねますが、鄧艾が陰平から南下し道なき道を進み成都に向かう案を出しました。

鄧艾は自ら兵を率いて冬の寒さの中を進軍しますが、山谷を抜けた時には、蜀軍の虚を突いており効果覿面だったわけです。

ここで蜀の諸葛瞻、諸葛尚の親子と鄧艾の間で綿竹の戦い勃発しますが、負ければ後がない鄧艾の軍が勝利し、劉禅は譙周の進言に従い降伏しました。

これにより蜀は劉備が入蜀してから49年。蜀漢成立から42年で幕を閉じる事になります。

蜀が滅びた時点で中国に残っている国は魏と呉だけとなり、三国時代は終焉したという人もいます。

しかし、三国志の世界は呉の滅亡まで続く事になります。

尚、蜀滅亡後に混乱があり鍾会と姜維が手を組みますが内紛により命を落とし、蜀を滅ぼした最大の功臣である鄧艾も亡くなりました。

魏の滅亡

三国志の最大勢力である魏も既に実権は司馬氏にありましたが、皇帝の曹髦は納得できず司馬氏を排除しようとしました。

これが260年に起きた甘露の変です。

しかし、曹髦に味方する者は殆どおらず、賈充らにより曹髦も殺害されました。

曹髦が亡くなると曹奐が魏の皇帝となりますが、当然ながら司馬氏の傀儡でしかなかったわけです。

263年に鄧艾が蜀を滅ぼしますが、これにより司馬昭は「晋王」となります。

過去に後漢王朝は曹操が「魏王」になってから数年で滅んでおり、司馬昭が晋王になった時点で魏の滅亡は確定した様なものでしょう。

しかし、この直後に司馬昭は痛風となり265年に没しました。

司馬昭の後継者には司馬炎がなり、司馬昭が亡くなった同年に司馬炎が禅譲により魏は滅亡し、三国志最大の勢力だったにも関わらず魏は天下統一は出来なかったわけです。

司馬炎は西晋の皇帝となりました。

曹操が基盤を作り曹丕が皇帝となり始まった魏ですが、5代45年で滅亡しました。

これで三国志の世界は西晋と呉が残っているだけでしたが、西晋が国力で呉を圧倒していたと言えるでしょう。

呉の滅亡

呉は孫休が皇帝となり、蜀の滅亡の時には歩協や陸抗を派遣しますが、羅憲により撃退されています。

それでも、呉は孫休の元でまとまるかと思われましたが、孫休は蜀が滅びた1年後である264年に30歳の若さで崩御しました。

呉では孫晧が立ちますが、孫晧はまだ23歳の若者であり、呉では動揺が広がる事になります。

孫晧は即位した当初は善政を布きますが、西晋の脅威もあり国難に立ち向かうだけの能力はありませんでした。

孫晧は突如として武昌に遷都を決行し、1年後には再び建業に戻るなどの迷走もしています。

孫晧は暴君となり建築や女性に夢中になりますが、呉では陸凱や陸抗が補佐した事もあり、国を保つ事になります。

因みに、呉の陸抗と魏の羊祜は敵国同士ではありましたが、お互いに善政を競い合い認め合った話があります。

しかし、269年に陸凱が没し、274年に陸抗が亡くなると呉では骨のある人材がいなくなります。

過去に魏は呉に何度も敗れており、反対意見も出ますが、西晋は279年に呉の討伐に取り掛かる事になります。

王濬、杜預、胡奮、王戎、王渾、司馬伷らが将軍となり益州、荊州、揚州、豫州、徐州らの兵を使い6方面から呉に進撃しました。

呉の丞相である張悌の軍は破れ、陶濬の軍は2万の兵が逃亡し戦いを行う事も出来ぬ有様だったわけです。

西晋の軍は破竹の勢いを続け、孫晧は抵抗出来ずに降伏を決断しました。

西暦280年に呉が滅亡した事で三国志の世界は完全に終焉したわけです。

尚、三国志は184年の黄巾の乱で始まっており、96年で幕を閉じたと言えるでしょう。

三国志の世界が始まる前の140年の段階で後漢王朝の人口が5000万人程だったと伝わっています。

三国志が終わった280年には人口が1600万にまで減っていた話しがあり、三国志の世界は華やかに思えるかも知れませんが、裏では多くの人々の命が失われました。

三国志後の世界

三国志の世界を終わらせ中華を統一した西晋ですが、司馬炎がだらしなくなり後継者の西晋の恵帝は暗愚であり、直ぐに混乱状況となります。

賈南風の政争も引き起こり八王の乱では軍事衝突にまで発展しました。

八王の乱の混乱を見た匈奴の劉淵は西晋から独立し、308年には皇帝を名乗っています。

中国の北方は異民族も入って来ての大混乱となり、五胡十六国事態に突入しました。

こうした中で、皇族の司馬睿が建康で即位し東晋が始まる事になります。

中国では南北朝時代となり、三国志の混乱を制した西晋は短期間で滅亡したと言えます。

三国志の終焉は束の間の平和だったと言えるでしょう。

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宮下悠史

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